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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第三章 十一時二十分のアリバイ

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第3話 篠原と久世

 篠原千鶴。


 久世将臣。


 僕はメモ帳の新しいページに、二人の名前を書いた。


 同じ第五楽章に近い人物でも、二人の立場はまるで違っている。


 篠原さんは、宗一郎の名誉を守ろうとしている。


 久世さんは、宗一郎の遺品に価値を見出そうとしている。


 一人は守るために黙り、一人は値踏みするために見る。


 どちらも、真実そのものを見ているとは限らない。


「篠原さん」


 白瀬さんが静かに呼んだ。


 篠原さんは窓際から離れ、応接室の中央へ歩いてきた。


 姿勢は変わらない。


 背筋はまっすぐで、表情も落ち着いている。


 だが、手帳を持つ左手には、かすかに力が入っていた。


「まず、十一時二十分頃のことを伺います」


「私は自室におりました」


 篠原さんは即答した。


「何をしていましたか」


「先生の遺言関連資料を確認していました」


「その資料は、今もありますか」


「はい」


 篠原さんは手にしていた書類を示した。


「こちらです」


「見せていただいても?」


「事件に関係があるとは思えません」


「関係があるかどうかを判断するために見ます」


 篠原さんは少しだけ沈黙した。


 それから、書類を白瀬さんに差し出した。


 白瀬さんは受け取り、内容を軽く確認する。


 僕は横から覗き込んだ。


 遺言書の写しではない。


 財産目録のようなものでもない。


 宗一郎の楽譜管理に関する台帳の一部らしかった。


 曲名。


 保管場所。


 清書日。


 管理番号。


 その中に、『霧雨館組曲』という文字が何度か見えた。


「これは、楽譜管理台帳ですね」


 白瀬さんが言った。


「はい」


「遺言関連資料とおっしゃいましたが」


「第五楽章が相続条件に関わっている以上、楽譜管理の記録も確認する必要があります」


「第一楽章から第四楽章までは記録があります」


「そのはずです」


「第五楽章は?」


 篠原さんは答えなかった。


 白瀬さんはページをめくる。


 僕の位置からも、空欄が見えた。


 霧雨館組曲 第五楽章。


 その横の保管場所欄には、何も書かれていない。


「空欄ですね」


「第五楽章は、正式には管理されていません」


「存在しなかったからですか」


「未完だったからです」


「七年前、血のついた第五楽章があったと玲司さんは聞かされています」


「私は、先生からそう伺いました」


「あなた自身は見ていない?」


「見ていません」


「本当に?」


 篠原さんの目が、わずかに細くなった。


「見ていません」


「では、七年前の第五楽章について、あなたが知っていることはすべて宗一郎さんから聞いたことですか」


「はい」


「清書を手伝っていたのに?」


 空気が少し硬くなった。


 篠原さんは、静かに白瀬さんを見た。


「私は、先生の指示でいくつかの楽譜を清書したことがあります」


「第五楽章は?」


「ありません」


「断言できますか」


「できます」


 答えは早かった。


 しかし、その早さは安心ではなく、準備されていた答えのようにも聞こえた。


 僕は書く。


 篠原:十一時二十分頃は自室で資料確認と主張。


 資料は楽譜管理台帳。


 第五楽章の保管欄は空欄。


 七年前の第五楽章は宗一郎から聞いたと証言。


 自分は見ていないと主張。


「篠原さん」


 白瀬さんは続けた。


「あなたは最初に音楽室へ入った時、第五楽章を探すのはやめた方がいいと言いました」


「はい」


「その理由は?」


「先生の名誉に関わるからです」


「名誉とは何ですか」


 篠原さんは、ほんの少しだけ眉を動かした。


「作品の名誉です」


「作品に名誉があるのですか」


「あります」


 篠原さんの声が、少しだけ強くなった。


「作品は、作者の人生そのものです。軽々しく暴かれたり、値踏みされたり、面白がられたりしてよいものではありません」


 久世さんが小さく笑った。


「耳が痛いですね」


「あなたのことを言っています」


 篠原さんは、久世さんを見ずに言った。


「失礼」


 久世さんは楽しそうに肩をすくめた。


 篠原さんは続ける。


「第五楽章は、先生が最後まで正式に発表しなかったものです。ならば、それは未完成か、発表すべきではない事情があったということです」


「発表すべきではない事情」


 白瀬さんが繰り返す。


「それを知っているのですか」


「知りません」


「知らないのに、探すなと言った」


「先生のご意思を尊重したまでです」


「遺言には、見つけた者に相続権を認めるとあります」


「先生は、矛盾した方でした」


「便利な説明ですね」


 篠原さんの表情が、初めてわずかに変わった。


 怒りではない。


 傷ついたような、苦い反応だった。


「白瀬さん」


 彼女は低い声で言った。


「あなたは先生を知らない」


「ええ」


「なら、先生を簡単に語らないでください」


「私は宗一郎さんを語っているのではありません」


「では何を」


「あなたの沈黙を見ています」


 応接室の空気が止まった。


 篠原さんは、手帳を持つ左手にさらに力を込めた。


 指先が白くなる。


「沈黙することが、罪だとおっしゃるのですか」


「いいえ」


 白瀬さんは即答した。


「ですが、沈黙は事件の形を変えます」


 その言葉は、紗英さんの時にも出てきた。


 守るための沈黙。


 隠すための沈黙。


 宗一郎の名誉を守るための沈黙。


 それらが、事件を歪ませている。


「十一時二十分頃、あなたの自室にいたことを証明できる人はいますか」


 白瀬さんが尋ねた。


「いません」


「音は聞きましたか」


「零時前に、低いピアノの音を一度聞きました」


「十一時二十分頃には?」


「聞いていません」


「雨音は?」


「聞こえていました」


「廊下の足音は?」


「聞いていません」


「誰かが部屋の前を通った気配は?」


「ありません」


「つまり、十一時二十分頃のあなたの証言は、あなた自身の申告だけです」


「そうなります」


 篠原さんは静かに答えた。


 その落ち着きが、かえって不気味だった。


 僕は書く。


 篠原:十一時二十分頃のアリバイは自己申告のみ。


 低いラは零時前に一度聞いた。


 悲鳴は聞いていない。


 第五楽章を探すなと言った理由は、宗一郎の名誉を守るためと説明。


 白瀬さんは、篠原さんから視線を外し、久世さんを見た。


「次に、久世さん」


「はい」


 久世さんは待っていたように微笑んだ。


「午後九時半頃、あなたは音楽室へ入った」


「その通りです」


「十一時二十分頃は?」


「自室にいました」


「何をしていましたか」


「酒を飲んでいました」


「一人で?」


「ええ」


「証明できる人は?」


「いませんね」


「自室にいたという証言は、自己申告だけ」


「残念ながら」


 久世さんは悪びれずに答えた。


「ただ、私は蓮司さんを殺していません」


「まだ、殺したかどうかは聞いていません」


「いずれ聞かれるでしょう」


「では、その時まで取っておいてください」


 久世さんは笑った。


 白瀬さんは表情を変えない。


「あなたは午後九時半に音楽室へ入り、紙ロールを見た」


「はい」


「その紙ロールには『第五楽章』と書かれていた」


「ええ」


「なぜ、その時点で玲司さんに報告しなかったのですか」


「先ほども言った通りです。先に価値を確認したかった」


「相続権が欲しかった?」


「相続権そのものに興味はありません」


「では何に?」


「来歴です」


 久世さんは、指輪を撫でながら言った。


「未発表曲には、作品としての価値があります。しかし、そこに物語が乗ると価値は跳ね上がる」


「物語」


「失踪した天才。止まった時計塔。遺言。霧の館。そして見つかった第五楽章」


 玲司さんが不快そうに顔を歪めた。


「久世さん」


「事実です」


 久世さんは言った。


「人は、作品だけに金を払うわけではありません。その周囲にある物語に金を払う」


「今夜、人が死にました」


「だからこそ、さらに強い物語になってしまった」


 部屋の空気が一気に冷えた。


 奏太さんが立ち上がりかける。


 玲司さんも久世さんを睨んでいた。


 だが、白瀬さんが片手で制した。


「続けてください」


「白瀬さん」


 僕は思わず声を上げた。


「いいんですか」


「本音は、証言より役に立つことがあります」


 白瀬さんは言った。


 久世さんは少しだけ目を細めた。


「怖い方ですね」


「よく言われます」


「私は、第五楽章を売り物として見ていました」


 久世さんは認めた。


「雨宮宗一郎の未発表曲なら、十分価値がある。そこに蓮司という失踪者が絡むなら、さらに価値は上がる」


「蓮司さんが館に戻っていることを知っていましたか」


「知りません」


「本当に?」


「本当に」


「では、七年前の失踪については?」


「噂程度です」


「どんな噂ですか」


「雨宮家の天才が、宗一郎と揉めて消えた。第五楽章を持ち出した。そういう話です」


「誰から聞きましたか」


「美術商の間では、よくある類の話です。出所は曖昧ですよ」


「館に来る前から、第五楽章に価値があると考えていた」


「もちろん」


「そのために、音楽室に入った」


「はい」


「紙ロールには触れていない」


「触れていません」


「譜面台に楽譜はなかった」


「ありませんでした」


「蓮司さんの姿は?」


「見ていません」


「血痕は?」


「ありませんでした。少なくとも、気づきませんでした」


「懐中時計のケースは開いていましたか」


 久世さんは少し考えた。


「閉まっていたと思います」


「鍵は?」


「そこまでは見ていません」


「鎖が垂れている時計は?」


「覚えていません」


「覚えていない?」


「興味があったのは紙ロールです。時計の方は、ざっと見ただけなので」


 白瀬さんは頷いた。


 僕はメモする。


 久世:十一時二十分頃は自室で酒。アリバイは自己申告のみ。


 午後九時半に音楽室へ入った。


 紙ロールあり。


 譜面台に第五楽章なし。


 蓮司の姿なし。


 血痕には気づかず。


 第五楽章を価値ある商品として見ていた。


「久世さん」


 白瀬さんが言った。


「あなたは、午後九時半の時点で紙ロールを見ている。つまり、紙ロールが夕方以降に入れられたことを証明する重要な証人です」


「光栄ですね」


「同時に、あなた自身も音楽室に入っている」


「そうですね」


「紙ロールを入れた人物ではないと証明できますか」


「できません」


 久世さんはあっさり答えた。


「では、あなたが紙ロールを入れ、その後に『九時半には入っていた』と証言している可能性もあります」


「ありますね」


 玲司さんが顔を上げる。


「久世さん」


「可能性の話です」


 久世さんは涼しい顔で答えた。


「ただ、私が紙ロールを入れたなら、わざわざ自分が音楽室に入ったなどとは言わないのでは?」


「それも一理あります」


 白瀬さんは認めた。


「しかし、自分で先に言うことで疑いを軽くする方法もあります」


「やはり怖い方だ」


「証言は、出された順番も含めて見ます」


 その言葉に、僕ははっとした。


 何を言ったか。


 いつ言ったか。


 聞かれてから言ったのか、自分から言ったのか。


 そこにも意味がある。


 久世さんは、音楽室に入ったことを隠し続けたわけではない。


 聞かれてから認めた。


 紙ロールの存在も、その時に話した。


 これは正直なのか。


 それとも、隠しきれない情報だけ先に差し出したのか。


「久世さんの証言は、二つの意味を持ちます」


 白瀬さんが僕に言った。


「一つは、紙ロールの設置時刻を絞る手がかり」


「もう一つは?」


「久世さん自身が、事件前に音楽室へ入った人物であるという事実」


 僕はそのまま書いた。


 久世の証言は、手がかりであると同時に、久世自身を疑わせる材料でもある。


 書いていると、久世さんがこちらを覗き込んだ。


「ひどい書かれようですね」


「事実です」


 僕は思わず答えた。


 久世さんは笑った。


「編集者らしくなってきましたね」


 嬉しくはなかった。


「篠原さんと久世さんの証言で、分かったことを整理します」


 白瀬さんが言った。


 僕は新しい欄を作る。


 篠原さん。


 宗一郎の楽譜管理台帳を持っていた。


 第五楽章の欄は空欄。


 十一時二十分頃のアリバイは自己申告のみ。


 第五楽章を探すなと言った理由を、宗一郎の名誉のためと説明。


 七年前の第五楽章は見ていないと主張。


 久世さん。


 午後九時半頃、音楽室へ入った。


 紙ロールを見た。


 譜面台に第五楽章の楽譜はなかったと証言。


 十一時二十分頃のアリバイは自己申告のみ。


 第五楽章に商品価値を見ていた。


 僕は書き終えてから、二人の名前を見比べた。


 篠原さんは、第五楽章を隠したい。


 久世さんは、第五楽章を見つけたい。


 正反対に見える。


 けれど、書いていて、僕は妙な感じがした。


 二人とも、第五楽章そのものを見ているようで、実は別のものを見ているのではないか。


 篠原さんにとっては、宗一郎の名誉を揺るがすもの。


 久世さんにとっては、高い価値を持つ商品。


 どちらも、第五楽章そのものではなく、その周囲にあるものを見ている。


「白瀬さん」


 僕は言った。


「この二人は、目的は逆なのに、どちらも第五楽章に執着しています」


「ええ」


「でも、蓮司さんを殺す理由になりますか」


「まだ分かりません」


「篠原さんは第五楽章を隠したい。久世さんは手に入れたい。どちらも動機には見えるけど、殺人まで行くかは……」


「その違和感は残してください」


「違和感?」


「動機に見えるものが、殺意とは限りません」


 白瀬さんは言った。


「この事件では、怪しい人物ほど、別の役割を持っている可能性があります」


 別の役割。


 その言葉を聞いた時、僕は第二章末のメモを思い出した。


 今夜の事件を作っている人物は、本当に一人なのか。


 もし一人ではないなら。


 篠原さんの沈黙。


 久世さんの欲。


 紗英さんの隠し事。


 奏太さんの音の証言。


 静乃さんの過去。


 鷺沼の鍵。


 それぞれが別々に事件を歪めているのかもしれない。


「次は、奏太さんと静乃さんです」


 白瀬さんが言った。


 奏太さんはびくりと顔を上げた。


 静乃さんは、待ちくたびれたように小さく笑った。


「ようやく私の話を聞く気になったのね」


「すでに少し伺っています」


「年寄りの話は、少しでは足りないわ」


 静乃さんの声には、奇妙な余裕があった。


 七年前。


 宗一郎。


 蓮司。


 第五楽章。


 静乃さんは、まだ何かを知っている。


 けれど、それをすべて話す気はない。


 僕は新しいページを開いた。


 次の見出しを書く。


 雨宮奏太。


 雨宮静乃。


 その時、応接室の置時計が小さく鳴った。


 時刻を告げる鐘ではない。


 内部の歯車が、どこかで引っかかったような音。


 かちり。


 奏太さんが、その音に肩を震わせた。


 白瀬さんは、それを見ていた。


「奏太さん」


 彼女は静かに言った。


「あなたは、音に怯えていますね」


 奏太さんは答えなかった。


 ただ、腕時計を握る手に力を込めた。

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