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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第四章 鍵盤が覚えている

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第6話 壊された時計ケース

 音楽室へ向かう廊下を、僕たちはまた走った。


 今度の音は、低いラではなかった。


 がしゃん。


 ガラスの割れる音。


 音楽室の懐中時計ケース。


 白瀬さんは、そう言った。


 確かに、あの部屋にはガラスケースがあった。


 銀色の懐中時計。


 金色の懐中時計。


 雨宮家の紋章が彫られた時計。


 そして、十一時二十分で止まっていた懐中時計。


 そのケースが壊されたのだとしたら。


 誰かが、時計を奪ったのか。


 それとも、戻したのか。


 篠原さんは言った。


 あの時計を、戻してはだめ。


 戻す。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 盗むのではない。


 隠すのでもない。


 戻す。


 時計を、どこへ戻すというのか。


 音楽室の前に着くと、扉は閉まっていた。


 鷺沼が鍵を差し込む。


 だが、鍵を回す前に、白瀬さんが止めた。


「待ってください」


「何か」


「扉に触れた跡があります」


 僕は息を整えながら、扉を見た。


 暗い木の表面。


 革張りの内側ではなく、外側の取っ手の周囲。


 そこに、薄く黒い汚れがついていた。


 篠原さんの左手についていたもの。


 資料庫の時計油。


 それに似た、黒い汚れ。


「誰かが、油のついた手で触った?」


 僕が言うと、白瀬さんは頷いた。


「その可能性があります」


「篠原さんですか」


「まだ分かりません」


 僕はメモした。


 音楽室の扉取っ手付近に黒い汚れ。


 時計油の可能性。


 篠原の左手の汚れと似ているが、断定不可。


 鷺沼が鍵を回した。


 かちゃり。


 扉が開く。


 音楽室の中は、さっきまでと同じようでいて、明らかに違っていた。


 ガラスケースが割れていた。


 壁際に置かれていた懐中時計のケース。


 その前面のガラスが砕け、床に破片が散らばっている。


 いくつかの懐中時計が、布の上で傾いている。


 鎖が絡まり、銀の蓋が開いたものもあった。


 そして、一箇所だけ、ぽっかりと空いている。


 夕方、僕たちが見た十一時二十分の銀の懐中時計。


 あの時計が、なくなっていた。


「ない……」


 僕は呟いた。


 白瀬さんはすぐに部屋へ入った。


「床に注意してください。ガラス片を踏まないように」


 僕は扉の近くで足を止め、メモ帳を開いた。


 音楽室の懐中時計ケース破損。


 ガラスが割れている。


 十一時二十分の銀の懐中時計がなくなっている。


 蓮司の手に握られていた割れた懐中時計とは別。


 玲司さんが、蓮司さんの遺体とケースを見比べた。


「兄の時計があるのに、もう一つを盗んだ?」


「盗んだとは限りません」


 白瀬さんが言った。


「篠原さんは、戻してはだめ、と言いました」


「つまり、誰かが時計を戻そうとしている?」


「可能性があります」


「どこへ?」


 白瀬さんは答えなかった。


 彼女はガラスケースの中を見ていた。


 空いた場所。


 そこに残っている布のくぼみ。


 時計が置かれていた跡。


 その横に、切れた鎖の小さな輪が一つ残っていた。


「ここにも鎖の一部があります」


「時計塔で見つかったものと同じですか」


「似ています」


 僕は書く。


 空いた場所の横に、切れた鎖の輪。


 時計塔で見つかった鎖片と似ている可能性。


「この時計には、夕方、鎖がついていましたよね」


 僕が言うと、白瀬さんは頷いた。


「はい。ケースの外へ少し垂れていました」


「今は時計ごと消えている」


「ええ」


「蓮司さんの割れた時計には鎖がなかった」


「はい」


「時計塔には鎖の一部」


「はい」


「ここにも鎖の一部」


「はい」


 僕は言葉を失った。


 時計は複数ある。


 鎖は切れている。


 どの時計の鎖が、どこに使われたのか。


 どの時計が、本当に蓮司さんのものなのか。


 分からなくなっていく。


「白瀬さん」


 僕は言った。


「もしかして、時計が入れ替わっているんですか」


 白瀬さんは、少しだけこちらを見た。


「その可能性があります」


「蓮司さんが握っていた割れた時計と、ケースにあった時計が?」


「はい」


「でも、蓮司さんの手の時計は割れていました」


「割られたのかもしれません」


「いつ?」


「今夜です」


 玲司さんが低い声で言った。


「誰かが時計を入れ替え、片方を割って兄に握らせた」


「可能性です」


「何のために」


 白瀬さんは、床のガラス片を見た。


「十一時二十分を強調するため」


「また、それですか」


「はい」


「でも、どの時計も十一時二十分を指しているなら、どれでもいいのでは」


「いいえ」


 白瀬さんは静かに言った。


「時計は、時刻だけではありません。誰の持ち物かが重要です」


 誰の持ち物か。


 僕は蓮司さんの手の時計を見た。


 割れた懐中時計。


 鎖のない時計。


 十一時二十分で止まった時計。


 僕たちは、それを蓮司さんが握っていたから、蓮司さんのものだと思った。


 でも、本当にそうなのか。


 誰かが握らせたものなら、その時計は蓮司さんの持ち物とは限らない。


「鷺沼さん」


 白瀬さんが呼んだ。


「はい」


「蓮司さんが生前使っていた懐中時計に心当たりはありますか」


「ございます」


 鷺沼は、蓮司さんの右手を見た。


「蓮司様は、銀の懐中時計をお持ちでした。蓋に五線譜のような模様があるものです」


「今、蓮司さんが握っているものですか」


 鷺沼は少し沈黙した。


「似ております」


「同じですか」


「断定はできません」


「なぜ」


「蓮司様の時計には、鎖がございました」


「今はない」


「はい」


「割れていましたか」


「いいえ。七年前の時点では、割れておりませんでした」


「では、今の時計が蓮司さんのものだとしても、鎖は外され、文字盤は割られている」


「そのようになります」


 僕はメモした。


 蓮司の懐中時計は、銀色で五線譜のような模様。


 鎖付き。


 七年前は割れていなかった。


 遺体の手の時計は似ているが、鎖なし、文字盤割れ。


 白瀬さんは、壊されたケースの空白を見た。


「では、ケースから消えた時計は?」


 鷺沼は、空いた場所を見た。


「宗一郎様が特に大切にしていた時計です」


「宗一郎さんの?」


「はい」


「十一時二十分で止まっていた時計」


「はい」


「それは、宗一郎さんの時計だった」


 僕は息を呑んだ。


 音楽室のケースにあった十一時二十分の懐中時計。


 それは、宗一郎のもの。


 蓮司さんの手にあった割れた時計は、蓮司さんのものに似ている。


 二つの時計。


 宗一郎の時計。


 蓮司の時計。


 どちらも十一時二十分。


 どちらも、五線譜のような模様。


 そして、どちらにも鎖があったはず。


「宗一郎さんと蓮司さんは、似た時計を持っていたんですか」


 僕が尋ねると、鷺沼は頷いた。


「親子のように、というわけではございませんが、旦那様が蓮司様に贈ったものです」


「贈った?」


「蓮司様が作曲を始めた頃のことです」


 玲司さんが顔を上げた。


「初めて聞いた」


「蓮司様は、その時計を大切にしておられました」


 鷺沼の声は静かだった。


「ですが、七年前の失踪後、蓮司様の時計は見つかりませんでした」


「兄が持って消えた?」


「そう言われておりました」


「そして今夜、兄の手にあった」


「はい」


 白瀬さんは、ゆっくりと言った。


「宗一郎さんの時計はケースから消えた。蓮司さんの時計と思われるものは遺体の手にある。ただし、鎖はない」


「鎖が、二つの時計をつなぐ」


 僕は呟いた。


「はい」


 白瀬さんは頷いた。


「この事件では、時計の本体より、鎖の移動が重要です」


「時計の鎖を使って、音を作った」


「それだけでなく、時計の持ち主を混乱させた可能性があります」


「持ち主を混乱させる?」


「蓮司さんが握っている時計が本当に蓮司さんのものか。ケースにあった時計が本当に宗一郎さんのものか。どの鎖がどの時計についていたのか。そこを曖昧にすれば、七年前の出来事も曖昧になります」


 七年前。


 宗一郎の時計。


 蓮司の時計。


 十一時二十分。


 失踪。


 僕は、蓮司への手紙を思い出した。


 十一時二十分に、音楽室で待つ。


 もしその時、二つの時計がそこにあったなら。


 どちらの時計が止まり、どちらの時計が持ち去られたのか。


 そこに、七年前の秘密があるのかもしれない。


「篠原さんは、あの時計を戻してはだめと言いました」


 白瀬さんが言った。


「つまり、宗一郎さんの時計がどこかに戻されると、困る」


「どこに?」


 玲司さんが尋ねる。


「本来あるべき場所です」


「ケースではないんですか」


「ケースかもしれません。けれど、今ケースから消えました」


「では」


 白瀬さんは、時計塔の方角を見た。


「時計塔かもしれません」


 また時計塔。


 この事件は、どれだけ遠ざかっても、あの塔へ戻っていく。


 止まった大時計。


 音響管。


 本物の第五楽章。


 鎖の一部。


 そして今、宗一郎の懐中時計。


「でも、時計塔にはさっき行きました」


 僕が言った。


「その時には、宗一郎さんの懐中時計は見ていません」


「その後で誰かが向かった可能性があります」


「低いラが鳴った後?」


「はい」


「ガラスケースを壊して時計を取り、時計塔へ戻す」


「そう考えると、篠原さんの言葉とつながります」


 戻してはだめ。


 あの時計を、戻してはだめ。


 篠原さんは、宗一郎の時計が時計塔へ戻されることを恐れていたのか。


「なぜ時計を戻す必要があるんですか」


 僕は尋ねた。


 白瀬さんは、少し沈黙した。


「それを確かめます」


「時計塔へ?」


「はい」


 玲司さんがすぐに言った。


「行きます」


「分かりました」


 白瀬さんは、壊された時計ケースをもう一度確認した。


「その前に、もう一つ」


「何ですか」


「ケースを壊した人物は、急いでいたように見えます」


「なぜですか」


「鍵を使って開けるのではなく、ガラスを割っている。中の他の時計にはほとんど触れていない。目的は一つの時計だけです」


「宗一郎さんの時計」


「はい」


「誰がやったんでしょう」


「時計を戻したい人物」


「それは、犯人ですか」


「犯人かもしれません。犯人ではないかもしれません」


 また、その言葉。


 けれど、今はもう分かる。


 この事件では、殺した人物と、現場を動かしている人物が同じとは限らない。


 誰かが殺し、誰かが隠し、誰かが戻し、誰かが守ろうとしている。


 それぞれの行動が、事件を複雑にしている。


「真柴さん」


「はい」


「ここまでを書いてください」


 僕は頷いた。


 壊された時計ケース。


 消えた宗一郎の懐中時計。


 遺体の手の時計は蓮司のものに似ている。


 両者の鎖が重要。


 宗一郎の時計を誰かが時計塔へ戻そうとしている可能性。


 篠原はそれを恐れていた。


 書き終えると、白瀬さんは扉の外へ向かった。


「鷺沼さん、時計塔の扉を」


「かしこまりました」


 僕たちは音楽室を出た。


 その時、ふと背後から視線を感じた。


 振り返る。


 蓮司さんの遺体が、グランドピアノの脚にもたれている。


 右手には、割れた懐中時計。


 十一時二十分。


 その針は、まだ同じ時刻を指している。


 だが、今はもう、その時刻が死亡時刻には見えなかった。


 誰かが見せたい時刻。


 誰かが戻したい時刻。


 誰かが閉じ込めたい時刻。


 扉が閉まる。


 音楽室は、再び沈黙した。


 玄関ホールへ向かう途中、白瀬さんが言った。


「時計を戻すという行為には、意味があります」


「元の場所に戻すということですか」


「はい」


「でも、普通は証拠を隠すなら、戻すより捨てるのでは」


「そうです」


「じゃあ、戻すのは証拠隠滅ではない?」


「儀式に近いかもしれません」


 儀式。


 その言葉に、僕は背筋が冷たくなった。


「十一時二十分に戻す儀式ですか」


「可能性があります」


「誰が、そんなことを」


「七年前の時刻を終わらせたい人」


「終わらせたい?」


「あるいは、完成させたい人」


 完成。


 曲。


 第五楽章。


 時計。


 低いラ。


 この館では、事件さえ一つの曲のように扱われる。


 玄関ホールの奥、時計塔への扉の前に立つ。


 鷺沼が鍵を取り出す。


 その時、上の方から音がした。


 かちり。


 歯車が動く音。


 続いて、もう一度。


 ちん。


 細い金属音。


 そして、微かに。


 ぽん。


 低いラ。


 今度は、はっきりと時計塔の上から聞こえた。


 僕は息を呑んだ。


 音楽室ではない。


 時計塔から、低いラが鳴った。


 白瀬さんの表情が変わる。


「つながりました」


「何がですか」


「低いラは、音楽室だけの音ではありません」


 彼女は、時計塔への扉を見上げた。


「時計塔にも、低いラを鳴らす仕掛けがあります」


 扉が開く。


 冷たい空気が流れ出す。


 時計塔は、僕たちを待っているように、暗い階段を上へ伸ばしていた。

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