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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第四章 鍵盤が覚えている

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第2話 録音された悲鳴

 録音機が止まった後も、音楽室にはノイズの残響が残っているようだった。


 実際には、もう何も聞こえない。


 けれど、僕の耳の奥では、まだあの声が鳴っていた。


『蓮司』


『第五楽章を返しなさい』


『これは、僕の曲だ』


『篠原さんの名前も消すつもりですか』


 そして、最後の金属音。


 短い悲鳴。


 それは、僕が零時頃に聞いた悲鳴によく似ていた。


 似ていた。


 ただし、同じだとは断定できない。


 白瀬さんなら、必ずそう言う。


 僕は震える手でメモ帳に書いた。


 録音機の中に、七年前の会話らしき音声。


 宗一郎、蓮司、篠原の声。


 第五楽章の名前をめぐる争い。


 金属音。


 短い悲鳴。


 真柴が聞いた悲鳴と似ている。


 零時頃の悲鳴は、死亡時刻の証拠ではない可能性が高い。


 書いてから、ペン先を止めた。


 死亡時刻の証拠ではない。


 その一文は、事件の土台を大きく崩していた。


 僕は、夜中に悲鳴を聞いた。


 音楽室の扉は開かなかった。


 その後、中で蓮司さんの遺体が見つかった。


 だから、蓮司さんはその時に殺されたのだと思っていた。


 けれど、その悲鳴が七年前の録音だったなら。


 僕が聞いたのは、今夜の死ではなく、過去の音だったことになる。


「白瀬さん」


 玲司さんが、かすれた声で言った。


「今の録音は、本物なんですか」


「断定はできません」


 白瀬さんは答えた。


「声は、伯父と兄に聞こえました」


 玲司さんは、録音機から目を離せなかった。


「篠原さんの声も」


「似ていました」


「偽物の可能性があるんですか」


「あります」


 玲司さんの顔が歪んだ。


「そんな」


「ですが、偽物だとしても重要です」


「なぜですか」


「今夜の事件に使われた可能性があるからです」


 白瀬さんは、録音機に視線を落とした。


「録音が本物かどうかと、録音が今夜再生されたかどうかは別の問題です」


 僕はメモに書いた。


 録音内容の真偽と、今夜の使用の有無は別。


 玲司さんは唇を噛んだ。


「では、今夜、誰かがこの録音を再生した」


「そう考えるのが自然です」


「零時頃に?」


 白瀬さんは小さく頷いた。


「僕たちに、七年前の悲鳴を聞かせた」


「真柴さんに、です」


 その言葉で、玲司さんと僕は同時に白瀬さんを見た。


「僕に?」


「はい」


 白瀬さんは、静かに続けた。


「悲鳴をはっきり聞いたのは、ほぼ真柴さんだけでした。つまり、録音の音は、館全体に響くようなものではなかった」


「音楽室の扉の前にいたから聞こえた」


「ええ」


「僕がそこに行くことを、犯人は予想していたんですか」


「少なくとも、誰かが扉の前に来ることを期待していた可能性はあります」


 僕は背筋が冷たくなった。


 夜中に目を覚ましたこと。


 二階から降りる女性らしい人影を見たこと。


 音楽室へ向かったこと。


 そのすべてが、偶然ではなかったのかもしれない。


「女性らしい人影」


 僕は呟いた。


「僕は、あの人影を見たから音楽室へ向かいました」


 白瀬さんは、何も言わずに続きを促した。


「もし、あれも見せるためだったら」


「その線は残ります」


「じゃあ、僕は」


 言葉が続かなかった。


 僕は、自分で判断して追ったつもりだった。


 決めつけないために、見に行ったつもりだった。


 でも実際には、誰かに誘導されていたのかもしれない。


 人影を見せられ、低いラを聞かされ、金属音を聞かされ、悲鳴を聞かされた。


 そして、開かない扉の前で叫んだ。


 僕の声で、皆が集まった。


 つまり僕は、事件を発見させるための役割を担わされたのかもしれない。


「真柴さん」


 白瀬さんが言った。


「あなたが悪いわけではありません」


「でも、僕が叫ばなければ」


「誰かが別の方法で発見させたでしょう」


「そうでしょうか」


 白瀬さんは即答した。


「この事件は、発見されることを前提に作られています」


「発見されることを前提に」


「現場の第五楽章。割れた懐中時計。十一時二十分。録音された悲鳴。どれも、誰かに見せるため、聞かせるためのものです」


 見せるため。


 聞かせるため。


 事件を演奏する。


 白瀬さんは、そう言っていた。


 なら、僕はその演奏を聴かされた最初の観客だったのかもしれない。


「白瀬様」


 扉の外で、鷺沼が口を開いた。


「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「その録音機は、旦那様が生前よく使っていたものに似ております」


 白瀬さんは録音機を見た。


「宗一郎さんが?」


「はい。旦那様は、作曲中の音や会話を記録することがありました。紙に残す前の旋律を、録音しておくためです」


「この録音機も、宗一郎さんのものですか」


「断定はできません。ただ、同じ型のものを見たことがあります」


「どこで」


「書斎です」


「今もありますか」


「確認しておりません」


「つまり、誰かが書斎から録音機を持ち出した線がある」


「ございます」


 僕は書いた。


 録音機は宗一郎が使っていたものと同じ型。


 書斎に同じ型の録音機があった可能性。


 誰かが書斎から持ち出した可能性。


「鷺沼さん」


 白瀬さんが続けた。


「録音機の扱い方を知っている人物は?」


「旦那様。篠原様。蓮司様は、使えたかもしれません」


「あなたは?」


「簡単な再生程度なら」


「録音は?」


「旦那様に頼まれ、準備をしたことはございます」


 玲司さんが顔を上げた。


「鷺沼、伯父の録音を聞いたことがあるのか」


「内容までは」


「本当に?」


「旦那様の私的な記録でございましたので」


 鷺沼は、いつも通り静かに答えた。


 だが、僕はその静けさが気になった。


 鍵を管理し、書斎も音楽室も知っている。


 録音機も扱えた。


 そして、黒い手袋。


 疑う材料は、揃いすぎているほどだった。


 けれど、それだけで犯人とは言えない。


 むしろ、この館では怪しい材料が多すぎる人物ほど、別の役割を持っているのかもしれない。


「鷺沼さん」


 白瀬さんは、扉の外にいる彼を見た。


「あなたは、今夜の録音機について知っていましたか」


「いいえ」


「自動演奏ピアノの底板に隠されていたことも?」


「存じません」


「本当に?」


「はい」


 白瀬さんは、それ以上追及しなかった。


 代わりに、録音機の位置を確認するように言った。


「真柴さん、録音機の場所をもう一度」


「はい」


 僕は自動演奏ピアノの底板を見た。


 底板はわずかに浮いている。


 その奥に、黒い箱のような録音機が収まっている。


 手前側には、再生用のつまみ。


 その近くに、細い糸のようなものが見えた。


「糸があります」


「どこに?」


「再生つまみの近くです」


 白瀬さんは目を細めた。


「黒い糸ですか」


「はい」


「音楽室の低いラの糸と似ています」


「つまり、仕掛けで録音機を再生した?」


「そう考えるのが自然です」


 彼女は、録音機の周囲を慎重に観察した。


「つまみに糸をかけて、一定の力で引けば再生できます。時計の重りや、紙ロールの機構と連動させることも不可能ではありません」


「では、低いラ、金属音、悲鳴は」


「別々の装置が、連続して動いたのかもしれません」


 僕は必死にメモした。


 自動演奏ピアノ底板の録音機。


 再生つまみ付近に黒い糸。


 仕掛けで再生された可能性。


 低いラ、金属音、録音悲鳴が連動した可能性。


「金属音は、録音機の作動音ですか」


 僕が尋ねると、白瀬さんは首を横に振った。


「今聞いた録音機の作動音とは違います」


「では、別の音?」


「はい。おそらく、時計か金属管、あるいは鍵に関係する音です」


「まだ分からない」


「今の段階では、そこまでは言えません」


 分からないことが、また増えた。


 けれど、今までの分からなさとは違う。


 霧の中に何も見えないのではなく、霧の向こうにいくつもの輪郭が見え始めている。


 その一つ一つが、まだつながらないだけだ。


「白瀬さん」


 玲司さんが言った。


「この録音が七年前のものなら、兄は七年前に殺されかけたんですか」


 白瀬さんは、すぐには答えなかった。


「録音の最後に悲鳴があります」


「はい」


「でも、七年前、兄は死んでいない。今夜、ここで死んだ」


「その通りです」


「なら、七年前に何があったんですか」


「何かが倒れた音、金属音、悲鳴。誰かが傷ついた可能性はあります」


「兄ですか」


「蓮司さんかもしれません。篠原さんかもしれません。宗一郎さんかもしれません」


「伯父が?」


「悲鳴の主は断定できません」


「また、断定できない」


「はい」


 白瀬さんは、少しも譲らなかった。


「けれど、一つ分かることがあります」


「何ですか」


「七年前の音は、宗一郎さんにとって隠すべきものだった」


「だから録音機を隠した?」


「あるいは、誰かが隠した」


「誰か」


「録音を残した人物と、録音を隠した人物と、今夜再生した人物。それらが同じとは限りません」


 また、同じとは限らない。


 この事件は、何度もその言葉に戻ってくる。


 殺した人物。


 音を鳴らした人物。


 録音を隠した人物。


 録音を再生した人物。


 鍵を盗んだ人物。


 篠原さんを襲った人物。


 現場に楽譜を置いた人物。


 それらは、すべて一人なのか。


 それとも、複数の人物が、それぞれの理由で事件を歪めているのか。


「真柴さん」


 白瀬さんが言った。


「ここで、音の流れをもう一度整理してください」


「はい」


 僕は新しいページを開いた。


 聞いた音を、順番に並べる。


 低いラ。


 金属音。


 短い悲鳴。


 たった三つの音なのに、今ではそれぞれ別の意味を持っているように見えた。


 低いラは、グランドピアノの鍵盤に黒い糸を結び、時計の重りで鳴らせる可能性がある。


 ただし、複数回聞こえた低いラのすべてを、それだけで説明することはできない。


 金属音は、録音機の作動音とは違う。


 時計塔や音響管、鍵、金属部品に関係しているのかもしれない。


 悲鳴は、自動演奏ピアノ底板の録音機から再生された七年前の音である可能性がある。


 録音の悲鳴は、僕が聞いた悲鳴と似ている。


 零時頃の悲鳴は、死亡時刻の証拠ではない。


 書き終えた時、白瀬さんは小さく頷いた。


「よい整理です」


「ありがとうございます」


「では、次に考えるべきことは何ですか」


 僕は少し考えた。


「蓮司さんが、いつ殺されたのか」


「はい」


「悲鳴が死亡時刻でないなら、別の手がかりが必要です」


 白瀬さんは頷いた。


「遺体の状態は、素人には分かりません」


「ええ」


「なら、証言と、現場の変化から考えるしかない」


「続けてください」


「蓮司さんが音楽室にいたかどうかを、誰がいつ見たのか」


 白瀬さんの目が、少しだけ鋭くなった。


「久世さんは午後九時半に音楽室へ入った。蓮司さんはいなかったと言った」


「はい」


「奏太さんは十一時頃に音楽室へ入った。蓮司さんはいなかったと言った」


「はい」


「鷺沼さんは十時に扉だけ確認した。中は見ていない」


「はい」


「静乃さんは十一時半頃に男の足音を聞いた。玲司さんか蓮司さんかは分からない」


「はい」


「つまり、蓮司さんが音楽室にいたことが確認されるのは、発見時だけです」


「その通りです」


「でも、静乃さんが聞いた男の足音が蓮司さんなら、十一時半頃には生きていた線が残る」


「はい」


「逆に、玲司さんなら、蓮司さんはそれ以前に音楽室にいたかもしれないし、いなかったかもしれない」


 白瀬さんは否定しなかった。


 僕は息を吐いた。


 考えれば考えるほど、分からない。


 けれど、少なくとも見るべき場所は分かった。


 午後九時半から発見時まで。


 蓮司さんがいつ音楽室に入ったのか。


 誰が入れたのか。


 いつ死んだのか。


「蓮司さんは、自分で音楽室に入ったのでしょうか」


 僕は言った。


「蓮司への手紙には、十一時二十分に音楽室で待つとありました」


「七年前の手紙です」


「でも、今夜も十一時二十分を見せようとしている」


「はい」


「なら、蓮司さんは今夜も、十一時二十分に音楽室へ向かうよう誘導された?」


「その線はあります」


「誰に?」


 白瀬さんは、録音機を見た。


 それから、グランドピアノの内部に隠された凶器の方を見た。


「それを知るには、蓮司さんが持っていたものを確認する必要があります」


「持っていたもの」


「割れた懐中時計です」


 蓮司さんの右手に握られていた、十一時二十分で止まった懐中時計。


 あれは、死に際に握ったものなのか。


 誰かに握らされたものなのか。


 それとも、蓮司さん自身が持ってきたものなのか。


 まだ、分かっていない。


「時計を確認するんですか」


 玲司さんが言った。


「はい」


「兄の手から外すんですか」


「警察が来るまで動かすべきではありません」


「では、どうやって」


「見える範囲で確認します」


 白瀬さんは、蓮司さんの右手へ近づいた。


 遺体には触れない。


 けれど、ランプの光を当てて、懐中時計の蓋と鎖を確認する。


 僕も離れた位置から見た。


 割れた文字盤。


 十一時二十分。


 銀色の蓋。


 そこには、時計塔で見つかった第五楽章の表紙と同じような、蔦にも五線譜にも見える模様が彫られている。


「鎖がありません」


 白瀬さんが言った。


「え?」


「蓮司さんが握っている懐中時計には、本来あるはずの鎖がありません」


 僕は音楽室のガラスケースを見た。


 夕方見た懐中時計には、鎖がついていた。


 ケースの外に少し垂れていた。


 だが、蓮司さんの手の懐中時計には、鎖がない。


「壊れたんですか」


「その線はあります」


「鎖はどこに?」


「見当たりません」


「それは重要ですか」


「見落とすには大きすぎます」


 白瀬さんは言った。


「低いラの後に聞こえた金属音。鍵や鎖のような音、と真柴さんは言いましたね」


「はい」


「もし、懐中時計の鎖が仕掛けに使われていたとしたら」


 僕は息を呑んだ。


 懐中時計の鎖。


 金属音。


 低いラの後に鳴る音。


 時計と音。


 この事件の中心にある二つが、またつながる。


「懐中時計の鎖が、どこかに使われた?」


「可能性です」


「低いラの仕掛けに?」


「あるいは、鍵の仕掛けに」


「扉が開かなかったことと関係しますか」


「今の段階では、そこまでは言えません」


 分からない。


 けれど、また一つ見るべきものが増えた。


 消えた鎖。


 僕はメモに書いた。


 割れた懐中時計には鎖がない。


 音楽室の懐中時計には鎖があった。


 低いラの後の金属音と関係する可能性。


 時計、鎖、鍵、金属音。


 白瀬さんは、そこでようやく遺体から離れた。


「ここまでです」


「もう出るんですか」


「はい。これ以上は警察の領域です」


「でも、まだ」


「見える範囲で必要な情報は得ました」


 玲司さんは、蓮司さんの遺体を見た。


「兄を、また置いていくんですね」


「はい」


「残酷ですね」


「はい」


 白瀬さんは否定しなかった。


「ですが、今動かせば、もっと残酷なことになります」


「もっと?」


「蓮司さんが残したものを、私たちが壊してしまう」


 玲司さんは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「分かりました」


 僕たちは音楽室を出た。


 扉が閉まる。


 かちゃり、と鍵がかかる。


 その音を聞きながら、僕はまた低いラの後の金属音を思い出した。


 鍵。


 鎖。


 時計。


 この館では、金属が鳴るたびに、過去が少しずつ動く。


 廊下へ出ると、雨音が戻ってきた。


 応接室へ向かう途中、白瀬さんが言った。


「真柴さん」


「はい」


「次に確認するのは、鎖です」


「懐中時計の?」


「はい」


「どこを探すんですか」


「時計がある場所です」


「音楽室のケース?」


「それだけではありません」


 白瀬さんは、廊下の奥を見た。


「時計塔です」


 僕は足を止めた。


 時計塔。


 十一時二十分で止まった場所。


 音響管のあった場所。


 本物の第五楽章が隠されていた場所。


 そして、正体不明の人影が逃げた場所。


「また時計塔へ?」


「ええ」


 白瀬さんは静かに言った。


「音楽室で鳴った金属音の一部は、時計塔から来ている可能性があります」


「懐中時計の鎖が、時計塔に?」


「それを確かめます」


 僕はメモ帳を握りしめた。


 この夜の中心は、鍵盤にあるのだと思っていた。


 でも、鍵盤は時計塔へつながっている。


 音は時計へ。


 時計は過去へ。


 そして過去は、蓮司さんの死へつながっている。


 霧雨館は、まだ演奏をやめていなかった。

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