第6話 篠原の十一時半
篠原千鶴さんは、長椅子の上で身を起こしていた。
美和さんが背中にクッションを差し入れている。額に当てられた白い布は、少しずれていた。顔色はまだ紙のように薄い。それでも、さっきまでのぼんやりした目ではなかった。
疲れている。
傷ついている。
それでも、もう逃げるのをやめた人の目だった。
白瀬さんは、篠原さんの前に立った。
「無理はしないでください」
「無理をしなければ、話せません」
篠原さんは静かに答えた。声は弱い。けれど、そこに迷いはなかった。
「そうですね」
白瀬さんは否定しなかった。
「では、必要なところだけを聞きます。十一時半頃、あなたは音楽室へ行った」
「はい」
「そこで蓮司さんを見た」
「見ました」
「生きていましたね」
「生きていました」
玲司さんが、小さく息を吸った。
ただの確認ではない。
十一時半頃、蓮司さんは生きていた。
それは、零時頃の悲鳴よりも重い証言だった。
「蓮司さんは、何をしていましたか」
「グランドピアノの中を見ていました」
「蓋は?」
「大きく開いていたわけではありません。低音側が見えるくらいです」
「中に何がありましたか」
篠原さんは、ほんの少し目を伏せた。
「調律道具です」
応接室の空気が、かすかに締まった。
「凶器候補として見つかったものですね」
「たぶん、同じものです」
「蓮司さんは、それを見ていた」
「はい。けれど、触れてはいませんでした。少なくとも、私が見た時は」
僕はメモ帳に書いた。
十一時半頃、蓮司はグランドピアノ内部を確認。
調律道具を見ていた。
篠原が見た時点では、触れていない。
文字にすると、急にその場面が冷たくなる。
蓮司さんは、自分を殺すことになる道具を見ていたのかもしれない。
「その時、蓮司さんは何か言いましたか」
「言いました」
篠原さんは、乾いた唇を一度だけ舐めた。
「『まだ残っていた』と」
「何が残っていたのですか」
「先生が隠した音だと、蓮司さんは言っていました」
「録音機のことですか」
「いいえ」
白瀬さんの目が、わずかに鋭くなる。
「違う?」
「録音機のことも、蓮司さんは知っていたと思います。でも、あの時に言っていたのは、たぶん別のものです」
「調律道具ですね」
篠原さんは頷いた。
僕は思わず顔を上げた。
「凶器が、音?」
口にしてから、自分でも奇妙な言い方だと思った。
篠原さんは、僕を責めるようには見なかった。
「蓮司さんにとって、あれはただの道具ではありませんでした」
「どういうことですか」
「蓮司さんは、自分の音を作る時、よくあの道具を使っていました。ピアノの癖を直すために。弦の響きを、少しだけ整えるために」
篠原さんの声が、そこでかすかに震えた。
「先生は、それを嫌っていました」
「宗一郎さんが?」
「はい。自分の許可なく音を変えるな、と。ピアノに触るな、と」
「音を所有していたから」
白瀬さんが言うと、篠原さんは小さく頷いた。
暖炉のそばで、静乃さんが息を吐いた。誰もそちらを見なかった。けれどその音だけで、今の言葉が七年前の宗一郎につながっているのだと分かった。
音を所有する人。
人の音を奪う人。
「七年前、宗一郎さんはその道具を取り上げた」
「はい」
「そして、ピアノの内部に隠した」
「蓮司さんは、そう言っていました」
「なぜ隠したのでしょう」
「蓮司さんの音を、二度と調整させないためです」
僕はペンを止めた。
調律道具。
凶器候補。
その言葉だけなら、事件に必要な物の名前でしかない。けれど、それは蓮司さんから取り上げられた音の道具だった。
自分の音を作るためのもの。
宗一郎が隠したもの。
そして今夜、その道具で蓮司さんは刺された。
皮肉という言葉では、軽すぎる。
「蓮司さんは、それを取り戻そうとしていた」
白瀬さんが言った。
「第五楽章だけではなく、自分の音も」
「そうだと思います」
篠原さんは答えた。
白瀬さんは、少しだけ間を置いた。
「その時、部屋にはもう一人いた」
篠原さんの顔が、はっきり強張った。
いよいよ、そこだった。
十一時半の男。
静乃さんが見た背中。
鷺沼が見た背中。
そして篠原さんが、音楽室で見た人物。
「いました」
「どこに」
「ピアノの横です。蓮司さんの少し後ろに」
「最初は向かい合っていた?」
「はい。でも、私が入った時には、その人は私に背を向けていました」
「顔は見ていない」
「見ていません」
「声は?」
篠原さんは目を閉じた。
応接室の全員が、音を立てないように息をひそめた。
「聞こえました」
「誰の声でしたか」
篠原さんは、すぐには答えなかった。
雨音が遠くなった気がした。
やがて、彼女は言った。
「玲司さんに、似ていました」
玲司さんの顔から、血の気が引いた。
紗英さんが、口元を押さえる。
「僕ではありません」
玲司さんは低く言った。
「僕は行っていない」
「私は、似ていたと言っただけです」
篠原さんの声も震えていた。
「顔は見ていません」
「兄さんの声ではなかったんですか」
「蓮司さんの声とは違いました」
蓮司さんではない。
玲司さんに似た声。
けれど顔は見ていない。
その三つが並んだだけで、応接室の空気は急に鋭くなった。
「奏太さんや久世さんの声では?」
白瀬さんが尋ねる。
「違うと思います」
「鷺沼さんは」
「違います」
「静乃さんではあり得ない」
「はい」
篠原さんは、一つずつ首を横に振った。
玲司さんは拳を握りしめている。
「僕ではありません」
同じ言葉だった。
でも、さっきより少しだけ苦しそうに聞こえた。
「その言葉は記録します」
白瀬さんは、玲司さんを見て言った。
「それだけですか」
「はい」
「僕が兄さんを殺したと思っているんですか」
「まだ思っていません」
「まだ」
「ただし、十一時半頃に蓮司さんと話していた人物が、あなたに似ていたという証言は出ました」
「僕ではない」
「では、それを証明する必要があります」
玲司さんは黙った。
紗英さんの証言は、彼を部屋にいたことにしていた。けれど、それは姿を見た証言ではない。
気配。
寝返りの音。
いると思った、という判断。
そのアリバイは、もう何度も揺れている。
「篠原さん。二人は何を話していましたか」
「全部は聞こえませんでした」
「聞こえた部分だけで構いません」
篠原さんは、少し息を整えた。
「蓮司さんが言いました。『玲司には話す』と」
玲司さんが、目を見開く。
「兄さんが」
「はい」
「相手は?」
「『それだけはやめろ』と」
応接室が凍った。
玲司には話す。
それだけはやめろ。
それだけなら、玲司さんに真実を知られたくない人物が、蓮司さんと向き合っていたように聞こえる。
「その声が、玲司さんに似ていた」
白瀬さんが確認する。
「はい」
「他には」
「蓮司さんが、『もう宗一郎の嘘は終わりだ』と」
「相手は何と」
「『終わらせれば、全部壊れる』と」
紗英さんが、小さく震えた。
その言葉は、彼女がずっと恐れていたものに近かった。
玲司さんが壊れる。
雨宮家が壊れる。
第五楽章が壊れる。
皆が、それぞれ違うものを思い浮かべたはずだった。
「何が壊れる、と言っていたのですか」
「そこまでは、聞こえませんでした」
「その後は」
「私が声をかけました」
「何と」
「やめてください、と」
七年前の録音と同じ言葉。
それに気づいたのは、僕だけではなかった。
篠原さんの肩が、小さく跳ねる。
「七年前も、あなたはそう言いました」
白瀬さんが言った。
「言いました」
「今夜も」
「はい」
「二人はあなたに気づいた」
「蓮司さんは気づきました。もう一人も、少し振り向きかけました」
「顔は?」
「見えませんでした」
「なぜ」
「その時、低いラが鳴ったからです」
僕はペンを握りしめた。
低いラ。
この事件は、何度もそこへ戻る。
「十一時半頃の低いラですね」
「たぶん」
「どこから聞こえましたか」
「音楽室の中です。少なくとも、その時はそう思いました」
「グランドピアノ?」
「そう思いました。でも、今は分かりません」
白瀬さんは頷いた。
「その後、金属音がした」
「はい」
「また同じ順番ですね」
「はい」
「その時、二人は」
「蓮司さんは、ピアノの奥を見ました。もう一人の人物は、扉の方へ動きました」
「出ていった?」
「たぶん」
「あなたは」
「怖くなって、私も廊下へ出ました」
「蓮司さんを残して」
「はい」
篠原さんの声が、ほとんど消えそうになる。
「その時、蓮司さんは生きていました。胸に血も見えませんでした。怪我をしているようにも見えませんでした」
僕は、そこを大きく書いた。
十一時半頃、低いラと金属音の後、篠原は音楽室を出た。
その時点で蓮司は生存。
胸の血は見えない。
つまり、蓮司さんは十一時半頃にはまだ刺されていなかった可能性が高い。
死亡時刻は、さらに後ろへずれる。
けれど零時頃の悲鳴は録音だ。
ならば、十一時半から発見時までのどこか。
音の演出とは別に、殺害が起きている。
「音楽室を出た後、あなたはどこへ」
「自室へ戻りました」
「すぐに?」
「はい」
「誰かに会いましたか」
「いいえ」
「その後、襲われた」
「はい」
「時刻は覚えていますか」
「はっきりとは。音楽室で遺体が見つかった後です」
「誰に襲われたかは」
「分かりません。背後からでした」
「その時、何をしていましたか」
篠原さんは、そこで少し迷った。
白瀬さんが言った。
「ここで隠すと、また事件が歪みます」
「分かっています」
篠原さんは頷いた。
「私は、先生の鍵を探していました」
「先生の鍵束は、その時すでに時計塔で見つかっています」
「はい。でも私は、それを知りませんでした」
「鍵を探して、どこへ行くつもりでしたか」
「時計塔へ」
「第五楽章を確かめるため?」
「いいえ」
篠原さんは、ゆっくり首を横に振った。
「宗一郎先生の時計を探すためです」
宗一郎の時計。
十一時十七分で止まっていた時計。
見せたくなかった時刻。
「あなたは、その時計のことを知っていた」
「はい」
「見つかれば、七年前の十一時二十分が嘘だと分かる」
「はい」
「あなたは、それを隠したかった」
「最初は」
「最初は?」
「蓮司さんが死んで、分からなくなりました」
「何が」
「隠すべきなのか、戻すべきなのか」
篠原さんの声が震えた。
「私はずっと、名前が戻ることを恐れていました。宗一郎先生の罪が明らかになれば、雨宮家も、玲司さんも、全部壊れると思っていた」
「はい」
「でも、蓮司さんは殺されました。名前を戻すために戻ってきた人が、また沈黙させられた」
篠原さんの頬を、涙が一筋落ちた。
「その時、思ったんです。私がまた黙れば、七年前と同じになると」
「だから、先生の時計を探した」
「はい」
「十一時十七分を示す時計を」
「はい」
「見つけて、どうするつもりでしたか」
「白瀬さんに渡すつもりでした」
白瀬さんは、少しだけ目を伏せた。
「なぜ私に」
「蓮司さんが、言っていました」
「何を」
「音の嘘を見抜ける人が来ている、と」
僕は、蓮司さんの手紙を思い出した。
もし何かあったら、白瀬透子に渡してほしい。
彼女なら、音の嘘に気づくかもしれない。
蓮司さんは、白瀬さんに会ったことはなかった。それでも、どこかで彼女のことを知り、託そうとしていた。
「あなたは、時計を探していた時に襲われた」
「はい」
「先生の鍵を取られた、と言いましたね」
「そうです」
「それは正確ですか」
篠原さんは、少しだけ考えた。
「私が持っていたのは、先生の鍵束ではありません」
「では」
「先生の時計ケースの鍵です」
僕はペンを止めた。
時計ケースの鍵。
音楽室の懐中時計ケース。
壊されたガラス。
「音楽室の時計ケースを開ける鍵を、あなたが持っていた」
「はい」
「どこで手に入れましたか」
「七年前、先生から預かっていました。時計の手入れを頼まれていたので」
「その鍵は、今」
「襲われた時に奪われました」
「では、後に時計ケースが壊されたのは、その鍵で開けられなかったからでしょうか」
僕が言うと、白瀬さんは首を横に振った。
「逆かもしれません」
「逆?」
「鍵を奪ったのに、なぜガラスを割る必要があったのか」
たしかにそうだった。
篠原さんから鍵を奪ったなら、ケースは開けられる。
なのに、音楽室の時計ケースは割られていた。
「つまり、時計ケースを壊した人物は、鍵を使えなかった」
「または、壊す必要があった」
「見せるために」
「はい」
また、見せるため。
この事件は、本当にそればかりだ。
音を聞かせる。
時計を見せる。
楽譜を置く。
ケースを壊す。
すべてが、誰かの目に向けて配置されている。
「篠原さん。あなたを襲った人物は、時計ケースの鍵を奪った」
「はい」
「その人物は、宗一郎さんの十一時十七分の時計を探していた可能性がある」
「そう思います」
「つまり、七年前の本当の時刻を知っていた可能性がある」
「はい」
僕はメモした。
篠原は時計ケースの鍵を持っていた。
襲撃者に奪われた。
ただし、時計ケースは後に破壊されている。
鍵が使われたかは不明。
襲撃者は、宗一郎の十一時十七分の時計を探していた可能性。
「篠原さん」
白瀬さんの声が、さらに静かになった。
「あなたは、蓮司さんを殺していませんね」
「殺していません」
「十一時半頃、蓮司さんは生きていた。あなたが部屋を出た後も」
「はい」
「その後、あなたは自室へ戻り、時計ケースの鍵を探し、襲われた」
「はい」
「その間、音楽室へ戻りましたか」
「戻っていません」
「調律道具に触れましたか」
「触れていません」
「低いラの仕掛けを動かしましたか」
「いいえ」
「録音機を再生しましたか」
「いいえ」
「宗一郎さんの時計を時計塔へ戻しましたか」
「いいえ」
「本物の第五楽章を持ち出したのは?」
篠原さんは、そこで目を伏せた。
「それは、私です」
「燃やそうとした」
「はい」
「自分の名前を消すために」
「はい」
「ただし、殺人とは別の行動ですね」
「はい」
僕は書いた。
篠原は、殺害、凶器接触、低いラ仕掛け、録音機再生、時計移動を否認。
本物の第五楽章の持ち出しは認める。
理由は、自分の名前を消すため。
沈黙と証拠移動はあるが、殺害は否認。
「これで、十一時半頃の状況は少し見えました」
白瀬さんが言った。
僕はメモ帳を見た。
十一時頃、奏太さんが音楽室へ入り、低いラを押し、金属音を聞く。
その時、足音を聞いて逃げる。
十一時十五分頃、久世さんが蓮司さんと会う。
蓮司さんは先生の鍵束を取り上げ、音楽室へ向かう。
十一時半頃、篠原さんが音楽室で蓮司さんを見る。
蓮司さんは生きている。
ピアノ内部を見ている。
もう一人、玲司さんに似た声の人物がいる。
低いラと金属音が鳴る。
篠原さんは部屋を出る。
この後、蓮司さんが殺される。
空白は、そこにある。
「問題は、十一時半の後です」
白瀬さんが言った。
「蓮司さんが一人になった後」
僕はそう言いかけて、途中で止まった。
本当に、一人だったのか。
白瀬さんがこちらを見る。
「良い問いです」
「正体不明の人物が、部屋を出たとは限らない」
「はい」
「篠原さんは、扉の方へ動いたと言っただけです」
「そうです」
「その人物が、出たふりをして音楽室内に残った可能性もある」
玲司さんが、はっと顔を上げた。
「密室」
僕も気づいた。
音楽室の密室。
誰も中にいないと思っていた。
でも、そもそも誰かが出たとは限らない。
音と仕掛けで時間をずらし、部屋が閉ざされているように見せたなら。
殺人は、僕たちが思っていたよりもずっと静かに行われたのかもしれない。
「次は、密室の解体です」
白瀬さんが言った。
「その前に、第五章を整理する必要がありますね」
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「沈黙は、ほぼ外れました」
紗英さん。
鷺沼。
久世さん。
奏太さん。
静乃さん。
篠原さん。
それぞれの隠し事。
それぞれの嘘。
それぞれの恐れ。
それらは、犯人を隠していた。
けれど、それ自体が犯人とは限らない。
「次は、整理です」
白瀬さんは言った。
「誰が何を隠したのか。どの沈黙が殺人に近く、どの沈黙が別の罪を隠していたのか」
僕は、新しいページを開いた。
見出しを書く。
第五章。
第七話。
沈黙の整理。
雨はまだ止まない。
けれど、応接室の空気は少し変わっていた。
誰もがもう、完全には黙っていられない。
沈黙する者たちの章は、終わりに近づいていた。




