第1話 崩れた相続人
玲司さんは、しばらく誰の顔も見なかった。
応接室の中央に立ったまま、ただ床を見つめていた。
暖炉の火が揺れている。
雨が窓を叩いている。
誰も言葉を発しない。
けれど、沈黙の中には、さっきまでとは違う重さがあった。
玲司さんは、雨宮家の血を引いていない。
静乃さんが告げたその事実は、事件とは別の刃物のように、応接室の空気を切り裂いていた。
僕はメモ帳を開いたまま、ペンを動かせなかった。
書くべきことは分かっている。
でも、それは玲司さんという一人の人間が、今まさに自分の足元を失っている瞬間を文字にすることだった。
それでも、白瀬さんは言った。
書いてください、と。
だから僕は書いた。
玲司は雨宮家の血を引いていない。
蓮司はそれを知っていた。
蓮司は今夜、玲司に真実を伝えるつもりだった。
書いてから、胸の奥が鈍く痛んだ。
「玲司さん」
紗英さんが、ためらいがちに声をかけた。
玲司さんは答えなかった。
彼女はもう一歩近づく。
「ごめんなさい」
「何に対して」
玲司さんの声は、静かだった。
静かすぎて、かえって怖かった。
「手紙を隠したこと」
「それだけ?」
「玲司さんを、守ろうとしたこと」
「守る」
玲司さんは、ようやく顔を上げた。
その目には怒りがあった。
悲しみもあった。
けれど、一番深いところにあるのは、空白だった。
「僕は、何から守られていたんだ」
「それは」
「自分が誰かを知らないまま生きることが、守られることだったのか」
紗英さんは、何も言えなかった。
「兄さんは、僕に話すつもりだったんだろう」
「はい」
「それを君は止めた」
「はい」
「兄さんが殺されるとは思わなかった」
「本当に、思わなかった」
「でも、結果は同じだ」
紗英さんの顔が歪んだ。
「玲司さん」
「僕は兄さんに会えなかった」
その一言は、怒鳴り声ではなかった。
けれど、応接室の誰もが目を伏せた。
蓮司さんは、七年前に消えた兄だった。
今夜、戻ってきた。
玲司さんに真実を伝えるために。
けれど、会う前に殺された。
それを止められたかもしれない情報を、紗英さんは隠した。
守るために。
愛情のために。
けれど、その沈黙が事件を歪めた。
「紗英さん」
白瀬さんが静かに言った。
「あなたの手紙を確認させてください」
紗英さんは小さく頷いた。
「部屋にあります」
「今、取りに行くのは危険です。鷺沼さん、同行を」
「かしこまりました」
「いいえ」
紗英さんは首を振った。
「私が行きます」
「一人では行かせません」
白瀬さんの声は、いつも通りだった。
「今この館で、一人になることは許可できません」
「分かりました」
紗英さんは力なく頷いた。
鷺沼と美和さんが同行することになった。
応接室を出ていく紗英さんの背中は、ひどく小さく見えた。
玲司さんはそれを見送らなかった。
ただ、暖炉の火を見ていた。
白瀬さんは、静乃さんに向き直った。
「静乃さん」
「ええ」
「玲司さんの出生について、もう少し詳しく伺います」
玲司さんが、わずかに肩を動かした。
聞きたくない。
それでも聞かなければならない。
そんな反応だった。
静乃さんは、杖の握り手を指で撫でながら言った。
「玲司は、宗一郎さんが外から連れてきた子よ」
「外から」
「雨の夜だったわ。今夜ほどではなかったけれど、よく降っていた」
「親は?」
「詳しくは知らされなかった。亡くなったとだけ聞いたわ」
「本当に亡くなっていたのですか」
「さあ」
静乃さんは小さく笑った。
笑いというより、長年の諦めのようだった。
「宗一郎さんの言葉を、どこまで信じるかによるわね」
玲司さんが低く言った。
「僕は、捨て子だったんですか」
「玲司」
「答えてください」
静乃さんは、少しだけ目を伏せた。
「宗一郎さんは、あなたを後継者にすると言った」
「答えになっていません」
「私に分かるのは、それだけよ」
「なぜ僕だったんですか」
静乃さんは、すぐには答えなかった。
白瀬さんが静かに言う。
「蓮司さんに似ていたからではありませんか」
応接室の空気が、また張り詰めた。
玲司さんは、白瀬さんを見た。
「僕が、兄に?」
「あなたと蓮司さんは、よく似ています」
「血はつながっていないのに」
「だからこそ、選ばれた可能性があります」
その言葉は残酷だった。
だが、事件の形には合っていた。
蓮司が出て行った後、宗一郎は蓮司に似た子を後継者にした。
蓮司の代わりとして。
あるいは、蓮司への罰として。
「宗一郎さんは、蓮司さんを消したかった」
白瀬さんは言った。
「けれど、蓮司さんの不在を埋める形は必要だった」
「だから僕を?」
玲司さんの声は、かすれていた。
「可能性です」
「僕は、兄さんの代用品だったんですか」
誰も答えなかった。
答えられる人はいなかった。
静乃さんだけが、静かに言った。
「宗一郎さんにとっては、そうだったのかもしれない」
玲司さんは、目を閉じた。
「ひどいですね」
「ええ」
「僕だけじゃない。兄さんも、篠原さんも、みんな」
「そうね」
「伯父は、何人の人生を自分の曲みたいに扱ったんですか」
静乃さんは答えなかった。
でも、僕にはその沈黙が答えのように思えた。
宗一郎は、音楽を作るように人を配置した。
蓮司の名前を消し、篠原さんの名前を消し、玲司さんを後継者として置き、十一時十七分を十一時二十分に変えた。
まるで、人生そのものを自分の譜面に書き換えるように。
「ここで確認します」
白瀬さんが言った。
「玲司さんの出生の秘密を、今夜以前から知っていた人物」
僕は慌ててペンを構えた。
「静乃さん」
「ええ」
「鷺沼さん」
「知っていたはずよ」
「篠原さんは?」
静乃さんは少し考えた。
「知っていたかもしれない。宗一郎さんの秘書だったから」
篠原さんは長椅子の上で目を開けた。
「……知っていました」
声は弱かった。
しかし、確かに聞こえた。
玲司さんが彼女を見る。
「あなたも」
「申し訳ありません」
「謝れば済む話ですか」
「済みません」
「なら、なぜ」
「先生に口止めされていました」
「また先生」
玲司さんの声が、低く震える。
篠原さんは目を伏せた。
「それだけではありません」
「では、何ですか」
「蓮司さんに、言わないでほしいと頼まれていました」
玲司さんの表情が変わった。
「兄さんが?」
「はい」
「なぜ」
「あなたがまだ幼かったからです」
「僕が子供だったから?」
「はい」
「でも、今は大人です」
「蓮司さんは、今夜話すつもりでした」
玲司さんは、何も言えなくなった。
篠原さんは、苦しそうに続けた。
「蓮司さんは、あなたを恨んでいませんでした。宗一郎先生があなたを後継者にしたことも、あなたのせいではないと分かっていました」
「なら、なぜ今まで」
「戻れなかったんです」
篠原さんの声が、少しだけ震えた。
「七年前、蓮司さんは出て行った。でも、戻れば第五楽章のことも、あなたのことも、すべて壊れる。そう思っていた」
「でも、今夜戻ってきた」
「はい」
「なぜ今夜なんですか」
白瀬さんが、その問いを引き取った。
「宗一郎さんの遺言です」
篠原さんは頷いた。
「第五楽章を見つけた者に、真の相続権を認める。先生は、死んでなお第五楽章を餌にした」
「蓮司さんは、それを止めに来た」
「はい」
「第五楽章を、自分とあなたの名前に戻すため」
「はい」
「そして玲司さんにも、本当のことを話すため」
「はい」
僕はメモする。
玲司の出生を知っていた人物。
静乃、鷺沼、篠原。
蓮司も知っていた。
蓮司は玲司を恨んでいなかった。
今夜、第五楽章と出生の真相を話すために戻った。
書いていると、紗英さんたちが戻ってきた。
紗英さんの手には、封筒があった。
白い封筒。
雨宮蓮司の筆跡と思われる文字。
玲司へ。
宛名は、紗英さんではなかった。
「これは」
玲司さんが呟いた。
紗英さんは、震える手で封筒を差し出した。
「本当は、あなた宛てでした」
「僕宛て」
「はい」
「君は、それを読んだ」
「はい」
「僕に渡さずに」
「はい」
玲司さんは封筒を受け取らなかった。
白瀬さんが代わりに受け取り、玲司さんを見る。
「読みますか」
玲司さんは、長い沈黙の後、頷いた。
「読んでください」
「ご自分でなくてよいのですか」
「今は、無理です」
白瀬さんは頷き、封筒を開けた。
中には便箋が数枚入っていた。
紙は新しい。
だが、文字には迷いがあり、何度も書き直した跡が見える。
白瀬さんは、必要な部分だけ読み上げることにした。
「玲司へ。
突然この手紙を読むことになったなら、俺はまた卑怯な兄なのだと思う。
七年前、俺は霧雨館を出た。
逃げたのではない。
追い出された。
けれど、結果として、お前を一人残したことに変わりはない。
そのことを、ずっと謝りたかった」
玲司さんの肩が、小さく震えた。
白瀬さんは続けた。
「宗一郎は、俺の名前を消した。
第五楽章からも、雨宮家からも。
そして、お前を俺の代わりに置いた。
だが、お前は悪くない。
お前は宗一郎の嘘の被害者だ。
だから、どうか自分を責めないでほしい」
紗英さんが、静かに泣いていた。
玲司さんは、顔を伏せている。
僕はメモを取るのも忘れて聞いていた。
「第五楽章を見つけた者に相続権を認めるという遺言は、宗一郎らしい最後の罠だ。
あの曲は、相続の道具ではない。
俺と千鶴さんが、初めて自分たちの名前で残そうとした曲だ。
俺は今夜、それを返しに行く。
本当の名前に。
そして、お前にも話す。
お前が誰の血を引くかではなく、お前自身が何を選ぶかを」
白瀬さんは、そこで一度読むのを止めた。
応接室は静まり返っていた。
玲司さんは、両手で顔を覆っていた。
「兄さん……」
その声は、子供のようだった。
誰も彼を責めなかった。
誰も慰めなかった。
ただ、雨音だけが続いている。
「続きがあります」
白瀬さんが言った。
玲司さんは、小さく頷いた。
「もし俺に何かあったら、この手紙を白瀬透子という人に渡してほしい。
彼女なら、音の嘘に気づくかもしれない。
宗一郎は、音で人を支配した。
俺は、音でそれを終わらせたい」
僕は白瀬さんを見た。
彼女の表情は変わらない。
だが、目の奥にかすかな揺れがあった。
「蓮司さんは、白瀬さんを知っていたんですか」
僕が尋ねると、白瀬さんは首を横に振った。
「私は蓮司さんに会ったことはありません」
「でも、名前を」
「おそらく、調律師時代の仕事をどこかで知ったのでしょう」
「音の嘘に気づくかもしれない」
僕はその言葉を繰り返した。
白瀬さんは、録音機。
低いラ。
時計塔の音響管。
金属音。
それらに気づいた。
蓮司さんは、それを見越していたのかもしれない。
自分が宗一郎の音の罠を解けなくても、誰かが解いてくれるように。
白瀬さんは、最後の一文を読んだ。
「玲司。
雨宮の名に縛られるな。
お前は、お前の名前で生きていい。
俺は、それを言うために戻る」
便箋が、白瀬さんの手の中で静かに揺れた。
玲司さんは、もう何も言えなかった。
紗英さんが泣いている。
篠原さんも目を閉じ、涙を流していた。
静乃さんは、暖炉の火を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「蓮司は、最後まで優しすぎたのね」
その声には、初めて本当の悲しみがあった。
久世さんは、いつもの軽口を言わなかった。
奏太さんも黙っていた。
彼の中で、宗一郎という偶像が少しずつ崩れているのが見えるようだった。
「これで、紗英さんの沈黙の意味は分かりました」
白瀬さんが言った。
「彼女は、玲司さんを守るために手紙を隠した」
「はい」
僕はようやくペンを動かした。
蓮司の手紙。
玲司宛て。
七年前の真相、第五楽章の本当の名前、玲司の出生について記載。
蓮司は玲司を責めていない。
白瀬透子に渡してほしいという一文あり。
紗英は手紙を隠した。
理由は玲司を守るため。
「ですが」
白瀬さんは続けた。
「紗英さんが手紙を隠したことは、殺人の説明にはなりません」
紗英さんが顔を上げる。
「私は」
「分かっています。あなたが殺したと言っているのではありません」
「では」
「ただし、あなたの沈黙によって、蓮司さんが今夜何をしようとしていたのかが見えにくくなりました」
紗英さんは、うつむいた。
「ごめんなさい」
「謝る相手は、私ではありません」
白瀬さんの声は厳しくも優しくもなかった。
ただ、正しかった。
紗英さんは玲司さんを見た。
玲司さんは、まだ顔を上げられない。
「玲司さん」
紗英さんは言った。
「ごめんなさい」
玲司さんは、長い間黙っていた。
そして、小さく言った。
「今は、返事ができない」
「うん」
「でも、手紙は」
玲司さんは、顔を上げた。
目は赤かった。
「手紙は、渡してくれてありがとう」
紗英さんは、また泣いた。
僕は、そのやり取りをメモには書かなかった。
これは事件の証言ではない。
でも、ここで書き落としてはいけないものだと思った。
白瀬さんは、便箋を元の封筒に戻した。
「ここまでで、次に外すべき沈黙が見えてきました」
「沈黙?」
僕が聞くと、白瀬さんは頷いた。
「沈黙を一つずつ外します」
「紗英さんの沈黙」
「はい」
「次は?」
白瀬さんは、扉のそばに立つ鷺沼を見た。
「鷺沼さんです」
鷺沼は、深く頭を下げた。
「承知しております」
その声は静かだった。
だが、今までのような完全な従者の声ではなかった。
秘密を守る人間ではなく、秘密を手放そうとしている人間の声だった。
白瀬さんは言った。
「次は、蓮司さんが館に入った時のことを、最初から話していただきます」
鷺沼は、ゆっくりと頷いた。
雨はまだ降り続いている。
時計塔は止まったまま。
しかし、沈黙は一つずつ崩れ始めていた。




