表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第五章 沈黙する者たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/42

第5話 静乃の告白

 静乃さんは、暖炉の火を見ていた。


 雨宮宗一郎の妻。


 霧雨館の奥に座り続けていた老婦人。


 彼女は、最初から多くを知っていた。


 七年前の十一時十七分。


 宗一郎が時計塔を十一時二十分で止めたこと。


 蓮司さんが第五楽章を盗んだのではなく、追い出されたこと。


 篠原さんの名前が消されたこと。


 玲司さんが雨宮家の血を引いていないこと。


 そのすべてを、彼女は知っていた。


 知っていながら、すぐには語らなかった。


 宗一郎の妻として。


 雨宮家に残された人として。


 あるいは、すでに壊れたものをもう一度壊すことを恐れる人として。


「静乃さん」


 白瀬さんが言った。


「あなたには、まだ話していないことがありますね」


「あるわ」


 静乃さんは、あっさりと認めた。


 その声には、観念したような響きはなかった。


 むしろ、ようやく順番が来たと言っているようだった。


「何から話しましょうか」


「宗一郎さんのことから」


「それは、長くなるわ」


「必要なところだけで構いません」


「必要なところだけで済めば、こんな事件にはならなかったでしょうね」


 静乃さんは、小さく笑った。


 その笑いは冷たかった。


 宗一郎を憎んでいる。


 そう感じた。


 けれど、それだけではない。


 憎しみの中に、長く連れ添った者だけが持つ疲れのようなものもあった。


「宗一郎さんは、奪う人だったわ」


 静乃さんは言った。


「何度も、そうおっしゃっています」


 白瀬さんが返す。


「ええ。何度でも言うわ。あの人を理解するには、それが一番早いもの」


「音を奪った」


「音も、名前も、時間も、血も」


 応接室が静まり返った。


 それは、第四章の終わりに白瀬さんが整理した言葉だった。


 名前、時刻、血。


 宗一郎が書き換えた三つのもの。


「宗一郎さんは、若い頃からそうだったのですか」


「最初からではなかったわ」


 静乃さんは、暖炉の火を見つめたまま言った。


「若い頃の宗一郎さんは、本当に音楽を愛していた。少なくとも、私はそう思っていた」


「途中で変わった?」


「名声が、人を変えたのかもしれない。あるいは、元々あったものが名声で大きくなっただけかもしれない」


「奪うようになった」


「ええ」


 静乃さんは、ゆっくりと息を吐いた。


「弟子の旋律を、自分の曲に入れる。秘書が整えた譜面を、自分の筆とする。若い演奏家の解釈を、自分の発見として語る。最初は小さなことだった」


 奏太さんが、青ざめた顔で聞いている。


 宗一郎を信じていた彼にとって、その言葉は一つ一つ刃物のようだったはずだ。


「誰も、止めなかったのですか」


 僕は思わず尋ねた。


 静乃さんは、こちらを見た。


「止められると思う?」


 答えられなかった。


「宗一郎さんの名は、大きすぎた。彼のそばで働く者は、彼の名に守られていた。彼の名で仕事を得て、彼の名で評価された。だから、彼に奪われた人でさえ、声を上げにくかった」


「篠原さんも」


「ええ」


 篠原さんは長椅子の上で目を伏せていた。


 その顔には、否定はなかった。


「千鶴さんは、最初から才能があったわ」


 静乃さんは言った。


「でも、自分の才能を信じる力がなかった」


 篠原さんの指が、かすかに震えた。


「宗一郎さんは、そこを見抜いた。褒めて、使って、縛った。あなたの音はまだ未熟だ。私の名前で出せば残る。そう言って」


「篠原さんは、それを信じた」


 白瀬さんが言う。


「信じたかったのでしょう」


 静乃さんは静かに答えた。


「人は、自分を利用する相手の言葉でも、自分を認めてくれる部分だけは信じたくなるものよ」


 その言葉は、篠原さんだけでなく、奏太さんにも刺さったように見えた。


 奏太さんは、膝の上で拳を握りしめている。


「蓮司さんは、違ったのですね」


 白瀬さんが言った。


「蓮司は、反抗した」


 静乃さんの声に、わずかな懐かしさが混じった。


「あの子は、宗一郎さんに似ていたわ。音に対してだけは、絶対に譲らなかった」


「宗一郎さんに似ていたから、衝突した」


「ええ」


「そして第五楽章で決定的になった」


「そう」


 静乃さんは頷いた。


「第五楽章は、宗一郎さんにとって最後の大曲になるはずだった。けれど、もう彼の中には、その曲を書き切る力が残っていなかった」


 応接室の空気が変わった。


 宗一郎が、書き切れなかった。


 その事実は、これまでの宗一郎像をさらに崩すものだった。


「だから、蓮司さんと篠原さんの音を使った」


 白瀬さんが言った。


「ええ」


「二人の名前を消して」


「ええ」


「自分の最後の曲にしようとした」


「そうよ」


 静乃さんは、目を閉じた。


「第五楽章は、宗一郎さんにとって、最後に自分がまだ作曲家であることを証明するための曲だった」


「そのために、人の名前を消した」


「宗一郎さんにとっては、人の名前ではなかったのよ」


「どういう意味ですか」


「あの人にとって、周りの人間は音符だった」


 静乃さんの言葉に、僕は息を呑んだ。


「自分の譜面に置くための音符。必要なら動かす。不要なら消す。響きが悪ければ書き換える」


 誰も言葉を発しなかった。


「蓮司は、音符でいることを拒んだ。千鶴さんは、音符でいることを受け入れてしまった。玲司は、宗一郎さんが空いた小節に置いた音符だった」


 玲司さんの顔が歪んだ。


「僕は」


「ごめんなさい」


 静乃さんは、初めてはっきりと謝った。


「あなたにそんなことを言うべきではないのかもしれない。でも、これが宗一郎さんの見方だった」


「叔母様は」


 玲司さんの声は低かった。


「叔母様は、僕をどう見ていたんですか」


 静乃さんは、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、今までのものとは違っていた。


 冷たい沈黙ではない。


 自分の罪を数えているような沈黙だった。


「最初は、かわいそうな子だと思ったわ」


 静乃さんは言った。


「宗一郎さんの身勝手で、この館に置かれた子。蓮司の代わりにされる子」


「最初は?」


「ええ」


「その後は」


「あなたは、あなたになった」


 玲司さんは、目を見開いた。


「玲司という一人の人間になった。宗一郎さんがどう置いたかなんて関係なく、あなたはあなたとして生き始めた」


 静乃さんの声は、少しだけ震えていた。


「だから、怖かったのよ」


「何がですか」


「真実を話せば、あなたが自分を代用品だと思ってしまうことが」


 玲司さんは黙った。


「黙っていたことが正しいとは言わないわ」


 静乃さんは続けた。


「正しくなかった。今なら分かる。でも、私はあなたが宗一郎さんの譜面から抜け出したことを、壊したくなかった」


「それで黙っていた」


「ええ」


「結局、僕を宗一郎の譜面の中に閉じ込めたままだったのに」


 静乃さんは、ゆっくり頷いた。


「そうね」


 その一言に、反論はなかった。


 僕はメモ帳に書いた。


 静乃:宗一郎は人を音符のように扱ったと証言。


 第五楽章は、作曲家としての宗一郎の最後の証明だった。


 宗一郎は蓮司と篠原の音を自分の名で残そうとした。


 玲司は蓮司の代わりとして置かれたが、静乃は玲司自身を守りたくて沈黙した。


「静乃さん」


 白瀬さんが言った。


「あなたは、七年前の十一時十七分の後、宗一郎さんが時計塔を十一時二十分で止めたことを知っていた」


「ええ」


「その時、止めなかったのですか」


「止めなかったわ」


「なぜ」


「止めても、もう戻らないと思ったから」


「何が」


「蓮司」


 静乃さんは、はっきりと言った。


「蓮司は、あの時点でもう戻らないと思った。宗一郎さんに追い出され、千鶴さんも黙り、鷺沼も従った。私も止めなかった。あの子は、この館に戻れる場所を失った」


「だから、時計を止めることも止めなかった」


「ええ」


「十一時二十分という嘘が残ると分かっていて」


「ええ」


「それは、宗一郎さんを守るためですか」


「いいえ」


「では」


「私自身を守るため」


 静乃さんは、今度は迷わなかった。


「私は、妻として、あの人の罪を見ていた。見ていたのに止めなかった。だから、十一時二十分という嘘は、私にとっても都合がよかった」


「都合がよい?」


「本当の十一時十七分を見れば、私は自分が何もしなかった瞬間を思い出さなければならない」


 応接室に、静かな痛みが広がった。


「十一時二十分なら、宗一郎さんの嘘になる」


 白瀬さんが言った。


「ええ」


「でも、十一時十七分は、あなたが止めなかった時間でもある」


「そう」


 静乃さんは頷いた。


「私は、あの三分間を宗一郎さん一人の罪にしておきたかったの」


 僕は、ペンを握る手に力を込めた。


 十一時十七分から十一時二十分。


 たった三分。


 その三分の中で、宗一郎は時計を止めた。


 蓮司は追い出された。


 第五楽章の名前は消された。


 そして静乃さんは、自分の沈黙を隠した。


 十一時二十分は、宗一郎が作った時刻だった。


 けれど、その時刻に救われていたのは宗一郎だけではなかった。


「今夜、蓮司さんが戻ることを知っていましたか」


 白瀬さんが尋ねた。


 静乃さんは、少しだけ目を伏せた。


「知っていたわ」


 応接室に、また緊張が走る。


「誰から」


「蓮司から」


「手紙ですか」


「いいえ」


「では」


「電話よ」


 僕は顔を上げた。


「電話は通じないんじゃ」


「今夜はね」


 静乃さんは答えた。


「数日前、館の外の町にいる時に受けたの」


「内容は」


「戻る、と」


「他には」


「十一時十七分を、もう一度見せると言ったわ」


 白瀬さんの目が鋭くなった。


「蓮司さんは、十一時十七分を見せようとしていた」


「ええ」


「宗一郎さんの時計を使って?」


「おそらく」


「あなたは止めましたか」


「止めなかった」


「なぜ」


「今度こそ、止めてはいけないと思ったから」


 静乃さんは、暖炉の火を見つめた。


「七年前、私は止めるべき時に止めなかった。今度は、戻るものを止めてはいけないと思った」


「蓮司さんが危険だとは思わなかったのですか」


「思ったわ」


「それでも」


「ええ」


 玲司さんが静乃さんを見る。


「叔母様」


「ええ」


「あなたも、兄さんが戻ることを知っていて黙っていたんですね」


「そうよ」


「なぜ僕に言わなかったんですか」


「蓮司が自分で言うべきだと思ったから」


「でも、兄さんは死んだ」


「ええ」


 静乃さんは、目を閉じた。


「私はまた、間違えたのかもしれない」


 その言葉は、ひどく小さかった。


 僕はメモした。


 静乃は数日前、蓮司から電話を受けていた。


 蓮司は十一時十七分をもう一度見せると言った。


 静乃は蓮司の帰還を知っていたが、止めなかった。


 玲司にも伝えなかった。


 理由は、蓮司自身が話すべきだと思ったから。


「では、今夜の低いラや仕掛けについては?」


 白瀬さんが尋ねる。


「知りません」


「本当に?」


「ええ」


「十一時十七分を見せる、と聞いて、何が起きると思いましたか」


「時計だと思ったわ」


「宗一郎さんの懐中時計」


「ええ」


「それが時計塔に戻されることを予想していた?」


「少しは」


「篠原さんは、それを恐れていました」


「千鶴さんは、あの時計が戻れば、七年前が戻ると思っていたのでしょう」


「あなたは?」


「私は、戻るべきだと思った」


 静乃さんと篠原さん。


 二人とも七年前を知っていた。


 でも、恐れていたものは違う。


 篠原さんは、名前が戻ることで雨宮家が壊れることを恐れた。


 静乃さんは、七年前が戻らなければ何も終わらないと思った。


「静乃さん」


 白瀬さんは、さらに尋ねた。


「今夜、あなたは十一時半頃に男の背中を見たと証言しました」


「ええ」


「それは本当ですか」


「本当よ」


「誰かを庇うために曖昧にしていませんか」


「していないわ」


「本当に玲司さんか蓮司さんか分からなかった?」


「分からなかった」


「久世さん、鷺沼さん、奏太さんの可能性は?」


 静乃さんは、少し考えた。


「久世さんではないと思う」


 久世さんが軽く眉を上げる。


「なぜですか」


「あなたは歩き方が少し芝居がかっているもの」


 久世さんは、複雑な顔をした。


「それはどう反応すべきでしょうね」


「褒めてはいないわ」


 静乃さんは続けた。


「鷺沼でもないと思う。彼の歩き方はもっと静か。奏太さんは……分からないけれど、あの背中より少し若い」


「では、やはり玲司さんか蓮司さんに見えた」


「ええ」


「しかし篠原さんは、同じ頃、音楽室で蓮司さんを見ています」


「なら、玲司だったのかもしれないわね」


 玲司さんが顔を強張らせる。


「僕ではありません」


「私は、見たままを話しているだけよ」


「叔母様は、僕を疑っているんですか」


 静乃さんは、まっすぐ玲司さんを見た。


「疑いたくないわ」


「答えになっていません」


「ええ」


 静乃さんは、静かに言った。


「でも、疑わなければならないのでしょう」


 玲司さんは、何も言えなかった。


 白瀬さんが言った。


「静乃さんの証言では、十一時半頃の男は久世さん、鷺沼さんではなさそう。奏太さんは不明。玲司さんか蓮司さんに見えた」


「はい」


 僕は書いた。


「ただし、蓮司さんが音楽室にいたなら、背中の人物は蓮司さんではない可能性が高い」


 白瀬さんが補足する。


 書く。


 玲司さんの名前が、また近づいてくる。


 でも、決めつけてはいけない。


 この事件では、似ていることも、見えたことも、簡単には信じられない。


「静乃さん」


 白瀬さんは、最後に尋ねた。


「あなたは蓮司さんを殺しましたか」


「いいえ」


「低いラの仕掛けを動かしましたか」


「いいえ」


「録音機を再生しましたか」


「いいえ」


「宗一郎さんの時計を時計塔へ戻しましたか」


「いいえ」


「先生の鍵束を持ち出しましたか」


「いいえ」


「黒い布を落としましたか」


「いいえ」


 静乃さんは、すべて静かに否定した。


 白瀬さんは頷いた。


「記録します」


 僕は書いた。


 静乃は蓮司殺害、仕掛け作動、録音機再生、時計移動、鍵束窃取、黒い布について否認。


 ただし、蓮司の帰還を事前に知っていた。


 十一時十七分を見せるという蓮司の意図も知っていた。


 玲司には伝えなかった。


「静乃さんの沈黙は、七年前の自分を守るためでした」


 白瀬さんが言った。


「ええ」


 静乃さんは認めた。


「そして今夜は、蓮司さん自身に真実を話させるために黙っていた」


「そうよ」


「結果として、蓮司さんは誰にも十分に守られないまま館へ入った」


「ええ」


「その沈黙も、事件を歪めました」


「分かっているわ」


 静乃さんの声は、かすれていた。


「分かっているのよ」


 その言葉には、長い年月の後悔が込められていた。


 けれど、後悔は死者を戻さない。


 白瀬さんは、応接室の全員を見渡した。


「これで、主な沈黙はかなり外れました」


 僕はメモ帳を見た。


 紗英さん。


 鷺沼。


 久世さん。


 奏太さん。


 静乃さん。


 それぞれが、何かを隠していた。


 誰かを守るため。


 自分を守るため。


 信じていたものを守るため。


 過去の自分を守るため。


 それぞれの沈黙は、少しずつ事件を濁らせた。


「残るのは」


 僕は言った。


「篠原さんですね」


 長椅子の上の篠原さんが、ゆっくりと目を開けた。


 彼女は、すでに分かっていたようだった。


 自分の番が来ることを。


 白瀬さんは、篠原さんの前に立った。


「篠原さん。あなたは十一時半頃、音楽室で蓮司さんと正体不明の人物を見ました」


「はい」


「次は、その詳細を聞きます」


 篠原さんは、小さく頷いた。


「話します」


 その声は弱かった。


 けれど、今度は逃げる声ではなかった。


 第五章の沈黙は、最後に篠原千鶴へ戻ってきた。


 第五楽章の消された名前。


 十一時半の目撃。


 そして、凶器の調律道具。


 今夜の殺人に最も近い沈黙が、ようやく開かれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ