第4話 名前を消した場所
篠原さんが消えた。
その知らせは、低いラの音よりも鋭く、僕たちを動かした。
応接室に戻ると、長椅子の上には白い布だけが残されていた。
ついさっきまで篠原さんが横になっていた場所だ。
その布の端が、床へ落ちかけている。
まるで、そこにいた人間だけが、音もなく抜け落ちてしまったようだった。
「申し訳ありません」
美和さんが震える声で言った。
「ほんの少し、薬箱を取りに目を離しただけで……」
「責めていません」
白瀬さんはすぐに言った。
「篠原さんは、歩ける状態でしたか」
「分かりません。でも、さっきまで意識もはっきりしていなくて」
「一人で遠くへは行けないはずですね」
「はい」
僕は応接室を見回した。
床に血痕はない。
倒れた椅子もない。
争った様子もない。
ただ、長椅子から入口へ向かって、薄く乱れた足跡のようなものが見えた。
靴跡というより、足を引きずった跡。
あるいは、誰かに支えられて歩いた跡かもしれない。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「床を」
「はい」
僕はメモ帳を開いた。
応接室。
篠原がいた長椅子から入口方向へ、薄い擦れ跡。
自力で歩いたのか、誰かに支えられたのかは不明。
「鷺沼さん」
「はい」
「応接室から出た場合、篠原さんが向かえる場所は?」
「廊下を右へ進めば玄関ホール、左へ進めば食堂と使用人室方面です。玄関ホールからは、音楽室、書斎、時計塔入口へ向かえます」
「篠原さんが行きそうな場所は三つです」
白瀬さんは言った。
「音楽室、書斎、時計塔」
「名前を消した場所、でしたね」
僕が言うと、白瀬さんは頷いた。
「はい。ただ、それが物理的な場所とは限りません」
「どういうことですか」
「篠原さんにとって、名前を消した場所は、第五楽章そのものかもしれません」
本物の第五楽章。
時計塔の保管庫から見つかった楽譜。
表紙には雨宮蓮司の名前。
そして、消されたもう一人の名前。
その名前は、篠原千鶴である可能性が高い。
もし彼女が意識の混濁した状態で動いたのなら、向かう先は、自分の名前を消した楽譜のところかもしれない。
「本物の第五楽章は、今どこに?」
玲司さんが聞いた。
「書斎奥の資料庫に保管しました」
鷺沼が答えた。
「玲司様と白瀬様の立ち会いで」
「鍵は?」
「私が持っております」
白瀬さんが鷺沼を見た。
「資料庫の鍵を見せてください」
「はい」
鷺沼は黒い手袋の手で、鍵を取り出した。
小さな鍵だった。
書斎の鍵とは違う。
細く、古びている。
「ずっと持っていましたか」
「はい」
「誰かに渡しましたか」
「いいえ」
「篠原さんが資料庫へ向かったとしても、開けられない」
「通常は」
「通常は、ですね」
白瀬さんは鍵を確認し、すぐに返した。
「まず、書斎へ行きます」
「音楽室ではなく?」
僕が尋ねる。
「本物の第五楽章がある場所です。彼女が自分の名前に向かったなら、そこが最も近い」
僕たちは応接室を出た。
今回は、玲司さん、白瀬さん、僕、鷺沼が先に進み、紗英さんと美和さんは応接室に残った。
久世さんと奏太さんも残るように言われた。
静乃さんは、椅子に座ったまま言った。
「千鶴さんは、まだ逃げているのね」
白瀬さんが足を止める。
「逃げている?」
「自分の名前から」
静乃さんは、暖炉の火を見つめた。
「一度消した名前は、戻すのにも覚悟がいるのよ」
「あなたは、篠原さんが名前を消した理由を知っていますか」
「知っているような、知らないような」
「今、話せませんか」
「今話しても、あなたは先に行くでしょう」
静乃さんは顔を上げた。
「なら、行きなさい。千鶴さんが本当に向かった場所を見れば、少しは分かるわ」
白瀬さんは何も言わず、再び歩き出した。
書斎は静まり返っていた。
机の上には、宗一郎の日記を確認した時のランプがまだ置かれている。
緑色のシェードの光が、本棚に暗い影を作っていた。
書斎奥の資料庫の扉は閉まっている。
鷺沼が鍵を差し込む。
かちゃり。
扉が開いた。
中は小さな部屋だった。
壁際には棚が並び、古い書類箱や楽譜ケースが保管されている。
中央には、耐火金庫のような重い箱があった。
その上に、油紙に包まれた第五楽章を置いたはずだった。
しかし。
そこには何もなかった。
「ない……」
玲司さんが呟いた。
白瀬さんはすぐに部屋へ入った。
「誰も触らないでください」
僕は入口で足を止める。
鷺沼も同じく動かない。
金庫の上には、油紙の跡だけが残っていた。
わずかな埃の切れ目。
そこに何かが置かれていたことは分かる。
だが、楽譜は消えている。
「鍵は、鷺沼さんが持っていた」
僕は言った。
「資料庫は閉まっていた」
「はい」
鷺沼が答える。
「では、どうやって」
玲司さんが、信じられないという顔で言った。
白瀬さんは金庫の上ではなく、床を見ていた。
「ここにも擦れ跡があります」
「擦れ跡?」
「靴底ではありません。紙か布を引きずった跡のようです」
僕はメモする。
書斎奥資料庫。
本物の第五楽章が消失。
資料庫は施錠されていた。
床に紙か布を引きずったような擦れ跡。
白瀬さんは棚の下を覗き込んだ。
「小さな紙片があります」
彼女は手袋のまま、慎重に紙片を拾った。
黄ばんだ紙。
楽譜の端のようにも見える。
そこには、五線の一部と、かすれた黒いインクが残っていた。
「第五楽章の一部ですか」
玲司さんが聞く。
「断定はできませんが、同じ紙に見えます」
「破られた?」
「その線があります」
「なぜ」
白瀬さんは答えなかった。
代わりに、資料庫の奥の壁を見た。
壁に掛けられた古い額。
そこには、宗一郎の若い頃の写真が入っている。
その額が、わずかに傾いていた。
「真柴さん、額」
「はい」
僕は近づかずに見た。
確かに、少し斜めになっている。
白瀬さんは額の下に目を向けた。
床に、小さな黒い汚れが落ちている。
篠原さんの左手についていたものと似ていた。
「黒い汚れです」
「篠原さんの指にあったものと?」
「似ています」
「インクですか」
「分かりません」
鷺沼が静かに言った。
「時計油かもしれません」
白瀬さんが振り向く。
「なぜそう思うのですか」
「旦那様の書斎には、古い時計部品も保管されております。黒く粘る油が使われていました」
「この資料庫にも?」
「奥の棚に、時計塔の予備部品がございます」
「確認します」
白瀬さんは棚を見る。
そこには、小さな金属部品や歯車が入った箱があった。
その一つの蓋が開いている。
中には、黒い油のついた歯車と、細い工具。
そして、油にまみれた布が一枚。
「この布」
僕は言った。
「誰かが使った?」
「その線はあります」
白瀬さんは、油のついた布を見た。
「篠原さんの左手の汚れは、インクではなく時計油かもしれません」
「時計油」
僕はメモした。
篠原の左手の黒い汚れ。
資料庫の時計部品用の油と似ている可能性。
「では、篠原さんはここへ来た?」
玲司さんが言った。
「そう考えてよさそうです」
「でも、鍵は鷺沼が持っていた」
「はい」
「篠原さんはどうやって入ったんですか」
「それが問題です」
白瀬さんは、資料庫の扉を見た。
内側の鍵穴。
古い金具。
破壊跡はない。
しかし、扉の下には、わずかな隙間がある。
「この資料庫には、別の出入口がありますか」
「ございません」
鷺沼は即答した。
「本当に?」
「少なくとも、私は存じません」
「存じません、ですね」
「はい」
白瀬さんは壁を見た。
宗一郎の写真が入った額。
その裏。
「額を確認します」
彼女は慎重に額を持ち上げた。
裏には、壁の小さな開口部があった。
人が通れる大きさではない。
しかし、細いものなら通せる。
紙束。
糸。
あるいは、鍵。
「小窓?」
僕が言うと、鷺沼が驚いたように顔を上げた。
「このようなものは」
「知らなかった?」
「はい」
白瀬さんは開口部を見た。
「奥に空洞があります。隣の棚裏か、壁の中へつながっています」
「楽譜をここから出した?」
「その線が濃いです」
「でも、誰が外から」
「この壁の向こう側を確認する必要があります」
玲司さんが言った。
「向こうはどこですか」
鷺沼は少し考えた。
「書斎の隣は、古い資料準備室です。現在はほとんど使っておりません」
「鍵は?」
「書斎側からは行けません。廊下を回ります」
「行きましょう」
白瀬さんは、紙片を袋に入れた。
「ただし、資料庫はこのまま閉めます」
「第五楽章は?」
「まだ近くにあるかもしれません」
「篠原さんは?」
「同じ場所へ向かっているかもしれません」
僕たちは資料庫を出て、書斎を抜けた。
廊下を少し戻り、曲がった先に、古い扉があった。
使われていない部屋らしく、扉の下には埃が溜まっている。
鷺沼が鍵を差し込む。
「ここも鍵が?」
「はい」
「その鍵は?」
「私が管理しております」
「ずっと?」
「はい」
白瀬さんは何も言わなかった。
扉が開くと、埃っぽい空気が流れ出した。
資料準備室は、狭い部屋だった。
古い棚。
壊れた額縁。
使われなくなった燭台。
紙箱。
そして、壁際に大きな本棚がある。
その本棚の裏側が、書斎奥資料庫の壁にあたるのだろう。
白瀬さんは、本棚の下を見た。
「動かされた跡があります」
確かに、本棚の足元に、床を擦った跡がある。
重い本棚が、少しだけ横へずらされたようだ。
「これを動かしたんですか」
僕が聞くと、玲司さんが本棚を押してみた。
重い。
大人一人でも動かすのは難しそうだった。
「一人では無理です」
玲司さんが言った。
「篠原さんの状態では、なおさら」
「なら、誰かが手伝った」
僕は言った。
「あるいは、事前に動かされていた」
白瀬さんが答える。
彼女は本棚の隙間を覗き込んだ。
そこには、資料庫側と同じような小さな開口部があった。
そして、その下に油紙が落ちていた。
中身は空だ。
「第五楽章の油紙です」
白瀬さんが言った。
「中身は?」
「ありません」
僕は背筋が冷たくなった。
本物の第五楽章は、ここを通って持ち出された。
資料庫の内側からではなく、壁の開口部を使って。
「誰かが、資料庫に入らずに楽譜を盗んだ」
僕は言った。
「そう考えるべきでしょう」
「でも、開口部は小さい。楽譜を通すには」
「折るか、丸めるか、油紙ごと引き出す必要があります」
「だから紙片が」
「ええ。途中で破れたのでしょう」
僕は書いた。
資料庫の壁裏に開口部。
隣の資料準備室へ通じる。
本棚が動かされた跡。
油紙だけ発見。
本物の第五楽章本体は消失。
「篠原さんは、ここへ来たんでしょうか」
玲司さんが言った。
「分かりません」
「でも、篠原さんが消えた直後に第五楽章も消えた」
「はい」
「篠原さんが持っていった?」
「そう見えます」
「違うんですか」
「そう見える時ほど、注意が必要です」
白瀬さんは、床を指差した。
「足跡が二種類あります」
「二種類?」
僕は床を見た。
埃の上に、細い靴跡。
もう一つ、やや大きい靴跡。
細い方は、篠原さんのものかもしれない。
大きい方は、男性のものに見える。
「篠原さんは一人ではなかった?」
「その可能性があります」
「襲った人物が連れ出した?」
「または、篠原さんを追ってきた人物がいた」
「どちらですか」
「まだ分かりません」
また、分からない。
けれど今は、その言葉に少し安心した。
無理に決めないこと。
それが、この館で迷わない唯一の方法なのだ。
「白瀬さん」
玲司さんが言った。
「第五楽章を持っていった人物は、何をしたいんですか」
白瀬さんは、空の油紙を見た。
「名前を消し直すか」
「消し直す?」
「あるいは、戻すか」
消された名前。
篠原千鶴。
蓮司と篠原の共作かもしれない第五楽章。
篠原さんは、自分の名前を戻されたくない。
では、今この楽譜を持っている人物は、何をしようとしているのか。
篠原さん自身が、名前を完全に消すために持ち出したのか。
誰かが、篠原さんの名前を戻すために持ち出したのか。
それとも、第五楽章そのものを利用するためか。
その時、資料準備室の奥で小さな音がした。
かさり。
紙が擦れるような音。
全員が振り向いた。
棚の影。
壊れた額縁の奥。
そこに、人の気配があった。
「誰ですか」
白瀬さんが言った。
返事はない。
玲司さんが一歩踏み出す。
「誰だ」
棚の影から、ゆっくりと人影が現れた。
篠原さんだった。
壁に手をつき、ふらつきながら立っている。
顔色は悪い。
額の布は外れかけ、左手には黒い油のような汚れがついていた。
そして右手には、折り畳まれた楽譜の束。
本物の第五楽章。
「篠原さん」
玲司さんが声を上げる。
篠原さんは、焦点の合わない目でこちらを見た。
「返しては」
掠れた声。
「返しては、いけないんです」
「誰にですか」
白瀬さんが静かに尋ねた。
篠原さんの手が震える。
楽譜が、かすかに揺れた。
「先生に」
彼女は言った。
「もう、先生の名前には、返してはいけない」
その瞬間、部屋の空気が止まった。
宗一郎へ返してはいけない。
つまり、第五楽章は宗一郎のものではない。
篠原さんは、それを知っている。
ずっと知っていた。
白瀬さんは、ゆっくりと一歩近づいた。
「篠原さん。その楽譜を預かります」
「いけません」
「燃やすつもりですか」
篠原さんは答えなかった。
けれど、その沈黙で十分だった。
彼女は、第五楽章を消すつもりだったのかもしれない。
自分の名前も。
蓮司さんの名前も。
宗一郎の罪も。
すべてを、もう一度なかったことにするために。
「篠原さん」
白瀬さんの声は、驚くほど優しかった。
「名前を消しても、起きたことは消えません」
篠原さんの目が揺れた。
「でも」
「でも?」
「名前が残れば、また誰かが壊れる」
「誰が?」
篠原さんは、玲司さんを見た。
それから、楽譜を抱きしめるように胸元へ引き寄せた。
「雨宮家です」
玲司さんは、何も言えなかった。
僕はメモ帳を握ったまま、息を止めていた。
篠原さんは犯人なのか。
被害者なのか。
隠蔽者なのか。
それとも、七年前の罪を今なお抱え続けている証人なのか。
今の僕には、分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
彼女は、第五楽章を憎んでいるのではない。
怖れている。
名前が戻ることを。
真実が戻ることを。
そして、その真実で誰かが壊れることを。
白瀬さんは、静かに手を差し出した。
「大丈夫です。今度は、名前を奪うためではありません」
篠原さんは、震える手で楽譜を握りしめた。
その時、廊下の向こうで、低い音が鳴った。
ぽん。
低いラ。
全員が凍りついた。
音楽室は、ここから離れている。
扉も閉まっている。
それでも、また低いラが鳴った。
篠原さんが、ひどく怯えた顔をした。
「まだ」
彼女は呟いた。
「まだ、終わっていない」
白瀬さんの表情が変わった。
「誰かが、もう一つ仕掛けを動かしました」
低いラの余韻が、廊下の奥に沈んでいく。
事件は、まだ演奏をやめていなかった。




