第2話 鷺沼の沈黙
白瀬さんの視線が、鷺沼へ向いた。
応接室の扉のそば。
黒い手袋をした使用人は、いつものように背筋を伸ばして立っている。
その姿は、最初に霧雨館へ着いた時からほとんど変わらない。
雨の中、僕たちを出迎えた時も。
晩餐の席を整えていた時も。
音楽室の鍵を持ってきた時も。
時計塔へ案内した時も。
崖下の譜面を回収した時も。
鷺沼は、常に同じだった。
静かで、丁寧で、雨宮家に仕える者として隙がない。
けれど今、その変わらなさが一番不気味に思えた。
彼は、知っていた。
七年前の十一時十七分。
崖下の譜面。
宗一郎の時計。
蓮司さんが館に戻っていたこと。
そして、今夜、蓮司さんを裏口から入れたこと。
なのに、鷺沼はずっと沈黙していた。
「鷺沼さん」
白瀬さんが言った。
「はい」
「今度は、あなたの番です」
「承知しております」
鷺沼は、深く頭を下げた。
その仕草は礼儀正しい。
だが、僕にはどこか、処刑台へ向かう人のようにも見えた。
「まず確認します」
白瀬さんは、僕のメモ帳を一度見た。
「あなたは今夜、午後十時半頃、蓮司さんを裏口から館へ入れた」
「はい」
「それまで、蓮司さんが館の外にいることを知っていた」
「はい」
「誰にも伝えなかった」
「はい」
「玲司さんにも」
「はい」
玲司さんの表情が固くなる。
けれど、もう怒鳴らなかった。
怒り疲れたのかもしれない。
あるいは、怒鳴っても過去は変わらないと分かってしまったのかもしれない。
「なぜ、黙っていたのですか」
白瀬さんが尋ねた。
「蓮司様から頼まれたからでございます」
「それだけですか」
鷺沼は、わずかに沈黙した。
「いいえ」
「他には」
「私自身も、迷っておりました」
「迷う?」
「蓮司様を館へ入れるべきかどうか」
「なぜです」
「蓮司様が戻れば、七年前の秘密がすべて明らかになると分かっていたからです」
「それは困ることでしたか」
「はい」
鷺沼は、はっきり答えた。
「雨宮家にとっては」
「あなたにとっては?」
鷺沼は答えなかった。
その沈黙は短かったが、重かった。
「私にとっても」
やがて、彼は言った。
「困ることでした」
「なぜ」
「私は、七年前に蓮司様を止められませんでした」
「時計塔の外部通路で?」
「はい」
「蓮司さんは、第五楽章の一部を持って時計塔へ向かった」
「はい」
「あなたは追った」
「はい」
「しかし、譜面の一部は崖側へ落ちた」
「はい」
「その後、あなたはそれを回収しなかった」
「旦那様の命令でございます」
「それだけですか」
白瀬さんの声は静かだった。
鷺沼は、黒い手袋の指を一度だけ動かした。
「怖かったのです」
「何が」
「蓮司様が正しいと認めることが」
応接室の空気が、少し揺れた。
鷺沼は、低い声で続けた。
「私は、雨宮宗一郎様に仕えておりました。旦那様の音楽を信じ、旦那様の名を守ることが、私の務めでした」
「はい」
「しかし七年前、私は見てしまいました」
「何をですか」
「蓮司様が第五楽章を盗んだのではないことを」
玲司さんが、ゆっくりと顔を上げた。
鷺沼は、その視線を受け止めるように続けた。
「蓮司様は、奪ったのではありません。奪われないようにしていたのです」
「分かっていたんですね」
玲司さんが言った。
「はい」
「なのに、兄さんが盗んだという話を否定しなかった」
「はい」
「なぜですか」
「旦那様を裏切れませんでした」
玲司さんの拳が震えた。
「兄さんを裏切っても?」
鷺沼は、深く頭を下げた。
「はい」
その一言は、あまりにも正直だった。
言い訳ではなかった。
弁解でもなかった。
ただ、自分の罪を認める言葉だった。
僕はメモに書いた。
鷺沼は七年前、蓮司が第五楽章を盗んだのではないことを知っていた。
それでも宗一郎への忠誠を優先し、沈黙した。
蓮司を裏切ったことを認める。
ペン先が少し震えた。
「鷺沼さん」
白瀬さんが続けた。
「今夜、蓮司さんはあなたに何を話しましたか」
「第五楽章を本当の名前に返す、と」
「それは、篠原さんの証言と一致します」
「はい」
「玲司さんに出生の真実を話す、とも?」
「はい」
「あなたは止めましたか」
「止めました」
玲司さんが目を細めた。
「なぜ」
「玲司様が傷つくと思ったからです」
「またそれですか」
「はい」
鷺沼は、逃げなかった。
「私は、玲司様をお守りするつもりでございました」
「僕を守るために、兄さんをまた黙らせようとした」
「はい」
「ひどい話ですね」
「はい」
鷺沼は静かに答えた。
玲司さんは、何かを言おうとして、やめた。
怒りよりも先に、疲労が来たのだと思う。
この館にいる誰もが、玲司さんを守ると言って、玲司さんから真実を奪っていた。
「それで、蓮司さんは何と?」
白瀬さんが尋ねた。
「『もう守るふりはやめてくれ』と」
鷺沼は言った。
「蓮司様は、そうおっしゃいました」
玲司さんの顔が歪んだ。
「兄さんが……」
「そして、『玲司は俺の代わりではない。あいつには、あいつの名前がある』と」
応接室に、また沈黙が落ちた。
蓮司さんは、もういない。
けれど、手紙と証言の中で、少しずつ人間として戻ってくる。
七年前に消えた兄。
盗人にされた作曲家。
名前を奪われた人。
そして、玲司さんを恨まなかった人。
「蓮司さんは、その後どこへ向かいましたか」
白瀬さんが尋ねた。
「書斎の方へ」
「直接音楽室へは行かなかった」
「はい」
「篠原さんと会うためですか」
「おそらく」
「あなたは同行しましたか」
「いいえ」
「なぜ」
「蓮司様に、ここから先は一人で行くと言われました」
「その時刻は?」
「午後十時半を少し過ぎた頃です」
僕は書く。
午後十時半過ぎ、蓮司は裏口から入館。
鷺沼と会話。
その後、書斎方面へ向かった。
鷺沼は同行せず。
「その後、あなたはどこへ?」
「使用人室へ戻りました」
「誰かに会いましたか」
「美和に」
美和さんが、びくりと顔を上げた。
「私……」
「美和さん」
白瀬さんが振り向く。
「その時、鷺沼さんは使用人室に戻ってきましたか」
「はい」
「時刻は?」
「はっきりとは……十時半過ぎだったと思います」
「様子は?」
美和さんは、少し困ったように鷺沼を見た。
鷺沼は何も言わない。
「いつもより、少し落ち着かないように見えました」
「何か話しましたか」
「いいえ。ただ、旦那様の古い鍵を確認すると言って、すぐに出ていきました」
鷺沼が、静かに目を閉じた。
白瀬さんはすぐに尋ねる。
「古い鍵とは、先生の鍵束ですか」
「はい」
鷺沼が答えた。
「なぜ確認を?」
「蓮司様が、時計塔へ行くかもしれないと思ったからです」
「鍵束は書斎の鍵箱にあったはずですね」
「はい」
「あなたは確認した」
「しました」
「その時、鍵束は?」
鷺沼は、少しだけ言葉を切った。
「ありました」
応接室の空気が変わった。
「つまり」
僕は思わず口に出した。
「十時半過ぎの時点では、先生の鍵束はまだ書斎にあった」
「はい」
鷺沼は頷いた。
僕は急いで書いた。
十時半過ぎ、鷺沼が書斎の鍵箱を確認。
先生の鍵束はまだあった。
その後、鍵束は消失。
「これは重要です」
白瀬さんが言った。
「先生の鍵束が消えたのは、十時半過ぎ以降ということになります」
「誰が取れたんですか」
僕が尋ねる。
「書斎に入れた人物です」
「鍵箱を開けられる人物」
「はい」
「鷺沼さん、玲司さん、予備鍵を持っている人物」
「または、鍵箱が開いている隙に取った人物」
白瀬さんはそう言って、鷺沼を見た。
「鍵箱を確認した後、あなたは閉めましたか」
「閉めました」
「鍵も?」
「はい」
「その後、書斎に誰が入ったか把握していますか」
「完全には」
「なぜ」
「私はその後、館内の戸締まりを確認しておりました」
「十時の戸締まり確認とは別に?」
「はい。蓮司様が入られたため、念のため」
「そのことも隠していた」
「はい」
また、一つ沈黙が外れた。
鷺沼は十時半過ぎに鍵束を確認し、その後館内を回った。
その間に誰かが書斎から鍵束を持ち出した可能性がある。
「鷺沼さん」
白瀬さんは続けた。
「館内を回った時、誰かを見ましたか」
「はい」
「誰を?」
「久世様を、二階廊下で」
久世さんが眉を上げた。
「私ですか」
「はい」
「時刻は」
「十時四十五分頃かと」
久世さんは少し考え、頷いた。
「確かに、部屋へ戻る途中でした」
「どこから戻る途中ですか」
白瀬さんが尋ねる。
「廊下を歩いていただけです」
「答えになっていません」
久世さんは苦笑した。
「書斎の近くです」
「なぜ書斎の近くに?」
「第五楽章に関する資料がないかと思いまして」
「つまり、書斎に入ろうとした」
「入ってはいません」
「本当に?」
「扉が閉まっていました」
「鍵は?」
「持っていません」
「先生の鍵束は?」
「その時点では見ていません」
白瀬さんは、久世さんを見たまま言った。
「後で拾ったと説明しましたね」
「ええ」
「どこで拾ったのですか」
「書斎近くの廊下です」
「時刻は?」
久世さんは、そこで一瞬だけ黙った。
「十一時過ぎ」
「つまり、十時四十五分頃に書斎近くを歩き、十一時過ぎに先生の鍵束を拾った」
「そうなります」
「その間に鍵束が廊下に落ちていた」
「私はそう見ました」
「なぜ、誰かが鍵束を廊下に落とすのですか」
「知りません」
「あなたが取って落とした可能性は?」
「ありません」
「証明できますか」
「できません」
久世さんは、そう言って肩をすくめた。
しかし、その顔にいつもの軽さはなかった。
僕はメモする。
十時四十五分頃、鷺沼が二階廊下で久世を目撃。
久世は書斎近くにいた。
十一時過ぎ、久世は書斎近くの廊下で先生の鍵束を拾ったと主張。
届けずに時計塔へ向かった。
「他には誰を見ましたか」
白瀬さんが鷺沼へ戻る。
「奏太様を」
奏太さんが顔を上げた。
「僕?」
「はい。十一時少し前、音楽室へ向かう廊下で」
奏太さんの顔色が悪くなった。
「それは、僕が話した通りです。音楽室に入りました」
「はい」
鷺沼は頷いた。
「お声をかけようとしましたが、奏太様は急いでおられました」
「低いラが気になって」
「承知しております」
白瀬さんが言う。
「鷺沼さん、奏太さんが音楽室に入る時、扉は開いていましたか」
「はい」
「鍵はかかっていなかった」
「はい」
「その時点で音楽室の鍵は開いていた」
「そのように見えました」
僕は書く。
十一時前、奏太が音楽室へ向かうのを鷺沼が目撃。
音楽室の扉は開いていた、または少なくとも施錠されていなかった。
奏太の証言と一致。
「その後、鷺沼さんは音楽室の中を見ましたか」
「いいえ」
「なぜ」
「奏太様の私的な行動と思いましたので」
「この状況で?」
「その時点では、まだ事件は起きておりませんでした」
「あなたは蓮司さんが館にいることを知っていました」
白瀬さんの声が、少しだけ冷たくなった。
「はい」
「それでも、音楽室に向かう奏太さんを見過ごした」
「はい」
「蓮司さんがそちらへ向かう可能性を考えませんでしたか」
「考えました」
「なら、なぜ確認しなかったのですか」
鷺沼は、また深く頭を下げた。
「確認すべきでした」
それは答えではなかった。
けれど、これ以上の答えもないのかもしれない。
「鷺沼さん」
白瀬さんは静かに言った。
「あなたの沈黙と不作為は、事件の隙間を作っています」
「はい」
「あなたが蓮司さんを入れたことを話していれば」
「はい」
「あなたが鍵束の確認を話していれば」
「はい」
「あなたが奏太さんを見たことを話していれば」
「はい」
「事件の時系列は、もっと早く整理できた」
「その通りでございます」
鷺沼は、否定しなかった。
ただ、ひたすら認めた。
それがかえって痛々しかった。
「では、さらに確認します」
白瀬さんは言った。
「十一時半頃、あなたはどこにいましたか」
「玄関ホール付近です」
「一人で?」
「はい」
「何をしていましたか」
「時計塔の扉を確認しておりました」
応接室に緊張が走る。
「なぜ時計塔を?」
「鍵束が気になったからです」
「鍵束は、その時もう消えていた?」
「はい」
「あなたは、十一時半前に鍵束がなくなっていることを知っていた」
「はい」
僕はペンを握りしめた。
また重要な情報だ。
先生の鍵束は、十時半過ぎにはあった。
十一時半前には消えていた。
その間に誰かが取った。
「それをなぜ言わなかったのですか」
玲司さんが言った。
「鷺沼」
「申し訳ございません」
「謝罪じゃなくて、理由を」
「私が疑われると思ったからです」
鷺沼は初めて、そう言った。
応接室の空気が変わった。
鷺沼が、自分を守るために黙った。
宗一郎のためでも、雨宮家のためでも、玲司さんのためでもなく。
自分が疑われるのを避けるために。
「あなたも、怖かったんですね」
僕は思わず言った。
鷺沼は、こちらを見た。
ほんの少しだけ、表情が崩れたように見えた。
「はい」
彼は答えた。
「私も、怖かったのです」
その言葉で、鷺沼が初めて使用人ではなく、一人の人間に見えた。
忠実すぎる人物。
秘密を守りすぎた人物。
そして、自分が罪を問われることを恐れた人物。
「十一時半頃、時計塔の扉は?」
白瀬さんが尋ねた。
「閉まっていました」
「施錠は?」
「されていませんでした」
「つまり、誰かがすでに時計塔へ入った後だった可能性がある」
「はい」
「あなたは中へ入りましたか」
「いいえ」
「なぜ」
「足音を聞いたからです」
「どこで」
「二階へ向かう階段の方です」
「誰の足音ですか」
「分かりません」
「男性?」
「おそらく」
静乃さんの証言。
篠原さんの証言。
そして鷺沼の証言。
十一時半頃、男の足音。
音楽室周辺、書斎周辺、時計塔周辺。
同じ人物なのか。
それとも、複数の人物が動いていたのか。
「その人物を見ましたか」
白瀬さんが尋ねる。
「背中だけ」
また背中。
僕は息を呑んだ。
「誰に見えましたか」
「玲司様に」
玲司さんの顔色が変わった。
「僕は部屋にいた」
「私は、そう見えたと申し上げているだけです」
鷺沼は静かに答えた。
「蓮司様かもしれない、とも思いました」
「なぜ」
「お二人は、よく似ておられます」
白瀬さんは、僕を見た。
「記録を」
「はい」
僕は書いた。
十一時半頃、鷺沼は時計塔入口付近にいた。
時計塔の扉は閉まっていたが、施錠されていなかった。
二階階段方面で男の足音。
背中だけ目撃。
玲司に見えたが、蓮司の可能性もある。
「この証言で、十一時半の男の目撃者が三人になりました」
白瀬さんが言った。
「静乃さん、篠原さん、鷺沼さん」
「三人とも、背中しか見ていない」
僕が言う。
「はい」
「玲司さんか蓮司さんか分からない」
「はい」
「でも篠原さんは、同じ頃に音楽室で蓮司さんを見ている」
「その通りです」
「なら、鷺沼さんや静乃さんが見た背中は、蓮司さんではない可能性が高い」
「高くなります」
玲司さんが低く言った。
「僕だと言いたいんですか」
「まだ言いません」
白瀬さんは即答した。
「ですが、あなたのアリバイは再検討する必要があります」
玲司さんは黙った。
紗英さんは、まだ戻ってきた手紙の封筒を見つめている。
彼女の証言は、玲司さんのアリバイを支えていた。
しかし、それは姿を見た証言ではない。
息遣いと気配。
寝返りの音。
思い込み。
玲司さんのアリバイは、再び揺れていた。
「鷺沼さん」
白瀬さんが最後に尋ねた。
「あなたは蓮司さんを殺しましたか」
応接室が静まり返る。
鷺沼は、まっすぐ白瀬さんを見た。
「殺しておりません」
「蓮司さんを音楽室へ誘導しましたか」
「いいえ」
「低いラの仕掛けを作動させましたか」
「いいえ」
「録音機を再生しましたか」
「いいえ」
「先生の鍵束を盗みましたか」
「いいえ」
「宗一郎さんの懐中時計を時計塔へ戻しましたか」
「いいえ」
「黒い布を落としましたか」
「いいえ」
白瀬さんは、少しだけ沈黙した。
「分かりました」
「信じるのですか」
久世さんが言った。
「信じるのではありません」
白瀬さんは答えた。
「記録します」
僕はその言葉に頷き、メモした。
鷺沼は殺害、誘導、仕掛け作動、鍵束窃取、時計移動、黒い布について否認。
ただし、多数の重要事実を隠していた。
その沈黙により、事件の時系列が大きく歪んだ。
書き終えた時、僕はようやく時系列が少し見えてきた気がした。
十時半過ぎ、蓮司入館。
十時半過ぎ、先生の鍵束はまだ書斎にあった。
十時四十五分頃、久世が書斎付近にいた。
十一時前、奏太が音楽室へ。
十一時過ぎ、久世が鍵束を拾ったと主張。
十一時少し過ぎ、篠原が蓮司と会った。
十一時半頃、複数人が男の背中を目撃。
十一時半頃、蓮司は音楽室で生きていた可能性が高い。
そして、その後、蓮司さんは殺された。
「次は」
白瀬さんが言った。
「久世さんです」
久世さんは、予想していたように小さく笑った。
「ようやく本格的に来ましたね」
「あなたは、鍵束を拾ったと言いました」
「ええ」
「その話を、最初から聞きます」
久世さんは指輪を撫でた。
だが、その手つきには、もう余裕がなかった。
沈黙する者たち。
その章は、まだ始まったばかりだった。




