第1話 鍵盤が覚えている
推理メモを書き終えた時、僕はペンを置けなかった。
置けば、何かが終わってしまう気がした。
けれど、実際には何も終わっていない。
蓮司さんは死んだまま、音楽室にいる。
篠原さんは意識を取り戻しかけているが、まだはっきりとは話せない。
本物らしき第五楽章は見つかった。
けれど、その表紙には消された名前があった。
音楽室には黒い糸と時計の重り。
自動演奏ピアノの底板には録音機らしきもの。
時計塔には音響管。
そして、凶器はまだ見つかっていない。
事件は、解けるどころか、ますます深くなっている。
白瀬さんは、僕のメモを一度読み返した。
それから、静かに言った。
「ここからは、鍵盤を調べます」
僕はもう、彼女のその言い方に驚かなくなっていた。
「鍵盤、ですか」
「はい」
白瀬さんは、音楽室の方角を見た。
「宗一郎の日記には、こうありました」
第五楽章は楽譜ではない。
鍵盤が覚えている。
僕はその一文を、何度もメモに書いていた。
最初は、詩的な言葉に見えた。
宗一郎という作曲家らしい、比喩のような言葉。
けれど、今は違う。
鍵盤は本当に何かを覚えているのかもしれない。
押された音。
結ばれた糸。
隠された仕掛け。
そして、まだ見つかっていない凶器。
「音楽室へ戻ります」
白瀬さんが言った。
玲司さんは顔を上げた。
「また、兄のところへ」
「はい」
「今度は何を調べるんですか」
「ピアノの内部です」
その言葉に、応接室の空気が少し変わった。
奏太さんが、はっとしたように顔を上げる。
久世さんは興味深そうに目を細める。
紗英さんは玲司さんの袖を掴んだ。
静乃さんだけが、以前から知っていたことを確認するように、小さく息を吐いた。
「ピアノの内部に、何かあるんですか」
僕が尋ねると、白瀬さんは答えた。
「可能性があります」
「凶器ですか」
「それも含めて」
「それも?」
「音の仕掛けと、殺害の痕跡は、別々に見えます。ですが、どちらも同じ部屋にあり、どちらも鍵盤の周辺に集まっている」
白瀬さんは、僕のメモ帳を指で軽く示した。
「低いラ。黒い糸。金属音。紙ロール。録音機。そして、蓮司さんの刺創」
「全部、音楽室のピアノに関係している」
「ええ」
「だから、鍵盤が覚えている」
僕が言うと、白瀬さんは小さく頷いた。
「少なくとも、鍵盤の周囲が何かを隠しています」
玲司さんは立ち上がった。
「僕も行きます」
「分かりました」
白瀬さんは止めなかった。
「ですが、今回も現場には必要最小限で入ります」
「誰が行くんですか」
「私、真柴さん、玲司さん。鷺沼さんには扉の外で待機してもらいます」
鷺沼は静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
久世さんが手を挙げるように指を動かした。
「私は?」
「来ないでください」
「即答ですね」
「あなたは、価値あるものを見ると近づきすぎます」
「否定しません」
「だからです」
久世さんは肩をすくめた。
奏太さんが、おずおずと口を開いた。
「あの、僕は」
「奏太さんも応接室に」
「でも、ピアノのことなら」
「だからこそ、です」
白瀬さんは言った。
「あなたは十一時頃、音楽室へ入って低いラを鳴らした。その行動は重要です。今、現場へ戻せば、あなたの記憶と現場の状態が混ざります」
奏太さんは反論できなかった。
篠原さんの意識はまだ完全には戻っていない。
美和さんが付き添い、紗英さんも応接室に残ることになった。
静乃さんは椅子に座ったまま、白瀬さんを見上げた。
「白瀬さん」
「はい」
「鍵盤は、音だけを覚えているわけではないわ」
その言葉に、白瀬さんは足を止めた。
「どういう意味ですか」
「宗一郎さんは、よく言っていたの」
静乃さんは、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「人は楽譜に嘘を書く。けれど、鍵盤に触れた指は嘘をつけない」
「指」
「ええ」
「誰が弾いたか、という意味ですか」
「さあ」
静乃さんは薄く笑った。
「私は、あの人の言葉を全部理解していたわけではないの」
「でも、覚えていた」
「忘れたかったから、覚えているのよ」
その声には、冷えた悲しみがあった。
僕はメモ帳に書いた。
人は楽譜に嘘を書く。
鍵盤に触れた指は嘘をつけない。
静乃さんの言葉。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
でも、今から向かう場所が、また少し怖くなった。
音楽室へ続く廊下は、何度通っても慣れなかった。
最初は、不気味な部屋へ向かう道だった。
次は、悲鳴のあとに駆けつける道だった。
その次は、死者を確認するための道。
そして今は、鍵盤の中に残されたものを見に行く道。
同じ廊下なのに、通るたびに意味が変わる。
壁のランプはまだ揺れている。
窓の外は霧と雨。
足元の絨毯は、僕らの足音を吸い込んでいく。
音楽室の扉の前で、鷺沼が鍵を差し込んだ。
かちゃり。
錠が外れる音。
僕はその音を聞くたびに、低いラの後に聞こえた金属音を思い出す。
鍵の音。
鎖の音。
時計の音。
何かが動いた音。
この館では、金属音にも意味がある。
扉が開いた。
音楽室の中は、相変わらず静かだった。
静かすぎるほどに。
蓮司さんの遺体は、そのままの場所にある。
譜面台には、現場に置かれていた第五楽章。
自動演奏ピアノには紙ロール。
グランドピアノの低いラには黒い糸。
すべてが、まだ演奏の途中のように置かれていた。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「今回は、グランドピアノの内部を見ます」
「開けるんですか」
「はい。ただし、触れる場所を最小限にします」
彼女は白い手袋をつけた。
鷺沼が扉の外からランプを差し出す。
白瀬さんはそれを受け取り、グランドピアノの蓋へ向かった。
大きな黒い蓋。
夕方は閉じられていた。
蓮司さんが倒れていた時も、完全には開いていなかった。
この中に何かがある。
そう思うと、黒い蓋が棺の蓋のように見えた。
白瀬さんは慎重に蓋を持ち上げた。
重い木が、ゆっくりと開く。
中から、弦と金属フレームが現れた。
複雑に張られた弦。
ハンマー。
ピン。
黒い影。
ランプの光が、金属の上で鈍く反射した。
僕は息を止めた。
ピアノの中は、美しいはずなのに、今はまるで何かの内臓のように見えた。
「低音側」
白瀬さんが言った。
「低いラの周辺を見ます」
僕はメモ帳を構えた。
玲司さんは少し離れた場所で、拳を握っている。
白瀬さんは、ランプを低音側へ近づけた。
黒い糸が、鍵盤の奥から内部へ伸びている。
それはピアノの内側を通り、小さな金属輪を経由して、床の方へ落ちていた。
前回確認した通りだ。
けれど、今回はさらに奥を見る。
弦の下。
フレームの影。
ハンマーの奥。
白瀬さんの動きが、そこで止まった。
「ありました」
声は小さかった。
しかし、その一言で部屋の空気が凍った。
「何が」
玲司さんが尋ねる。
白瀬さんは、ランプを少し角度を変えて掲げた。
僕にも見えた。
ピアノ内部の低音弦の奥。
金属フレームの影に沿うように、細い道具が差し込まれていた。
長さは二十センチほど。
細く、硬そうな金属。
先端は尖っている。
柄の部分に、暗い赤褐色のものが付着していた。
僕は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「調律道具です」
白瀬さんが言った。
「細いチューニングピン用の補助具か、古い調整用の工具に近い」
「それが」
玲司さんの声が震えた。
「兄を刺した凶器ですか」
「断定はできません」
白瀬さんは言った。
「ですが、形状と付着物を見る限り、可能性は高いです」
凶器。
ようやく、その言葉が現実の形を持った。
礼拝室の金属棒でもない。
見える場所に落ちていた刃物でもない。
凶器は、ピアノの内部に隠されていた。
鍵盤の奥。
低いラの近く。
黒い糸と同じ場所。
鍵盤が覚えている。
その言葉が、今度はまったく違う意味を帯びた。
鍵盤は、音だけではなく、刃を隠していた。
「触らないでください」
白瀬さんは、自分自身に言い聞かせるように言った。
「位置だけ記録します」
「はい」
僕は急いで書く。
グランドピアノ内部。
低音側、低いラ周辺。
金属フレームの影に、細い調律道具。
先端は尖っている。
柄に赤褐色の付着物。
凶器の可能性。
白瀬さんは、さらに内部を観察した。
「道具の周囲に、擦れ跡があります」
「最近入れられた?」
「おそらく」
「犯人が隠した」
「可能性があります」
「事件後に?」
「それも、事件前に準備されていた可能性もあります」
「凶器を、先にピアノの中に隠しておいた?」
「はい」
玲司さんが顔を歪めた。
「兄は、ここで刺されたんですよね」
「胸の傷と位置関係を見れば、その可能性は高いです」
「では、犯人は刺した後、凶器をここに戻した?」
「あるいは、ここから取り出して使い、再び戻した」
「そんな余裕が、密室の中で?」
「密室が本当に密室なら、余裕が必要です」
白瀬さんは、低い声で言った。
「でも、密室そのものが演出なら、別です」
密室そのものが演出。
事件の発見以来、ずっと目の前にあった言葉。
音楽室は密室のように見える。
だが、それが本当に密室だったとは限らない。
扉が開かなかったこと。
窓が内側から閉まっていたこと。
そのすべてが、誰かに見せるための状態だったのかもしれない。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「凶器の位置を書いたら、次に書いてください」
「何をですか」
「凶器は、事件現場の外へ消えたのではなく、現場内に隠されていた可能性がある」
僕はそのまま書いた。
凶器は消えたのではない。
ピアノ内部に隠されていた。
その一文を書いた時、事件がまた少し変わった。
犯人は、凶器を外へ持ち出さなくてもよかった。
密室の外へ逃げる必要も、凶器を持って逃げる必要も、必ずしもない。
凶器は最初から、この部屋の中にあった。
そして、今もこの部屋の中にある。
「白瀬さん」
玲司さんが言った。
「この道具を使える人間は限られますか」
「ある程度は」
「調律師ですか」
「調律師なら扱えるでしょう」
玲司さんの視線が、一瞬、白瀬さんへ向いた。
僕も気づいた。
白瀬透子は元ピアノ調律師だ。
彼女自身も、この道具を扱える。
しかし、その視線に白瀬さんは動じなかった。
「私にも扱えます」
彼女は自分から言った。
「ただし、私はこの館に来た時点では、このピアノ内部の道具の存在を知りませんでした」
「それを証明できますか」
玲司さんの声は苦しかった。
疑いたいわけではない。
けれど、疑わなければならない。
そういう声だった。
「証明はできません」
白瀬さんは答えた。
「ですが、私は今、その可能性も含めて記録させています」
僕はペンを止めた。
白瀬さんが、自分に疑いが向くことまで認めた。
それは、彼女が逃げていない証拠のように思えた。
けれど、証拠ではない。
そう思うこと自体も、僕の感情だ。
メモには書かない。
「調律道具を扱える人物」
白瀬さんは続けた。
「私。宗一郎さん。蓮司さん。篠原さんも、清書だけでなく楽譜管理やピアノ周辺の作業に関わっていたなら、知識があった可能性があります」
「奏太さんは?」
「作曲を学んでいても、調律道具の扱いに詳しいとは限りません」
「鷺沼さんは」
「館の管理者として、場所を知っていた可能性はあります」
扉の外にいる鷺沼は、何も言わなかった。
僕は書く。
凶器を扱える可能性がある人物。
白瀬、宗一郎、蓮司、篠原。
場所を知っていた可能性がある人物。
鷺沼。
その他は不明。
「この凶器が見つかったことで、篠原さんはどうなりますか」
僕は尋ねた。
「第五楽章の共作者候補であり、楽譜管理に関わり、音楽室にも詳しい」
白瀬さんは静かに言った。
「そして、調律道具の存在を知っていた可能性がある人物になります」
「かなり近いですね」
「近いです」
「でも、篠原さんは襲われました」
「はい」
「自分で自分を襲ったのでなければ、別の誰かも動いています」
「その通りです」
僕は書いた。
篠原は真相に近い。
しかし襲撃被害者でもある。
殺害犯か、真相を知る人物か、あるいはその両方かは不明。
その時、自動演奏ピアノの方で、小さな音がした。
かたり。
僕はびくりと肩を震わせた。
白瀬さんもすぐに振り向く。
自動演奏ピアノは、動いていない。
紙ロールも回っていない。
けれど、底板のあたりから、ほんの小さな機械音が聞こえた気がした。
「録音機です」
白瀬さんが言った。
「まだ動くんですか」
「古いゼンマイ式なら、少し力が残っていることがあります」
「確認しますか」
「はい」
彼女はグランドピアノの蓋を慎重に戻した。
完全には閉じず、凶器の位置が分かるように最小限の状態を保つ。
それから自動演奏ピアノへ向かった。
底板の隙間。
録音機らしき黒い箱。
白瀬さんは、できるだけ触れずに状態を確認していた。
「再生装置があります」
「悲鳴が入っているかもしれない?」
「はい」
僕は息を呑んだ。
あの悲鳴。
僕だけが聞いた、短い声のような音。
それが本当に録音だったのか。
今、確かめられるかもしれない。
白瀬さんは、一度こちらを見た。
「真柴さん」
「はい」
「聞く覚悟はありますか」
僕はすぐには答えられなかった。
悲鳴をもう一度聞く。
それは、あの夜の音楽室の扉の前へ戻ることだった。
低いラ。
金属音。
短い悲鳴。
開かない扉。
そして、遺体。
でも、聞かなければならない。
僕は頷いた。
「あります」
白瀬さんは、録音機の再生つまみに手をかけた。
その瞬間、扉の外で鷺沼が言った。
「お待ちください」
声が、いつもより強かった。
白瀬さんは手を止める。
「なぜですか」
鷺沼は、扉の外から静かに答えた。
「その音は、旦那様のものかもしれません」
「宗一郎さんの?」
「はい」
「だから聞くなと?」
「いいえ」
鷺沼は少しだけ沈黙した。
「聞けば、戻れなくなるかもしれません」
その言葉は、篠原さんの言葉に似ていた。
戻らないものを、無理に戻そうとすると、壊れるものもあります。
終わったはずの音が、戻ってしまう。
僕は喉が乾いた。
白瀬さんは、扉の外の鷺沼へ向けて言った。
「それでも、聞きます」
「……かしこまりました」
鷺沼はそれ以上止めなかった。
白瀬さんは、録音機のつまみを回した。
かちり。
古い機械が、ゆっくりと動き始める。
ざらざらとした雑音。
遠い雨音のようなノイズ。
そして、古い男の声が聞こえた。
『蓮司』
玲司さんが息を呑んだ。
「伯父の声です」
録音の中の宗一郎は、低く、硬い声で続けた。
『第五楽章を返しなさい』
別の声が答えた。
若い男の声。
玲司さんに似ている。
けれど、少し違う。
もっと鋭く、疲れていて、怒りを含んでいる。
『返す? 違う。これは、僕の曲だ』
玲司さんが、震える声で呟いた。
「兄さん……」
録音の中で、宗一郎が言った。
『お前の名前では残せない』
『なぜです』
『雨宮家のためだ』
『雨宮家のために、僕の名前を消すんですか』
ノイズが走る。
ざざ、という音。
その奥で、紙が擦れるような音がした。
そして、もう一つの声。
女の声。
とても小さい。
けれど、確かに聞こえた。
『やめてください、先生』
僕は息を止めた。
篠原さんの声。
七年前の篠原千鶴の声だった。
録音の中で、蓮司さんが叫ぶ。
『篠原さんの名前も消すつもりですか』
宗一郎の声。
『あの名前は、最初からない』
次の瞬間、録音の中で何かが倒れる音がした。
金属音。
そして、短い悲鳴。
僕の全身が凍った。
それは、僕が零時頃に聞いた悲鳴に似ていた。
あまりにも、似ていた。
録音機は、ざらざらとしたノイズを残して止まった。
音楽室は、再び沈黙した。
僕は、しばらく息ができなかった。
白瀬さんが静かに言った。
「真柴さん」
「はい」
「今の悲鳴は、あなたが聞いたものと似ていましたか」
僕は、喉の奥から声を出した。
「似ていました」
「同じだと断定できますか」
「断定はできません」
「それでいいです」
僕はメモ帳に書こうとした。
だが、手が震えて文字が歪んだ。
録音機には、七年前の宗一郎、蓮司、篠原の会話が残っていた。
第五楽章の名前をめぐる口論。
篠原の名前も消されようとしていた。
録音の最後に、金属音と短い悲鳴。
真柴が聞いた悲鳴と似ている。
白瀬さんは言った。
「これで、零時頃の悲鳴は死亡時刻の証拠ではなくなりました」
玲司さんは、ピアノに手をついた。
「兄は、七年前にも……」
「少なくとも、七年前にこの部屋で何かがありました」
「伯父が、兄の名前を消そうとした」
「はい」
「篠原さんの名前も」
「はい」
玲司さんは、顔を歪めた。
「僕は、何も知らなかった」
白瀬さんは何も言わなかった。
僕も何も言えなかった。
この録音は、七年前の罪を鳴らした。
そして同時に、今夜の事件がその罪を利用していることを示していた。
悲鳴は、今夜の蓮司さんのものではないかもしれない。
低いラと金属音と悲鳴は、七年前の音をもう一度鳴らすために使われたのかもしれない。
鍵盤が覚えている。
宗一郎の日記にあった言葉は、比喩ではなかった。
少なくとも、この部屋では。
そして誰かが、その音を今夜、もう一度演奏したのだ。




