第9話 本物の第五楽章
時計塔から降りる階段は、上がった時よりも長く感じられた。
石壁は湿っている。
足元は狭い。
鷺沼の持つランプの光が、階段の壁に揺れる影を作っていた。
その影が、時々人の形に見える。
僕は何度も振り返りそうになった。
さっき、時計塔の機械室にいた人影。
長いコート。
黒い手袋のようなもの。
霧の中へ逃げていった、正体不明の人物。
あれは本当に人だったのか。
誰だったのか。
鷺沼なのではないか、という考えが一瞬頭をよぎった。
けれど、鷺沼は僕らの前にいた。
時計塔の中で、ずっと先頭を歩いていた。
少なくとも、僕の目にはそう見えていた。
見えていた。
その言葉が、今はもう簡単には信じられない。
この館では、見たものも、聞いたものも、そのまま信じてはいけない。
白瀬さんは、油紙に包まれた楽譜を両手で持っていた。
時計塔の保管庫から見つかった、本物らしき第五楽章。
表紙には、『霧雨館組曲 第五楽章』。
その下には、雨宮蓮司の名前。
そして、削られたもう一人の名前。
僕はそれを思い出すたびに、喉の奥が乾いた。
蓮司さんは、第五楽章を盗んだのではなかったのかもしれない。
むしろ、第五楽章は蓮司さんのものだったのかもしれない。
なら、七年前の失踪とは何だったのか。
宗一郎は、何を隠したのか。
階段を降りきると、玄関ホールの冷たい空気が流れ込んできた。
ホールには誰もいなかった。
遠く、応接室の方から人の声が聞こえる。
紗英さん。
奏太さん。
久世さん。
静乃さん。
そして、篠原さんの部屋には美和さんがいるはずだった。
玲司さんは、階段を降りるなり口を開いた。
「白瀬さん」
「はい」
「その楽譜を見せてください」
声は抑えられていた。
けれど、抑えきれない焦りが滲んでいる。
「応接室で確認します」
「ここで」
「ここでは駄目です」
「なぜです」
「全員の前で確認するべきだからです」
玲司さんは唇を噛んだ。
白瀬さんは静かに続けた。
「この楽譜は、雨宮家だけのものではない可能性があります」
「兄の名前があったからですか」
「はい」
「もう一人の名前も」
「はい」
玲司さんは何か言いかけて、やめた。
僕たちは応接室へ向かった。
扉を開けると、全員の視線が一斉にこちらへ向いた。
紗英さんが立ち上がる。
「玲司さん」
「大丈夫だ」
その言葉に、紗英さんは顔を歪めた。
また大丈夫と言った。
そう思ったのだろう。
けれど今は、それを責める余裕もなかった。
久世さんの視線は、すぐに白瀬さんの手元へ向かった。
「それは」
「時計塔の保管庫から見つかりました」
白瀬さんは答えた。
「第五楽章ですか」
「その可能性があります」
久世さんの目が光った。
彼はすぐに立ち上がろうとした。
「拝見しても?」
「近づかないでください」
白瀬さんの声が、いつもより少しだけ鋭かった。
久世さんは動きを止めた。
「失礼」
「この楽譜は、現場の譜面台に置かれていたものとは別物です」
応接室の空気が変わった。
奏太さんが、ほとんど叫ぶように言った。
「別物?」
「はい」
「じゃあ、現場にあった第五楽章は」
「本物とは限りません」
篠原さんの部屋の方から、美和さんが戻ってきた。
顔色はまだ悪い。
「篠原様は、少し落ち着かれました。まだ意識は戻りませんが……」
彼女はそこで、白瀬さんの手元を見た。
「それは」
「第五楽章かもしれません」
美和さんは息を呑んだ。
白瀬さんは、応接室の中央のテーブルに油紙ごと楽譜を置いた。
ただし、広げる前に言った。
「誰も触れないでください」
誰も答えなかった。
全員が楽譜を見ていた。
白瀬さんは、白い手袋をしたまま油紙を開いた。
黄ばんだ表紙が現れる。
霧雨館組曲 第五楽章。
その文字を見た瞬間、奏太さんが一歩近づきかけた。
だが、白瀬さんが視線だけで止める。
奏太さんはその場で立ち尽くした。
「表紙の下」
白瀬さんが言った。
「作者名と思われる記載があります」
玲司さんが震える声で言った。
「兄の名前が」
「はい」
僕も見た。
雨宮蓮司。
その名は、かすれてはいるが確かに読めた。
その横に、もう一つの名前がある。
しかし、黒いインクで塗り潰され、さらに刃物か何かで削られている。
読めない。
読ませないために消されている。
「もう一人の名前は」
紗英さんが小さく言った。
「誰なんですか」
「まだ分かりません」
白瀬さんは答えた。
「ただ、消されたということは、最初からなかった名前ではありません」
「誰かが、消した」
僕が言うと、白瀬さんは頷いた。
「ええ」
久世さんは、いつもの調子を取り戻そうとしているようだった。
「これは、とんでもない来歴ですね」
「久世さん」
玲司さんが低い声で言った。
「黙ってください」
「失礼」
久世さんは軽く頭を下げた。
しかし、その視線は楽譜から離れない。
商人の目だった。
死者の名を見ても、消された名を見ても、彼はまず価値を見ている。
僕はそのことに嫌悪を覚えた。
同時に、彼の目がどこか正確であることも感じた。
久世さんは、価値のあるものと、作り物を見分ける仕事をしている。
その目は、時に事件の役に立つかもしれない。
認めたくはなかったけれど。
「久世さん」
白瀬さんが呼んだ。
「はい」
「あなたは美術商として、古い紙や筆跡を見ることがありますね」
「ええ」
「この表紙の消された名前について、どう見ますか。触れずに」
久世さんは、少し表情を変えた。
商売人の軽さが消え、鑑定士の顔になる。
彼はテーブルの少し手前で足を止め、表紙を覗き込んだ。
「削っていますね」
「やはり」
「インクで塗っただけではありません。刃で表面を削っている。かなり強く」
「いつ頃の処理に見えますか」
「断定はできませんが、新しくはない。紙の変色を見る限り、少なくとも数年以上前でしょう」
「七年前の可能性は?」
「あります」
応接室に沈黙が落ちた。
七年前。
また、そこへ戻る。
「塗り潰された名前は、復元できますか」
僕が尋ねると、久世さんは首を傾げた。
「専門の分析をすれば、あるいは。ただ、ここでは無理です」
「目で読める部分は?」
「ほとんどありません」
久世さんは目を細めた。
「ですが、文字数はそれほど長くない。三文字か四文字。名字か名前かは分かりません」
三文字か四文字。
僕はメモした。
消された名前。
古い処理。
七年前の可能性。
文字数は三文字か四文字。
それが誰を指すのか、今は分からない。
白瀬さんは、篠原さんがいない応接室を一度見渡した。
その視線に、僕は気づいた。
彼女は、消された名前と篠原さんの不在を、同時に見ているようだった。
「奏太さん」
白瀬さんが言った。
「はい」
「この楽譜を見て、何か分かりますか」
奏太さんは緊張した顔で近づいた。
触れないように、譜面を覗き込む。
ページをめくることはできない。
表紙と、わずかに見える最初の譜面だけ。
それでも、奏太さんの顔色が変わった。
「これ……」
「何か?」
「宗一郎先生の書き方と、少し違います」
玲司さんが顔を上げた。
「違う?」
「はい。先生は、音の詰め方に癖がありました。余白を嫌うんです。譜面を埋めるように書く。でも、これは」
「これは?」
「余白がある」
僕には、楽譜の余白がどれほど重要なのか分からない。
だが、奏太さんには分かるらしい。
「蓮司さんの書き方ですか」
白瀬さんが尋ねた。
「僕は、蓮司さんの譜面をほとんど見たことがありません。でも、先生とは違うと思います」
「もう一人の人物の可能性は?」
「分かりません」
「共作の可能性は?」
奏太さんは、はっとしたように白瀬さんを見た。
「共作……」
その言葉が応接室に落ちた。
第五楽章は、宗一郎の未発表曲ではない。
蓮司の曲かもしれない。
あるいは、蓮司と誰かの共作かもしれない。
その誰かの名前が、消された。
僕は背筋が冷たくなった。
名前を消す。
それは、殺すことに似ている。
少なくとも、作品の上では。
「静乃さん」
白瀬さんが言った。
老婦人は、椅子に座ったまま目を細めていた。
「あなたは、第五楽章が名前に関わる曲だと言いました」
「言ったかしら」
「言いました」
「そう」
静乃さんは小さく笑った。
「年寄りは、余計なことを言うものね」
「この消された名前に心当たりはありますか」
静乃さんはすぐには答えなかった。
暖炉の火が、小さく揺れている。
「心当たりなら、いくつかあるわ」
「いくつか?」
「宗一郎さんに名前を奪われた人は、一人ではないもの」
玲司さんの表情が変わった。
「叔母様、それはどういう意味ですか」
「そのままよ」
「伯父が、誰かの曲を奪ったということですか」
「私はそうは言っていないわ」
「でも」
「言葉は慎重に使わないといけないのよ、玲司」
静乃さんは静かに言った。
「特に、この館では」
白瀬さんは、静乃さんを見つめた。
「あなたは、宗一郎さんの罪を知っている」
「知っていると言えるほど、証拠は持っていないわ」
「では、疑っている」
「ええ」
「七年前から?」
「もっと前から」
もっと前。
宗一郎の罪は、七年前に突然生まれたものではない。
その前から、館の中に積もっていた。
第五楽章は、その最後の形だったのかもしれない。
「この楽譜は、警察に渡すべきです」
玲司さんが言った。
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「ただし、警察が来るまで、誰にも触らせないように保管します」
「どこに」
「この応接室では危険です」
「書斎は?」
「鍵が問題です」
「音楽室は論外ですね」
「はい」
鷺沼が静かに言った。
「一時的に、私が管理いたします」
全員の視線が鷺沼へ向いた。
彼は黒い手袋をした手を前で揃え、いつも通りの姿勢で立っている。
「金庫がございます。旦那様の書斎奥の資料庫に」
「その鍵は?」
白瀬さんが尋ねる。
「玲司様と私が管理しております」
「先生の鍵束とは別ですか」
「はい」
「今、その鍵は?」
「私が所持しております」
白瀬さんは、しばらく鷺沼を見ていた。
「分かりました。ただし、保管は玲司さん立ち会いで行ってください。真柴さんも記録を」
「はい」
僕は頷いた。
その時、篠原さんの部屋の方から足音が聞こえた。
美和さんが慌てた様子で戻ってくる。
「白瀬様」
「どうしました」
「篠原様の意識が、少し」
白瀬さんはすぐに立ち上がった。
「戻りましたか」
「はい。ただ、うわごとのように」
「何か言いましたか」
美和さんは、怯えたように頷いた。
「第五楽章は……返してはいけない、と」
応接室の空気が凍った。
「返してはいけない?」
僕が呟く。
白瀬さんの表情は変わらなかった。
だが、目だけが鋭くなった。
「誰に返してはいけないのか」
「それは……」
美和さんは首を振った。
「分かりません。でも、もう一つ」
「何ですか」
「『私の名前は、いらない』と」
その瞬間、僕は表紙の消された名前を見た。
黒く塗り潰され、削られた、もう一人の名前。
私の名前は、いらない。
篠原さんは、そう言った。
偶然かもしれない。
頭を打って混乱しているだけかもしれない。
でも、この館でそれをただの偶然として片づけるには、もう遅すぎた。
白瀬さんは、静かに言った。
「篠原さんに話を聞きます」
「でも、まだ」
「無理はさせません。ただ、今ならまだ残っている言葉があるかもしれません」
僕はメモ帳を握った。
事件は、また篠原さんへ戻っていく。
第五楽章。
消された名前。
返してはいけない。
私の名前は、いらない。
それらはまだ、一本の線にはならない。
けれど、確かに同じ譜面の上に置かれていた。
白瀬さんは、第五楽章の楽譜を油紙に戻した。
その手つきは慎重だった。
まるで、楽譜ではなく、誰かの傷に触れているようだった。




