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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第三章 十一時二十分のアリバイ

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第8話 時計塔への扉

 時計塔です。


 白瀬さんがそう言った瞬間、書斎の空気が変わった。


 誰もが、同時に館の中央を意識したのだと思う。


 霧雨館の上にそびえる時計塔。


 十一時二十分で止まった文字盤。


 七年前にも止まったという時計。


 宗一郎の日記。


 割れた懐中時計。


 蓮司への手紙。


 そして今、消えた先生の鍵。


 すべてが、塔へ向かっている。


「行きましょう」


 玲司さんが言った。


 声には焦りがあった。


「誰かが塔にいるなら、今すぐ確認しないと」


「待ってください」


 白瀬さんが止めた。


「また待つんですか」


「はい」


「篠原さんが襲われたんですよ。鍵も盗まれた。今、塔で何かが起きているかもしれない」


「だからこそ、誰が行くかを決めます」


 玲司さんは言葉を詰まらせた。


 白瀬さんは、書斎にいる全員を見た。


 僕。


 玲司さん。


 紗英さん。


 鷺沼。


 そして、少し遅れて廊下から顔を出した久世さんと奏太さん。


 静乃さんは階段を上がれないため、応接室に残っている。


 美和さんは篠原さんの部屋で手当てを続けているはずだった。


「時計塔は狭い場所です」


 白瀬さんが言った。


「全員で行けば、足跡も物の位置も分からなくなります」


「では、誰が」


「私と真柴さん」


「またですか」


 僕は思わず言った。


「記録係ですから」


「ですよね」


「それから、玲司さん。鍵と塔の構造を確認するために必要です」


「行きます」


 玲司さんは即答した。


「鷺沼さん」


「はい」


「あなたも来てください。館の鍵管理と通路を知っている」


「かしこまりました」


 紗英さんが不安そうに言った。


「私は?」


「応接室に戻ってください」


「でも」


「篠原さんの容体もあります。美和さんを一人にしないでください」


 紗英さんは玲司さんを見た。


「玲司さん」


「大丈夫だ」


「大丈夫って言わないで」


 その声は、かすかに震えていた。


「あなたは、いつもそう言って一人で行こうとする」


「一人じゃない」


「でも、戻ってくる保証はない」


 玲司さんは言葉に詰まった。


 その沈黙を破ったのは、白瀬さんだった。


「紗英さん」


「……はい」


「玲司さんを守りたいなら、ここで待っていてください」


「待つことが守ることになるんですか」


「今は」


 白瀬さんの声は静かだった。


「誰かが人を動かそうとしています。音で、鍵で、手紙で。動かされる人が増えるほど、事件は混ざります」


 紗英さんは唇を噛んだ。


 やがて、小さく頷いた。


「分かりました」


 久世さんが、書斎の入口で軽く手を上げた。


「私は?」


「応接室へ」


「私は時計塔にも興味があります」


「でしょうね」


 白瀬さんは即答した。


「だからこそ、来ないでください」


 久世さんは一瞬だけ目を細めた。


 それから、いつもの笑みを浮かべた。


「信用がありませんね」


「興味が強すぎる人は、現場では危険です」


「手厳しい」


 奏太さんは何か言いたそうにしていたが、白瀬さんに視線を向けられると、すぐに目を伏せた。


「奏太さんも、応接室へ」


「……はい」


「ただし、全員で一箇所にいてください。誰も一人にならないように」


 誰も反論しなかった。


 それほどまでに、この館では一人になることが危険に思えた。


 僕はメモ帳を持ち直した。


 先生の鍵束が消えた。


 時計塔から金属音。


 塔へ向かう人物は、白瀬、真柴、玲司、鷺沼。


 そう書いてから、僕らは書斎を出た。


 時計塔へ続く扉は、玄関ホールの奥にあった。


 第一章で館に入った時には気づかなかった。


 ホールの右奥、古いタペストリーの影に、細い木扉が隠れるように設けられている。


 鷺沼がランプを掲げた。


「こちらです」


 扉には、古い真鍮の鍵穴があった。


 その周囲だけ、何度も鍵を差し込まれたように傷がついている。


「この扉は普段、施錠されています」


 鷺沼が言った。


「開けられる鍵は、旦那様の鍵束に」


「今はその鍵束がない」


 玲司さんが言った。


「はい」


 鷺沼は鍵穴を確認した。


「ですが」


「どうしました」


「開いております」


 僕は息を呑んだ。


 白瀬さんは扉に触れず、鍵穴を見た。


「こじ開けた跡は?」


「見たところ、ありません」


「正しい鍵で開けられた」


「おそらく」


 玲司さんが低く言った。


「鍵束を盗んだ人物が、ここを開けた」


「その可能性が高いです」


 白瀬さんは答えた。


 鷺沼が扉をゆっくり押した。


 古い蝶番が、ぎい、と低く鳴る。


 中は暗かった。


 石造りの狭い階段が、上へ伸びている。


 湿った冷気が降りてきた。


 木と金属と油の匂い。


 音楽室とは違う匂いだった。


 もっと機械に近い。


 もっと古い。


 時計の腹の中に入るような匂い。


「足元に気をつけてください」


 鷺沼が言った。


「階段は急です」


 僕らは一列になって階段を上がった。


 先頭は鷺沼。


 次に白瀬さん。


 僕。


 最後に玲司さん。


 階段は狭く、肩が壁に触れそうだった。


 石壁は冷たく湿っている。


 上へ進むほど、雨音が遠ざかり、代わりに機械の沈黙が近づいてくる。


 時計塔なのに、時計の音はしない。


 歯車も、振り子も、何も動いていない。


 それなのに、僕には何かが待っているように感じられた。


 途中で、白瀬さんが足を止めた。


「今、何か聞こえましたか」


 僕は耳を澄ませた。


 最初は何も聞こえなかった。


 だが、少しして、遠くで細い金属音がした。


 ちん。


 音楽室で聞いた金属音よりも、少し乾いている。


 けれど、似ていた。


「上ですね」


 白瀬さんが言った。


 鷺沼が頷く。


「機械室かと」


「急ぎましょう」


 玲司さんが後ろから言った。


「急ぎすぎないでください」


 白瀬さんは振り返らずに答えた。


「階段で転べば、次の被害者になります」


 玲司さんは黙った。


 僕らはさらに上へ進んだ。


 階段の先に、木製の小さな扉があった。


 鷺沼が取っ手に手をかける。


 開いている。


 扉の向こうには、時計塔の機械室があった。


 そこは、館の中でありながら、別の建物のようだった。


 巨大な歯車。


 錆びた軸。


 天井から吊られた重り。


 太い鎖。


 木の足場。


 壁の向こう側には、時計塔の文字盤の裏側があるらしい。


 淡い光が、文字盤の隙間から差し込んでいる。


 外は雨と霧。


 その白い光の中で、歯車の影が床に落ちていた。


 時計は、止まっている。


 だが、止まっているものの中に、何かが仕掛けられていた。


「これは……」


 玲司さんが呟いた。


 機械室の中央に、先生の鍵束が落ちていた。


 古い真鍮の鍵がいくつも束ねられている。


 その横には、黒い糸の切れ端。


 さらに、床板の一部に、濡れたような黒い染みがあった。


「触らないでください」


 白瀬さんが言った。


 僕は慌ててメモ帳を開いた。


 時計塔機械室。


 先生の鍵束あり。


 黒い糸の切れ端。


 床に黒い染み。


 白瀬さんは鍵束を見た。


「ここに置いた」


「捨てた、ではなく?」


 僕が聞くと、白瀬さんは頷いた。


「捨てるなら階段の途中でもいい。ここにあるということは、この場所で使ったか、見せるために置いたか」


「また、見せるため」


「ええ」


 白瀬さんは、黒い糸の切れ端を見た。


「音楽室の糸と似ています」


「低いラの仕掛けの?」


「はい」


「時計塔にも同じ糸が」


「つながっている可能性があります」


 玲司さんが顔を上げた。


「音楽室と時計塔が?」


「音で、あるいは機械で」


 白瀬さんは、機械室の壁際へ進んだ。


 そこには細い金属管があった。


 壁の内側へ入り込むように、古い配管が伸びている。


 水道管ではない。


 もっと細く、内側が空洞になっている。


「音響管のようですね」


 白瀬さんが言った。


「音響管」


 僕は、さっき応接室で話していた音の矛盾を思い出した。


 部屋と部屋の間に音を通す管。


 もしこれが音楽室につながっているなら。


 時計塔で鳴った金属音が、音楽室で聞こえる。


 音楽室で鳴った音が、別の場所へ届く。


 僕が聞いた金属音の発生場所は、音楽室ではなかったかもしれない。


「この管は、どこへ?」


 玲司さんが尋ねた。


 鷺沼が答える。


「存じません」


「使用人なのに?」


「旦那様は、時計塔内部の改修については私にも詳しくお話しになりませんでした」


「伯父が隠していた?」


「おそらく」


 白瀬さんは管に耳を近づけた。


 触れはしない。


 ただ、じっと音を聞いている。


「向こうで音が反響しています」


「音楽室ですか」


「断定はできません。ただ、音楽室の方角へ伸びています」


 僕は書く。


 時計塔に音響管。


 音楽室方面へ伸びている可能性。


 金属音は時計塔から伝わった可能性。


 その時、玲司さんが機械の奥を指差した。


「白瀬さん、あれは」


 機械室の奥、重りの下。


 そこに、小さな箱があった。


 古い木箱。


 蓋には錆びた金具。


 そして、その金具には鍵穴がある。


「保管庫……?」


 僕が呟いた。


 篠原さんのメモ。


 第五。


 保管。


 塔。


 鍵。


 その言葉が、頭の中でつながった。


「鍵束の中に、この箱の鍵があるかもしれません」


 玲司さんが言った。


「触る前に確認します」


 白瀬さんは箱の周囲を見た。


 床に足跡はない。


 いや、あるのかもしれないが、古い埃と湿気で僕には判別できなかった。


 ただ、箱の上には埃が積もっていなかった。


 最近、誰かが触れたのだ。


「この箱は、開けられています」


 白瀬さんが言った。


「どうして分かるんですか」


「蓋の縁の埃が切れています」


 言われて見れば、蓋の周囲だけ細く埃が途切れている。


 白瀬さんは鍵束に触れず、目で鍵の形を確認した。


「鍵は戻されています。箱も閉じられている」


「中身は?」


「確認する必要があります」


 玲司さんが息を呑んだ。


「第五楽章が」


「あるかもしれません」


 白瀬さんは鷺沼を見た。


「手袋を」


「はい」


 鷺沼が白い手袋を差し出した。


 白瀬さんはそれをつけ、鍵束を拾った。


 鍵の一つを選び、木箱の鍵穴に差し込む。


 かちり。


 鍵は、あっけなく回った。


 蓋が開く。


 中には、油紙に包まれた薄い束が入っていた。


 白瀬さんはそれを慎重に持ち上げる。


 油紙を開くと、古い楽譜が現れた。


 表紙は黄ばんでいる。


 しかし、文字は読めた。


 霧雨館組曲 第五楽章。


 僕は息を止めた。


「本物……?」


 玲司さんが呟いた。


 白瀬さんはすぐには答えなかった。


 表紙の文字を見ている。


 それから、譜面台に置かれていた現場の第五楽章とは違う、とだけ言った。


「違う?」


 僕が聞く。


「紙が違います。筆跡も違う」


「では、音楽室にあった第五楽章は」


「少なくとも、これとは別物です」


 玲司さんは楽譜を見つめていた。


 手を伸ばしかけて、止める。


「伯父が隠していた第五楽章……」


「まだ、宗一郎さんのものとは限りません」


 白瀬さんが言った。


「どういう意味ですか」


「表紙を見てください」


 僕は表紙を見た。


 霧雨館組曲 第五楽章。


 その下に、小さく、別の文字があった。


 かすれている。


 インクが薄い。


 けれど、二つの名前のように見える。


 一つは、雨宮蓮司。


 もう一つは――


「読めません」


 僕は言った。


「消されています」


 白瀬さんは静かに答えた。


「削られたか、インクで潰されたか」


「蓮司さんの名前は残っている」


「ええ」


「もう一人の名前は消されている」


「そのようです」


 玲司さんの顔色が変わった。


「第五楽章は、兄の曲だった……?」


「可能性があります」


「でも、伯父は兄が盗んだと」


「宗一郎さんがそう言っただけです」


 その言葉は、鋭かった。


 玲司さんは何も言えなかった。


 七年間信じてきた話が、時計塔の暗い機械室で崩れていく。


 蓮司が盗んだ。


 蓮司が逃げた。


 蓮司が宗一郎を裏切った。


 その物語は、本当に正しかったのか。


 それとも、宗一郎が自分の罪を隠すために作ったものだったのか。


「これが本物なら、音楽室に置かれていた第五楽章は何なんですか」


 僕が言った。


「見せるための楽譜でしょう」


「誰に」


「私たちに」


「なぜ」


「現場を、第五楽章の事件に見せるため」


 白瀬さんは、楽譜を油紙に戻した。


「ですが、本物はここにあった」


「時計塔に」


「ええ」


「十一時二十分で止まった時計塔に」


 僕はメモ帳を握りしめた。


 事件の中心は、音楽室だけではなかった。


 本物の第五楽章は、時計塔に隠されていた。


 音楽室の第五楽章は、偽物か、見せかけ。


 そして、その本物には蓮司さんの名前があった。


 もう一人の名前は消されている。


「白瀬さん」


 僕は言った。


「もう一人の名前は、誰なんでしょう」


 彼女は答えなかった。


 だが、その沈黙は「分からない」ではなく、「まだ言わない」に近かった。


 その時、機械室の奥で何かが動いた。


 ぎい。


 古い木が軋む音。


 全員が振り向いた。


 歯車の影の向こう。


 木の足場の裏に、誰かがいた。


 黒い影。


 人の形。


「誰だ!」


 玲司さんが叫んだ。


 影は答えなかった。


 次の瞬間、影は塔の反対側の小扉へ駆け出した。


「待って!」


 僕は思わず叫んだ。


 影は小扉を開け、外へ消えた。


 時計塔の外部通路だ。


 雨と霧が、一瞬だけ機械室へ吹き込む。


 白い霧の中で、影の輪郭が揺れた。


 長いコート。


 黒い手袋のようなもの。


 それ以上は見えなかった。


 鷺沼がすぐに追おうとした。


「危険です」


 白瀬さんが止めた。


「外部通路は濡れています。落ちれば終わりです」


「しかし」


「今追えば、こちらが死にます」


 その声に、鷺沼は足を止めた。


 外部通路の扉は、雨風に揺れている。


 その向こうは霧で真っ白だった。


 影はもう見えない。


「誰だったんだ」


 玲司さんが呟いた。


 僕は息を整えながら、メモ帳に書いた。


 時計塔機械室で人影。


 長いコート。


 黒い手袋のようなもの。


 外部通路へ逃走。


 正体不明。


 書きながら、手が震えた。


 黒い手袋。


 また、その言葉が出てくる。


 でも、決めつけてはいけない。


 黒い手袋をしているのは鷺沼だけとは限らない。


 影の中で、そう見えただけかもしれない。


 霧と雨が、輪郭を歪ませたのかもしれない。


「戻りましょう」


 白瀬さんが言った。


「第五楽章を持って」


「はい」


「ただし、誰にも触らせないでください」


「分かりました」


 白瀬さんは油紙に包んだ楽譜を持ち、機械室をもう一度見回した。


 先生の鍵束。


 黒い糸。


 音響管。


 木箱。


 そして、逃げた人影。


 時計塔は、ただの塔ではなかった。


 霧雨館の音と時間を支配する場所だった。


 僕らは階段を降りた。


 背後で、古い歯車がまた小さく鳴った。


 かちり。


 まるで、止まっていた時計が、ほんの少しだけ動いたような音だった。

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