第5話 音の矛盾
低いラは、一つの出来事ではない。
僕はメモ帳に、その一文を書いた。
書いてしまうと、当たり前のことのようにも見えた。
けれど、事件の渦中にいると、それは簡単には分からない。
同じ音が聞こえる。
同じ場所から聞こえたように感じる。
同じ事件の一部だと思ってしまう。
だが、本当にそうなのか。
夕方、白瀬さんが鳴らした低いラ。
十一時頃、奏太さんが鳴らした低いラ。
十一時半前に聞こえた低いラ。
零時頃に僕が聞いた低いラ。
音楽室を施錠した後に鳴った低いラ。
それらは、全部同じ音だった。
少なくとも、僕にはそう思えた。
けれど、同じ音に聞こえたからといって、同じ原因で鳴ったとは限らない。
「音の矛盾を整理します」
白瀬さんが言った。
応接室の空気は、さらに重くなっていた。
夜は深い。
外では雨が降り続いている。
暖炉の火は弱く、部屋の隅には薄い影が溜まっていた。
誰も眠っていない。
いや、眠れないのだ。
音楽室には、雨宮蓮司の遺体が残されている。
そしてその音楽室は、閉ざされた後にも低いラを鳴らした。
この館では、眠ることそのものが危険に思えた。
「まず、確認します」
白瀬さんは、僕のメモを指差した。
「真柴さん。あなたが零時頃に聞いた音の順番を、もう一度」
「低いラ」
僕は答えた。
「それから、金属音」
「はい」
「その後、短い悲鳴」
「はい」
「そして、扉を開けようとしたが、開かなかった」
「はい」
「悲鳴を聞いたのは、今のところ真柴さんだけです」
その言葉に、僕は改めて背筋が冷えた。
あの時、僕は確かに悲鳴を聞いたと思った。
音楽室の扉の前で。
低いラと金属音の後に。
だから、中で何かが起きたのだと考えた。
それが自然だった。
だが、他の人はほとんど悲鳴を聞いていない。
玲司さんも。
紗英さんも。
篠原さんも。
久世さんも。
奏太さんも。
静乃さんも。
聞いたのは、僕だけ。
あるいは、僕だけがそう解釈した。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「悲鳴について、もう一度思い出してください」
「はい」
「長さは」
「一瞬です」
「人間が叫んだとすれば、かなり短い?」
「そう思います」
「言葉はありましたか」
「ありません」
「声の高さは?」
「分かりません」
「男性か女性かは?」
「分かりません」
「蓮司さんの声だと判断できる要素は?」
僕は口を開きかけて、閉じた。
ない。
そんなものは、ない。
僕は蓮司さんの生前の声を知らない。
彼がどんな声で話すのかも知らない。
それなのに、僕は音楽室で悲鳴を聞いた瞬間、それを蓮司さんの悲鳴だと思った。
扉の向こうに、被害者がいると思ったからだ。
「ありません」
僕は答えた。
「僕は、蓮司さんの声を知りません」
「では、あなたが聞いたのは、蓮司さんの悲鳴ではなく、悲鳴のような音です」
「悲鳴のような音」
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
僕はメモに書いた。
真柴が聞いたのは、蓮司の悲鳴ではなく、悲鳴のような音。
書いた瞬間、事件の形が少しだけ変わった。
蓮司さんが零時頃に殺された。
僕は、そう思っていた。
だが、その根拠は悲鳴だった。
その悲鳴が、蓮司さんのものとは限らないなら。
零時頃に殺されたとも限らない。
「次に、低いラです」
白瀬さんは続けた。
「奏太さん」
「はい」
奏太さんは、腕時計を握ったまま返事をした。
「あなたは、低いラを複数回聞いた」
「はい」
「十一時頃には、自分でも低いラを押した」
「はい」
「その後、金属音を聞いた」
「はい」
「では、低いラを押すと金属音が鳴る仕組みが、少なくともその時点で存在していた可能性があります」
奏太さんは顔を上げた。
「仕組み……」
「夕方、私が同じ音を押した時にも、金属音が聞こえました」
白瀬さんは僕を見る。
「真柴さんも聞いています」
「はい」
「つまり、夕方の時点で、低いラと金属音には何らかの関係があった」
僕はメモする。
夕方、低いラの後に金属音。
十一時頃、奏太が低いラを押した後に金属音。
低いラと金属音をつなぐ仕組みが、事件前から存在した可能性。
「でも」
奏太さんが言った。
「僕が押したのは、自分で鍵盤を押した音です。十一時半前に聞いた低いラは、僕は押していません」
「はい」
「零時頃の音も、僕は押していません」
「はい」
「施錠後の音も」
「もちろんです」
「じゃあ、誰かが押したんですか」
白瀬さんは、すぐには答えなかった。
「誰かか、何かです」
「何か?」
「人間が押したとは限りません」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
幽霊。
そんな言葉が誰かの頭に浮かんだのが分かる。
けれど、白瀬さんが言いたいのはそういうことではない。
僕にも、それくらいは分かった。
「機械、糸、重り、時計」
白瀬さんは淡々と言った。
「古い館には、人間の代わりに音を鳴らせるものが多くあります」
「時計」
僕は思わず呟いた。
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「この館には、時計が多すぎます」
時計塔。
応接室の時計。
音楽室の懐中時計。
割れた懐中時計。
振り子時計。
置時計。
止まった時計ばかりの館。
しかし、本当にすべて止まっているのだろうか。
止まっているように見えるだけで、別の役割を持っている時計があるのではないか。
「白瀬さん」
僕は言った。
「低いラは、時計で鳴らせるんですか」
「可能です」
「どうやって」
「重りを使えば、一定時間後に何かを動かすことはできます。古い時計の機構は、時間を使って物を動かすためのものでもありますから」
「鍵盤を押すことも?」
「仕掛け次第です」
奏太さんが青ざめた。
「じゃあ、僕たちは人が弾いた音だと思っていたけど、実際には仕掛けだったかもしれない」
「その可能性があります」
「でも、僕が十一時頃に押した音は、自分で押しました」
「それも事実です」
白瀬さんは言った。
「だから、低いラは一種類ではありません」
低いラは一種類ではない。
僕はその言葉を書いた。
同じ音。
違う原因。
それが、この事件の音を複雑にしている。
「次に、金属音です」
白瀬さんが言った。
「夕方、低いラの後に金属音。十一時頃、奏太さんが押した後にも金属音。零時頃、真柴さんも金属音を聞いた」
「はい」
「では、低いラと金属音は何度も結びついています」
「金属音は、何かが作動した音でしょうか」
僕が尋ねると、白瀬さんは頷いた。
「可能性は高いです」
「何が作動したんでしょう」
「それを確認するには、音楽室を再調査する必要があります」
玲司さんが顔を上げた。
「また、音楽室へ入るんですか」
「はい」
「兄の遺体があるのに」
「分かっています」
「分かっているなら」
「ですが、放置すれば、次の音が鳴るかもしれません」
玲司さんは言葉を失った。
次の音。
その言葉に、全員が沈黙した。
この館では、音が何かを呼び寄せる。
低いラが鳴り、金属音が続き、悲鳴が聞こえ、死体が見つかった。
音楽室を閉じても、また低いラが鳴った。
もし次の音が鳴ったら。
その時、また誰かが死ぬのではないか。
そんな考えが、誰の顔にも浮かんでいた。
「今、音楽室を再調査する前に、もう一つ確認します」
白瀬さんは言った。
「悲鳴を聞かなかった人についてです」
「聞かなかった人?」
「はい」
「聞いた人ではなく?」
「聞かなかった人の方が重要な場合があります」
僕はメモに書く。
聞こえなかったことも証言。
「玲司さん」
白瀬さんが呼んだ。
「はい」
「あなたの部屋は、音楽室からどのくらい離れていますか」
「一階の奥です。音楽室とは廊下を挟んで離れています」
「扉は閉めていましたか」
「はい」
「悲鳴は聞こえなかった」
「聞こえませんでした」
「低いラは聞こえた」
「はい」
「低いラは聞こえたが、悲鳴は聞こえなかった」
「そうです」
僕はメモする。
玲司:低いラは聞いた。悲鳴は聞いていない。
「紗英さん」
「はい」
「あなたも同じ部屋にいた」
「はい」
「低いラは?」
「夢うつつでしたが、聞いた気がします」
「悲鳴は?」
「分かりません。少なくとも、はっきりとは聞いていません」
紗英:低いラは聞いた気がする。悲鳴は不明。
「篠原さん」
「低いピアノの音は聞きました。悲鳴は聞いていません」
「久世さん」
「低いピアノの音と、真柴さんの声は聞きました。悲鳴は聞いていません」
「奏太さん」
「低いラは聞きました。悲鳴は聞いていません」
「静乃さん」
「ピアノの音は聞いたわ。悲鳴は聞いていない」
「鷺沼さん」
「真柴様のお声で気づきました。低いラと悲鳴は聞いておりません」
「美和さん」
「私は、真柴様のお声で目を覚ましました。悲鳴は聞いていません」
僕は表を作った。
悲鳴を聞いた人物。
真柴のみ。
低いラを聞いた人物。
多くの人物。
その差が、はっきり見えた。
「悲鳴は、低いラほど広く聞こえていません」
白瀬さんが言った。
「つまり?」
「悲鳴は、館内に大きく響いた音ではなかった可能性があります」
「でも、僕は扉の前で聞きました」
「ええ。真柴さんがいた場所では聞こえた」
「音楽室の前」
「はい」
「つまり、悲鳴は音楽室の近くでだけ聞こえた?」
「可能性があります」
「それなら、やっぱり音楽室の中で」
「そうとは限りません」
白瀬さんは、すぐに否定した。
「扉の前で聞こえた音が、部屋の中で鳴ったとは限りません」
聞こえた場所と、鳴った場所は同じとは限らない。
何度も聞いた言葉だった。
それなのに、僕はまた同じ間違いをしそうになっていた。
「音を運ぶ仕組みがあるかもしれない、ということですか」
「はい」
「音楽室の外から、音楽室の前へ?」
「あるいは、音楽室から別の場所へ」
「そんなものが、この館に?」
「古い館には、意外なものが残っていることがあります」
白瀬さんは、そこで少しだけ考えた。
「音響管」
「音響管?」
「古い建物で、部屋と部屋の間に声や音を通す管が作られていることがあります。使用人を呼ぶため、あるいは離れた場所の音を聞くために」
「それが霧雨館にもあるかもしれない」
「可能性です」
僕はメモに書いた。
音響管の可能性。
聞こえた場所と発生場所が違う可能性。
音楽室の壁。
そういえば、第一章で白瀬さんは音楽室の壁を叩いていた。
壁が厚い。
あるいは、内側に空間がある。
あの時の言葉を思い出す。
「白瀬さん、音楽室の壁」
「ええ」
彼女は頷いた。
「気になっていました」
「隠し部屋ですか」
「館ものなら、そう言いたくなりますね」
「違うんですか」
「隠し部屋かもしれません。ですが、まず疑うべきは音の通り道です」
音の通り道。
その言葉だけで、この館の構造が別のものに見えてくる。
廊下。
壁。
時計塔。
音楽室。
応接室。
すべてが、目に見える通路とは別の道でつながっているかもしれない。
「音の矛盾は、三つあります」
白瀬さんは整理するように言った。
僕はすぐに書く準備をした。
「一つ目。低いラが複数回聞こえていること」
低いラが複数回。
「二つ目。低いラの後に金属音が何度も続いていること」
低いラと金属音の連動。
「三つ目。悲鳴を聞いたのが、ほぼ真柴さんだけであること」
悲鳴の聞こえ方の偏り。
「この三つを、同じ原因で説明しようとすると無理があります」
「別々の原因があるかもしれない」
「はい」
「でも、聞いた側には一つの流れに聞こえた」
「それが狙いなら、かなり巧妙です」
白瀬さんは言った。
「真柴さんは、低いラ、金属音、悲鳴を一つの連続した出来事として聞いた」
「はい」
「その直後に扉が開かなかった」
「はい」
「そして扉を開けると、遺体があった」
「はい」
「だから、零時頃に音楽室で蓮司さんが殺されたように見えた」
僕は息を呑んだ。
ように見えた。
その言い方が、すべてだった。
「でも、そうとは限らない」
「はい」
「低いラは、殺害とは別の仕掛けかもしれない」
「はい」
「金属音も、鍵や凶器とは限らない」
「はい」
「悲鳴も、蓮司さんの声とは限らない」
「はい」
「扉が開かなかったことも、中から犯人が鍵をかけたとは限らない」
「その通りです」
僕は、少しずつ事件が崩れていくのを感じた。
いや、事件が崩れているのではない。
僕が勝手に作っていた事件の形が、崩れているのだ。
密室。
悲鳴。
死亡時刻。
十一時二十分。
それらを、僕は無意識に一つに結びつけていた。
だが、その結び目は、犯人か誰かが用意したものかもしれない。
「では、次にやるべきことは決まっています」
白瀬さんが言った。
「音楽室の再調査です」
玲司さんは苦しそうに目を閉じた。
紗英さんは彼の袖を掴む。
篠原さんは、窓の外の霧を見ている。
久世さんは、興味深そうに白瀬さんを見ていた。
奏太さんは震えている。
静乃さんは、どこか楽しそうですらあった。
鷺沼は扉のそばに控えたまま、黒い手袋の指を動かさない。
美和さんは、両手を膝の上で握りしめていた。
「ただし」
白瀬さんは続けた。
「全員で入る必要はありません」
「誰が行くんですか」
僕は尋ねた。
「私と真柴さん」
「僕も?」
「記録係ですから」
「ですよね」
「それと、玲司さん」
玲司さんが顔を上げた。
「僕が?」
「遺族として。現場に入るのがつらいなら、無理には言いません」
「行きます」
玲司さんは即答した。
「兄のことです。僕が逃げるわけにはいきません」
「鷺沼さん」
「はい」
「鍵をお願いします」
「かしこまりました」
鷺沼は静かに頭を下げた。
白瀬さんは最後に、応接室に残る全員を見渡した。
「私たちが音楽室を確認している間、誰も一人にならないでください」
「犯人がここにいるからですか」
久世さんが言った。
「犯人とは限りません」
白瀬さんは答えた。
「ですが、この事件を動かしている人間は、まだ次の音を鳴らすかもしれません」
誰も笑わなかった。
次の音。
その言葉が、応接室に残った。
僕はメモ帳を閉じ、立ち上がった。
これから、もう一度音楽室へ入る。
死者のいる部屋へ。
低いラが鳴った部屋へ。
鍵盤が何かを覚えているという部屋へ。
廊下へ出ると、雨音が少しだけ遠くなった。
音楽室へ続く廊下は、暗く沈んでいる。
その奥に、重い扉が見えた。
さっきまで、僕はその扉を恐れていた。
今も怖い。
けれど、見なければならない。
聞いた音を疑うために。
見えたものを疑うために。
そして、死者が本当に何を残したのかを知るために。
白瀬さんは扉の前で立ち止まった。
「真柴さん」
「はい」
「今度は、音ではなく、音の跡を見ます」
鷺沼が鍵を差し込む。
かちゃり。
錠が外れる。
音楽室の扉が、再び開いた。




