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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第四章 鍵盤が覚えている

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第5話 まだ鳴る低いラ

 ぽん。


 低いラの音が、廊下の奥へ沈んでいった。


 資料準備室にいた全員が、同じ方向を見た。


 音楽室の方角。


 いや、そう思っただけかもしれない。


 この館では、音の方角さえ信用できない。


 低いラは、音楽室で鳴ったように聞こえる。


 けれど、音楽室の中で鳴ったとは限らない。


 時計塔の重り。


 黒い糸。


 録音機。


 音響管。


 僕たちは、音が場所を偽れることをすでに知っている。


 それでも、あの音を聞いた瞬間、体は勝手に音楽室を思い浮かべていた。


 篠原さんは、本物の第五楽章を抱えたまま震えていた。


 顔色は悪い。


 意識もまだ完全には戻っていない。


 それでも、あの音に対する反応だけははっきりしていた。


 恐怖。


 それも、今起きたことへの恐怖ではない。


 ずっと前から知っていたものが、また戻ってきたことへの恐怖だった。


「まだ、終わっていない」


 篠原さんはそう呟いた。


 白瀬さんは、低いラの余韻が消えた廊下の方を見つめていた。


「真柴さん」


「はい」


「今の音について、書いてください」


「はい」


 僕はメモ帳を開いた。


 資料準備室で篠原を発見。


 篠原は本物の第五楽章を所持。


 その直後、低いラが鳴った。


 場所は不明。


 音楽室方面から聞こえたように感じた。


 篠原は「まだ終わっていない」と発言。


 書きながら、手が少し震えた。


 何度目の低いラだろう。


 夕方。


 奏太さんが十一時頃に鳴らしたもの。


 十一時半前。


 零時頃。


 施錠後。


 そして、今。


 低いラは、事件の合図のように何度も鳴っている。


 だが、そのたびに意味が違う。


 ある時は探索のきっかけ。


 ある時は密室殺人の演出。


 ある時は七年前の録音への入口。


 そして今は、篠原さんが本物の第五楽章を手にした直後に鳴った。


「篠原さん」


 白瀬さんが、静かに声をかけた。


「今の音に心当たりがありますか」


 篠原さんは答えなかった。


 楽譜を胸元に抱えたまま、唇だけを動かしている。


「篠原さん」


「……あの音は」


 彼女は掠れた声で言った。


「先生が、呼ぶ音です」


「宗一郎さんが?」


「はい」


「誰を呼ぶ音ですか」


 篠原さんは、ゆっくりと目を閉じた。


「蓮司さんを」


 部屋の空気が、ひやりと冷えた。


「七年前も?」


 白瀬さんが尋ねる。


 篠原さんは小さく頷いた。


「あの夜も、低いラが鳴りました」


「十一時二十分に?」


「少し前です」


「少し前?」


「先生は、いつも少し前に音を鳴らしました」


「何のために」


「合図です」


 僕はペンを止めた。


 低いラは、合図。


 それも、七年前から使われていた合図。


「合図というのは、誰かを音楽室へ呼ぶための?」


 白瀬さんが確認する。


「はい」


「宗一郎さんが、自分で弾いていたのですか」


「最初は」


「最初は?」


 篠原さんは苦しそうに息を吐いた。


「そのうち、仕掛けで鳴らすようになりました。先生は、自分がいなくても音が鳴ることを好んでいました」


「人を呼ぶ音だけが残る」


「はい」


「その音を聞けば、蓮司さんは音楽室へ向かった」


「向かいました」


「あなたも?」


 篠原さんは答えなかった。


 しかし、その沈黙は肯定に近かった。


 僕はメモする。


 低いラは、宗一郎が蓮司を呼ぶ合図だった。


 七年前も十一時二十分の少し前に鳴った。


 最初は宗一郎が弾いていたが、後に仕掛けで鳴らすようになった。


 自分がいなくても音が鳴ることを宗一郎は好んだ。


 白瀬さんは少しだけ目を伏せた。


「だから、低いラは何度も鳴る」


「え?」


 僕は顔を上げた。


「今夜の低いラは、誰かが新しく作った仕掛けだけではないのかもしれません」


「七年前からある仕掛けが、今も残っている?」


「その線もあります」


「でも、音楽室で見つけた黒い糸と時計の重りは」


「それは今夜の仕掛けかもしれません」


「別の低いラ?」


「はい」


 低いラは一つではない。


 その言葉が、また戻ってきた。


 七年前からある合図の低いラ。


 今夜、事件を演出するために作られた低いラ。


 奏太さんが自分で押した低いラ。


 同じ音に、いくつもの意味が重なっている。


 白瀬さんは、篠原さんへ向き直った。


「今の低いラは、七年前から残っている仕掛けですか」


「分かりません」


「けれど、あなたは怖がった」


「同じだったからです」


「七年前と」


「はい」


「篠原さん。七年前の夜、低いラの後に何がありましたか」


 篠原さんの顔から、血の気が引いた。


 彼女は楽譜を抱く手に力を込める。


「話せません」


「なぜ」


「話せば、また名前が戻る」


「名前は、もう戻り始めています」


 篠原さんは首を横に振った。


「違います。名前が戻るだけなら、まだいい」


「では、何が怖いのですか」


 篠原さんは、ゆっくりと玲司さんを見た。


「殺した人の名前まで、戻ってしまう」


 玲司さんが息を呑んだ。


「殺した人?」


「七年前に、誰かが死んだんですか」


 僕は思わず聞いた。


 篠原さんは、答えなかった。


 その沈黙は、さっきまでよりも深かった。


 七年前。


 失踪した蓮司さん。


 宗一郎の罪。


 第五楽章。


 消された名前。


 低いラ。


 録音の中の金属音と悲鳴。


 誰かが死んだのか。


 だが、蓮司さんは今夜まで生きていた。


 では、七年前に死んだのは誰なのか。


 あるいは、死んだと思われた誰かなのか。


「篠原さん」


 玲司さんの声が震えていた。


「七年前に、兄以外の誰かが死んだんですか」


「玲司さん」


 篠原さんは、今にも泣きそうな顔をした。


「あなたは、本当に何も知らなかった」


「何を」


「先生が、何を守ろうとしていたのか」


「伯父が?」


「いいえ」


 篠原さんは首を振った。


「先生は、守ろうとしたのではありません。奪ったんです」


 宗一郎は奪った。


 静乃さんも似たようなことを言っていた。


 宗一郎は厳しいのではなく、奪う人だった。


 あの言葉が、ここへつながってくる。


「何を奪ったんですか」


 白瀬さんが尋ねる。


「名前です」


「蓮司さんと、あなたの?」


「それだけではありません」


 篠原さんは、楽譜を胸に抱えたまま、壁にもたれた。


「先生は、音を聞く人ではありませんでした。音を所有する人でした」


「所有する」


「誰かが弾いた音も、誰かが書いた旋律も、先生の部屋に入った瞬間、先生のものになる」


「第五楽章も?」


「はい」


「蓮司さんとあなたが作った曲を、宗一郎さんが自分のものにしようとした」


 篠原さんは小さく頷いた。


「最初は、先生のためだと思っていました」


「あなたが?」


「はい」


「なぜ」


「私は、先生に拾われたようなものだったからです」


 その言葉には、長い時間の重さがあった。


「秘書として?」


「最初は、写譜の手伝いでした。音大を出て、でも作曲家としては残れなくて。先生の楽譜を清書する仕事をもらった時、嬉しかったんです」


「宗一郎さんに認められたと思った」


「はい」


「でも、違った」


 篠原さんは、苦しそうに笑った。


「先生は、私の音を見ていたのではありません。使える手を見ていただけでした」


 使える手。


 白瀬さんが、ほんの少しだけ反応した。


「手」


「はい。先生は、もう細かい譜面を書くのが難しくなっていました。だから、私が書いた。蓮司さんが弾いた。先生が、それを自分の名前で閉じ込めた」


「第五楽章は、そうして作られた」


「はい」


 僕はメモを書き続けた。


 篠原。


 写譜の手伝いとして宗一郎に関わる。


 宗一郎は、篠原の音ではなく、使える手を見ていた。


 篠原が書き、蓮司が弾いた音を、宗一郎は自分の名で閉じ込めようとした。


 第五楽章は、蓮司と篠原の共作である可能性がさらに強まる。


「七年前、蓮司さんはそれに反発した」


 白瀬さんが言った。


「はい」


「自分の曲だと」


「はい」


「そして、あなたの名前も残そうとした」


「やめてほしかった」


 篠原さんの声が震えた。


「なぜですか」


「先生を裏切れなかったからです」


「でも、蓮司さんを裏切ることになった」


 篠原さんは、目を閉じた。


 その頬に、また涙が流れた。


「分かっています」


「七年前、あなたはどちらを選んだのですか」


「選べませんでした」


「選べなかった?」


「だから、黙ったんです」


 沈黙。


 また、その言葉だった。


 紗英さんは玲司さんを守るために黙った。


 篠原さんは、宗一郎も蓮司も選べずに黙った。


 そしてその沈黙が、七年前の真実を閉じ込めた。


「篠原さん」


 白瀬さんが言った。


「今夜、蓮司さんが館に戻ることを知っていましたか」


 篠原さんは、すぐには答えなかった。


 だが、沈黙はもう短かった。


「知っていました」


 玲司さんが一歩踏み出す。


「篠原さん」


「手紙が来ました」


「誰から」


「蓮司さんから」


「いつ」


「三日前です」


 紗英さんが受け取った一週間前の手紙。


 篠原さんが受け取った三日前の手紙。


 蓮司さんは、複数の人物に連絡していた。


「内容は?」


 白瀬さんが尋ねる。


「第五楽章を返す。十一時二十分に、霧雨館で話したい、と」


「手紙は?」


「燃やしました」


「なぜ」


「怖かったからです」


「蓮司さんが戻ることが?」


「いいえ」


 篠原さんは、本物の第五楽章を見下ろした。


「名前が戻ることが」


 玲司さんは、拳を握っていた。


「なぜ僕に言わなかったんですか」


「あなたを巻き込みたくなかった」


「皆、そればかりだ」


 玲司さんの声は、低く震えていた。


「巻き込みたくなかった。守りたかった。知らない方がいい。そう言って、誰も何も話さない。その結果、兄は死んだんです」


 篠原さんは、何も言えなかった。


 白瀬さんは、静かに二人の間に入るように言った。


「篠原さん。あなたは蓮司さんに会いましたか」


「……はい」


「今夜?」


「はい」


「いつ」


 篠原さんは息を整えようとした。


 だが、まだ頭を打った影響が残っているのか、言葉が途切れがちだった。


「十一時……少し過ぎ」


 僕はペンを握りしめた。


 十一時少し過ぎ。


 奏太さんが音楽室へ入ったと言っていた時刻と近い。


「場所は」


「書斎の近くです」


「音楽室ではなく?」


「はい」


「何を話しましたか」


「第五楽章を返すと言われました」


「誰に」


「本当の名前に」


「つまり、蓮司さんは第五楽章にあなたの名前を戻すつもりだった」


「はい」


「あなたは止めた」


「はい」


「その後、蓮司さんはどこへ」


「音楽室へ行くと」


「誰かに会うため?」


「先生の残したものを確かめるためだと言っていました」


「先生はもう亡くなっています」


「それでも、先生の仕掛けは残っている、と」


 僕は、低いラを思い出した。


 七年前から残っているかもしれない合図。


 宗一郎の仕掛け。


 鍵盤が覚えているもの。


「篠原さん」


 白瀬さんの声が、少しだけ鋭くなった。


「蓮司さんは、音楽室に入った時点で生きていたのですね」


「はい」


「十一時少し過ぎには生きていた」


「はい」


 時刻が、少しずつ並び始めていた。


 九時半、久世さんは音楽室で蓮司さんを見ていない。


 十一時頃、奏太さんも見ていない。


 けれど十一時を少し過ぎた頃、篠原さんは書斎の近くで蓮司さんに会っている。


 その後、蓮司さんは音楽室へ向かった。


 なら、蓮司さんが音楽室へ入ったのは、それ以降だ。


 死亡時刻は、十一時過ぎから発見時までの間に絞られる。


 ただし、零時頃の悲鳴は死亡時刻ではないかもしれない。


 僕は、震える手でそのことをメモした。


「篠原さん」


 白瀬さんはさらに尋ねた。


「あなたは、その後、音楽室へ行きましたか」


 篠原さんは目を伏せた。


「行きました」


「いつ」


「十一時半頃」


 玲司さんが息を呑んだ。


 静乃さんが聞いた男の足音が十一時半頃。


 奏太さんが低いラを聞いたのも十一時半前。


 時刻が集まってくる。


「音楽室で何を見ましたか」


 篠原さんは、口を開いた。


 けれど、その時だった。


 廊下の奥から、今度は別の音が響いた。


 がしゃん。


 ガラスが割れるような音。


 低いラではない。


 金属音でもない。


 何かが壊れた音だった。


 篠原さんの顔が、恐怖に歪んだ。


「音楽室……」


「今の音が?」


 僕が聞く。


「懐中時計のケースです」


 白瀬さんが言った。


 彼女はすぐに立ち上がる。


「誰かが、時計ケースを壊しました」


 篠原さんは、楽譜を抱えたまま震えていた。


「だめ」


「何がですか」


「時計を」


 彼女は、声にならない声で言った。


「あの時計を、戻してはだめ」


 白瀬さんの目が鋭くなった。


「あの時計?」


 しかし、篠原さんはそれ以上答えられなかった。


 意識が揺らぐように、壁にもたれたまま崩れそうになる。


 玲司さんが慌てて支えた。


「篠原さん!」


 白瀬さんは、僕を見た。


「真柴さん、音楽室です」


「はい」


「今度は、時計です」


 僕はメモ帳を握りしめた。


 低いラ。


 鎖。


 消えた名前。


 そして、壊された懐中時計のケース。


 事件は、また音楽室へ戻ろうとしていた。


 まるで、すべての音が最後には鍵盤へ帰るように。

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