第3話 久世の隠し事
久世将臣は、暖炉のそばで指輪を撫でていた。
いつもの仕草だった。
価値を測る時。
相手の反応を待つ時。
あるいは、自分の考えを隠す時。
彼は、決まってその指輪に触れる。
派手な美術商。
第五楽章を作品ではなく商品として見ていた男。
午後九時半に音楽室へ入り、紙ロールを見たと証言した人物。
時計塔へ入り、黒い布を拾い、それを捨てようとした人物。
そして、先生の鍵束を拾ったと言った人物。
久世さんの言葉は、重要な手がかりをいくつも含んでいる。
だが同時に、その言葉はどこか信用しきれない。
彼は嘘をつくというより、真実を自分に都合のよい形で差し出す人間に見えた。
「久世さん」
白瀬さんが静かに呼んだ。
「はい」
「先生の鍵束について、最初から話してください」
「先ほど申し上げた通りです。書斎近くの廊下で拾いました」
「時刻は」
「十一時過ぎです」
「十一時何分頃ですか」
「正確には覚えていません」
「なぜ書斎近くにいたのですか」
「資料を探していました」
「何の資料ですか」
「第五楽章に関するものです」
「書斎に入ったのですか」
「入っていません」
「入ろうとした」
「それは認めます」
久世さんは、軽く肩をすくめた。
「ですが、扉は閉まっていました」
「鍵は持っていない」
「ええ」
「では、どうやって資料を探すつもりだったのですか」
「扉が開いていれば、少し拝見しようかと」
玲司さんの眉が動いた。
「それを不法侵入と言うんですよ」
「霧雨館に招かれた客として、資料を確認したかっただけです」
「勝手に?」
「ええ。勝手に」
久世さんは、悪びれずに答えた。
だが、その声にはいつもの軽さがなかった。
白瀬さんは続ける。
「そこで先生の鍵束を見つけた」
「はい」
「床に落ちていた?」
「廊下の端です。壁際に」
「なぜ、すぐに届けなかったのですか」
「時計塔へ行けると思ったからです」
「第五楽章を探すために」
「はい」
「人が死んでいる状況で?」
「その時点では、まだ人は死んでいません」
久世さんの言葉に、応接室が凍った。
僕は思わず顔を上げた。
久世さんは、自分の発言の意味に気づいたように、少しだけ口を閉ざした。
白瀬さんの目が鋭くなる。
「その時点では、まだ人は死んでいない」
「一般論です」
「いいえ。あなたは今、時刻を前提に言いました」
「言葉の綾です」
「本当に?」
久世さんは黙った。
白瀬さんは一歩も引かない。
「あなたが鍵束を拾ったという十一時過ぎ。その時点で、蓮司さんはまだ生きていたと知っていたのですか」
「知りません」
「では、なぜ『まだ人は死んでいない』と言ったのですか」
「事件が発覚する前、という意味です」
「発覚していなければ、死んでいないことになりますか」
久世さんは、指輪から手を離した。
初めて、明確に追い詰められた顔をした。
「白瀬さん。あなたは、言葉尻を捕まえるのが上手い」
「言葉尻ではありません。あなたは、時々本音を言います」
「商売柄、隠すのは得意なはずなんですがね」
「得意すぎる人ほど、隠しているものの輪郭が見えます」
僕は急いでメモする。
久世:十一時過ぎに書斎近くで先生の鍵束を拾ったと主張。
「その時点では、まだ人は死んでいない」と発言。
白瀬さんは、その時点で蓮司が生きていたことを知っていた可能性を指摘。
「久世さん」
白瀬さんは言った。
「あなたは、十一時過ぎから時計塔へ行った」
「はい」
「そこで何をしましたか」
「保管庫を探しました」
「先生の鍵束を使って?」
「はい」
「保管庫は見つかりましたか」
「見つけました」
玲司さんが顔を上げる。
「それで、さっきは空だったと言いましたよね」
「私が見た時は、空でした」
「本当に?」
「本当です」
白瀬さんは、静かに尋ねた。
「その保管庫に、第五楽章はなかった」
「ありませんでした」
「では、保管庫を開けた跡だけがあった」
「はい」
「つまり、あなたより前に誰かが保管庫を開け、本物の第五楽章を持ち出した可能性がある」
「そうなります」
「その人物は、先生の鍵束を使った」
「おそらく」
「しかし、あなたは先生の鍵束を拾ったと言っている」
「はい」
「では、あなたが拾う前に、その人物は鍵束を使い、廊下に落としたことになります」
「そういうことになりますね」
「都合がよすぎませんか」
「事件とは、都合のよい偶然でできていることもあります」
「これは偶然ではなく、あなたの説明です」
久世さんは黙った。
その沈黙の間に、雨音が強くなる。
窓硝子を叩く音。
暖炉の火が小さく爆ぜる音。
その中で、白瀬さんの声だけがまっすぐだった。
「久世さん。あなたは、本当に鍵束を拾ったのですか」
「拾いました」
「盗んだのではなく?」
「違います」
「書斎に入っていない?」
「入っていません」
「保管庫から第五楽章を持ち出していない?」
「持ち出していません」
「時計塔の低いラ装置を動かしていない?」
「動かしていません」
「宗一郎さんの懐中時計を時計塔へ戻していない?」
「戻していません」
「黒い布を落としたのは?」
「私ではありません。拾っただけです」
「蓮司さんを殺しましたか」
応接室が静まり返った。
久世さんは、まっすぐ白瀬さんを見た。
「殺していません」
「証明できますか」
「できません」
「十一時半頃、あなたはどこにいましたか」
「自室です」
「証明できますか」
「できません」
「十一時過ぎに鍵束を拾い、時計塔へ行った。その後、自室へ戻った」
「はい」
「その途中で、蓮司さんに会いましたか」
「会っていません」
「音楽室には?」
「午後九時半以降は入っていません」
「本当に?」
「本当に」
白瀬さんは、しばらく久世さんを見ていた。
「では、あなたが隠していることは何ですか」
久世さんは薄く笑った。
「隠している前提ですか」
「はい」
「なぜそう思うのです」
「あなたの話には、利益がありすぎます」
「利益?」
「あなたは自分の不利な事実も出しています。時計塔に入ったこと。黒い布を捨てようとしたこと。証拠隠滅に近い行動をしたこと」
「ええ」
「しかし、それらはすべて『殺人ではないが怪しい行動』です」
久世さんの目が、わずかに細くなった。
「つまり?」
「あなたは、自分が殺人犯ではないことを示すために、別の怪しさを差し出しているように見えます」
僕は息を呑んだ。
怪しい行動を認めることで、もっと大きな疑いから目を逸らす。
そんなことがあるのか。
いや、久世さんならあり得る。
彼は価値を操作する人間だ。
情報の見せ方も、商品と同じように扱えるのかもしれない。
「白瀬さん」
久世さんは言った。
「あなたは本当に、嫌な見方をする」
「よく言われます」
「ですが、今回は少し外れています」
「では、隠していることを話してください」
久世さんは指輪を撫でた。
しばらく沈黙した後、小さく息を吐く。
「私は、蓮司さんと会っています」
応接室の空気が止まった。
玲司さんが立ち上がりかける。
「いつ」
白瀬さんが即座に尋ねた。
「十一時十五分頃です」
十一時十五分。
十一時十七分の二分前。
十一時二十分の五分前。
僕はペンを握る手に力を込めた。
「場所は」
「書斎の前です」
「何を話しましたか」
「第五楽章の価値について」
「価値」
玲司さんが低く言った。
「兄が戻ってきた理由を知っていて、それでも価値の話を?」
「私が切り出したわけではありません」
「では蓮司さんが?」
「ええ」
久世さんは、少し意外そうに言った。
「蓮司さんは、私に言いました。『あなたなら、この曲の値段ではなく、傷を見られるか』と」
「傷?」
「来歴の傷です」
久世さんは、暖炉の火を見た。
「作品は、綺麗な物語ばかりで価値が決まるわけではありません。傷も、来歴の一部になる」
「蓮司さんは、その傷を見せようとしていた」
「ええ。宗一郎の名前で汚された曲を、本来の名前に戻す。その過程も含めて、第五楽章の価値になると考えていたのかもしれません」
「あなたはどう答えたのですか」
「売り方を間違えれば、死者も生者も傷つくと言いました」
玲司さんが、意外そうに久世さんを見る。
「あなたが?」
「私にも、最低限の線引きはあります」
久世さんは苦く笑った。
「信じてもらえないでしょうが」
白瀬さんは、表情を変えずに続けた。
「蓮司さんは、その時、生きていた」
「はい」
「十一時十五分頃、書斎前で」
「はい」
「怪我は?」
「見た限り、ありません」
「様子は?」
「疲れていました。ですが、落ち着いていました」
「その後、どこへ?」
「音楽室へ向かいました」
「一人で?」
「はい」
「あなたは追わなかった」
「追いませんでした」
「なぜ」
「追うべきではないと思ったからです」
「あなたにしては控えめですね」
「私も、常に欲に従うわけではありません」
久世さんは、そこで少しだけ目を伏せた。
「それに、あの時の蓮司さんは、誰かに会いに行く人間の顔をしていました」
「誰に」
「分かりません」
「宗一郎さんは亡くなっています」
「ええ」
「篠原さんですか」
「そうかもしれません」
「別の誰かかもしれない」
「はい」
僕はメモする。
久世は十一時十五分頃、書斎前で蓮司と会った。
蓮司は生きており、怪我は見えなかった。
蓮司は第五楽章の価値と傷について話した。
その後、音楽室へ向かった。
久世は追わなかったと主張。
「なぜ今まで話さなかったのですか」
白瀬さんが尋ねる。
「私が疑われるからです」
「今さらですね」
「ええ。今さらです」
久世さんは苦笑した。
「しかし、十一時十五分に蓮司さんと会っていたとなれば、私は殺害可能時間にかなり近づきます」
「その通りです」
「だから黙っていました」
「あなたも、自分が疑われるのを恐れた」
「はい」
久世さんはあっさり認めた。
「私は高尚な理由では黙っていません。自分のためです」
「黒い布を捨てようとしたのは篠原さんのためと言いました」
「それも本当です」
「自分のためと、篠原さんのため」
「人間の理由は一つではありません」
その言葉には、妙な説得力があった。
この館では、誰の沈黙にも複数の理由がある。
守るため。
隠すため。
疑われないため。
誰かを傷つけないため。
そして、自分を守るため。
「久世さん」
白瀬さんは言った。
「鍵束を拾った時刻を、もう一度」
「十一時過ぎ」
「蓮司さんと会ったのは十一時十五分頃」
「はい」
「その時、鍵束は持っていましたか」
久世さんは、すぐには答えなかった。
白瀬さんの目が鋭くなる。
「持っていましたね」
「はい」
僕はペンを止めた。
鍵束を持った久世さんが、蓮司さんと会っていた。
「蓮司さんは、その鍵束に気づきましたか」
「気づきました」
「何と言いましたか」
「『それは先生の鍵だ』と」
「あなたは何と?」
「拾った、と」
「蓮司さんは信じましたか」
「おそらく、信じていません」
「その後、蓮司さんは鍵束をどうしましたか」
「私から取り上げました」
玲司さんが声を上げる。
「兄さんが?」
「はい」
「では、先生の鍵束は蓮司さんが持っていた?」
「その時点では」
僕は急いで書く。
十一時十五分頃、久世は先生の鍵束を持って蓮司と会った。
蓮司は鍵束に気づき、久世から取り上げた。
その後、蓮司は鍵束を持って音楽室へ向かった可能性。
「なぜそれを隠したのですか」
白瀬さんが尋ねる。
「鍵束を盗んだ疑いが私に向くからです」
「すでに向いています」
「ええ」
「さらに、蓮司さんに鍵束を渡したことになる」
「渡したのではありません。取り上げられたのです」
「同じです」
「違います」
「事件上は、ほぼ同じです」
白瀬さんは冷静に言った。
「あなたの証言が正しければ、十一時十五分以降、先生の鍵束は蓮司さんが持っていた」
「はい」
「しかし、その鍵束は後に時計塔で見つかっています」
「はい」
「蓮司さんが時計塔へ行ったのか、誰かが蓮司さんから鍵束を奪ったのか」
「そのどちらかでしょう」
「あるいは、あなたが嘘をついている」
久世さんは黙った。
「私は、蓮司さんを殺していません」
彼はもう一度言った。
「その言葉は記録します」
白瀬さんは答えた。
僕は書いた。
久世は蓮司殺害を否認。
ただし、十一時十五分頃に蓮司と接触し、先生の鍵束を蓮司に取り上げられたと証言。
この証言が正しければ、蓮司はその後、鍵束を持っていた。
「では、篠原さんの十一時半証言とつながります」
僕は言った。
白瀬さんがこちらを見る。
「続けてください」
「篠原さんは、十一時半頃、音楽室で蓮司さんを見たと言いました」
「はい」
「蓮司さんは、グランドピアノ内部を見ていた」
「はい」
「その時、正体不明の人物がいた」
「はい」
「もし蓮司さんが先生の鍵束を持っていたなら、音楽室の予備鍵や時計塔の鍵も使えた」
「そうです」
「つまり、蓮司さんは自分で音楽室に入り、ピアノ内部を調べていた可能性が高い」
「はい」
「そこへ、誰かが来た」
白瀬さんは頷いた。
「そして、その誰かが、今夜の事件の中心に近い」
玲司さんが顔を上げる。
「その誰かが、僕だと言いたいんですか」
「まだ言いません」
白瀬さんは答えた。
「ですが、十一時半頃に目撃された男の背中の正体を明らかにする必要があります」
「静乃叔母様、篠原さん、鷺沼。三人が背中を見た」
「はい」
「蓮司さんが音楽室にいたなら、その背中は蓮司さんではない」
「可能性が高いです」
「僕に似ている人物」
「または、蓮司さんに似せた人物」
その言葉に、応接室が静かに揺れた。
「似せた?」
僕は聞き返した。
「長いコート、暗い廊下、霧、雨、背中だけ。人を誤認させる条件は揃っています」
「では、本当に玲司さんだったとは限らない」
「はい」
「久世さんでも?」
僕が言うと、久世さんは眉を上げた。
「私ですか」
「長いコートを着ていました」
「身長も体格も違います」
「暗ければ分かりません」
白瀬さんが言った。
久世さんは、口を閉じた。
「鷺沼さんでも?」
「黒い服です。可能性はあります」
「奏太さんは?」
「若い男性です。遠目ならあり得ます」
「つまり、背中だけでは誰でもあり得る」
「誰でも、ではありません。条件に合う人物です」
僕はメモする。
十一時半の男の背中は、玲司または蓮司に見えた。
しかし、暗さ、コート、背中だけという条件により、別人が誤認された可能性がある。
候補:玲司、久世、鷺沼、奏太、その他。
「久世さん」
白瀬さんは再び彼を見る。
「あなたは十一時半頃、自室にいたと言いました」
「はい」
「しかし、十一時十五分に蓮司さんと会っていた。そこから自室に戻ったことを証明できない」
「その通りです」
「あなたが、十一時半頃に音楽室へ向かうことも可能だった」
「可能性だけなら」
「音楽室へ入り、蓮司さんと話すことも」
「可能性だけなら」
「蓮司さんを刺すことも」
「していません」
久世さんの声は、今度ははっきりしていた。
白瀬さんは少し黙った後、言った。
「分かりました。あなたの隠し事は記録しました」
「終わりですか」
「一旦は」
久世さんは、少しだけ疲れたように笑った。
「随分と高い代償の告白でした」
「まだ代償は決まっていません」
「怖いことを言う」
白瀬さんは、応接室を見渡した。
「これで、鍵束の流れが少し見えました」
僕はメモ帳の新しい欄を作る。
白瀬さんが整理する。
「十時半過ぎ、鷺沼さんが鍵箱を確認。先生の鍵束はまだあった」
僕は書く。
「十時四十五分頃、久世さんが書斎付近にいた」
書く。
「十一時過ぎ、久世さんが書斎近くで鍵束を拾ったと主張」
書く。
「十一時十五分頃、久世さんが蓮司さんと会い、蓮司さんが鍵束を取り上げた」
書く。
「その後、蓮司さんは音楽室へ向かった」
書く。
「十一時半頃、篠原さんは音楽室で蓮司さんと正体不明の人物を見た」
書く。
「その後、鍵束は時計塔で発見された」
書く。
時系列が、少しずつ形を持つ。
だが、まだ空白がある。
十一時十五分から十一時半。
十一時半から零時。
その間に、誰が蓮司さんと会い、誰が殺したのか。
「次は、奏太さんです」
白瀬さんが言った。
奏太さんが、びくりと肩を震わせた。
「僕、ですか」
「はい」
「僕はもう、話しました」
「十一時頃に音楽室へ入ったことは聞きました」
「他には何も」
「本当に?」
奏太さんは、目を逸らした。
白瀬さんは、その反応を見ていた。
「奏太さん。あなたは、宗一郎さんを尊敬していました」
「はい」
「第五楽章が宗一郎さんの曲ではないかもしれないと知った」
「はい」
「その時、あなたは何を思いましたか」
奏太さんは、唇を噛んだ。
この第五章は、沈黙を外す章。
紗英さんの沈黙。
鷺沼の沈黙。
久世さんの隠し事。
次は、奏太さんの番だった。
宗一郎を信じていた若い音大生。
低いラを聞き、十一時に音楽室へ入り、何かを隠している人物。
彼の沈黙もまた、事件の音を歪めているのかもしれなかった。




