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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第三章 十一時二十分のアリバイ

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第7話 二階の悲鳴

 廊下を走る足音が、霧雨館の中に響いた。


 先頭は玲司さん。


 その後を、白瀬さん、僕、鷺沼が追う。


 音楽室から二階へ向かう廊下は、さっきまでよりも長く感じられた。


 壁のランプが揺れている。


 窓の外では雨が激しくなり、硝子を叩く音が館の内側にまで入り込んでいた。


 階段を上がる途中、応接室から紗英さんたちも出てきた。


「玲司さん!」


 紗英さんが叫んだ。


「篠原さんが倒れている」


 玲司さんはそれだけ言って、足を止めなかった。


 篠原さんの部屋は、二階廊下の中ほどにあった。


 扉は半開きになっている。


 その前で、美和さんが青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「美和、下がって」


 鷺沼が静かに言った。


 美和さんは頷いたが、足が震えているのか、すぐには動けなかった。


 僕は扉の前で足を止めた。


 中に入る前から、部屋の様子が少し見えた。


 倒れた椅子。


 床に散らばった書類。


 開いたままのトランク。


 そして、ベッドの脇に倒れている篠原千鶴さん。


 彼女はうつ伏せに近い姿勢で床に倒れていた。


 眼鏡は外れ、少し離れた場所に落ちている。


 左手は、何かを掴もうとしたように前へ伸びていた。


「篠原さん!」


 玲司さんが部屋へ踏み込もうとした。


「待ってください」


 白瀬さんが制した。


「また現場です」


「生きているかもしれない!」


「だからこそ、最低限だけ確認します」


 白瀬さんはすばやく部屋へ入り、篠原さんのそばに膝をついた。


 首元に手を近づける。


 触れるか触れないかの位置で、呼吸を確認する。


「息はあります」


 その一言で、僕はようやく息を吐いた。


 玲司さんも、壁に手をついた。


「よかった……」


「ただし、意識はありません」


 白瀬さんは篠原さんの後頭部を確認した。


「頭を打っています。出血は多くありませんが、動かし方には注意が必要です」


「医者は呼べないんですか」


 紗英さんが廊下から言った。


「電話は通じません」


 玲司さんが苦しそうに答える。


「車も出せない」


「応急処置を」


 白瀬さんは鷺沼を見た。


「救急箱は?」


「ございます。すぐに」


「美和さん、清潔なタオルを。玲司さん、篠原さんを動かすのは、私が確認してからにしてください」


「分かりました」


 鷺沼と美和さんが走っていく。


 白瀬さんは篠原さんの周囲を見回した。


 僕もメモ帳を開く。


 手が震えていた。


 けれど、書かなければならない。


 篠原の部屋。


 扉は半開き。


 椅子が倒れている。


 書類が散乱。


 篠原はベッド脇で倒れている。


 頭部を打っている。


 意識なし。


 呼吸あり。


 僕はそこまで書いてから、部屋の中を見渡した。


 篠原さんの部屋は、彼女らしい整った部屋だった。


 机の上には万年筆と手帳。


 壁際には小さな本棚。


 ベッド脇にはトランク。


 服や私物はきちんと畳まれている。


 その整然とした部屋の中で、倒れた椅子と散らばった書類だけが異物のように見えた。


「争ったんでしょうか」


 僕が小声で言うと、白瀬さんは床を見た。


「可能性はあります」


「誰かに襲われた?」


「それも可能性です」


 彼女は、篠原さんの伸ばされた左手を見た。


 その指先には、薄い黒い汚れがついていた。


 インクか。


 あるいは別のものか。


 最初に音楽室で見た時も、篠原さんの指には薄いインクの跡があった。


 だが、今の汚れはもう少し濃く見えた。


「真柴さん、左手」


「はい」


 僕は書く。


 篠原の左手指先に黒い汚れ。


「それは何ですか」


 玲司さんが尋ねた。


「まだ分かりません」


 白瀬さんは答えた。


「ですが、何かを掴もうとしたか、触れた可能性があります」


 その時、篠原さんの唇がかすかに動いた。


 白瀬さんが顔を近づける。


「篠原さん。聞こえますか」


 篠原さんの瞼が、わずかに震えた。


 意識が完全に戻ったわけではない。


 けれど、何かを言おうとしている。


「……かぎ」


 かすれた声だった。


 ほとんど息に近い。


 白瀬さんが静かに尋ねる。


「鍵?」


「……先生の……鍵を……」


 そこで、篠原さんの声は途切れた。


 再び意識が沈んだように、彼女の体から力が抜ける。


「先生の鍵」


 玲司さんが呟いた。


「伯父の鍵?」


「そのようです」


 白瀬さんは部屋の中を見回した。


「先生の鍵とは、何の鍵でしょう」


 その問いに答えたのは、戻ってきた鷺沼だった。


 救急箱を手にしている。


「旦那様が生前お持ちだった鍵束かと存じます」


「鍵束?」


 白瀬さんが振り返る。


「はい。書斎、音楽室、時計塔、古い保管庫など、旦那様が個人的に管理されていた鍵でございます」


「それは今どこに?」


「書斎の鍵箱に保管しているはずです」


「確認しましたか」


 鷺沼はわずかに沈黙した。


「先ほど日記を確認した際には、鍵箱までは確認しておりません」


「今すぐ確認を」


「かしこまりました」


「待ってください」


 白瀬さんが止めた。


「一人では行かないでください。玲司さん、同行できますか」


「はい」


「私も行きます」


 紗英さんが言った。


「玲司さんを一人にはできません」


 玲司さんは何か言いかけたが、結局頷いた。


「真柴さんは、ここで記録を続けてください」


「はい」


「篠原さんを動かす前に、部屋の状態をできるだけ書いておいてください」


 僕は頷いた。


「美和さん、篠原さんの呼吸が乱れたり、意識が戻ったりしたら、すぐに呼んでください。無理に動かさないで」


「はい」


 美和さんはタオルを差し出し、何度も頷いた。


 玲司さん、紗英さん、鷺沼が書斎へ向かう。


 白瀬さんはタオルを受け取り、篠原さんの頭部に慎重に当てた。


「強く押さえすぎないで」


「はい」


 美和さんの声は震えていた。


 部屋の外には、久世さんと奏太さん、静乃さんが集まっていた。


 久世さんは、いつものように軽口を叩く余裕がないようだった。


 奏太さんは青ざめている。


 静乃さんだけが、どこか静かな顔をしていた。


「先生の鍵」


 彼女が呟いた。


「とうとう、そこへ行くのね」


「静乃さん」


 白瀬さんが顔を上げる。


「先生の鍵について、何か知っていますか」


「宗一郎さんは、自分の鍵を誰にも触らせなかったわ」


「何の鍵ですか」


「書斎。音楽室。時計塔。それから、あの人が本当に隠したいものを入れておく場所」


「保管庫ですか」


「さあ」


 静乃さんは薄く笑った。


「私は妻だったけれど、あの人の所有物ではなかったから。鍵までは預けてもらえなかった」


 その言葉には、長年の冷えた怒りが滲んでいた。


「時計塔にも鍵が?」


 僕は尋ねた。


「あるわ。宗一郎さんは、よく夜中に塔へ上がっていた」


「何をしに?」


「時計を見に」


「止まっている時計を?」


「ええ」


 静乃さんは言った。


「止まっているものほど、あの人には大切だったの」


 僕はメモする。


 先生の鍵。


 宗一郎の鍵束。


 書斎、音楽室、時計塔、保管庫の鍵を含む可能性。


 宗一郎は夜中に時計塔へ上がっていた。


 止まっているものほど大切にしていた。


 その時、篠原さんの机の上にある手帳が目に入った。


 閉じられた手帳。


 横には万年筆。


 そして、書きかけのメモ用紙が一枚。


 僕は近づきすぎないようにして、文字を見た。


 白瀬さんが気づいて言う。


「読めますか」


「少しだけ」


「触らずに」


「はい」


 メモ用紙には、乱れた文字でいくつかの単語が書かれていた。


 第五。


 保管。


 塔。


 そして、最後に大きく一文字。


 鍵。


 僕はそれをそのまま読み上げた。


「第五、保管、塔、鍵」


 白瀬さんの表情が変わった。


「第五楽章は、時計塔に保管されている可能性がありますね」


「現場の第五楽章は?」


「本物とは限りません」


 また、その言葉だった。


 現場にあったもの。


 見つかるべき場所に置かれたもの。


 誰かに見せるためのもの。


 それらは、真実そのものではないかもしれない。


「篠原さんは、それを確認しようとして襲われた?」


 僕は言った。


「可能性があります」


「先生の鍵を取られた、と言っていました」


「なら、誰かが鍵を奪い、時計塔か保管庫へ向かった可能性があります」


 白瀬さんは篠原さんの左手をもう一度見た。


 黒い汚れ。


 何かを掴んだ跡。


「彼女は、奪った人物に触れたのかもしれません」


「黒い汚れは、その人物のもの?」


「可能性です」


「黒いもの……」


 僕は、無意識に鷺沼の黒い手袋を思い出した。


 だが、すぐに首を振った。


 決めつけてはいけない。


 黒い汚れが、黒い手袋と関係しているとは限らない。


 インクかもしれない。


 煤かもしれない。


 時計の油かもしれない。


 決めつけない。


 白瀬さんは、僕の顔を見て小さく頷いた。


「今、何かを思いましたね」


「鷺沼さんの手袋を」


「書いてもいいです。ただし、疑いではなく、連想として」


「分かりました」


 僕はメモした。


 篠原の左手に黒い汚れ。


 鷺沼の黒い手袋を連想したが、関係は不明。


 インク、煤、時計油などの可能性もある。


 廊下の向こうから、足音が近づいてきた。


 玲司さんたちが戻ってきたのだと思った。


 しかし、最初に姿を見せたのは鷺沼だけだった。


 顔色はいつも通りに見える。


 だが、目だけがわずかに硬かった。


「鍵箱を確認いたしました」


「鍵は?」


 白瀬さんが尋ねる。


「旦那様の鍵束が、なくなっております」


 部屋の空気が凍った。


「玲司さんと紗英さんは?」


「鍵箱の状態をご確認いただいております。私は先に報告へ戻りました」


「誰かが、宗一郎さんの鍵束を持ち出した」


「そのようです」


「鍵箱は壊されていましたか」


「いいえ」


「鍵箱の鍵は?」


「私が管理しているものを使いました」


「では、鍵箱を開けられる人物は?」


「私、玲司様。それから、旦那様の生前の予備鍵を持っている人物がいれば」


「予備鍵」


 白瀬さんは呟いた。


「それは誰が持っている可能性がありますか」


「分かりません」


 鷺沼の答えは短かった。


 短すぎるほどだった。


 白瀬さんは、しばらく彼を見つめた。


「分からない、ですね」


「はい」


「では、分からないまま置いておきます」


 鷺沼は頭を下げた。


 その時、廊下の奥から玲司さんの声がした。


「白瀬さん!」


 緊迫した声だった。


 僕と白瀬さんは顔を見合わせた。


「書斎です」


 白瀬さんが言った。


 篠原さんは美和さんに任せ、僕たちは急いで書斎へ向かった。


 書斎に入ると、玲司さんが机の前に立っていた。


 紗英さんはその隣で、両手を胸元に当てている。


 机の上には、開いた鍵箱。


 中にはいくつもの鍵が整然と並んでいる。


 しかし、中央の一箇所だけが空いていた。


 そこに収まっていたはずの鍵束が、なくなっている。


「これが、先生の鍵ですか」


 僕が尋ねると、玲司さんは頷いた。


「伯父が生前使っていた鍵束です」


「時計塔の鍵も?」


「含まれているはずです」


「他には?」


「古い保管庫。音楽室の予備鍵。書斎奥の資料庫」


 白瀬さんは、鍵箱に触れずに中を確認した。


「無理にこじ開けた跡はありません」


「鍵箱を開ける鍵が必要です」


 鷺沼が言った。


「または、すでに開いていた」


 白瀬さんが言うと、鷺沼は黙った。


「書斎は、日記を確認した時にも開けましたね」


「はい」


「その時、鍵箱は?」


「閉じていました」


「確認しましたか」


「目視では」


「中は確認していない」


「はい」


「では、その時点ですでに鍵束がなかった可能性もあります」


 僕はメモする。


 先生の鍵束が消失。


 鍵箱に破壊跡なし。


 いつなくなったか不明。


 日記確認時点ですでになかった可能性あり。


「鍵束を取った人物は、何を開けたいのでしょう」


 玲司さんが言った。


「時計塔か、保管庫」


 僕が答える。


 白瀬さんは頷いた。


「篠原さんのメモには、第五、保管、塔、鍵とありました」


「第五楽章は時計塔に?」


「可能性があります」


「でも、音楽室にあった第五楽章は」


「見せるためのものかもしれません」


 玲司さんは、苦しそうに机へ手をついた。


「何なんですか、この事件は」


 誰も答えなかった。


 答えられる者はいなかった。


 密室殺人だと思っていた。


 けれど今は、それだけではない。


 音楽室の仕掛け。


 録音機らしきもの。


 黒い糸。


 時計の重り。


 蓮司への手紙。


 宗一郎の日記。


 篠原さんの襲撃。


 消えた先生の鍵。


 時計塔。


 保管庫。


 事件は、音楽室の中だけに収まらなくなっていた。


 館全体が、一つの仕掛けになっている。


 そんな気がした。


「白瀬さん」


 僕は言った。


「次に行くべき場所は、時計塔ですか」


「おそらく」


「でも、鍵がありません」


「鍵を持っている人物が、先に向かっているかもしれません」


「今から追うんですか」


 白瀬さんは窓の外を見た。


 霧と雨。


 館の中央にそびえる時計塔。


 十一時二十分で止まったままの文字盤。


「はい」


 彼女は静かに言った。


「ただし、急ぎすぎてはいけません」


「なぜですか」


「時計塔は、この事件で誰かが見せたい場所です」


 白瀬さんは、僕のメモ帳を見た。


「見せたい場所には、罠があるかもしれません」


 僕は喉を鳴らした。


 罠。


 その言葉が、この館では冗談に聞こえない。


 その時、書斎の外で、古い時計が鳴った。


 低く、鈍い音。


 鐘ではない。


 歯車が大きく動いたような音だった。


 かちり。


 次に、どこか遠くで金属が揺れた。


 ちん。


 低いラではなかった。


 けれど、その金属音は、音楽室で聞いたものによく似ていた。


 白瀬さんが顔を上げる。


「時計塔です」


「今の音が?」


「おそらく」


 玲司さんが、鍵箱の空白を見つめた。


「誰かが、塔にいる」


 雨が窓を叩いている。


 止まったはずの時計塔が、館の中心で何かを動かし始めている。


 僕はメモ帳を握りしめた。


 事件は、音楽室から時計塔へ移った。


 いや、最初からつながっていたのだ。


 音と時計で。


 そして、十一時二十分という止まった時刻で。

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