第2話 雨宮宗一郎の遺言
僕らは応接室へ通された。
霧雨館の応接室は、古い部屋だった。
ただ古い、というだけではない。
そこだけ時間の流れが遅くなって、埃をかぶったまま固まってしまったような部屋だった。
暖炉には火が入っている。
それなのに、部屋の空気はどこか冷えていた。
壁際には古い蓄音機が置かれている。棚には銀製の燭台や、壊れた置時計がいくつも並んでいた。
時計の針は、どれもばらばらの時刻を指している。
十時過ぎ。
三時半。
六時少し前。
正しい時刻が一つでも混じっているのか、僕には分からなかった。
窓の外は白い霧に閉ざされていて、庭の輪郭さえ見えない。
外から切り離されたというより、部屋ごと霧の中に浮かんでいるようだった。
「皆さん、お揃いですか」
玲司さんが言うと、応接室にいた人たちがこちらを見た。
全員の視線が一度に向いたせいで、僕は少しだけ足を止めた。
遺品整理のために呼ばれたはずなのに、どう見ても人数が多い。
最初に立ち上がったのは、紫のネクタイを締めた中年の男だった。
会釈より先に、指輪が目についた。
大きな石のついた指輪だ。袖口には古い銀細工のカフスが光っている。
笑みは柔らかい。
けれど、目だけは忙しく動いていた。
僕らを見る。
白瀬さんを見る。
暖炉の上の置時計を見る。
まるで、部屋にあるものを一つずつ頭の中で値段に直しているみたいだった。
「久世将臣です」
男は軽く会釈した。
「美術商、と言えば聞こえはいいですが、要するに古いものの値段をつける仕事をしております」
「雨宮家の骨董品を見ていただいています」
玲司さんが補足した。
久世さんは暖炉の上の置時計へ視線を向ける。
「いい館ですね。古いものには、古いだけの価値があります」
「価値、ですか」
白瀬さんが静かに言った。
「ええ。物には来歴が必要ですから」
久世さんはそう言って笑った。
ただ、その笑みにはあまり温度がなかった。
次に口を開いたのは、窓際の椅子に座っていた女性だった。
眼鏡をかけている。
四十代半ばくらいだろうか。
黒に近い紺色のスーツを着て、膝の上には手帳を置いていた。
背筋がまっすぐで、座っているだけなのに隙がない。
「篠原千鶴です」
彼女は必要最低限の動きで頭を下げた。
「雨宮宗一郎先生の秘書をしておりました」
「元、ですね」
久世さんが横から言った。
篠原さんは表情を変えなかった。
「先生が亡くなられた以上、そうなります」
声は落ち着いていた。
けれど、少し硬い。
ただの元秘書、という言葉では片づけられない何かが、その硬さの奥に残っている気がした。
僕が名刺を出すべきか迷っていると、今度はソファの端に座っていた若い男が慌てたように立ち上がった。
二十代前半くらい。
柔らかそうな髪で、指先が落ち着かない。
さっきから膝の上で何かのリズムを刻んでいたらしく、立ち上がったあとも右手の指だけが少し動いていた。
「あ、雨宮奏太です」
青年は小さく頭を下げた。
「宗一郎先生には、少しだけ作曲を教わっていました」
「雨宮家のご親族ですか」
つい尋ねてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
奏太さんは困ったように笑った。
「遠縁です。親族と言っていいのか、自分でもよく分からないくらいの」
その笑い方が、少しだけ痛々しかった。
ここにいていい理由を、自分でも探しているように見えた。
そして、部屋の隅に老婦人がいた。
最初からそこにいたはずなのに、僕は気づくのが少し遅れた。
黒い喪服。
白い手袋。
膝の上には、銀の握り手がついた杖。
暖炉の火を見ていた老婦人は、僕らの方へ顔だけを向けると、薄く笑った。
「また人が増えたのね」
かすれた声だった。
けれど、不思議と部屋の隅々まで届いた。
「宗一郎さんが生きていた頃より、死んでからのほうが賑やかだこと」
玲司さんが気まずそうに咳払いをした。
「叔母の雨宮静乃です。伯父の妻にあたります」
「妻だった女よ」
静乃さんは、訂正するように言った。
「今は、ただの古い家具みたいなもの」
「叔母様」
「いいじゃない。久世さんなら、私にも値段をつけてくれるかしら」
久世さんは一拍置いてから笑った。
「人間は専門外でして」
「それは残念」
静乃さんはそう言って、また暖炉の火へ視線を戻した。
会話はそこで途切れた。
紹介された名前を、僕は頭の中で並べてみる。
玲司さん。
紗英さん。
久世さん。
篠原さん。
奏太さん。
静乃さん。
そこに使用人の鷺沼がいて、僕と白瀬さんがいる。
多い。
遺品整理のために集まった人数としては、明らかに多すぎる。
しかも、この部屋にいる人たちは全員、同じ方向を見ているようで、少しずつ違うものを見ている気がした。
お金。
楽譜。
過去。
家。
あるいは、もういない雨宮宗一郎という人間。
玲司さんは上着の内ポケットに手を入れた。
それだけで、部屋の空気がわずかに変わった。
久世さんの視線が、玲司さんの手元へ移る。
奏太さんの指が止まる。
篠原さんは、膝の上の手帳をそっと閉じた。
紗英さんは玲司さんの横顔を見ている。
静乃さんだけは、暖炉の火を眺めたままだった。
「全員揃いましたので、夕食の前に一点だけ確認しておきます」
玲司さんは、一通の封筒を取り出した。
白い封筒だった。
古い紙なのか、端が少し黄ばんでいる。
「伯父の遺言に関することです」
「もう始めるんですか」
紗英さんが小さく言った。
責めるというより、止めたいような声だった。
「正式な開封は明日の午前十時です」
玲司さんは紗英さんを見ずに答えた。
「篠原さんの立ち会いで行います。ただ、その前に確認しておくべき条件があります」
「条件?」
久世さんが指輪を撫でた。
「宝探しでもさせる気ですか」
「似たようなものです」
玲司さんは封筒から一枚のカードを取り出した。
厚手の白いカード。
万年筆で、短い文章が書かれている。
僕の位置からは、文字までは読めなかった。
「読み上げます」
玲司さんの声が、少し低くなった。
「第五楽章を見つけた者に、霧雨館の真の相続権を認める」
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「第五楽章……?」
奏太さんが身を乗り出す。
「宗一郎先生の、ですか」
「伯父の未完の組曲です」
玲司さんは答えた。
「『霧雨館組曲』。第一楽章から第四楽章までは存在します。ただ、第五楽章だけが見つかっていない」
「それを見つけた者が、相続人になると?」
篠原さんが眉をひそめた。
「正式な遺言書とは別に、ですか」
「伯父はそう書き残しています」
玲司さんはカードを少し下げた。
「もちろん、法的な有効性については明日確認します。ただ、伯父の資産には著作権や楽譜の所有権も含まれます。第五楽章が見つかれば、少なくともその扱いには影響が出るでしょう」
久世さんは小さく口笛を吹いた。
「なるほど。音楽のお宝というわけだ」
「お宝ではありません」
奏太さんが、珍しく強い声を出した。
「宗一郎先生の未発表曲です」
「市場では、そういうものをお宝と言うんですよ」
久世さんは悪びれない。
「未発表。失われた楽章。名作曲家の遺言。来歴としては申し分ない」
「音楽を値段で語らないでください」
「値段がつくから残るものもあります」
奏太さんが言い返そうとした時、静乃さんが杖の先で床を軽く叩いた。
こつん。
乾いた音がした。
「くだらない」
全員の視線が老婦人へ向いた。
「宗一郎さんは、死んでもまだ人を試すのね。あの人らしいわ」
玲司さんは困ったように息を吐いた。
「叔母様、これは伯父の意思です」
「意思ではなく執着よ」
静乃さんは暖炉の火を見つめたまま言った。
「あの人は、音楽を愛していたのではないわ。音楽を所有したかったの」
その言葉のあと、篠原さんの指がわずかに動いた。
手帳の端を、左手で押さえている。
強く、というほどではない。
けれど、離すつもりもなさそうだった。
白瀬さんは、それを見ていた。
いや、見ていたのだと思う。
僕が気づいた時には、彼女の視線はもう篠原さんから外れていた。
「第五楽章は、本当に館の中にあるんですか」
僕は玲司さんに尋ねた。
「分かりません」
「分からない?」
「伯父は、あると言っていました。ただ、どこにあるかは誰にも教えなかった」
「楽譜なんですよね」
そう言った瞬間、篠原さんが僕を見た。
冷たい視線ではない。
でも、こちらの言葉を一度量りにかけるような目だった。
僕は少しだけ背筋を伸ばした。
「楽譜だけとは限らないと思います」
答えたのは白瀬さんだった。
「え?」
「曲は、紙以外にも残ります。弾いた人の指とか、楽器の癖とか。そういうものに」
奏太さんが顔を上げた。
「鍵盤が覚えている、ということですか」
その言葉を聞いた瞬間、篠原さんの表情がほんの少しだけ変わった。
本当に一瞬だった。
見間違いかもしれない。
でも、手帳を押さえていた指先が、そこで止まった。
「面白い言い方ですね」
白瀬さんが言った。
「宗一郎先生が、そう言っていました」
奏太さんは気まずそうに視線を落とした。
「音符は嘘をつかない。鍵盤は忘れない。先生の口癖でした」
篠原さんが静かに言った。
「先生は、そういう方でした」
その声には、敬意のようなものがあった。
同時に、それだけではないものも混じっていた。
僕には、それが何なのか分からない。
嫌悪なのか。
後悔なのか。
それとも、もっと別のものなのか。
「玲司さん」
紗英さんが小さく声をかけた。
「大丈夫だ」
「無理しないで」
「……分かっている」
玲司さんの返事は、少し遅れた。
紗英さんの声は柔らかかった。
けれど、その目は玲司さん自身ではなく、彼の背後にあるものを見ているようにも思えた。
この家で過去と呼ばれている何かを。
僕は部屋の空気が少し重くなった気がした。
失われた第五楽章。
十一時二十分で止まった時計塔。
勝手に鳴る自動演奏ピアノ。
宗一郎の死後に集められた人々。
並べて考えると、どれも大げさに見える。
でも、この部屋にいると、その大げささが妙に笑えなかった。
玲司さんはカードを封筒に戻した。
「念のため申し上げます。今夜、館内を自由に見ていただいて構いません」
そう言ってから、彼は少し間を置いた。
「ただし、伯父の書斎と時計塔は施錠されています。危険ですので、無断で入らないでください」
「時計塔も?」
久世さんが聞いた。
「古い建物ですから」
玲司さんは短く答えた。
それ以上の説明はなかった。
「音楽室は?」
白瀬さんが尋ねた。
「音楽室は開いています」
玲司さんは今度はすぐに答えた。
「伯父が、もっとも長い時間を過ごした部屋です。第五楽章に関係があるとすれば、あそこでしょう」
「では、後ほど見せていただいても?」
「もちろんです」
その時、応接室の奥で置時計が鳴った。
鳴った、というより、内部で何かが引っかかったような音だった。
かちり。
それだけ。
鐘は鳴らなかった。
僕は思わず時計の方を見た。
白瀬さんも、同じ時計を見ていた。
「この部屋には、時計が多いですね」
白瀬さんが言った。
「伯父の趣味です」
玲司さんが答える。
「この部屋だけで、七つあります」
僕は驚いて見回した。
振り子時計。
置時計。
棚に飾られた懐中時計。
壁に掛けられた丸い時計。
言われてみれば、たしかに時計だらけだった。
それなのに、部屋に時間が流れている感じはしなかった。
「動いているものは?」
白瀬さんが尋ねた。
玲司さんは答えなかった。
代わりに、鷺沼が静かに口を開いた。
「一つだけでございます」
「一つだけ」
「はい」
鷺沼の声は、いつも通り丁寧だった。
けれど、僕はなぜか、その一つがどれなのかを聞いてはいけない気がした。
「旦那様は、生前おっしゃっていました」
鷺沼は続けた。
「止まった時計にも、役目はある、と」
久世さんが愉快そうに笑った。
「ますます来歴がありそうだ」
白瀬さんは笑わなかった。
「音楽と時計は、少し似ていますね」
彼女は、誰にともなく言った。
「どちらも、時間を細かく分けていくものですから」
その言葉を聞いた時、僕はなぜか時計塔の針を思い出した。
十一時二十分。
館の上で止まったままの時刻。
あれは本当に、ただの故障なのだろうか。
夕食は午後七時からだと告げられた。
それまでの間、僕らは客室へ荷物を置くことになった。
応接室を出る直前、僕はふと振り返った。
篠原さんは、まだ手帳に手を置いていた。
さっきと同じ姿勢だ。
左手の指先に、薄くインクの跡がある。
万年筆のものだろうか。
僕は一瞬そう思って、すぐに考えるのをやめた。
他人の指先まで気にしている自分が、少し嫌だった。
その時、暖炉の方から静乃さんの声がした。
「第五楽章なんて、見つからなければいいのに」
小さな声だった。
僕に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。
けれど、篠原さんだけは確かに聞いていた。
彼女は顔を伏せたまま、何も言わなかった。




