第10話 崖下の譜面
七年前からでございます。
鷺沼のその言葉は、雨音の中でもはっきり聞こえた。
崖の縁。
霧に沈む夜の庭。
時計塔の外壁の下、古い木の枝に引っかかった白い紙。
それが何なのか、まだ分からない。
けれど、鷺沼は知っていた。
七年前から。
「七年前から、あそこに何かがあると知っていたのですか」
白瀬さんが尋ねた。
声は静かだった。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ、逃げ道を一つずつ塞ぐような声だった。
鷺沼は黒い傘を差したまま、深く頭を下げていた。
「はい」
「それは、紙ですか」
「おそらく」
「第五楽章の一部ですか」
「断定はできません」
「断定はできないが、そう思っていた」
「はい」
僕は濡れた上着の内側からメモ帳を取り出しかけた。
だが、雨で濡れてしまう。
書けない。
だから必死に頭の中に刻む。
鷺沼は、崖下の紙を七年前から知っていた。
第五楽章の一部の可能性。
時計塔の外壁下、古い木の枝。
白瀬さんは、枝に引っかかった紙を見た。
雨に濡れ、霧にかすみ、今にも谷底へ落ちそうに揺れている。
「なぜ、七年前に回収しなかったのですか」
「できませんでした。いえ、しなかったのです」
「危険だから?」
「それもございます」
「それ以外に?」
鷺沼は、少しだけ顔を上げた。
その表情はいつも通り整っている。
けれど、目の奥に深い疲れがあった。
「旦那様が、お許しになりませんでした」
「宗一郎さんが?」
「はい」
「なぜ」
「落ちたものは、落ちたままでよいと」
白瀬さんの目が、わずかに細くなった。
「落ちたもの」
「はい」
「それは、紙のことですか。それとも人のことですか」
僕は息を呑んだ。
雨が肩を叩く。
遠くで沢の音が聞こえる。
崖下は真っ暗で、底が見えない。
鷺沼は、すぐには答えなかった。
「白瀬様」
彼は静かに言った。
「この先を話せば、雨宮家の古い傷をすべて開くことになります」
「もう開いています」
「玲司様も傷つきます」
「玲司さんは、知らないことで傷ついてきました」
白瀬さんの声は低かった。
「今度は、知ることで傷つく番です」
鷺沼は目を伏せた。
その沈黙は長かった。
けれど、今までの沈黙とは違う。
隠し通すためのものではなく、話す覚悟を整えるための沈黙に見えた。
「七年前」
鷺沼は言った。
「蓮司様は、音楽室から出て行かれました」
「篠原さんも、そう言っていました」
「はい」
「追い出されたと」
「その通りでございます」
「その後、蓮司さんはどうしたのですか」
「時計塔へ向かわれました」
僕は思わず崖側の時計塔を見上げた。
雨に濡れた塔は、霧の中で黒く沈んでいる。
十一時二十分で止まったはずの塔。
七年前、本当は十一時十七分から始まっていた塔。
「なぜ時計塔へ?」
白瀬さんが尋ねた。
「第五楽章の一部を持っていたからです」
「隠すため?」
「おそらく」
「誰から」
「旦那様から」
鷺沼の声は、雨に溶けそうなほど低かった。
「蓮司様は、第五楽章を奪ったのではありません。奪われないようにしたのです」
その言葉は、これまでのすべてを裏返した。
蓮司が盗んだ。
そう聞かされていた。
玲司さんも、篠原さんも、鷺沼も、雨宮家の関係者も。
けれど本当は、蓮司さんは守ろうとしていた。
自分の名前を。
篠原さんの名前を。
第五楽章を。
「その紙が、崖に落ちたのですか」
「はい」
「どうやって」
鷺沼は、時計塔の外壁を見上げた。
「あの夜、蓮司様は外部通路へ出られました。嵐でした。風が強く、雨も激しかった。蓮司様は、油紙に包んだ譜面を抱えておられました」
「一人で?」
「私が後を追いました」
「宗一郎さんは?」
「音楽室に残っておられました」
「篠原さんは?」
「音楽室に」
「静乃さんは?」
「途中まで一緒でしたが、旦那様に呼び戻されました」
僕は頭の中で整理する。
七年前、低いラ。
音楽室で揉み合い。
宗一郎の時計が十一時十七分で止まる。
蓮司が第五楽章の一部を持って音楽室を出る。
時計塔へ向かう。
鷺沼が追う。
「蓮司様は、塔の外部通路で足を滑らせました」
鷺沼は言った。
僕の足元が、急に冷たくなった気がした。
「落ちたのですか」
白瀬さんが尋ねる。
「いいえ」
「では」
「欄干に掴まり、何とか踏みとどまりました。ですが、抱えていた譜面の一部が風に飛ばされ、崖側の木に引っかかりました」
僕は枝に引っかかった白い紙を見た。
あれが、七年前の譜面の一部。
七年間、雨に打たれ、霧に濡れ、枝に引っかかったままだった。
いや、普通なら七年も残るはずがない。
油紙か。
布か。
何かに包まれていたのかもしれない。
「譜面は、七年間そのままだったのですか」
白瀬さんが尋ねた。
「正確には、あの白いものは外包みでございます」
「外包み」
「油紙の一部です。中に譜面の断片が残っているかまでは、私にも分かりません」
「なぜ、今まで確認しなかったのですか」
「旦那様が、あの紙に触れるなと」
「それを守った」
「はい」
「七年間」
「はい」
白瀬さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「鷺沼さん。あなたは忠実すぎます」
「そうでなければ、この館では務まりませんでした」
「その忠実さが、事件を複雑にしています」
「承知しております」
鷺沼の声には、初めてはっきりとした後悔があった。
「ですが、私が話すことで救える方がいるなら、今は話すべきだと考えました」
「なぜ今ですか」
「蓮司様が亡くなられたからです」
彼は、雨に濡れた地面を見た。
「七年前、私は蓮司様を止められませんでした。今夜も、止められなかった」
「蓮司さんが戻ることを知っていたのですか」
白瀬さんの声が、少し鋭くなった。
鷺沼は頷いた。
「はい」
僕は胸の奥が冷えるのを感じた。
鷺沼も知っていた。
紗英さんも手紙を受け取っていた。
篠原さんも知っていた。
そして鷺沼も。
蓮司さんが今夜、館に来ることを。
「誰から聞きましたか」
「蓮司様ご本人からです」
「いつ」
「今夜、午後十時半頃」
午後十時半。
久世さんは九時半に音楽室で紙ロールを見た。
鷺沼は十時に戸締まり確認。
奏太さんは十一時頃に音楽室へ。
篠原さんは十一時過ぎに蓮司さんと会った。
その間に、鷺沼は蓮司さんと会っていた。
「場所は」
「玄関脇の使用人通路です」
「蓮司さんは、どうやって館に入ったのですか」
「裏口から」
「鍵は?」
「私が開けました」
雨音が、急に大きくなったように聞こえた。
鷺沼が、蓮司さんを館に入れた。
その事実は重かった。
「あなたが蓮司さんを招き入れた」
「はい」
「なぜ隠していたのですか」
「蓮司様から頼まれました」
「誰にも言うなと?」
「はい。特に玲司様には、まだ知らせないでほしいと」
「なぜ」
「すべてを確認してから話すと」
「すべてとは、第五楽章ですか」
「はい。それと、七年前の時計です」
「十一時十七分」
鷺沼は頷いた。
「蓮司様は、覚えておられました。旦那様の時計が十一時十七分で止まったことを」
「では、蓮司さんは七年前の嘘を暴くために戻ってきた」
「そうだと思います」
「誰かを殺すためではなく」
「いいえ」
鷺沼は、はっきりと首を横に振った。
「蓮司様は、誰かを殺しに来たのではありません」
「何をしに来たのですか」
「返しに来たのです」
返す。
また、その言葉。
篠原さんは、返してはいけないと言った。
蓮司さんは、返しに来た。
何を、誰に返すのか。
「第五楽章を?」
「はい」
「誰に」
「本当の名前に」
鷺沼の言葉は、篠原さんの証言と一致した。
蓮司さんは、第五楽章を本当の名前に返そうとしていた。
雨宮宗一郎の名ではなく。
雨宮蓮司と、篠原千鶴の名へ。
「それを止めたい人がいた」
僕は呟いた。
白瀬さんは僕を見た。
「そう考えるのが自然です」
「篠原さんは、自分の名前が戻るのを怖れていました」
「はい」
「でも、篠原さんは殺していないと言っています」
「はい」
「久世さんは証拠を隠そうとしたけど、殺人は否認」
「はい」
「鷺沼さんは蓮司さんを入れた。でも、殺していない?」
僕は思わず鷺沼を見た。
鷺沼は静かに答えた。
「私は、蓮司様を殺しておりません」
「それを証明できますか」
自分で言って、胸が痛んだ。
鷺沼は、今まで多くを隠していた。
だから疑う必要がある。
白瀬さんがいつも言うように。
鷺沼は首を横に振った。
「証明は、できません」
「では」
「ですが、私が蓮司様を館に入れたことは事実です。その点について、私は責めを負います」
白瀬さんは静かに言った。
「責めを負うことと、殺人を犯したことは別です」
「はい」
「あなたは多くを隠しました」
「はい」
「その隠蔽は、事件を歪めています」
「承知しております」
「では、今は協力してください」
「もちろんでございます」
白瀬さんは、鷺沼が持っていた長い金属の棒を見た。
「それで、あの油紙を取れますか」
「おそらく」
「危険は?」
「ございます」
「なら、私がやります」
「いけません」
鷺沼が即座に言った。
「崖際は危険です。私が」
「あなたはすでに多くを隠しています」
「だからこそ、です」
鷺沼は白瀬さんを見た。
「私が七年前に取らなかったものです。今取るべきなのは、私です」
白瀬さんは少しだけ考えた。
そして言った。
「分かりました。ただし、真柴さんが記録します。私が補助します。無理はしないでください」
「承知しました」
崖の木に引っかかった白い油紙は、雨に濡れて枝に張りついていた。
鷺沼は傘を畳み、長い金属棒を伸ばすように構えた。
火かき棒だと思っていたが、先端がかぎ状になっている。
時計塔の高所作業で使う道具なのかもしれない。
白瀬さんは、鷺沼の腰のあたりを押さえられる位置に立った。
僕は少し後ろで、足場を確認しながら見守る。
「もう少し右です」
白瀬さんが言う。
鷺沼が棒を動かす。
先端が枝に触れる。
油紙が揺れた。
雨粒が落ちる。
枝がしなる。
僕は息を止めた。
「焦らないでください」
白瀬さんの声。
「はい」
鷺沼の声。
棒の先が、油紙の端を引っかけた。
ゆっくりと手前へ引く。
だが、油紙は枝に絡まっている。
少し力を入れた瞬間、紙が破れそうになった。
「止めて」
白瀬さんが言う。
鷺沼はすぐに止めた。
「破れます」
「枝ごと引き寄せられますか」
「試します」
鷺沼は角度を変え、枝を手前へゆっくり引いた。
古い木が軋む。
ぎし。
嫌な音。
僕は崖下を見ないようにした。
見れば、足がすくむ。
霧の下には谷がある。
雨で増水した沢の音がする。
こんな場所で七年前、蓮司さんは踏みとどまったのだ。
譜面を守ろうとして。
名前を守ろうとして。
そして、その一部をここに落とした。
枝が少しだけ手前に寄った。
白瀬さんが、手袋をした手で油紙の端を掴む。
「取れました」
その瞬間、僕は大きく息を吐いた。
鷺沼が棒を下げる。
白瀬さんは油紙を慎重に広げず、まずそのまま濡れないように上着の内側へ入れた。
「館へ戻ります」
「中を見ないんですか」
僕が尋ねる。
「ここでは見ません」
「そうですね」
雨の中で開けば、七年前の証拠を壊してしまうかもしれない。
僕たちは館へ戻った。
玄関ホールに入った瞬間、暖かい空気に包まれた。
それでも体の芯は冷えている。
応接室へ戻ると、全員がこちらを見た。
久世さんは濡れたコートを脱ぎ、毛布をかけられていた。
玲司さんは立ち上がる。
「取れたんですか」
「はい」
白瀬さんは答えた。
鷺沼は静かに頭を下げた。
「七年前のものです」
その言葉に、応接室がまた沈黙した。
白瀬さんはテーブルの上に乾いた布を敷き、その上に油紙を置いた。
油紙は変色していた。
端は破れ、泥と雨の跡がある。
それでも、中心部はまだ形を保っている。
「開きます」
誰も止めなかった。
白瀬さんが、慎重に油紙を開く。
中から現れたのは、楽譜の断片だった。
五線。
音符。
かすれたインク。
そして、右下に小さく書かれた文字。
僕は身を乗り出した。
そこには、二つの名前があった。
雨宮蓮司。
篠原千鶴。
どちらも、消されていなかった。
篠原さんが、小さく声を漏らした。
「残っていた……」
その声は、恐怖にも、安堵にも聞こえた。
白瀬さんは、楽譜の断片を見つめていた。
「これは、消される前の第五楽章の一部です」
「つまり」
僕は言った。
「蓮司さんと篠原さんの名前が、最初からあった証拠」
「はい」
玲司さんは、目を閉じた。
「兄さんは、盗んでいなかった」
誰も否定しなかった。
「奪われないように、守ろうとしていた」
その言葉は、応接室に静かに落ちた。
七年前、崖に落ちた譜面。
七年間、誰にも拾われなかった名前。
雨に濡れ、霧に隠され、それでも消えなかった名前。
僕は、胸が詰まるのを感じた。
白瀬さんは言った。
「これで、七年前の嘘は崩れました」
「でも」
僕は顔を上げる。
「今夜の殺人は、まだです」
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「七年前の真相が明らかになったことと、今夜蓮司さんを殺した人物が分かったことは、同じではありません」
また、分ける。
過去の罪。
現在の殺人。
それらはつながっている。
けれど、同じではない。
「では、次は」
玲司さんが言った。
「今夜の犯人ですね」
白瀬さんは、静かに首を横に振った。
「その前に、確認すべき人がいます」
「誰ですか」
白瀬さんは、応接室の中を見渡した。
そして、一人の人物に視線を止めた。
紗英さんだった。
紗英さんは、びくりと肩を震わせた。
「私……?」
「はい」
白瀬さんは言った。
「紗英さん。あなたは、まだ一つ、大事なことを話していません」
応接室の空気が、また変わった。
玲司さんが紗英さんを見る。
「紗英?」
紗英さんの顔から、血の気が引いていく。
白瀬さんは、楽譜の断片から目を離さずに言った。
「一週間前に届いた蓮司さんからの手紙。あなたは捨てたと言いました」
「はい」
「本当に捨てたのですか」
紗英さんは答えなかった。
その沈黙で、僕にも分かってしまった。
まだ何かがある。
今夜の殺人に近い何かが。
七年前の名前が戻った今、次に問われるのは、今夜の沈黙だった。




