第1話 霧雨の山道
あとになって思えば、あの時点で何かはもう狂っていた。
僕はずっと、時計のことばかり気にしていた。けれど、最初に気づくべきだったのは、たぶん音の方だった。
霧雨館へ向かう車の中で、白瀬透子さんはずっと黙っていた。
窓の外を見ているようにも見えたけれど、たぶん違う。彼女は聞いていた。
雨でも、エンジンでもない。もっと細い、僕なら一生聞き流してしまうような音を。
「真柴さん」
雨で濡れた窓硝子を見たまま、白瀬さんが言った。
「あの音、気になりませんか」
「あの音?」
僕は反射的に聞き返した。それから、慌てて耳を澄ませる。
ワイパーが硝子を拭う音。タイヤが濡れた砂利を踏む音。エンジンの低い唸り。雨が窓を叩く、細かい音。
いくつも聞こえる。けれど、どれも普通だ。
少なくとも、僕には普通にしか聞こえなかった。
「雨、ですか?」
「違います。右後ろ」
「右後ろ?」
「サスペンションです。沈むのが少し遅い」
サスペンション。
言葉は知っている。車の何かだ。
でも、それを音で聞き分けるものなのか。
僕が返事に困っていると、運転席の男がバックミラー越しにこちらを見た。
ほんの一瞬だった。けれど、白瀬さんの言葉に反応したのは間違いない。
「お耳がよろしい」
男は静かに言った。
霧雨館の使用人、鷺沼。
駅まで迎えに来たその男は、五十代半ばほどに見えた。灰色の髪をきっちり撫でつけ、黒い背広に黒い手袋。
物腰は丁寧なのに、どこか近寄りがたい。
雨の日に迎えに来た使用人というより、葬儀場で受付をしている人間のように見えた。
そう思ってから、さすがに失礼かもしれないと少し反省した。
「昔の癖です」
白瀬さんは短く答えた。
それきり、また黙った。
白瀬透子。
元ピアノ調律師。今は神保町の外れで、小さな古書店をやっている女性。
僕が事前に知っていたのは、その程度だ。
初めて会った時から、あまり多くを話す人ではなかった。そのせいで、僕はまだ少し緊張している。
何を話せばいいのか分からない相手と、雨の山道を何十分も一緒にいるのは、なかなか難しい。
今回、白瀬さんは霧雨館の亡き主人、雨宮宗一郎が遺した蔵書と楽譜を見るために呼ばれている。
僕の方はというと、出版社の新人編集者だ。雨宮宗一郎の遺稿整理を任された。
任された、というと聞こえはいい。実際には、先輩が別件で動けなくなり、僕に回ってきただけだ。
しかも僕は、雨宮宗一郎について詳しいわけではない。
作曲家であり、随筆家でもあった人。二十年前に出した随筆集『沈黙する鍵盤』に、今でも熱心な読者がいること。
未発表原稿が出てくれば、復刊企画になるかもしれないこと。
出発前に資料を読んではきた。読んではきたが、正直、半分くらいは頭に入っていない。
音楽の知識もほとんどない。
楽譜を見ても、五線の上に黒い点が並んでいるな、くらいの感想しか出てこない。
だから白瀬さんが同行することになった。
ありがたい話ではある。ただ、車のサスペンションの沈み込みまで聞き分ける人と二人きりで山道を行くのは、正直、落ち着かなかった。
駅前では、まだ普通の雨だった。
傘にぱらぱら当たるくらいの、軽い雨。
それが町を抜け、杉林に挟まれた細い道へ入る頃には、霧に近い雨へ変わっていた。
霧雨、という言葉そのままの雨だ。落ちてくるというより、そこに漂っている。
窓の外の杉林は、黒い幹だけを残して、少しずつ白く滲んでいった。
「霧雨館には、前にも?」
沈黙が長すぎて、僕はつい尋ねた。
「ありません」
白瀬さんの返事は短い。
「あ、そうなんですね」
そこで終わってもよかった。
むしろ、終わらせた方が自然だったと思う。
けれど、僕はどうにも落ち着かなくて、もう一つ聞いた。
「雨宮宗一郎の楽譜は、見たことあるんですか」
「少しだけ」
「どういう曲を書く人なんです?」
白瀬さんはすぐには答えなかった。
その間に、車が小さく揺れた。
さっき彼女が言った右後ろの沈み込みがどうとかいうのは、これのことなのだろうか。
僕にはやっぱり分からない。
「閉じ込める人です」
やがて白瀬さんが言った。
「閉じ込める?」
「音を」
彼女は窓の外を見たまま続けた。
「聴かせたいというより、逃がしたくない。そういう楽譜でした」
分かったような、分からないような言い方だった。
ただ、その声が妙に平らだったので、冗談ではないのだろうと思った。
「間もなく到着いたします」
鷺沼が言った。
ちょうどその時、杉林が切れた。
霧の向こうに、黒い屋根が見えた。
霧雨館。
思っていたより、大きい。
館は崖の縁に建っていた。
石造りの土台の上に、焦げ茶色の木組みと白い壁。
古い洋館だ。
二階建てだが、屋根裏の小窓が三つ並んでいて、中央には時計塔がある。
その時計塔の文字盤が、雨と霧に濡れていた。
針は止まっている。
十一時二十分。
それだけは、はっきり見えた。
「時計、止まってますね」
僕が言うと、鷺沼は前を向いたまま答えた。
「ええ」
「ずっとですか」
「ずいぶん前からでございます」
「直さないんですか?」
「旦那様が、そのままに」
「旦那様って、雨宮宗一郎さんですよね」
「はい」
それ以上は続かなかった。
僕としては、なぜ止まった時計をそのままにしておくのか聞きたかった。
けれど、鷺沼の声には、そこから先へ踏み込ませない何かがあった。
館の右手には温室があった。
左手には低い石塀。その向こうに離れがあり、さらに奥は斜面になっている。
庭の薔薇は、雨に濡れて黒っぽく見えた。絡まった枝の先で、季節外れの蕾がいくつか下を向いている。
木も、石も、窓も、壁も、全部濡れている。
古い館というより、雨の中で長いあいだ置きっぱなしにされた家具みたいだった。
そんなことを思ってから、館を家具扱いするのもどうなんだと、自分で少し気まずくなった。
車が車寄せに止まる。
降りようとして、僕は膝の上の鞄を落としかけた。
慌てて掴み直したせいで、名刺入れが中で変な音を立てる。
白瀬さんはちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
玄関扉が、内側から開いた。
出てきたのは、痩せた青年だった。
二十代後半くらいだろうか。背が高く、黒いタートルネックに細身のジャケットを合わせている。
顔立ちは整っている。ただ、目元が少し暗い。
寝不足なのか、もともとなのかは分からない。
「遠いところを、ありがとうございます」
青年は微笑んだ。
「雨宮玲司です。宗一郎の甥になります」
僕と白瀬さんは名刺を差し出した。
僕は少しもたついた。雨で指が冷えていたせいだ、ということにしておきたい。
玲司さんはまず僕の名刺を見て、それから軽く頷いた。
「出版社の方ですね。伯父の原稿の件、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
自分でも少し固い声になったと思う。
こういう立派な館の玄関先で名刺を出すのは、まだ慣れない。
玲司さんは次に白瀬さんの名刺へ目を落とした。
「白瀬さんには、楽譜と蔵書を見ていただきたいんです。伯父は、使い道の分からないものを集めるのが好きでしたから」
「使い道の分からないもの?」
白瀬さんが聞き返した。
玲司さんは少しだけ笑った。
あまり楽しそうな笑いではなかった。
「壊れた楽器とか、誰も弾けないような譜面とか。そういうものです」
「時計も?」
白瀬さんが言った。
玲司さんは一度、外の時計塔の方へ目を向けた。
「ええ。動かないものほど、気に入っていたみたいです」
そこで一度、言葉を切る。
「伯父は、それを美しいと言う人でした。僕には、正直、よく分かりません」
親族を懐かしんでいるというより、長いあいだ面倒なものを背負わされてきた人の言い方だった。
玄関ホールは広かった。
床は黒白の市松模様。
正面には二階へ続く大きな階段があり、その踊り場に肖像画が掛けられている。
白髪の老人が、肘掛椅子に腰掛けてこちらを見下ろしていた。
雨宮宗一郎だろう。
絵なのに、妙に目だけが生々しい。
僕は靴の裏についた泥が、床に残っていないか少し気になった。
気にする場所はたぶんそこではない。
けれど、新人編集者の習性というか、他人の家で汚れを残すのは妙に怖い。
ホールの左手には応接室。
右手には食堂。
奥には廊下が伸びている。
その奥から、かすかにピアノの音が聞こえた。
僕は足を止めた。
ぽつり。
少し間を置いて、また。
ぽつり。
誰かが練習しているのかと思った。
でも、曲ではない。
同じ高さの音だけが、妙に間を空けて鳴っている。
「音楽室です」
玲司さんが言った。
僕がそちらを見ていたことに気づいたらしい。
「自動演奏ピアノがあるんです。古い紙ロール式の。湿気のせいか、たまに勝手に鳴ります」
「勝手に、ですか」
「ええ。最初は驚きますよね」
玲司さんは苦笑した。
「鷺沼は、伯父がまだ弾いていると言いたいらしいですが」
玄関脇に控えていた鷺沼が、荷物を持ったまま静かに口を開いた。
「私は、そのようには申しておりません」
「似たようなことは言っただろう」
「旦那様は亡くなる前、よく音楽室にお一人でいらっしゃいました。そう申し上げただけでございます」
「ほら、そういうところだよ」
玲司さんは軽く肩をすくめた。
二人の会話には、慣れたやり取りの匂いがあった。
けれど、仲が良いという感じでもない。
その時、階段の上から声がした。
「玲司さん?」
見上げると、二階の手すりに女性が立っていた。
淡い青のワンピース。長い髪をゆるくまとめ、右手には白い封筒を持っている。
三十歳前後に見えた。
彼女は僕たちを見る前に、まず玲司さんを見た。
ほんの一瞬。
それだけで、二人がただの親族ではないことは分かった。
「お客様?」
「紹介するよ。婚約者の夏目紗英です」
紗英さんは階段を降りてきた。
近づくと、目元の化粧が少し崩れているのが分かった。
泣いていたのか。
あるいは、ただ雨の日の湿気のせいかもしれない。
「白瀬透子さんと、真柴悠さん。伯父の遺品整理をお願いしている」
「夏目紗英です」
彼女は丁寧に会釈した。
「こんなお天気の中、ありがとうございます」
柔らかい声だった。
けれど、話している間も、彼女の視線は何度か玲司さんに戻った。
確認している、という感じだった。
彼が怒っていないか。何かを言い出さないか。
そんなふうに見えたのは、僕の気のせいだったかもしれない。
「霧が出ると、ここは少し変わって見えるんです」
紗英さんは窓の方を見た。
「外と切り離されたみたいで」
玲司さんが小さく息を吐いた。
「紗英」
「あ、ごめんなさい。変なことを言いました」
紗英さんは笑った。
けれど、その笑顔は少し遅れて出てきた。
僕はもう一度、ホールの奥へ耳を向けた。
ピアノの音はまだ続いている。
ぽつり。
ぽつり。
低い単音。
誰も触れていないはずのピアノ。
十一時二十分で止まった時計塔。
その二つに、僕はまだ何の関係も見つけられなかった。
というより、関係があると考える方がおかしい。
普通なら。
ただ、白瀬さんだけは違った。
彼女は音楽室の方を見ていた。
いや、見ていたというより、聞いていた。
さっき車の中で、右後ろのサスペンションの沈み込みを聞いていた時と同じ顔で。
僕はその横顔を見て、少しだけ嫌な予感がした。
理由はない。
本当に、何の理由もない。
ただその時、館の奥で鳴った低い音が、雨の中に消えずに残った気がした。




