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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第五章 沈黙する者たち

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第6話 篠原の十一時半

 篠原千鶴さんは、長椅子の上で身を起こしていた。


 美和さんが背中にクッションを差し入れている。額に当てられた白い布は、少しずれていた。顔色はまだ紙のように薄い。それでも、さっきまでのぼんやりした目ではなかった。


 疲れている。


 傷ついている。


 それでも、もう逃げるのをやめた人の目だった。


 白瀬さんは、篠原さんの前に立った。


「無理はしないでください」


「無理をしなければ、話せません」


 篠原さんは静かに答えた。声は弱い。けれど、そこに迷いはなかった。


「そうですね」


 白瀬さんは否定しなかった。


「では、必要なところだけを聞きます。十一時半頃、あなたは音楽室へ行った」


「はい」


「そこで蓮司さんを見た」


「見ました」


「生きていましたね」


「生きていました」


 玲司さんが、小さく息を吸った。


 ただの確認ではない。


 十一時半頃、蓮司さんは生きていた。


 それは、零時頃の悲鳴よりも重い証言だった。


「蓮司さんは、何をしていましたか」


「グランドピアノの中を見ていました」


「蓋は?」


「大きく開いていたわけではありません。低音側が見えるくらいです」


「中に何がありましたか」


 篠原さんは、ほんの少し目を伏せた。


「調律道具です」


 応接室の空気が、かすかに締まった。


「凶器候補として見つかったものですね」


「たぶん、同じものです」


「蓮司さんは、それを見ていた」


「はい。けれど、触れてはいませんでした。少なくとも、私が見た時は」


 僕はメモ帳に書いた。


 十一時半頃、蓮司はグランドピアノ内部を確認。


 調律道具を見ていた。


 篠原が見た時点では、触れていない。


 文字にすると、急にその場面が冷たくなる。


 蓮司さんは、自分を殺すことになる道具を見ていたのかもしれない。


「その時、蓮司さんは何か言いましたか」


「言いました」


 篠原さんは、乾いた唇を一度だけ舐めた。


「『まだ残っていた』と」


「何が残っていたのですか」


「先生が隠した音だと、蓮司さんは言っていました」


「録音機のことですか」


「いいえ」


 白瀬さんの目が、わずかに鋭くなる。


「違う?」


「録音機のことも、蓮司さんは知っていたと思います。でも、あの時に言っていたのは、たぶん別のものです」


「調律道具ですね」


 篠原さんは頷いた。


 僕は思わず顔を上げた。


「凶器が、音?」


 口にしてから、自分でも奇妙な言い方だと思った。


 篠原さんは、僕を責めるようには見なかった。


「蓮司さんにとって、あれはただの道具ではありませんでした」


「どういうことですか」


「蓮司さんは、自分の音を作る時、よくあの道具を使っていました。ピアノの癖を直すために。弦の響きを、少しだけ整えるために」


 篠原さんの声が、そこでかすかに震えた。


「先生は、それを嫌っていました」


「宗一郎さんが?」


「はい。自分の許可なく音を変えるな、と。ピアノに触るな、と」


「音を所有していたから」


 白瀬さんが言うと、篠原さんは小さく頷いた。


 暖炉のそばで、静乃さんが息を吐いた。誰もそちらを見なかった。けれどその音だけで、今の言葉が七年前の宗一郎につながっているのだと分かった。


 音を所有する人。


 人の音を奪う人。


「七年前、宗一郎さんはその道具を取り上げた」


「はい」


「そして、ピアノの内部に隠した」


「蓮司さんは、そう言っていました」


「なぜ隠したのでしょう」


「蓮司さんの音を、二度と調整させないためです」


 僕はペンを止めた。


 調律道具。


 凶器候補。


 その言葉だけなら、事件に必要な物の名前でしかない。けれど、それは蓮司さんから取り上げられた音の道具だった。


 自分の音を作るためのもの。


 宗一郎が隠したもの。


 そして今夜、その道具で蓮司さんは刺された。


 皮肉という言葉では、軽すぎる。


「蓮司さんは、それを取り戻そうとしていた」


 白瀬さんが言った。


「第五楽章だけではなく、自分の音も」


「そうだと思います」


 篠原さんは答えた。


 白瀬さんは、少しだけ間を置いた。


「その時、部屋にはもう一人いた」


 篠原さんの顔が、はっきり強張った。


 いよいよ、そこだった。


 十一時半の男。


 静乃さんが見た背中。


 鷺沼が見た背中。


 そして篠原さんが、音楽室で見た人物。


「いました」


「どこに」


「ピアノの横です。蓮司さんの少し後ろに」


「最初は向かい合っていた?」


「はい。でも、私が入った時には、その人は私に背を向けていました」


「顔は見ていない」


「見ていません」


「声は?」


 篠原さんは目を閉じた。


 応接室の全員が、音を立てないように息をひそめた。


「聞こえました」


「誰の声でしたか」


 篠原さんは、すぐには答えなかった。


 雨音が遠くなった気がした。


 やがて、彼女は言った。


「玲司さんに、似ていました」


 玲司さんの顔から、血の気が引いた。


 紗英さんが、口元を押さえる。


「僕ではありません」


 玲司さんは低く言った。


「僕は行っていない」


「私は、似ていたと言っただけです」


 篠原さんの声も震えていた。


「顔は見ていません」


「兄さんの声ではなかったんですか」


「蓮司さんの声とは違いました」


 蓮司さんではない。


 玲司さんに似た声。


 けれど顔は見ていない。


 その三つが並んだだけで、応接室の空気は急に鋭くなった。


「奏太さんや久世さんの声では?」


 白瀬さんが尋ねる。


「違うと思います」


「鷺沼さんは」


「違います」


「静乃さんではあり得ない」


「はい」


 篠原さんは、一つずつ首を横に振った。


 玲司さんは拳を握りしめている。


「僕ではありません」


 同じ言葉だった。


 でも、さっきより少しだけ苦しそうに聞こえた。


「その言葉は記録します」


 白瀬さんは、玲司さんを見て言った。


「それだけですか」


「はい」


「僕が兄さんを殺したと思っているんですか」


「まだ思っていません」


「まだ」


「ただし、十一時半頃に蓮司さんと話していた人物が、あなたに似ていたという証言は出ました」


「僕ではない」


「では、それを証明する必要があります」


 玲司さんは黙った。


 紗英さんの証言は、彼を部屋にいたことにしていた。けれど、それは姿を見た証言ではない。


 気配。


 寝返りの音。


 いると思った、という判断。


 そのアリバイは、もう何度も揺れている。


「篠原さん。二人は何を話していましたか」


「全部は聞こえませんでした」


「聞こえた部分だけで構いません」


 篠原さんは、少し息を整えた。


「蓮司さんが言いました。『玲司には話す』と」


 玲司さんが、目を見開く。


「兄さんが」


「はい」


「相手は?」


「『それだけはやめろ』と」


 応接室が凍った。


 玲司には話す。


 それだけはやめろ。


 それだけなら、玲司さんに真実を知られたくない人物が、蓮司さんと向き合っていたように聞こえる。


「その声が、玲司さんに似ていた」


 白瀬さんが確認する。


「はい」


「他には」


「蓮司さんが、『もう宗一郎の嘘は終わりだ』と」


「相手は何と」


「『終わらせれば、全部壊れる』と」


 紗英さんが、小さく震えた。


 その言葉は、彼女がずっと恐れていたものに近かった。


 玲司さんが壊れる。


 雨宮家が壊れる。


 第五楽章が壊れる。


 皆が、それぞれ違うものを思い浮かべたはずだった。


「何が壊れる、と言っていたのですか」


「そこまでは、聞こえませんでした」


「その後は」


「私が声をかけました」


「何と」


「やめてください、と」


 七年前の録音と同じ言葉。


 それに気づいたのは、僕だけではなかった。


 篠原さんの肩が、小さく跳ねる。


「七年前も、あなたはそう言いました」


 白瀬さんが言った。


「言いました」


「今夜も」


「はい」


「二人はあなたに気づいた」


「蓮司さんは気づきました。もう一人も、少し振り向きかけました」


「顔は?」


「見えませんでした」


「なぜ」


「その時、低いラが鳴ったからです」


 僕はペンを握りしめた。


 低いラ。


 この事件は、何度もそこへ戻る。


「十一時半頃の低いラですね」


「たぶん」


「どこから聞こえましたか」


「音楽室の中です。少なくとも、その時はそう思いました」


「グランドピアノ?」


「そう思いました。でも、今は分かりません」


 白瀬さんは頷いた。


「その後、金属音がした」


「はい」


「また同じ順番ですね」


「はい」


「その時、二人は」


「蓮司さんは、ピアノの奥を見ました。もう一人の人物は、扉の方へ動きました」


「出ていった?」


「たぶん」


「あなたは」


「怖くなって、私も廊下へ出ました」


「蓮司さんを残して」


「はい」


 篠原さんの声が、ほとんど消えそうになる。


「その時、蓮司さんは生きていました。胸に血も見えませんでした。怪我をしているようにも見えませんでした」


 僕は、そこを大きく書いた。


 十一時半頃、低いラと金属音の後、篠原は音楽室を出た。


 その時点で蓮司は生存。


 胸の血は見えない。


 つまり、蓮司さんは十一時半頃にはまだ刺されていなかった可能性が高い。


 死亡時刻は、さらに後ろへずれる。


 けれど零時頃の悲鳴は録音だ。


 ならば、十一時半から発見時までのどこか。


 音の演出とは別に、殺害が起きている。


「音楽室を出た後、あなたはどこへ」


「自室へ戻りました」


「すぐに?」


「はい」


「誰かに会いましたか」


「いいえ」


「その後、襲われた」


「はい」


「時刻は覚えていますか」


「はっきりとは。音楽室で遺体が見つかった後です」


「誰に襲われたかは」


「分かりません。背後からでした」


「その時、何をしていましたか」


 篠原さんは、そこで少し迷った。


 白瀬さんが言った。


「ここで隠すと、また事件が歪みます」


「分かっています」


 篠原さんは頷いた。


「私は、先生の鍵を探していました」


「先生の鍵束は、その時すでに時計塔で見つかっています」


「はい。でも私は、それを知りませんでした」


「鍵を探して、どこへ行くつもりでしたか」


「時計塔へ」


「第五楽章を確かめるため?」


「いいえ」


 篠原さんは、ゆっくり首を横に振った。


「宗一郎先生の時計を探すためです」


 宗一郎の時計。


 十一時十七分で止まっていた時計。


 見せたくなかった時刻。


「あなたは、その時計のことを知っていた」


「はい」


「見つかれば、七年前の十一時二十分が嘘だと分かる」


「はい」


「あなたは、それを隠したかった」


「最初は」


「最初は?」


「蓮司さんが死んで、分からなくなりました」


「何が」


「隠すべきなのか、戻すべきなのか」


 篠原さんの声が震えた。


「私はずっと、名前が戻ることを恐れていました。宗一郎先生の罪が明らかになれば、雨宮家も、玲司さんも、全部壊れると思っていた」


「はい」


「でも、蓮司さんは殺されました。名前を戻すために戻ってきた人が、また沈黙させられた」


 篠原さんの頬を、涙が一筋落ちた。


「その時、思ったんです。私がまた黙れば、七年前と同じになると」


「だから、先生の時計を探した」


「はい」


「十一時十七分を示す時計を」


「はい」


「見つけて、どうするつもりでしたか」


「白瀬さんに渡すつもりでした」


 白瀬さんは、少しだけ目を伏せた。


「なぜ私に」


「蓮司さんが、言っていました」


「何を」


「音の嘘を見抜ける人が来ている、と」


 僕は、蓮司さんの手紙を思い出した。


 もし何かあったら、白瀬透子に渡してほしい。


 彼女なら、音の嘘に気づくかもしれない。


 蓮司さんは、白瀬さんに会ったことはなかった。それでも、どこかで彼女のことを知り、託そうとしていた。


「あなたは、時計を探していた時に襲われた」


「はい」


「先生の鍵を取られた、と言いましたね」


「そうです」


「それは正確ですか」


 篠原さんは、少しだけ考えた。


「私が持っていたのは、先生の鍵束ではありません」


「では」


「先生の時計ケースの鍵です」


 僕はペンを止めた。


 時計ケースの鍵。


 音楽室の懐中時計ケース。


 壊されたガラス。


「音楽室の時計ケースを開ける鍵を、あなたが持っていた」


「はい」


「どこで手に入れましたか」


「七年前、先生から預かっていました。時計の手入れを頼まれていたので」


「その鍵は、今」


「襲われた時に奪われました」


「では、後に時計ケースが壊されたのは、その鍵で開けられなかったからでしょうか」


 僕が言うと、白瀬さんは首を横に振った。


「逆かもしれません」


「逆?」


「鍵を奪ったのに、なぜガラスを割る必要があったのか」


 たしかにそうだった。


 篠原さんから鍵を奪ったなら、ケースは開けられる。


 なのに、音楽室の時計ケースは割られていた。


「つまり、時計ケースを壊した人物は、鍵を使えなかった」


「または、壊す必要があった」


「見せるために」


「はい」


 また、見せるため。


 この事件は、本当にそればかりだ。


 音を聞かせる。


 時計を見せる。


 楽譜を置く。


 ケースを壊す。


 すべてが、誰かの目に向けて配置されている。


「篠原さん。あなたを襲った人物は、時計ケースの鍵を奪った」


「はい」


「その人物は、宗一郎さんの十一時十七分の時計を探していた可能性がある」


「そう思います」


「つまり、七年前の本当の時刻を知っていた可能性がある」


「はい」


 僕はメモした。


 篠原は時計ケースの鍵を持っていた。


 襲撃者に奪われた。


 ただし、時計ケースは後に破壊されている。


 鍵が使われたかは不明。


 襲撃者は、宗一郎の十一時十七分の時計を探していた可能性。


「篠原さん」


 白瀬さんの声が、さらに静かになった。


「あなたは、蓮司さんを殺していませんね」


「殺していません」


「十一時半頃、蓮司さんは生きていた。あなたが部屋を出た後も」


「はい」


「その後、あなたは自室へ戻り、時計ケースの鍵を探し、襲われた」


「はい」


「その間、音楽室へ戻りましたか」


「戻っていません」


「調律道具に触れましたか」


「触れていません」


「低いラの仕掛けを動かしましたか」


「いいえ」


「録音機を再生しましたか」


「いいえ」


「宗一郎さんの時計を時計塔へ戻しましたか」


「いいえ」


「本物の第五楽章を持ち出したのは?」


 篠原さんは、そこで目を伏せた。


「それは、私です」


「燃やそうとした」


「はい」


「自分の名前を消すために」


「はい」


「ただし、殺人とは別の行動ですね」


「はい」


 僕は書いた。


 篠原は、殺害、凶器接触、低いラ仕掛け、録音機再生、時計移動を否認。


 本物の第五楽章の持ち出しは認める。


 理由は、自分の名前を消すため。


 沈黙と証拠移動はあるが、殺害は否認。


「これで、十一時半頃の状況は少し見えました」


 白瀬さんが言った。


 僕はメモ帳を見た。


 十一時頃、奏太さんが音楽室へ入り、低いラを押し、金属音を聞く。


 その時、足音を聞いて逃げる。


 十一時十五分頃、久世さんが蓮司さんと会う。


 蓮司さんは先生の鍵束を取り上げ、音楽室へ向かう。


 十一時半頃、篠原さんが音楽室で蓮司さんを見る。


 蓮司さんは生きている。


 ピアノ内部を見ている。


 もう一人、玲司さんに似た声の人物がいる。


 低いラと金属音が鳴る。


 篠原さんは部屋を出る。


 この後、蓮司さんが殺される。


 空白は、そこにある。


「問題は、十一時半の後です」


 白瀬さんが言った。


「蓮司さんが一人になった後」


 僕はそう言いかけて、途中で止まった。


 本当に、一人だったのか。


 白瀬さんがこちらを見る。


「良い問いです」


「正体不明の人物が、部屋を出たとは限らない」


「はい」


「篠原さんは、扉の方へ動いたと言っただけです」


「そうです」


「その人物が、出たふりをして音楽室内に残った可能性もある」


 玲司さんが、はっと顔を上げた。


「密室」


 僕も気づいた。


 音楽室の密室。


 誰も中にいないと思っていた。


 でも、そもそも誰かが出たとは限らない。


 音と仕掛けで時間をずらし、部屋が閉ざされているように見せたなら。


 殺人は、僕たちが思っていたよりもずっと静かに行われたのかもしれない。


「次は、密室の解体です」


 白瀬さんが言った。


「その前に、第五章を整理する必要がありますね」


「はい」


 白瀬さんは頷いた。


「沈黙は、ほぼ外れました」


 紗英さん。


 鷺沼。


 久世さん。


 奏太さん。


 静乃さん。


 篠原さん。


 それぞれの隠し事。


 それぞれの嘘。


 それぞれの恐れ。


 それらは、犯人を隠していた。


 けれど、それ自体が犯人とは限らない。


「次は、整理です」


 白瀬さんは言った。


「誰が何を隠したのか。どの沈黙が殺人に近く、どの沈黙が別の罪を隠していたのか」


 僕は、新しいページを開いた。


 見出しを書く。


 第五章。


 第七話。


 沈黙の整理。


 雨はまだ止まない。


 けれど、応接室の空気は少し変わっていた。


 誰もがもう、完全には黙っていられない。


 沈黙する者たちの章は、終わりに近づいていた。

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