第7話 時計塔の低いラ
時計塔への扉が開いた。
冷たい空気が、階段の奥から流れ出してくる。
湿った石の匂い。
古い油の匂い。
錆びた金属の匂い。
さっきまで何度も嗅いだはずなのに、今は少し違って感じられた。
前にこの塔へ上がった時、僕たちは本物の第五楽章を見つけた。
先生の鍵束。
黒い糸。
音響管。
正体不明の人影。
そして、時計塔の保管庫。
けれど、まだ見ていないものがあった。
時計塔から鳴った低いラ。
音楽室ではなく、塔の上から聞こえた低いラ。
それは、この事件の音が、想像以上に広い範囲で仕掛けられていることを示していた。
「行きます」
白瀬さんが言った。
先頭は鷺沼。
ランプを持ち、狭い石段を上がっていく。
その後に白瀬さん。
僕。
最後に玲司さん。
階段は相変わらず急だった。
足元を見ていないと、すぐに踏み外しそうになる。
石壁には水気があり、手をつくと冷たい。
上へ進むほど、玄関ホールの明かりは遠ざかり、ランプの光だけが頼りになった。
そして、耳の奥では、さっきの音がまだ鳴っている。
かちり。
ちん。
ぽん。
歯車。
金属。
低いラ。
三つの音が、今度ははっきりと時計塔から聞こえた。
音楽室の前で聞いた時よりも、順番が見えた気がした。
何かが動く。
何かが弾ける。
そして、低いラが鳴る。
「白瀬さん」
僕は階段を上がりながら言った。
「今の低いラは、ピアノじゃないですよね」
「そうですね」
「でも、低いラに聞こえました」
「音叉か、金属板か、共鳴管かもしれません」
「時計塔にそんなものが?」
「時計には鐘があります。鐘でなくても、特定の高さの音を鳴らす金属片を仕込むことはできます」
「つまり、ピアノの低いラと同じ高さの音を、時計塔でも鳴らせる」
「はい」
僕は息を呑んだ。
低いラは、ピアノだけの音ではなかった。
グランドピアノの鍵盤。
時計塔の金属片。
録音。
仕掛け。
同じ音を、違う場所で鳴らせる。
だから人は、音の場所を間違える。
「同じ低いラに聞こえれば、聞いた人は音楽室を思い浮かべます」
白瀬さんが言った。
「最初に音楽室で低いラを聞かされていたから」
「ええ」
「犯人は、僕たちに低いラを覚えさせた?」
「その線はあります」
「最初から?」
「少なくとも、低いラという音がこの事件の合図として機能することを、誰かが知っていた」
最初に音楽室へ入った時。
白瀬さんがグランドピアノで低いラを鳴らした。
その直後に金属音がした。
あの時点で、僕たちは低いラと金属音の組み合わせを覚えた。
そして夜。
同じ音の順番を聞かされ、僕は音楽室へ導かれた。
もし、それが最初から計算されていたなら。
僕たちは、この館に入った時からすでに演奏の中にいたことになる。
階段の上にある木扉が見えてきた。
時計塔の機械室へ続く扉。
前回は開いていた。
今回は閉まっている。
鷺沼が扉の前で足を止めた。
「鍵がかかっております」
「鍵は?」
「こちらに」
鷺沼が鍵を差し込む。
かちゃり。
錠が外れる。
扉を開けると、機械室の空気が流れ出した。
巨大な歯車。
太い鎖。
吊り下がった重り。
止まったままの針の裏側。
雨と霧の白い光が、文字盤の隙間から差し込んでいる。
前回見た時と同じ光景。
だが、音がした。
かち。
ごく小さく、何かが動く音。
時計全体が動いているわけではない。
大きな歯車も、針も止まっている。
けれど、機械室の一部だけが、まだ生きているようだった。
「今の音」
玲司さんが呟いた。
「止まっているはずなのに」
「時計全体は止まっていても、別の仕掛けは動かせます」
白瀬さんは、ランプを掲げた。
「真柴さん、足元を見てください」
「はい」
床には、前回見た擦れ跡が残っていた。
音響管の根元。
小さな金属輪。
切れた鎖片を拾った場所。
そこから、さらに奥へ、別の細い線が伸びていた。
糸だ。
黒い糸。
音楽室の低いラに結ばれていたものと、よく似ている。
「また黒い糸」
僕は書きながら言った。
「はい」
白瀬さんは糸を目で追った。
その先は、時計塔の歯車ではなく、壁際に取りつけられた小さな装置へ伸びていた。
木製の台。
その上に、細長い金属板が固定されている。
金属板の下には、小さなハンマーのような部品。
さらにその下に、重りと糸。
「これは」
僕は息を止めた。
「音を鳴らす装置です」
白瀬さんが言った。
「金属板を叩いて、低いラを鳴らすための」
「ピアノじゃない低いラ」
「ええ」
僕はメモした。
時計塔機械室。
壁際に金属板と小さなハンマー。
黒い糸と重りが接続。
低いラを鳴らす装置の可能性。
玲司さんが苦しそうに言った。
「伯父が、こんなものを」
「宗一郎さんが作ったとは限りません」
白瀬さんは答えた。
「でも、この塔は伯父しか」
「七年前からあった装置なら、宗一郎さんの可能性はあります。今夜新たに動かした人物は別かもしれません」
「また、別の人物」
「はい」
白瀬さんは、装置の金属板を触らずに観察した。
「金属板に、打痕があります。最近も使われています」
「今、鳴ったのがこれですか」
「おそらく」
「なぜ、時計塔で低いラを鳴らす必要があるんですか」
白瀬さんは、音響管を見た。
「この音を、音楽室へ届けるためです」
「音響管で?」
「はい」
「でも、さっき僕たちは時計塔から聞きました」
「今は近くにいたからです。離れた場所にいる人には、音響管を通って別の方向から聞こえることがあります」
音が、通路を移動する。
音楽室で鳴ったように聞こえる。
時計塔で鳴った音が、音楽室へ届く。
その逆もあり得る。
この館では、音が廊下よりも秘密の近道を通っている。
「つまり」
僕は言った。
「事件の時、僕が音楽室の扉の前で聞いた低いラも、時計塔から来ていたかもしれない」
「その線はあります」
「でも、音楽室にも低いラを鳴らす仕掛けがありました」
「はい」
「どちらが鳴ったのか分からない」
「だから、低いラを一つの出来事として扱ってはいけません」
白瀬さんは、金属板の下を見た。
「この装置は、まだ完全には作動しきっていません」
「どういうことですか」
「重りが途中で止まっています。誰かが、もう一度鳴るように調整した可能性があります」
「また鳴る?」
「放っておけば」
その言葉が終わる前に、装置の中で小さな音がした。
かちり。
重りがわずかに落ちる。
糸が引かれる。
小さなハンマーが動く。
白瀬さんが言った。
「耳を塞いでください」
次の瞬間。
ぽん。
低いラが鳴った。
近くで聞くと、ピアノとは違った。
金属板が鳴っているためか、音の芯が硬い。
けれど、離れて聞けば、音楽室の低音と間違えるかもしれない。
とくに、この館の廊下や壁を通れば。
玲司さんは青ざめていた。
「こんなものが、塔に」
「はい」
「兄は、この音を聞いて音楽室へ向かったんでしょうか」
「七年前は、その線があります」
「今夜は?」
「今夜も、同じ合図として使われたと考えられます」
僕はメモを書いた。
時計塔の低いラ装置が作動。
金属板をハンマーで叩く仕組み。
近くではピアノと違うが、遠くでは低いラに聞こえる可能性。
音響管で音楽室方面へ届く可能性。
七年前からの合図かもしれない。
「この装置を動かしたのは誰ですか」
玲司さんが言った。
「今夜、塔に入った人物です」
白瀬さんは答えた。
「鍵束を持ち出した人物」
「または、別の鍵を持っていた人物」
「篠原さん?」
「篠原さんは、さきほど資料準備室にいました。意識も不安定です。この装置を今作動させたとは考えにくい」
「では、誰が」
その問いに、白瀬さんは答えなかった。
彼女は装置の周囲をさらに見ている。
「ここに、時計が置かれていた跡があります」
「時計?」
僕は覗き込んだ。
木製の台の横。
埃の中に、丸い跡があった。
懐中時計くらいの大きさ。
そこだけ埃が薄く、最近まで何かが置かれていたように見える。
「ここに、宗一郎さんの懐中時計が戻された?」
僕が言うと、白瀬さんは頷いた。
「その線があります」
「でも今はない」
「はい」
「誰かが置いて、また持ち去った?」
「または、まだどこかに落ちている」
白瀬さんは床を見た。
僕もランプの光を借りて探す。
歯車の影。
木箱の隙間。
床板の間。
そして、機械室の奥、文字盤の裏へ続く細い足場の下。
そこに、銀色のものが見えた。
「あれ」
僕は指差した。
白瀬さんがランプを向ける。
銀の懐中時計だった。
蓋は閉じている。
鎖は、ない。
ただ、蓋の表面に、雨宮家の紋章と、五線譜のような模様が彫られている。
「宗一郎さんの時計ですか」
玲司さんが呟いた。
鷺沼が近づき、目を細めた。
「おそらく、そうです」
「戻されていた」
僕は言った。
「けれど、落ちている」
白瀬さんは、時計の周囲を見た。
「置いた後、何かの拍子に落ちたようです」
「誰かが慌てた?」
「その可能性はあります」
白瀬さんは手袋をつけ直し、慎重に懐中時計を拾った。
蓋を開ける前に、僕を見る。
「記録を」
「はい」
僕はペンを構えた。
時計塔機械室。
低いラ装置付近。
宗一郎のものと思われる銀の懐中時計を発見。
鎖なし。
木製台の近くに置かれていた跡あり。
その後、落ちた可能性。
「開けます」
白瀬さんが蓋を開けた。
文字盤が見える。
針は、十一時二十分ではなかった。
十一時十七分。
僕は一瞬、意味が分からなかった。
「十一時二十分じゃない」
玲司さんが呟いた。
白瀬さんは、じっと文字盤を見ていた。
「十一時十七分です」
「止まっているんですか」
「はい」
「なぜ」
誰も答えられなかった。
この館で、時計は十一時二十分を指すものだと思っていた。
時計塔も。
音楽室の懐中時計も。
蓮司さんの手の割れた懐中時計も。
すべてが十一時二十分を示していた。
けれど、宗一郎の時計は十一時十七分で止まっている。
三分違う。
たった三分。
だが、この事件では、その三分があまりにも重かった。
「白瀬さん」
僕は言った。
「十一時十七分って」
「見せたくなかった時刻かもしれません」
「見せたくなかった時刻?」
「はい」
白瀬さんは時計を見つめたまま言った。
「誰かが十一時二十分を見せようとしているなら、その直前の十一時十七分は、隠したい時刻の可能性があります」
「三分前に、何かが起きた」
「そう考えるべきです」
十一時十七分。
僕はメモ帳に大きく書いた。
今までのすべてが、十一時二十分へ向かっていた。
だが、ここで初めて別の時刻が出てきた。
宗一郎の時計だけが、十一時十七分を示している。
誰かが見せたい時刻ではなく、誰かが隠したかった時刻。
「篠原さんは、あの時計を戻してはだめと言いました」
白瀬さんが言った。
「なぜなら、戻せば十一時十七分が見つかるから」
「十一時二十分ではなく」
「はい」
「宗一郎さんの時計は、本当は十一時十七分で止まっていた」
「その線が濃くなりました」
「でも、ケースでは十一時二十分だったはずです」
「ケースにあった時、私たちは文字盤を確認しました」
「十一時二十分でした」
「はい」
「じゃあ、針が動いた?」
「あるいは、別の時計です」
また、入れ替わり。
時計の本体。
鎖。
時刻。
誰の時計か。
どれが本物か。
複雑すぎる。
けれど、一つだけ分かる。
十一時二十分は、ますます怪しくなった。
「鷺沼さん」
白瀬さんが言った。
「宗一郎さんの時計は、七年前、十一時十七分で止まっていたのではありませんか」
鷺沼は、しばらく沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて、彼は静かに答えた。
「私は、十一時二十分と聞かされておりました」
「見たのではなく?」
「……はい」
「誰に聞かされましたか」
「旦那様です」
「宗一郎さん本人に」
「はい」
玲司さんが苦しそうに言った。
「また伯父の言葉か」
七年前から、皆が宗一郎の言葉を信じていた。
蓮司が第五楽章を盗んだ。
十一時二十分に時計塔が止まった。
蓮司は逃げた。
それらは、本当に事実だったのか。
それとも、宗一郎が残した物語だったのか。
「十一時十七分に何があったんですか」
僕が言った。
白瀬さんは、時計を閉じた。
「それを知っている人物が、まだ話していません」
「篠原さん?」
「一人ではないでしょう」
彼女は機械室の外、霧の向こうを見た。
「静乃さんも、鷺沼さんも、何かを知っている」
鷺沼は何も言わなかった。
僕は、その沈黙もメモに残したくなった。
けれど、まだ書かない。
沈黙は、事実ではない。
ただし、事件の形を変える。
それはもう分かっている。
白瀬さんは、宗一郎の時計を袋に入れた。
「戻りましょう」
「応接室へ?」
「はい」
「次は誰に聞くんですか」
白瀬さんは短く答えた。
「七年前、十一時十七分を知っていた人です」
「誰ですか」
「まず、静乃さん」
僕は頷いた。
「それから」
白瀬さんは、鷺沼を見た。
「鷺沼さんにも、改めて」
鷺沼は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その声は、いつも通り丁寧だった。
だが、ほんのわずかに低かった。
僕たちは時計塔を降り始めた。
手元のメモには、新しい時刻がある。
十一時十七分。
それは、霧雨館の中で初めて現れた、十一時二十分ではない時刻だった。
見せたい時刻ではない。
隠したかった時刻。
その三分間に、七年前の罪がある。
僕は、そう感じていた。




