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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第四章 鍵盤が覚えている

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第9話 霧の中の逃亡者

 玄関扉の向こうには、雨と霧が渦巻いていた。


 夜の山は黒い。


 館の灯りが届く範囲を少しでも離れれば、そこから先はほとんど闇だった。


 それでも、確かに人影が見えた。


 長いコート。


 片足を少し引きずるような歩き方。


 その影は、館の正面からではなく、崖側へ向かっている。


 白瀬さんは迷わず玄関を出た。


「真柴さん、足元に気をつけてください」


「はい」


 僕はメモ帳を上着の内側へ押し込み、後を追った。


 雨が顔に叩きつけてくる。


 一瞬で髪も肩も濡れた。


 夜気は冷たく、息を吸うたびに胸の奥が痛む。


 玲司さんも続こうとしたが、紗英さんが玄関ホールから叫んだ。


「玲司さん!」


「すぐ戻る!」


「またそれ!」


 紗英さんの声が雨に消えた。


 それでも玲司さんは追ってきた。


 鷺沼もランプを持って玄関先に出る。


 だが、白瀬さんは手で制した。


「鷺沼さんは館内に戻ってください」


「しかし」


「中を空ける方が危険です」


 鷺沼は一瞬だけ迷った。


 それから深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 玄関扉が背後で閉まる音がした。


 僕たちは三人になった。


 白瀬さん。


 僕。


 玲司さん。


 霧の向こうに、人影はまだ見える。


 遠くない。


 しかし、足場は最悪だった。


 雨でぬかるんだ土。


 濡れた石段。


 崖側へ続く細い道。


 昼なら見えるはずの庭の輪郭も、今はほとんど分からない。


「待ってください!」


 玲司さんが叫んだ。


 人影は振り返らなかった。


 ただ、歩みが少しだけ速くなる。


 走るというより、逃げることに慣れていない人間が無理に急いでいるような歩き方だった。


「足を引きずっています」


 僕は息を切らしながら言った。


「はい」


 白瀬さんは前を見たまま答えた。


「怪我をしているか、靴が合っていないか、あるいは片足に癖がある」


「時計塔の人影と同じですか」


「その線はあります」


 時計塔の外部通路へ逃げた人影。


 長いコート。


 黒い手袋のようなもの。


 そして今、玄関から外へ逃げた人物。


 同じなのか。


 別人なのか。


 霧と雨が、すべてを曖昧にする。


 館の左手には、崖へ続く古い石畳の道があった。


 館へ着いた時にも見えていたが、霧雨館は崖の縁に建っている。


 崖の向こうは深い谷。


 雨で増水した沢の音が、下の方から聞こえる。


 こんな夜に近づく場所ではない。


 それでも、人影はその方へ向かっている。


「危ない!」


 玲司さんが叫んだ。


 人影の足が、濡れた石の上で滑った。


 体が大きく傾く。


 だが、何とか踏みとどまった。


 その瞬間、白瀬さんが強く言った。


「そこで止まってください!」


 人影が、初めて動きを止めた。


 霧の中。


 背中だけが見える。


 長いコートの裾が、雨に濡れて重たそうに揺れている。


「それ以上進めば、崖です」


 白瀬さんの声は、雨音に負けないほどはっきりしていた。


「戻ってください」


 人影は答えない。


「あなたは逃げ切れません」


 白瀬さんは続けた。


「この雨です。山道は崩れています。館から離れれば、命を落とします」


 人影の肩が、わずかに動いた。


 笑ったのか。


 泣いたのか。


 分からなかった。


 玲司さんが一歩前へ出る。


「誰なんですか」


 人影は、ゆっくりと振り返った。


 霧が薄く流れた。


 館の窓から漏れる光が、その顔を一瞬だけ照らす。


 僕は息を呑んだ。


 久世将臣だった。


 派手な美術商。


 いつもどこか人を値踏みするような目をしていた男。


 その久世さんが、濡れたコートをまとい、片足を少し引きずって立っていた。


 右手には、何かを握っている。


 黒い革手袋。


 いや、手袋をしているのではない。


 黒い布のようなものを、手に巻いている。


「久世さん……」


 玲司さんが呟いた。


「どうして」


 久世さんは、いつものように笑おうとした。


 だが、雨に濡れたその笑みは、ひどく歪んで見えた。


「少し、外の空気を吸いたくなりまして」


「この嵐の中で?」


 僕は思わず言った。


「悪趣味でしょう」


 久世さんは肩をすくめた。


「自覚はあります」


 白瀬さんは、久世さんの右手を見ていた。


「手に持っているものを見せてください」


「何も」


「その黒い布です」


 久世さんは、右手を後ろへ隠そうとした。


 しかし、その動きは遅かった。


 白瀬さんは一歩踏み出す。


「久世さん」


 声は静かだった。


「それは、時計塔で見た人影が身につけていたものですか」


 久世さんの笑みが消えた。


 玲司さんが身構える。


「時計塔の人影は、あなたなんですか」


 久世さんは答えなかった。


 雨が彼の髪から滴り落ちる。


 足元の泥には、彼の足跡が深く残っている。


 片方だけ深い。


 白瀬さんが言った通り、彼は片足を庇っている。


「久世さん」


 白瀬さんは続けた。


「あなたは、時計塔の外部通路を通って逃げた。ですがその時、足を痛めたのですね」


「推理というより、観察ですね」


 久世さんは低く言った。


「どちらでも構いません」


「ええ。確かに、足を滑らせました」


「時計塔にいたことを認めるのですね」


 久世さんは雨の向こうに目を向けた。


「認めざるを得ないでしょう」


 僕は急いでメモを取りたかった。


 けれど、雨の中では書けない。


 言葉だけを頭に刻む。


 久世は時計塔にいた。


 外部通路から逃げた。


 足を痛めた。


 黒い布を持っている。


「なぜ時計塔にいたのですか」


 白瀬さんが尋ねた。


「第五楽章を見に」


「すでに見つけた後ですか」


「いいえ」


 久世さんは首を横に振った。


「あなた方より前です」


「前?」


「私は、先生の鍵束が消えたと知った時点で、時計塔に何かがあると思いました。もちろん、正確な場所までは分かりませんでしたが」


「どうやって塔へ入りましたか」


「扉は開いていました」


「鍵は?」


「使っていません」


「嘘ですね」


 白瀬さんは即座に言った。


 久世さんは苦笑した。


「厳しい」


「時計塔の扉は、鷺沼さんが確認した時、正しい鍵で開けられた痕跡がありました。あなたが入ったなら、鍵を使ったはずです」


「では、鍵を拾ったことにしましょう」


「どこで」


「書斎の近くで」


「先生の鍵束を?」


「ええ」


「なぜ届けなかったのですか」


「好奇心です」


 その言葉に、玲司さんの顔が怒りで歪んだ。


「好奇心で、事件現場を荒らしたんですか」


「私は殺していません」


「誰もまだ殺したとは言っていない!」


 玲司さんの声が雨の中に響いた。


 久世さんは、少しだけ目を伏せた。


「失礼。今の私は、言い訳が下手なようです」


 白瀬さんは、久世さんから視線を外さなかった。


「あなたは時計塔で本物の第五楽章を探した」


「はい」


「見つけましたか」


「いいえ。私が見つけた時には、保管庫は空でした」


「本当ですか」


「本当です」


「では、時計塔で何を見たのですか」


 久世さんは、右手に握った黒い布を見た。


「これです」


 彼は、ゆっくりと右手を前へ出した。


 黒い布。


 手袋ではない。


 黒い薄手のスカーフのような布だった。


 そこには、油のような黒い汚れがついている。


 そして端に、金色の細い糸で刺繍があった。


 五線譜のような模様。


「これは、どこで?」


 白瀬さんが尋ねる。


「時計塔の外部通路に引っかかっていました」


「持ち去ったのですか」


「価値がありそうだったので」


 玲司さんが絶句した。


 僕も同じだった。


 この状況で、まだ価値と言えるのか。


 だが、白瀬さんはそこに反応しなかった。


「その布は、誰のものか分かりますか」


「女性物に見えます」


 久世さんは答えた。


「ただ、断定はできません。古い舞台衣装の一部かもしれない」


「舞台衣装?」


「宗一郎の記念演奏会の写真に、似た意匠の衣装がありました」


「あなたはそれを知っていた」


「ええ。来歴を調べていましたから」


 黒い布。


 五線譜の刺繍。


 時計油。


 女性物。


 僕の頭に、夜の廊下で見た人影が浮かぶ。


 女性らしい人影。


 二階から降りて音楽室へ向かった影。


 あれが、本当に女性だったのか。


 あるいは、黒い布やコートでそう見せられただけなのか。


「真柴さんが見た女性らしい人影」


 白瀬さんが言った。


「この布と関係しているかもしれません」


「僕が見た影が、これを身につけていた?」


「その線はあります」


「では、あの人影は久世さんだった?」


 玲司さんが言った。


 久世さんはすぐに首を振った。


「私は女性らしい影にはなれませんよ」


「長いコートを着れば、暗い廊下では分かりません」


 白瀬さんが言った。


 久世さんは黙った。


「久世さん。あなたは零時頃、どこにいましたか」


「自室です」


「その証言は変わりませんか」


「変わりません」


「証明できる人は?」


「いません」


「あなたは午後九時半に音楽室へ入り、紙ロールを見た。今、時計塔にいたことも認めた。先生の鍵束を拾ったと言いながら届けなかった」


「ええ」


「そして、黒い布を隠して館から出ようとした」


「出ようとしたのではありません」


「では?」


「捨てようとしたのです」


 雨音が強くなった。


 僕は耳を疑った。


「捨てる?」


 玲司さんが言った。


「なぜ」


 久世さんは、黒い布を見つめた。


「この布があると、誰かが疑われる」


「誰かとは」


「それは」


 久世さんは口を閉ざした。


 白瀬さんが一歩近づく。


「久世さん。あなたは誰を庇っていますか」


「庇っているわけではありません」


「では、なぜ捨てるのですか」


「私は」


 久世さんの声が、初めて揺れた。


「私は、第五楽章を商品として見ていました。ええ、それは認めます。来歴も、事件も、価値になると考えていた」


「はい」


「ですが、殺人の証拠を売り物にするほど、落ちてはいない」


 その言葉には、嘘とは言い切れない重さがあった。


 彼は利己的だ。


 だが、すべてを商品にするわけではない。


 少なくとも彼自身は、そう思っているのだろう。


「この布は、殺人の証拠ですか」


 白瀬さんが尋ねた。


「分かりません」


「なら、なぜそう思ったのですか」


「時計油がついていた。塔の外部通路に落ちていた。黒い布。女性物に見えた」


「誰かを連想した」


 久世さんは答えない。


「篠原さんですか」


 久世さんの目が、わずかに動いた。


 答えだった。


 玲司さんが叫ぶ。


「篠原さんを庇ったんですか」


「庇ったというより」


「証拠を隠そうとしたんでしょう!」


「違います」


「何が違う!」


「私は、篠原さんが犯人だとは思っていません」


 久世さんは、はっきりと言った。


 その声には、先ほどまでの軽さがなかった。


「では、なぜ」


「彼女が壊れそうに見えたからです」


 玲司さんが言葉を失う。


 白瀬さんは静かに言った。


「あなたらしくない理由ですね」


「私もそう思います」


 久世さんは苦笑した。


「ですが、見ていられなかった。名前を消され、それでも宗一郎を守ろうとし、今度は犯人にされかけている。あれでは、商品価値どころではない」


「だから、布を捨てようとした」


「はい」


「それが事件をさらに歪めるとは考えませんでしたか」


「考えました」


「それでも」


「ええ」


 白瀬さんは、しばらく久世さんを見ていた。


「久世さん。あなたは殺人犯ではないかもしれません」


「ありがたいですね」


「ですが、証拠隠滅をしようとしました」


「否定しません」


「その黒い布を渡してください」


 久世さんは抵抗しなかった。


 白瀬さんに黒い布を差し出す。


 白瀬さんは直接触れず、手袋越しに受け取った。


「真柴さん」


「はい」


「戻ったら記録してください。久世さんは時計塔の外部通路で黒い布を拾い、篠原さんを連想したため捨てようとした。時計塔にいたことを認めた。ただし、殺害は否認」


「分かりました」


 僕は頭の中で何度も繰り返した。


 雨の中で書けないぶん、忘れないように。


 久世さんは、崖の方を一度だけ見た。


「私は戻ればいいですか」


「はい」


「逃げないと約束します」


「すでに一度逃げています」


「では、今度は逃げないと約束します」


 白瀬さんは、玲司さんを見た。


「玲司さん、久世さんと一緒に戻ってください」


「白瀬さんは?」


「少し、崖側を見ます」


「危険です」


「近づきすぎません」


 久世さんが低く言った。


「崖側には行かない方がいい」


「何か見たのですか」


「外部通路から逃げた時、下の方に何かが引っかかっていました」


「何か?」


「白いものです。紙か、布か」


 白瀬さんの表情が変わった。


「場所は」


「時計塔の外壁の下、崖の木に」


「第五楽章の一部かもしれません」


 僕は言った。


 資料庫で紙片が見つかった。


 本物の第五楽章は持ち出され、篠原さんが握っていた。


 だが、途中で破れた可能性がある。


 もし一部が崖側に落ちているなら。


 それは、消された名前や七年前の証拠の一部かもしれない。


「確認します」


 白瀬さんは言った。


「真柴さんは」


「行きます」


 自分でも驚くほど、すぐに答えていた。


 怖い。


 雨も霧も崖も怖い。


 でも、ここで引き返せなかった。


 僕は、もう単なる観客ではいたくなかった。


 久世さんと玲司さんを館へ戻し、僕と白瀬さんは崖側へ向かった。


 道はさらに悪くなった。


 ぬかるみ。


 濡れた草。


 石の縁。


 少しでも足を滑らせれば、下へ落ちる。


 白瀬さんは慎重に進んだ。


 僕もその後を追う。


 やがて、時計塔の外壁が見える場所へ出た。


 塔の下は、急な斜面になっている。


 そこに、一本の古い木が崖から突き出すように生えていた。


 その枝に、確かに白いものが引っかかっている。


 紙だ。


 雨に濡れている。


 破れかけている。


「取れますか」


 僕が言うと、白瀬さんは首を横に振った。


「無理に手を伸ばせば落ちます」


「でも」


「方法を考えます」


 その時、背後で足音がした。


 僕は振り返った。


 霧の中から、人影が現れた。


 今度は逃げる影ではない。


 静かに、こちらへ近づいてくる影。


 鷺沼だった。


 黒い傘を差し、片手に長い火かき棒のようなものを持っている。


「危険です」


 鷺沼は言った。


「お戻りください」


「鷺沼さん」


 白瀬さんは彼を見た。


「なぜここが分かったのですか」


「久世様から伺いました」


「早いですね」


「崖側は危険ですので」


 鷺沼は、火かき棒のような道具を差し出した。


「これを使えば、紙を引き寄せられるかもしれません」


 白瀬さんは、それを受け取らなかった。


「用意が良すぎますね」


 雨音が、一瞬だけ遠くなった気がした。


 鷺沼は、静かに立っている。


 黒い傘。


 黒い手袋。


 長い金属の棒。


 崖に引っかかった白い紙。


 白瀬さんは、彼から目を離さなかった。


「鷺沼さん」


「はい」


「あなたは、崖に何が落ちているか知っていましたか」


 鷺沼は、少しだけ沈黙した。


 それから、深く頭を下げた。


「知っておりました」


 僕は息を呑んだ。


「いつからですか」


 白瀬さんが尋ねる。


「七年前からでございます」


 その言葉は、雨より冷たく僕の背筋を滑り落ちた。


 崖の枝に引っかかった紙。


 七年前から。


 鷺沼は、知っていた。


 霧雨館の崖下には、まだ七年前の証拠が残っている。


 今、本当に閉じられていた過去の扉が、ようやく開こうとしていた。

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