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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第三章 十一時二十分のアリバイ

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第2話 証言の置き場所

 十一時二十分のアリバイ。


 メモ帳にそう書いた瞬間、僕はようやく気づいた。


 この事件では、誰がどこにいたかだけでは足りない。


 誰が、どの時刻について話しているのか。


 誰が、どの時刻について沈黙しているのか。


 そこを見なければならない。


 零時頃の悲鳴。


 十一時半前の低いラ。


 十一時半頃の男の足音。


 午後九時半の紙ロール。


 そして、十一時二十分。


 事件は一つの時刻に見えて、実際にはいくつもの時刻に分かれている。


 それを、誰かが一つに重ねようとしている。


「まず、証言を置く場所を決めます」


 白瀬さんが言った。


「置く場所?」


「証言は、ただ並べるだけでは役に立ちません。どの時刻の証言なのか。何を見た証言なのか。何を聞いた証言なのか。そこを分けます」


 僕はメモ帳のページを開き直した。


 左端に時刻を書く。


 その横に人物名。


 さらにその横に、見たこと、聞いたこと、思ったこと。


 表のように線を引いていく。


「会議資料みたいですね」


 僕が呟くと、白瀬さんは少しだけ目を細めた。


「事件も、整理しなければただの混乱です」


「整理すれば解けますか」


「解けるとは限りません」


「そこは断言してほしかったです」


「でも、整理しなければ必ず間違えます」


 それは慰めではなかった。


 けれど、今の僕にはその方が信じられた。


 応接室の全員は、互いに距離を取るように座っていた。


 事件が起きる前には、同じ館に集められた関係者だった。


 今は違う。


 誰もが、誰かの証言の中にいる。


 そして、誰もが誰かを疑っている。


「最初に確認するのは、玲司さんと紗英さんです」


 白瀬さんが言った。


 紗英さんの肩が小さく揺れた。


 玲司さんは、彼女を庇うように一歩前へ出た。


「僕たちの話はもうしました」


「ええ。零時前後の話は聞きました」


「なら」


「今度は、十一時二十分前後の話です」


 玲司さんは言葉を詰まらせた。


「十一時二十分……」


「はい」


 白瀬さんは静かに頷いた。


「その時、あなたはどこにいましたか」


「自室です」


「紗英さんも?」


「はい」


 玲司さんはすぐに答えた。


「紗英と一緒にいました」


「紗英さん」


 白瀬さんは視線を移した。


「十一時二十分頃、玲司さんは部屋にいましたか」


 紗英さんは、すぐには答えなかった。


 さっきと同じだ。


 零時前後の証言でも、彼女は「玲司さんがいた」と言いながら、実際には見ていなかった。


 今回も同じなのか。


 僕はペンを握る手に力を入れた。


「いたと思います」


 紗英さんは言った。


「思います、ですね」


「部屋は暗かったんです」


「明かりは消していた?」


「はい。玲司さんが、少し休みたいと言ったので」


「あなたは起きていましたか」


「眠れませんでした」


「玲司さんの姿は見ましたか」


「……はっきりとは」


「では、何を根拠に部屋にいたと思ったのですか」


「息遣いと、寝返りの音です」


 玲司さんが眉をひそめた。


「紗英」


「ごめんなさい」


 紗英さんは小さく言った。


「でも、本当にそうだったの。隣にいると思った」


「隣にいた」


 玲司さんは言った。


「僕は部屋を出ていない」


「玲司さん」


 白瀬さんの声は穏やかだった。


「あなたがそう証言することと、紗英さんがそれを確認できることは別です」


「僕を疑っているんですか」


「今は、証言の強さを確認しています」


「強さ?」


「はい。見た証言は強い。聞いた証言は少し弱い。気配で判断した証言は、さらに慎重に扱う必要があります」


 玲司さんは黙った。


 紗英さんは俯いている。


 僕はメモに書いた。


 十一時二十分頃。


 玲司:自室にいたと主張。


 紗英:玲司の姿は見ていない。息遣い、寝返りの音で判断。


 玲司のアリバイは、完全ではない。


 書いた後で、胸が重くなった。


 玲司さんを疑いたいわけではない。


 けれど、メモは感情とは別に残ってしまう。


「紗英さん」


 白瀬さんは続けた。


「一週間前に、蓮司さんを名乗る人物から手紙を受け取ったと言いましたね」


「はい」


「その手紙を読んだ時、玲司さんに話さなかった」


「話せませんでした」


「なぜ」


「玲司さんを守りたかったからです」


 紗英さんは顔を上げた。


 目元が赤くなっている。


「蓮司さんの名前が出ると、玲司さんは変わってしまうんです。自分が悪いわけでもないのに、全部自分のせいみたいに背負おうとする」


「兄さんのことなんだ」


 玲司さんが低く言った。


「背負うなと言われても無理だ」


「だから怖かったの」


 紗英さんは言い返した。


「七年前も、あなたは何も知らなかった。なのに、蓮司さんが消えてから、あなたはずっと自分を責めていた」


「僕が知らなかったからだ」


「違う」


「違わない」


 二人の間に、七年分の沈黙が落ちた。


 僕はペンを止めていた。


 これは証言なのか。


 感情なのか。


 思い込みなのか。


 それとも、事件の重要な一部なのか。


 分からなかった。


 白瀬さんが静かに言った。


「紗英さん。あなたは玲司さんを守るために、情報を隠した」


「……はい」


「その結果、蓮司さんが館に戻る可能性を誰にも知らせなかった」


 紗英さんの顔が歪んだ。


「そうです」


「責めているのではありません」


「同じことです」


「いいえ」


 白瀬さんは首を振った。


「責めることと、役割を整理することは違います」


「役割……」


「この事件では、誰かが殺した。けれど、それ以外の人も、何かを隠したことで事件の見え方を変えています」


 その言葉に、応接室の空気が微かに揺れた。


 久世さんが指輪を撫でる。


 篠原さんが視線を下げる。


 鷺沼は動かない。


 静乃さんだけが、どこか満足そうに目を細めていた。


「紗英さんは、蓮司さんを殺してはいないかもしれません」


 白瀬さんは言った。


「ですが、蓮司さんが来るかもしれないという情報を隠した」


 紗英さんは唇を噛んだ。


「はい」


「その理由は、玲司さんを守るため」


「はい」


 僕は書いた。


 紗英:蓮司からの手紙を隠した。理由は玲司を守るため。


 隠した情報:蓮司が霧雨館へ来る可能性。


 殺害とは別の隠蔽。


 殺害とは別の隠蔽。


 その言葉を書いた時、白瀬さんの言う「役割」の意味が少しだけ分かった。


 事件の中には、犯人と被害者だけがいるわけではない。


 誰かの沈黙が、別の誰かの行動を見えなくする。


 誰かの善意が、事件を歪ませる。


 その結果、真実はどんどん遠くなる。


「次に、玲司さん」


 白瀬さんは玲司さんを見た。


「七年前、蓮司さんが失踪した時、あなたは何を見ましたか」


 玲司さんは顔を上げた。


「僕は、何も見ていません」


「聞いたことは?」


「翌朝、兄がいなくなったと聞かされました。伯父から」


「その前の夜、十一時二十分に何か聞きましたか」


「時計塔が止まった音を聞いた気がします」


「気がします?」


「嵐でした。雷も鳴っていた。何が時計塔の音で、何が雷だったのか、今となっては分かりません」


「その時も、音が曖昧だった」


 白瀬さんが呟く。


「七年前も、今夜も」


 玲司さんは苦しそうに言った。


「僕は、兄が伯父を裏切ったのだと思っていました」


「誰にそう言われましたか」


「伯父です。篠原さんからも」


 篠原さんの表情は動かなかった。


「篠原さん」


 白瀬さんが声をかける。


「後ほど、あなたにも詳しく伺います」


「分かりました」


 篠原さんは静かに答えた。


 その声は落ち着いている。


 だが、僕には彼女が自分の順番を待っているように見えた。


 覚悟しているのか。


 それとも、答えをすでに用意しているのか。


 分からない。


「玲司さん」


 白瀬さんは続けた。


「あなたは七年前、蓮司さんが第五楽章を盗んだと聞かされた。けれど、それを見たわけではない」


「はい」


「今夜、蓮司さんが戻ってくることも知らなかった」


「知りませんでした」


「蓮司さんと連絡を取っていない」


「取っていません」


「誰かから、蓮司さんの名前を聞きましたか」


 玲司さんは一瞬、紗英さんを見た。


 それから首を振った。


「いいえ」


「本当に?」


「聞いていません」


「では、今夜この館で蓮司さんの名前が出るまで、あなたにとって蓮司さんは七年前に失踪したままだった」


「そうです」


 僕はメモする。


 玲司:七年前の真相を見ていない。宗一郎と篠原から「蓮司が第五楽章を盗んだ」と聞かされた。今夜、蓮司が来ることは知らなかったと主張。


 白瀬さんは、しばらく何も言わなかった。


 置時計の音だけが響く。


 かち。


 かち。


 この館で唯一、動いているように見える時計。


 だが、その時計が正しいという保証もない。


「玲司さんの証言で重要なのは、二つです」


 白瀬さんが言った。


「一つは、十一時二十分前後のアリバイが、紗英さんの気配による証言に依存していること」


 玲司さんの顔が曇る。


「もう一つは、七年前の蓮司さん失踪について、玲司さん自身が直接見たことはほとんどないということ」


「僕は、何も知らなかった」


「ええ」


「それが罪だと言うんですか」


「いいえ」


 白瀬さんは即答した。


「知らされなかったことは罪ではありません」


 玲司さんは、少しだけ息を吐いた。


「けれど」


 白瀬さんは続けた。


「知らされなかった人が、自分は知っていると思い込むと、真相から遠ざかります」


 その言葉は、玲司さんだけに向けられたものではなかった。


 僕にも刺さった。


 僕は、低いラと悲鳴を聞いた。


 そして、蓮司さんがその時に殺されたのだと思った。


 でも、それは見たことではない。


 聞いたことから、そう思っただけだ。


「真柴さん」


「はい」


「今の証言を、三つに分けて書いてください」


「見たこと、聞いたこと、思ったこと、ですか」


「はい」


 僕は新しい欄を作った。


 玲司。


 見たこと:今夜、蓮司の遺体を見た。七年前の失踪時は直接見ていない。


 聞いたこと:宗一郎と篠原から、蓮司が第五楽章を盗んだと聞かされた。十一時二十分頃、時計塔が止まったような音を聞いた気がする。


 思ったこと:蓮司は宗一郎を裏切って逃げたと思っていた。


 紗英。


 見たこと:七年前、蓮司と会った。一週間前の手紙を読んだ。今夜、玲司の姿ははっきり見ていない。


 聞いたこと:玲司の気配、寝返りの音。


 思ったこと:玲司は部屋にいたと思った。玲司を守るため、蓮司の手紙を隠した。


 書き終えた後、僕は表を見た。


 こうして分けてみると、証言の頼りなさがよく分かる。


 玲司さんも紗英さんも、嘘をついているとは限らない。


 けれど、二人の証言には、見たことよりも「聞いたこと」「思ったこと」が多い。


「この二人の証言から、何が分かりますか」


 白瀬さんが僕に尋ねた。


「ええと……玲司さんのアリバイは、完全ではない」


「はい」


「でも、紗英さんが嘘をついているとも限らない」


「はい」


「紗英さんは玲司さんを守るために、情報を隠すことがある」


「重要です」


「七年前の蓮司さん失踪について、玲司さん自身はほとんど何も見ていない」


「それも重要です」


 白瀬さんは頷いた。


「では、次に見るべきなのは?」


 僕は応接室の中を見回した。


 篠原さん。


 久世さん。


 奏太さん。


 静乃さん。


 鷺沼。


 美和さん。


 誰もが何かを知っているように見えた。


 あるいは、僕がそう思い込み始めているだけなのかもしれない。


「七年前のことを知っている人」


 僕は答えた。


「それと、今夜音楽室に入った人」


「ええ」


 白瀬さんは静かに言った。


「次は、篠原さんと久世さんです」


 篠原さんは、窓際からこちらを見た。


 久世さんは、少しだけ楽しそうに笑った。


 対照的な二人だった。


 宗一郎の名誉を守ろうとする元秘書。


 宗一郎の遺品に価値を見出す美術商。


 けれど、どちらも第五楽章に近い。


 篠原さんは、第五楽章を探すなと言った。


 久世さんは、第五楽章に値段をつけようとしている。


 そして久世さんは、午後九時半に音楽室へ入っている。


 僕は次のページを開いた。


 見出しを書く。


 篠原千鶴。


 久世将臣。


 その瞬間、窓の外で雨が強くなった。


 霧雨は、いつの間にか細かな雨ではなくなっていた。


 硝子を叩く音が、部屋の中にまで響いてくる。


 白瀬さんは、その雨音を聞くように少しだけ顔を上げた。


「雨音が強くなりましたね」


「それが何か?」


 久世さんが尋ねた。


「音の証言は、ますます信用しにくくなります」


 白瀬さんは言った。


「この館では、聞こえたものほど疑わしい」


 僕はペンを握り直した。


 次の証言は、きっともっと厄介になる。


 そう予感していた。

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