第6話 音楽室再調査
音楽室の扉が、再び開いた。
中から流れ出してきた空気は、さっきと同じだった。
古い紙。
磨かれた木。
金属。
黴。
そして、血の匂い。
僕は思わず足を止めた。
さっき、この部屋で雨宮蓮司さんの遺体を見た。
その事実は分かっている。
分かっているのに、もう一度部屋に入るとなると、足が床に貼りついたように動かなかった。
「無理はしなくていいですよ」
白瀬さんが言った。
「いえ」
僕は首を横に振った。
「記録係ですから」
「では、見たことだけを書いてください」
「推測は後で、ですね」
「ええ」
白瀬さんはそう言って、音楽室の中へ入った。
玲司さんが後に続く。
顔は青ざめていたが、目は逸らしていなかった。
鷺沼は扉の外に立ったままだ。
「私はここで控えております」
「誰も入れないでください」
「かしこまりました」
白瀬さんは頷き、部屋の中央へ進んだ。
蓮司さんの遺体は、さっきと同じ場所にあった。
グランドピアノの脚にもたれるように倒れている。
胸元の暗い染み。
右手に握られた割れた懐中時計。
顔は玲司さんによく似ている。
似ているからこそ、玲司さんがその場に立っていることが、どこか現実ではないように見えた。
生きている玲司さん。
死んでいる蓮司さん。
二人が同じ部屋にいる。
それだけで、この館の時間が歪んでいるようだった。
「兄さん……」
玲司さんが小さく呟いた。
白瀬さんは遺体へ近づきすぎない位置で足を止めた。
「まず、触れません」
彼女は言った。
「遺体にも、時計にも、楽譜にも、紙ロールにも」
「調べないんですか」
「今は、動かさずに見える範囲を確認します」
僕はメモ帳を開いた。
音楽室再調査。
遺体・時計・楽譜・紙ロールには触れない。
見える範囲のみ確認。
「最初に、グランドピアノです」
白瀬さんは鍵盤の前へ向かった。
夕方、彼女が低いラを鳴らした場所。
奏太さんも十一時頃に押したという場所。
零時頃にも、そして施錠後にも鳴った低いラ。
その鍵盤が、目の前にある。
白瀬さんは鍵盤に顔を近づけた。
直接触れず、横から覗き込む。
「真柴さん、ここを見てください」
僕は近づいた。
「触らないように」
「はい」
低音側の白鍵。
おそらく、低いラ。
その手前側、鍵盤の端に、小さな黒い痕があった。
血のようにも見える。
けれど、血痕というより、何かが擦れた跡のようだった。
「これ、さっき見た黒い染みですか」
「似ています。ただし、血とは限りません」
「何の跡ですか」
「今は分かりません」
白瀬さんは、鍵盤の隙間を見た。
そして、ほんの少しだけ眉を動かした。
「糸があります」
「糸?」
「黒い糸です。鍵盤の奥に」
僕は息を呑んだ。
目を凝らす。
最初は分からなかった。
黒い鍵盤の影。
暗いピアノ内部。
その中に、細い線が一本だけ見えた。
髪の毛よりは太い。
しかし、普通に見ていたら絶対に気づかない。
黒い絹糸のようなものが、低いラの鍵盤の奥に結ばれていた。
「こんなもの、夕方ありましたか」
「ありました」
白瀬さんは静かに言った。
「おそらく」
「気づいていたんですか」
「確信はありませんでした。ただ、鍵盤の戻り方に違和感がありました」
「戻り方?」
「鍵盤は、押した後に自然に戻ります。けれど夕方、この鍵盤はわずかに重かった」
僕にはまったく分からなかった。
だが、元ピアノ調律師である白瀬さんには分かるのだろう。
鍵盤の重さ。
戻る速度。
音の残り方。
そういう、僕には聞こえないものまで。
「この糸が、低いラを鳴らす仕掛けですか」
「可能性があります」
白瀬さんは、糸の先を目で追った。
黒い絹糸は、鍵盤の奥からピアノの内部へ伸びている。
そこからさらに、床の方へ垂れていた。
僕は膝をつきかけて、慌てて止めた。
床に触れてはいけない。
「糸は、どこへ?」
「ピアノの下です」
白瀬さんはしゃがみ、床との隙間を覗いた。
「奥に、小さな金属の輪があります」
「金属の輪?」
「糸を通すためのものです。後から取りつけたのでしょう」
僕はメモする。
低いラの鍵盤奥に黒い糸。
糸はピアノ内部から床下方向へ。
小さな金属の輪。
後付けの可能性。
玲司さんが、青ざめた顔で言った。
「誰かが、ピアノに仕掛けを?」
「そう見えます」
「いつから」
「少なくとも夕方には」
「伯父が?」
「それはまだ分かりません」
白瀬さんは、グランドピアノの横に置かれた古い振り子時計を見た。
第一章で見た時、針は動いていなかった時計だ。
黒い木枠。
黄ばんだ文字盤。
長い振り子。
下部には、金属製の重りが二つ見える。
「次は、あの時計です」
白瀬さんは振り子時計へ近づいた。
時計の針は止まっている。
だが、白瀬さんは文字盤ではなく、下部の重りを見ていた。
「真柴さん」
「はい」
「この重りを見てください」
言われて、僕は覗き込んだ。
片方の重りの先に、細い黒い糸が結ばれている。
グランドピアノの低いラに結ばれていた糸と、同じような色だった。
「つながっているんですか」
「おそらく」
「時計の重りが動いて、糸を引く?」
「はい」
「それで鍵盤を押す?」
「正確には、鍵盤を引き下げるか、内部機構を動かすのでしょう」
僕はメモを書く手が震えた。
時計の重り。
黒い糸。
低いラの鍵盤。
時間が来ると、時計の重りが落ちる。
糸が引かれる。
鍵盤が沈む。
低いラが鳴る。
「じゃあ、施錠後に鳴った低いラも」
「この仕掛けなら、人が中にいなくても鳴らせます」
白瀬さんは言った。
「ただし、一つ問題があります」
「問題?」
「この仕掛けは、一度しか作動しないはずです」
僕はペンを止めた。
「一度だけ?」
「重りが落ち、糸を引く。鍵盤が押される。その後、重りを元に戻さなければ、同じ仕掛けは繰り返せません」
「でも、低いラは何度も聞かれています」
「ええ」
「夕方、奏太さん、十一時半前、零時頃、施錠後」
「だから、低いラは一種類ではない」
白瀬さんの声は静かだった。
僕は書いた。
黒い糸と時計の重りによる仕掛けは、一度しか作動しない。
複数回の低いラは、この仕掛けだけでは説明できない。
「でも、この仕掛けでどの低いラが鳴ったんですか」
「それを判断するには、重りの状態を見ます」
白瀬さんは時計に触れず、重りの高さを確認した。
「この重りは、すでに落ちています」
「つまり、作動済み?」
「はい」
「いつ作動したんでしょう」
「それはまだ分かりません」
玲司さんが言った。
「零時頃ですか」
「かもしれません」
「施錠後の音かもしれない?」
「それも可能性があります」
「でも、奏太が十一時頃に押した時にも金属音がしたと言っています」
「それは、別の金属音かもしれません」
白瀬さんは振り子時計の下部を見た。
「金属音の正体も、一つではない可能性があります」
低いラが一つではない。
金属音も一つではない。
僕は、さっきまで自分が聞いた音を一つの流れだと思っていたことが、いかに危ういかを思い知った。
「次は、自動演奏ピアノです」
白瀬さんは奥へ向かった。
そこには、事件時の紙ロールが入っている。
端には『第五楽章』と書かれている。
夕方にはなかったもの。
午後九時半にはあったと久世さんが言ったもの。
十一時頃には奏太さんも見たもの。
そして、蓮司さんの遺体発見時にも入っていたもの。
白瀬さんは、ロールの穴を見ていた。
「普通の演奏用とは違いますね」
「分かるんですか」
「穴の並びが不自然です。旋律を作るというより、特定の鍵盤や機構だけを動かすための配置に見えます」
「つまり、曲を演奏するためではない?」
「可能性があります」
「じゃあ、この紙ロールは」
「命令です」
白瀬さんは言った。
「曲ではなく、機械へ指示を出すためのもの」
僕はその言葉を書き留めた。
事件時の紙ロール。
曲ではなく命令の可能性。
機械を動かすための紙。
「紙ロールが低いラを鳴らしたんですか」
「それも考えられます」
「でも、紙ロールが入った自動演奏ピアノと、低いラのグランドピアノは別ですよね」
「別です」
「なら、どうやって」
「この部屋には、二つのピアノがあります」
白瀬さんは、グランドピアノと自動演奏ピアノを順番に見た。
「けれど、事件で重要なのは音そのものです。どちらのピアノで鳴ったように聞こえたか、ではなく、どの音が人にどう届いたか」
僕は首をひねった。
「つまり、自動演奏ピアノで鳴った音を、グランドピアノの音だと思わせる?」
「または、その逆です」
白瀬さんは、自動演奏ピアノの下部を見た。
底板の一部が、わずかに浮いているように見えた。
「ここ」
「底板ですか」
「ええ。開けた跡があります」
「触っていいんですか」
「触れません。ただ、隙間が見えます」
僕は覗き込んだ。
底板の隙間。
そこに、黒っぽい箱のようなものが見えた。
機械部品だろうか。
それとも、何か別の装置か。
「中に何かあります」
僕が言うと、白瀬さんは頷いた。
「録音機かもしれません」
「録音機?」
「古い小型のものです。断定はできませんが」
録音機。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがつながりかけた。
悲鳴。
僕だけが聞いた悲鳴。
人間の声か分からない短い音。
もし、それが録音だったら。
「白瀬さん」
「はい」
「僕が聞いた悲鳴は」
「まだ断定しません」
彼女は、いつものように止めた。
「ただし、録音機があった場合、悲鳴を死亡時刻の証拠として扱うことはできなくなります」
僕は書いた。
自動演奏ピアノ底板に、録音機らしきもの。
悲鳴が録音である可能性。
死亡時刻の根拠としては危うい。
玲司さんは、耐えきれないように言った。
「つまり、兄は零時に殺されたとは限らない」
「はい」
「もっと前に死んでいた可能性がある」
「あります」
「では、僕たちは何を聞かされていたんですか」
白瀬さんは答えなかった。
代わりに、音楽室全体を見渡した。
「演奏です」
彼女は静かに言った。
「誰かが、私たちに事件を演奏して聞かせた」
事件を演奏する。
その言葉は、この部屋にあまりにも似合っていた。
グランドピアノ。
自動演奏ピアノ。
紙ロール。
鍵盤。
時計の重り。
黒い糸。
録音機。
それらが一つの曲のように並んでいる。
しかし、その曲が奏でたのは音楽ではない。
死だった。
「まだ、もう一つ見ます」
白瀬さんは壁際へ向かった。
そこには、第一章で見た懐中時計のガラスケースがある。
夕方、十一時二十分で止まった懐中時計を見つけた場所。
事件現場では、蓮司さんの手にも同じ時刻を指す割れた懐中時計があった。
白瀬さんはケースを見た。
「真柴さん、夕方見た銀の懐中時計はどれでしたか」
僕は記憶を辿った。
銀色。
蓋に蔦か五線譜のような彫刻。
鎖が少し外へ垂れていたもの。
「あれです」
僕は指を差した。
白瀬さんは頷いた。
「今もあります」
「蓮司さんが握っていたものとは別ですか」
「別です」
玲司さんが顔をしかめる。
「同じような懐中時計が二つ?」
「少なくとも二つあります」
「両方とも十一時二十分」
「ええ」
僕はケースと遺体の右手を見比べた。
音楽室のケースにある十一時二十分の懐中時計。
蓮司さんの手に握られた、割れた十一時二十分の懐中時計。
時計塔も十一時二十分。
宗一郎の日記も十一時二十分。
多すぎる。
同じ時刻が、多すぎる。
「十一時二十分は、強調されすぎています」
白瀬さんが言った。
「犯人が見せたい時刻、ですか」
「そう考えるべきでしょう」
「でも、何のために」
「七年前と今夜を重ねるため」
玲司さんが小さく言った。
白瀬さんは、彼を見た。
「そうかもしれません」
「兄が七年前に消えた時刻」
「あるいは、宗一郎さんがそう信じ込ませた時刻」
玲司さんは黙った。
その表情は、怒りよりも苦しみに近かった。
自分が信じてきた過去が、少しずつ壊されている。
その痛みが、横顔に滲んでいた。
「再調査で分かったことを整理します」
白瀬さんが言った。
僕はメモ帳の新しいページを開いた。
音楽室再調査。
白瀬さんは、一つずつ確認するように言った。
「一つ。低いラの鍵盤には、黒い糸が結ばれていた」
僕は書く。
「二つ。その糸は、振り子時計の重りとつながっている可能性がある」
書く。
「三つ。重りを使えば、人がいなくても一定時間後に低いラを鳴らせる」
書く。
「四つ。ただし、その仕掛けは一度しか作動しないため、複数回の低いラは説明しきれない」
書く。
「五つ。自動演奏ピアノの紙ロールは、曲ではなく、機械への命令である可能性がある」
書く。
「六つ。自動演奏ピアノの底板に、録音機らしきものが隠されている」
書く手が、少し震えた。
「七つ。悲鳴が録音だった場合、零時頃の悲鳴は死亡時刻の証拠にならない」
その一文を書いた時、音楽室の空気がさらに重くなったように感じた。
白瀬さんは、最後にこう言った。
「八つ。十一時二十分は、真実の時刻ではなく、見せたい時刻である可能性が高い」
僕は書いた。
十一時二十分は、見せたい時刻。
真実の時刻とは限らない。
ペン先を止める。
今まで事件の中心に見えていたものが、中心ではなく目印に変わっていく。
悲鳴。
密室。
十一時二十分。
どれも真実そのものではない。
真実に見せかけるための音符なのかもしれない。
「白瀬さん」
玲司さんが言った。
「この仕掛けを作った人物が、兄を殺したんですか」
「まだ分かりません」
「ここまで仕掛けて、殺していないことがありますか」
「あります」
「なぜ」
「この仕掛けは、殺すためのものではありません」
白瀬さんは、低いラの鍵盤を見た。
「聞かせるためのものです」
「聞かせる?」
「はい」
「誰に」
白瀬さんは、少しだけ僕を見た。
「私たちに」
僕は息を呑んだ。
低いラ。
金属音。
悲鳴。
あれは、僕らに聞かせるための演奏だった。
そう考えた瞬間、扉の向こうで立ち尽くしていた自分の姿が蘇った。
僕は、誰かが用意した音に導かれて、この扉の前に来た。
そして、密室の中で人が殺されたと思い込んだ。
犯人は、僕の耳を使ったのだ。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「あなたは悪くありません」
「でも、僕が聞いたことで」
「聞いたことは事実です」
彼女は静かに言った。
「問題は、それをどう解釈するかです」
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。
鷺沼の声がする。
「白瀬様」
扉の前に、鷺沼が現れた。
いつもの落ち着きが、わずかに崩れている。
「どうしました」
「篠原様が」
玲司さんが顔を上げた。
「篠原さんがどうした」
「お部屋で倒れておられます」
音楽室の空気が、一瞬で変わった。
玲司さんが走り出す。
僕も続こうとして、白瀬さんに止められた。
「真柴さん」
「でも」
「メモを持って」
その声で、僕は我に返った。
事件はまだ、終わっていない。
むしろ、次の音が鳴ったのだ。
篠原さんの部屋へ向かう廊下を走りながら、僕は思った。
この館では、真実に近づくたびに、誰かが倒れる。
いや。
誰かが、倒される。
雨はまだ、降り続いていた。




