第8話 十一時十七分
十一時十七分。
その時刻を書いたメモ帳のページから、僕は目を離せなかった。
これまで、霧雨館の時間はすべて十一時二十分に向かっていた。
時計塔。
音楽室の懐中時計。
蓮司さんの手に握られていた割れた懐中時計。
宗一郎の日記。
蓮司への手紙。
七年前の失踪。
今夜の事件。
あらゆるものが、十一時二十分という時刻を指していた。
けれど、時計塔で見つかった宗一郎の懐中時計は違った。
十一時十七分。
たった三分前。
だが、その三分は、霧雨館の中で隠され続けてきた時間のように思えた。
僕たちは時計塔を降り、応接室へ戻った。
全員が、こちらを見た。
紗英さんは玲司さんの顔色を確認するように立ち上がる。
久世さんはソファに座ったまま、僕たちの手元を見ていた。
奏太さんは腕時計を握りしめている。
篠原さんは長椅子に戻され、今は美和さんに支えられている。
静乃さんだけが、まるで僕たちが何を持ち帰ったのか分かっているように、薄く目を細めていた。
「時計塔で、宗一郎さんのものと思われる懐中時計を見つけました」
白瀬さんが言った。
「音楽室のケースから消えた時計ですか」
久世さんが尋ねる。
「そう見ていいでしょう」
「針は?」
静乃さんが言った。
白瀬さんは、彼女を見た。
その反応は早すぎた。
静乃さんは、時計そのものよりも時刻を気にしていた。
「十一時十七分で止まっていました」
応接室の空気が止まった。
玲司さんが、低く呟く。
「十一時二十分じゃない」
「はい」
「伯父の時計は、十一時十七分だった」
「時計塔で見つかったものは、そうです」
静乃さんが、小さく笑った。
その笑いは楽しそうではなかった。
長い間閉じていた箱が、ようやく開いてしまった時のような笑いだった。
「やっぱり」
「静乃さん」
白瀬さんが静かに呼んだ。
「あなたは、十一時十七分を知っていましたね」
静乃さんは、杖の上に重ねた手を少しだけ動かした。
「知っていた、というより、覚えていたわ」
「七年前の時刻ですか」
「ええ」
「十一時二十分ではなく」
「本当は、十一時十七分だった」
玲司さんが一歩前へ出た。
「叔母様」
「玲司」
静乃さんは、彼の名前を呼んだ。
その声には、珍しく柔らかさがあった。
「あなたは、何も知らされなかったのね」
「それはもう聞き飽きました」
玲司さんの声は震えていた。
「なぜです。なぜ皆、僕に何も言わなかったんですか」
「宗一郎さんが、そう望んだからよ」
「伯父が望めば、皆黙るんですか」
「ええ」
静乃さんは、静かに答えた。
「この館では、そうだった」
その言葉に、誰も反論しなかった。
宗一郎はすでに死んでいる。
けれど、彼の意思はまだ館を支配している。
止まった時計塔のように。
消された名前のように。
録音された悲鳴のように。
死んだ後もなお、残された人々を縛り続けている。
「七年前の十一時十七分に、何があったのですか」
白瀬さんが尋ねた。
静乃さんは、すぐには答えなかった。
暖炉の火が、小さく音を立てる。
ぱちり。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
「低いラが鳴ったの」
静乃さんは言った。
「七年前の夜ですか」
「ええ。嵐の夜だったわ。雨も雷もひどくて、館全体が揺れているようだった」
「その中で、低いラを聞いた」
「聞いたわ」
「それが十一時十七分?」
「私の時計ではね」
僕はメモ帳を開いた。
静乃証言。
七年前の嵐の夜。
十一時十七分頃、低いラを聞いた。
「その後、何がありましたか」
白瀬さんが続ける。
「金属音」
静乃さんは、目を閉じた。
「細い金属の音。今夜聞いたものと似ていた」
「そして?」
「短い悲鳴」
僕は息を止めた。
七年前も、同じ順番だった。
低いラ。
金属音。
短い悲鳴。
今夜、僕が聞いた音と同じ。
いや、僕が聞かされた音は、七年前の音そのものだったのかもしれない。
「悲鳴は誰の声でしたか」
白瀬さんが尋ねた。
静乃さんは目を開けた。
「分からなかったわ」
「男性か女性かも?」
「ええ。短すぎた」
真柴が聞いた悲鳴と同じ。
短すぎて、男か女かも分からない悲鳴。
僕はメモを書きながら、背中に冷たい汗を感じた。
七年前も、誰かが同じように音を聞いた。
そして、きっと同じように誤解した。
「その音の後、あなたはどうしましたか」
「音楽室へ向かったわ」
「一人で?」
「いいえ」
静乃さんは、鷺沼を見た。
全員の視線が鷺沼へ向く。
鷺沼は、扉のそばで姿勢を正したまま、動かなかった。
「鷺沼さんと一緒に?」
白瀬さんが確認する。
「ええ」
鷺沼は静かに頭を下げた。
「その通りでございます」
玲司さんが鷺沼を見た。
「鷺沼」
「申し訳ございません」
「なぜ今まで」
「旦那様のご命令でした」
「また伯父か」
玲司さんの声に、怒りが混じった。
「伯父が命じれば、七年間黙っているんですか」
「はい」
鷺沼は答えた。
その一言は、重かった。
「私は、雨宮家の使用人でございます」
「だから?」
「旦那様の秘密を守ることも、務めの一つでございました」
「兄が死んでも?」
鷺沼はすぐには答えなかった。
その沈黙は、初めて彼の中にある揺れを見せたように思えた。
「蓮司様が今夜亡くなられたことで」
鷺沼は静かに言った。
「守るべき秘密が、変わったのかもしれません」
白瀬さんは、鷺沼を見つめた。
「では、話してください。七年前、音楽室で何を見たのですか」
鷺沼は、黒い手袋の指を一度だけ動かした。
「静乃様と私が音楽室へ向かった時、扉は開いておりました」
「開いていた?」
僕は思わず聞き返した。
「七年前は、開いていたのですか」
「はい」
「今夜のように閉ざされていたわけではない」
「違います」
僕はメモする。
七年前、音楽室の扉は開いていた。
今夜のような密室ではない。
「中にいた人物は?」
白瀬さんが尋ねる。
「旦那様。蓮司様。篠原様」
篠原さんの肩が、小さく震えた。
意識が完全に戻っているわけではない。
それでも、自分の名前に反応したのだろう。
「三人とも生きていましたか」
「はい」
「悲鳴の後なのに?」
「はい」
「では、悲鳴は誰かが死んだ声ではなかった」
「少なくとも、その時点では」
僕はメモする。
七年前、低いラ、金属音、悲鳴の後も、宗一郎、蓮司、篠原は音楽室にいた。
三人とも生存。
悲鳴は死亡の証拠ではない。
今夜と同じだ。
悲鳴が聞こえたからといって、その時に人が死んだとは限らない。
白瀬さんは言った。
「七年前、音楽室で何が起きていましたか」
鷺沼は答えた。
「譜面が破られておりました」
「第五楽章ですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「その時、私は表紙までは見ておりません。ただ、旦那様が『第五楽章は存在しない』とおっしゃっていたのを覚えております」
篠原さんが、掠れた声で言った。
「先生が、破ったんです」
全員が彼女を見た。
篠原さんは美和さんに支えられながら、ゆっくりと体を起こした。
顔色は悪い。
だが、その目には、さっきまでになかった明確な意識が戻っていた。
「先生が、蓮司さんの前で楽譜を破りました」
「なぜですか」
白瀬さんが尋ねる。
「蓮司さんが、名前を戻すと言ったからです」
「自分の名前と、あなたの名前を?」
「はい」
「宗一郎さんは、それを許さなかった」
「先生は言いました。雨宮宗一郎の最後の曲に、無名の弟子と秘書の名前など残せない、と」
奏太さんが顔を歪めた。
無名の弟子。
秘書。
その言葉は、作曲家を志す彼にも刺さったのだろう。
「それで、何が起きたのですか」
白瀬さんの問いに、篠原さんはしばらく黙った。
だが、今度は逃げなかった。
「蓮司さんが、先生から楽譜を取り返そうとしました。先生は拒んだ。二人が揉み合いになって、机の上の懐中時計が落ちました」
「宗一郎さんの時計ですか」
「はい」
「その時計が、十一時十七分で止まった」
篠原さんは頷いた。
「落ちた衝撃で止まったんです」
僕は息を呑んだ。
十一時十七分。
それは、時計塔が止まった時刻ではない。
宗一郎の懐中時計が、揉み合いの中で床に落ちて止まった時刻だった。
「では、十一時二十分は?」
玲司さんが言った。
「伯父が作った時刻ですか」
篠原さんは答えられなかった。
代わりに、鷺沼が静かに言った。
「旦那様は、その後で時計塔を止めました」
応接室が静まり返った。
「その後?」
僕は聞き返した。
「はい」
「落雷ではなく?」
「落雷もございました。しかし、時計塔そのものは、旦那様が止めました」
「なぜ」
「十一時二十分に」
鷺沼の声は低かった。
「七年前の出来事を、十一時二十分に閉じ込めるためです」
僕は、メモを書く手が止まった。
十一時二十分は、本当の時刻ではなかった。
事件を閉じ込めるために作られた時刻。
宗一郎が、自分の物語に都合よく定めた時刻。
「旦那様は、三分後に時計塔を止めました」
鷺沼は続けた。
「十一時二十分。以後、この館ではその時刻が七年前の時刻として扱われました」
「では、本当の始まりは十一時十七分」
白瀬さんが言った。
「はい」
「低いラが鳴り、揉み合いが起き、宗一郎さんの懐中時計が落ちた」
「その通りでございます」
「そして、宗一郎さんは時計塔を十一時二十分で止めた」
「はい」
玲司さんは、青ざめた顔で鷺沼を見ていた。
「伯父は、なぜそんなことを」
「蓮司様を、悪者にするためです」
篠原さんが言った。
その声は、震えていた。
「第五楽章を盗み、十一時二十分に逃げた。先生は、そういう話を作ったんです」
「でも、兄は逃げたんですよね」
玲司さんが言った。
篠原さんは、ゆっくり首を横に振った。
「逃げたのではありません」
「では」
「追い出されたんです」
その言葉に、玲司さんは固まった。
「追い出された?」
「先生は、蓮司さんに言いました。お前の名前では誰も聴かない。雨宮宗一郎の名でなければ、この曲は残らない。そう言って」
「兄は」
「出て行けと言われました」
篠原さんの声は、少しずつ掠れていった。
「そして、蓮司さんは出ていった。第五楽章の一部を持って。自分の名前と、私の名前を取り戻すために」
「でも、伯父は兄が盗んだと言った」
「はい」
「篠原さんも、そう言った」
篠原さんは、目を伏せた。
「私は、何も言えませんでした」
「なぜ」
「先生に、言われたからです」
「何を」
「私の名前を出せば、蓮司さんは二度と戻れなくなると」
白瀬さんが静かに尋ねた。
「どういう意味ですか」
「先生は、第五楽章を不正に持ち出したのは蓮司さん一人だと公表するつもりでした。でも、私の名前が出れば、私も共犯になる。写譜、清書、保管、全部に関わっていたから」
「あなたを守ると言った」
「はい」
「実際には、口封じですね」
篠原さんは答えなかった。
それが答えだった。
僕はメモした。
七年前、宗一郎は十一時十七分の出来事を、十一時二十分に書き換えた。
蓮司は盗んで逃げたのではなく、追い出された。
篠原は自分の名前と蓮司を守るために沈黙した。
宗一郎はその沈黙を利用した。
書きながら、胸が重くなった。
七年前の真相は、殺人ではなかったのかもしれない。
けれど、それは人を殺さない罪ではなかった。
名前を奪い、時間を書き換え、人を追い出し、沈黙させる。
それもまた、別の形の殺人のように思えた。
「では、今夜の殺人は」
久世さんが言った。
声はいつもより低かった。
「七年前の再現ではなく、七年前の訂正ということですか」
「訂正?」
玲司さんが久世さんを見る。
「十一時二十分という嘘を壊し、本当の時刻を戻す」
久世さんは、少しだけ笑った。
「物語としては、そう見えます」
「人が死んでいるんですよ」
「分かっています」
久世さんの声には、珍しく軽さがなかった。
「だからこそ、誰かは本気で物語を作り直そうとしている」
白瀬さんは頷かなかった。
否定もしなかった。
「白瀬さん」
僕は言った。
「今夜、宗一郎さんの時計が十一時十七分で見つかったのは、七年前の本当の時刻を示すためですか」
「可能性が高いです」
「では、それを戻そうとした人物は、七年前の嘘を暴こうとしている」
「そう見えます」
「でも、蓮司さんを殺した人物も同じなんでしょうか」
白瀬さんは、僕を見た。
「そこを分けて考える必要があります」
また、分ける。
殺した人物。
事件を演奏した人物。
七年前の真相を暴こうとした人物。
時計を戻した人物。
それらは同じとは限らない。
「今夜の殺人犯は、七年前の真相を利用した可能性があります」
白瀬さんは言った。
「利用した」
「はい」
「七年前の嘘を暴くふりをして、蓮司さんを殺した?」
「あるいは、蓮司さんを殺した後で、七年前の真相を暴こうとした誰かが現場をさらに動かした」
僕は頭が混乱しそうになった。
だが、白瀬さんの言葉を必死に書き留めた。
今夜の事件には、少なくとも二つの流れがある。
一つ、蓮司殺害。
二つ、七年前の真相の暴露または訂正。
同一人物とは限らない。
「篠原さん」
白瀬さんが向き直る。
「あなたは十一時半頃、音楽室へ行ったと言いました」
「はい」
「そこで何を見たのですか」
応接室の空気が、また張り詰めた。
篠原さんは、ゆっくりと息を吸った。
「蓮司さんがいました」
玲司さんの顔が強張る。
「生きていましたか」
「はい」
白瀬さんの目が鋭くなる。
「十一時半頃、蓮司さんは生きていた」
「はい」
「音楽室で?」
「はい」
「他に誰かいましたか」
篠原さんは、すぐには答えなかった。
その沈黙に、全員が息を詰める。
「いました」
「誰ですか」
篠原さんの唇が震えた。
「分かりません」
「分からない?」
「背中しか見えませんでした」
僕は静乃さんの証言を思い出した。
十一時半頃、男の背中を見た。
玲司か、蓮司か分からない。
また、背中。
「男性ですか」
「たぶん」
「何をしていましたか」
「蓮司さんと話していました」
「声は聞こえましたか」
「雨と、機械の音で、はっきりとは」
「その人物は、蓮司さんを刺しましたか」
「見ていません」
「では、あなたは何を見たのですか」
篠原さんは、目を閉じた。
「蓮司さんが、ピアノの中を見ていました」
「ピアノの中?」
「はい」
「グランドピアノの?」
「はい」
「凶器が隠されていた場所です」
篠原さんは、小さく頷いた。
「蓮司さんは、言いました。ここにまだ残っている、と」
「何が?」
「先生が隠した音です」
先生が隠した音。
それは録音機のことか。
低いラの仕掛けか。
それとも、別の何かか。
「その後、あなたは?」
「怖くなって、部屋を出ました」
「蓮司さんを残して?」
「はい」
「その時、蓮司さんは生きていた」
「はい」
「時刻は?」
「十一時半頃です」
僕はメモした。
篠原証言。
十一時半頃、音楽室で蓮司を見た。
蓮司は生存。
背中しか見えない男性らしき人物がいた。
蓮司はグランドピアノ内部を見ていた。
「ここにまだ残っている」と言った。
篠原は怖くなって退室。
この証言が正しければ、蓮司さんは十一時半頃には生きていた。
そして、音楽室にはもう一人いた。
誰かは分からない。
「静乃さん」
白瀬さんが呼んだ。
「あなたが十一時半頃に見た男の背中は、音楽室から離れる方向でしたね」
「ええ」
「篠原さんが見た人物と、同じ可能性があります」
「あるでしょうね」
「その人物は、玲司さんか蓮司さんか分からなかった」
「ええ」
「でも、篠原さんの証言では、蓮司さんは音楽室の中にいた」
「なら、私が見たのは蓮司ではないのかもしれないわね」
玲司さんの顔色が変わった。
「僕でもありません」
「あなたはそう言うでしょう」
「叔母様」
「でも、私には分からなかった。それが証言よ」
白瀬さんは頷いた。
「その通りです」
僕は書いた。
静乃の男の背中。
篠原が見た男性らしき人物と同一の可能性。
蓮司が音楽室にいたなら、静乃が見た男は蓮司ではない可能性。
玲司は否定。
正体不明。
十一時十七分。
十一時半。
零時。
時刻が少しずつ整理されていく。
だが、肝心の殺害時刻はまだ見えない。
「篠原さん」
白瀬さんが最後に尋ねた。
「あなたは蓮司さんを殺していませんね」
篠原さんは、顔を上げた。
その目に、涙が溜まっていた。
「殺していません」
「凶器に心当たりは?」
「あります」
応接室がまた静まり返った。
「調律道具ですか」
「はい」
「誰のものですか」
篠原さんは、震える声で答えた。
「蓮司さんのものです」
玲司さんが息を呑んだ。
「兄の」
「七年前、先生が取り上げたものです。蓮司さんは、自分の音を調整するために、よくあの道具を使っていました」
「それがピアノの中に残っていた」
「はい」
「七年前から?」
「おそらく」
白瀬さんは、静かに言った。
「では、今夜の凶器は、七年前から音楽室のピアノ内部にあった蓮司さんの調律道具」
「はい」
「それを誰かが取り出し、蓮司さんを刺し、またピアノ内部に戻した」
篠原さんは、目を閉じた。
「たぶん」
僕はペンを握る手に力を込めた。
凶器は、七年前から音楽室にあった。
蓮司さん自身の調律道具。
今夜、それが蓮司さんを殺すために使われた。
あまりにも皮肉だった。
自分の音を調整するための道具で、自分の命を奪われた。
白瀬さんは言った。
「これで、殺害犯は限られます」
「どういうことですか」
僕が尋ねる。
「七年前にその道具がピアノ内部にあることを知っていた人物。または、今夜蓮司さんからその場所を聞いた人物」
「篠原さん」
「はい」
「蓮司さん」
「被害者です」
「宗一郎さん」
「すでに故人」
「鷺沼さん」
僕は言いながら、鷺沼を見た。
彼は動かなかった。
「そして、十一時半頃に音楽室にいた正体不明の人物」
白瀬さんが言った。
その人物こそが、蓮司さんを殺したのか。
あるいは、その人物もまた別の役割を持っているのか。
まだ分からない。
ただ、事件は少しずつ絞られている。
十一時十七分の嘘。
十一時半の目撃。
零時に鳴らされた録音。
そして、十一時二十分という演出。
ばらばらに置かれていた時刻が、ようやく本来の順番へ戻ろうとしていた。
その時、玄関ホールの方で、強い風の音がした。
扉が開いたような音。
鷺沼が顔を上げる。
「玄関です」
「誰かが外へ?」
玲司さんが言った。
白瀬さんは即座に立ち上がった。
「確認します」
僕たちは応接室を飛び出した。
玄関ホールへ向かうと、正面扉がわずかに開いていた。
雨風が吹き込んでいる。
床には、濡れた足跡。
外へ向かう足跡だった。
白瀬さんが、低く言った。
「誰かが館を出ました」
「この嵐の中を?」
僕は叫ぶように言った。
「はい」
「誰が」
白瀬さんは、床の足跡を見た。
泥と雨で形は崩れている。
だが、片方の足跡だけ、少し深かった。
「足を引きずっています」
その言葉に、僕は背筋が冷たくなった。
篠原さんではない。
彼女は応接室にいる。
では、誰が。
白瀬さんは、開いた扉の向こうを見た。
霧と雨の中。
かすかに、人影が見えた。
長いコート。
片足を少し引きずる歩き方。
その人物は、時計塔の外部通路へ逃げた人影と同じように、霧の中へ消えようとしていた。
「待ってください!」
僕は叫んだ。
人影は振り返らない。
白瀬さんが、低く言った。
「逃げる先は、おそらく崖側です」
「追いますか」
「追います」
彼女は、濡れた玄関へ一歩踏み出した。
「ただし、今度は逃がしません」




