第2話 証言の置き場所
十一時二十分のアリバイ。
メモ帳にそう書いた瞬間、僕はようやく気づいた。
この事件では、誰がどこにいたかだけでは足りない。
誰が、どの時刻について話しているのか。
誰が、どの時刻について沈黙しているのか。
そこを見なければならない。
零時頃の悲鳴。
十一時半前の低いラ。
十一時半頃の男の足音。
午後九時半の紙ロール。
そして、十一時二十分。
事件は一つの時刻に見えて、実際にはいくつもの時刻に分かれている。
それを、誰かが一つに重ねようとしている。
「まず、証言を置く場所を決めます」
白瀬さんが言った。
「置く場所?」
「証言は、ただ並べるだけでは役に立ちません。どの時刻の証言なのか。何を見た証言なのか。何を聞いた証言なのか。そこを分けます」
僕はメモ帳のページを開き直した。
左端に時刻を書く。
その横に人物名。
さらにその横に、見たこと、聞いたこと、思ったこと。
表のように線を引いていく。
「会議資料みたいですね」
僕が呟くと、白瀬さんは少しだけ目を細めた。
「事件も、整理しなければただの混乱です」
「整理すれば解けますか」
「解けるとは限りません」
「そこは断言してほしかったです」
「でも、整理しなければ必ず間違えます」
それは慰めではなかった。
けれど、今の僕にはその方が信じられた。
応接室の全員は、互いに距離を取るように座っていた。
事件が起きる前には、同じ館に集められた関係者だった。
今は違う。
誰もが、誰かの証言の中にいる。
そして、誰もが誰かを疑っている。
「最初に確認するのは、玲司さんと紗英さんです」
白瀬さんが言った。
紗英さんの肩が小さく揺れた。
玲司さんは、彼女を庇うように一歩前へ出た。
「僕たちの話はもうしました」
「ええ。零時前後の話は聞きました」
「なら」
「今度は、十一時二十分前後の話です」
玲司さんは言葉を詰まらせた。
「十一時二十分……」
「はい」
白瀬さんは静かに頷いた。
「その時、あなたはどこにいましたか」
「自室です」
「紗英さんも?」
「はい」
玲司さんはすぐに答えた。
「紗英と一緒にいました」
「紗英さん」
白瀬さんは視線を移した。
「十一時二十分頃、玲司さんは部屋にいましたか」
紗英さんは、すぐには答えなかった。
さっきと同じだ。
零時前後の証言でも、彼女は「玲司さんがいた」と言いながら、実際には見ていなかった。
今回も同じなのか。
僕はペンを握る手に力を入れた。
「いたと思います」
紗英さんは言った。
「思います、ですね」
「部屋は暗かったんです」
「明かりは消していた?」
「はい。玲司さんが、少し休みたいと言ったので」
「あなたは起きていましたか」
「眠れませんでした」
「玲司さんの姿は見ましたか」
「……はっきりとは」
「では、何を根拠に部屋にいたと思ったのですか」
「息遣いと、寝返りの音です」
玲司さんが眉をひそめた。
「紗英」
「ごめんなさい」
紗英さんは小さく言った。
「でも、本当にそうだったの。隣にいると思った」
「隣にいた」
玲司さんは言った。
「僕は部屋を出ていない」
「玲司さん」
白瀬さんの声は穏やかだった。
「あなたがそう証言することと、紗英さんがそれを確認できることは別です」
「僕を疑っているんですか」
「今は、証言の強さを確認しています」
「強さ?」
「はい。見た証言は強い。聞いた証言は少し弱い。気配で判断した証言は、さらに慎重に扱う必要があります」
玲司さんは黙った。
紗英さんは俯いている。
僕はメモに書いた。
十一時二十分頃。
玲司:自室にいたと主張。
紗英:玲司の姿は見ていない。息遣い、寝返りの音で判断。
玲司のアリバイは、完全ではない。
書いた後で、胸が重くなった。
玲司さんを疑いたいわけではない。
けれど、メモは感情とは別に残ってしまう。
「紗英さん」
白瀬さんは続けた。
「一週間前に、蓮司さんを名乗る人物から手紙を受け取ったと言いましたね」
「はい」
「その手紙を読んだ時、玲司さんに話さなかった」
「話せませんでした」
「なぜ」
「玲司さんを守りたかったからです」
紗英さんは顔を上げた。
目元が赤くなっている。
「蓮司さんの名前が出ると、玲司さんは変わってしまうんです。自分が悪いわけでもないのに、全部自分のせいみたいに背負おうとする」
「兄さんのことなんだ」
玲司さんが低く言った。
「背負うなと言われても無理だ」
「だから怖かったの」
紗英さんは言い返した。
「七年前も、あなたは何も知らなかった。なのに、蓮司さんが消えてから、あなたはずっと自分を責めていた」
「僕が知らなかったからだ」
「違う」
「違わない」
二人の間に、七年分の沈黙が落ちた。
僕はペンを止めていた。
これは証言なのか。
感情なのか。
思い込みなのか。
それとも、事件の重要な一部なのか。
分からなかった。
白瀬さんが静かに言った。
「紗英さん。あなたは玲司さんを守るために、情報を隠した」
「……はい」
「その結果、蓮司さんが館に戻る可能性を誰にも知らせなかった」
紗英さんの顔が歪んだ。
「そうです」
「責めているのではありません」
「同じことです」
「いいえ」
白瀬さんは首を振った。
「責めることと、役割を整理することは違います」
「役割……」
「この事件では、誰かが殺した。けれど、それ以外の人も、何かを隠したことで事件の見え方を変えています」
その言葉に、応接室の空気が微かに揺れた。
久世さんが指輪を撫でる。
篠原さんが視線を下げる。
鷺沼は動かない。
静乃さんだけが、どこか満足そうに目を細めていた。
「紗英さんは、蓮司さんを殺してはいないかもしれません」
白瀬さんは言った。
「ですが、蓮司さんが来るかもしれないという情報を隠した」
紗英さんは唇を噛んだ。
「はい」
「その理由は、玲司さんを守るため」
「はい」
僕は書いた。
紗英:蓮司からの手紙を隠した。理由は玲司を守るため。
隠した情報:蓮司が霧雨館へ来る可能性。
殺害とは別の隠蔽。
殺害とは別の隠蔽。
その言葉を書いた時、白瀬さんの言う「役割」の意味が少しだけ分かった。
事件の中には、犯人と被害者だけがいるわけではない。
誰かの沈黙が、別の誰かの行動を見えなくする。
誰かの善意が、事件を歪ませる。
その結果、真実はどんどん遠くなる。
「次に、玲司さん」
白瀬さんは玲司さんを見た。
「七年前、蓮司さんが失踪した時、あなたは何を見ましたか」
玲司さんは顔を上げた。
「僕は、何も見ていません」
「聞いたことは?」
「翌朝、兄がいなくなったと聞かされました。伯父から」
「その前の夜、十一時二十分に何か聞きましたか」
「時計塔が止まった音を聞いた気がします」
「気がします?」
「嵐でした。雷も鳴っていた。何が時計塔の音で、何が雷だったのか、今となっては分かりません」
「その時も、音が曖昧だった」
白瀬さんが呟く。
「七年前も、今夜も」
玲司さんは苦しそうに言った。
「僕は、兄が伯父を裏切ったのだと思っていました」
「誰にそう言われましたか」
「伯父です。篠原さんからも」
篠原さんの表情は動かなかった。
「篠原さん」
白瀬さんが声をかける。
「後ほど、あなたにも詳しく伺います」
「分かりました」
篠原さんは静かに答えた。
その声は落ち着いている。
だが、僕には彼女が自分の順番を待っているように見えた。
覚悟しているのか。
それとも、答えをすでに用意しているのか。
分からない。
「玲司さん」
白瀬さんは続けた。
「あなたは七年前、蓮司さんが第五楽章を盗んだと聞かされた。けれど、それを見たわけではない」
「はい」
「今夜、蓮司さんが戻ってくることも知らなかった」
「知りませんでした」
「蓮司さんと連絡を取っていない」
「取っていません」
「誰かから、蓮司さんの名前を聞きましたか」
玲司さんは一瞬、紗英さんを見た。
それから首を振った。
「いいえ」
「本当に?」
「聞いていません」
「では、今夜この館で蓮司さんの名前が出るまで、あなたにとって蓮司さんは七年前に失踪したままだった」
「そうです」
僕はメモする。
玲司:七年前の真相を見ていない。宗一郎と篠原から「蓮司が第五楽章を盗んだ」と聞かされた。今夜、蓮司が来ることは知らなかったと主張。
白瀬さんは、しばらく何も言わなかった。
置時計の音だけが響く。
かち。
かち。
この館で唯一、動いているように見える時計。
だが、その時計が正しいという保証もない。
「玲司さんの証言で重要なのは、二つです」
白瀬さんが言った。
「一つは、十一時二十分前後のアリバイが、紗英さんの気配による証言に依存していること」
玲司さんの顔が曇る。
「もう一つは、七年前の蓮司さん失踪について、玲司さん自身が直接見たことはほとんどないということ」
「僕は、何も知らなかった」
「ええ」
「それが罪だと言うんですか」
「いいえ」
白瀬さんは即答した。
「知らされなかったことは罪ではありません」
玲司さんは、少しだけ息を吐いた。
「けれど」
白瀬さんは続けた。
「知らされなかった人が、自分は知っていると思い込むと、真相から遠ざかります」
その言葉は、玲司さんだけに向けられたものではなかった。
僕にも刺さった。
僕は、低いラと悲鳴を聞いた。
そして、蓮司さんがその時に殺されたのだと思った。
でも、それは見たことではない。
聞いたことから、そう思っただけだ。
「真柴さん」
「はい」
「今の証言を、三つに分けて書いてください」
「見たこと、聞いたこと、思ったこと、ですか」
「はい」
僕は新しい欄を作った。
玲司。
見たこと:今夜、蓮司の遺体を見た。七年前の失踪時は直接見ていない。
聞いたこと:宗一郎と篠原から、蓮司が第五楽章を盗んだと聞かされた。十一時二十分頃、時計塔が止まったような音を聞いた気がする。
思ったこと:蓮司は宗一郎を裏切って逃げたと思っていた。
紗英。
見たこと:七年前、蓮司と会った。一週間前の手紙を読んだ。今夜、玲司の姿ははっきり見ていない。
聞いたこと:玲司の気配、寝返りの音。
思ったこと:玲司は部屋にいたと思った。玲司を守るため、蓮司の手紙を隠した。
書き終えた後、僕は表を見た。
こうして分けてみると、証言の頼りなさがよく分かる。
玲司さんも紗英さんも、嘘をついているとは限らない。
けれど、二人の証言には、見たことよりも「聞いたこと」「思ったこと」が多い。
「この二人の証言から、何が分かりますか」
白瀬さんが僕に尋ねた。
「ええと……玲司さんのアリバイは、完全ではない」
「はい」
「でも、紗英さんが嘘をついているとも限らない」
「はい」
「紗英さんは玲司さんを守るために、情報を隠すことがある」
「重要です」
「七年前の蓮司さん失踪について、玲司さん自身はほとんど何も見ていない」
「それも重要です」
白瀬さんは頷いた。
「では、次に見るべきなのは?」
僕は応接室の中を見回した。
篠原さん。
久世さん。
奏太さん。
静乃さん。
鷺沼。
美和さん。
誰もが何かを知っているように見えた。
あるいは、僕がそう思い込み始めているだけなのかもしれない。
「七年前のことを知っている人」
僕は答えた。
「それと、今夜音楽室に入った人」
「ええ」
白瀬さんは静かに言った。
「次は、篠原さんと久世さんです」
篠原さんは、窓際からこちらを見た。
久世さんは、少しだけ楽しそうに笑った。
対照的な二人だった。
宗一郎の名誉を守ろうとする元秘書。
宗一郎の遺品に価値を見出す美術商。
けれど、どちらも第五楽章に近い。
篠原さんは、第五楽章を探すなと言った。
久世さんは、第五楽章に値段をつけようとしている。
そして久世さんは、午後九時半に音楽室へ入っている。
僕は次のページを開いた。
見出しを書く。
篠原千鶴。
久世将臣。
その瞬間、窓の外で雨が強くなった。
霧雨は、いつの間にか細かな雨ではなくなっていた。
硝子を叩く音が、部屋の中にまで響いてくる。
白瀬さんは、その雨音を聞くように少しだけ顔を上げた。
「雨音が強くなりましたね」
「それが何か?」
久世さんが尋ねた。
「音の証言は、ますます信用しにくくなります」
白瀬さんは言った。
「この館では、聞こえたものほど疑わしい」
僕はペンを握り直した。
次の証言は、きっともっと厄介になる。
そう予感していた。




