第1話 閉ざされた館
あの夜の終わりに書いたメモを見返して、僕はしばらく動けなかった。
書いたのは自分だ。
見たものも、聞いたものも、自分の手で記録した。
それなのに、そこに並んだ言葉は、僕自身を突き放すように冷たかった。
密室。
割れた懐中時計。
第五楽章。
紙ロール。
低いラ。
悲鳴。
女性らしい人影。
男の足音。
七年前の十一時二十分。
そして、宗一郎の日記にあった一文。
第五楽章は楽譜ではない。
鍵盤が覚えている。
何を覚えているのか。
誰の指を覚えているのか。
それとも、鍵盤という言葉自体が、別の何かを指しているのか。
考えようとすればするほど、思考は霧の中に沈んでいった。
応接室では、誰も眠ろうとはしなかった。
玲司さんは暖炉の前に立ち、じっと火を見ている。
紗英さんはその近くの椅子に座り、両手を膝の上で握りしめていた。
久世さんはソファに腰を下ろしているが、目だけは落ち着きなく部屋の中を見ている。
奏太さんは顔を伏せ、時々自分の腕時計を確認していた。
篠原さんは窓際に立ち、外の霧を見ている。
静乃さんは部屋の隅の椅子に座り、まるで昔話の続きを待っているような顔をしていた。
鷺沼は扉のそばに控えている。
美和さんは暖炉の近くで立ち尽くしていたが、鷺沼に促されてようやく椅子に腰を下ろした。
白瀬さんは、僕のメモを読んでいた。
ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。
「真柴さん」
「はい」
「次は、アリバイを整理します」
「アリバイ、ですか」
「はい」
白瀬さんはメモ帳を閉じた。
「ただし、証言をただ並べるだけでは意味がありません。誰が嘘をついているかだけを考えると、たぶん間違えます」
「嘘をついている人を探すのが、推理じゃないんですか」
「嘘には種類があります」
白瀬さんは応接室の全員を見渡した。
「自分を守る嘘。誰かを守る嘘。罪を隠す嘘。罪ではないものを隠す嘘。そして、本人が嘘だと思っていない思い込み」
僕はメモ帳を開いた。
嘘には種類がある。
その一文を書き込む。
「この事件では、最後のものが特に危険です」
「思い込みですか」
「はい」
白瀬さんは頷いた。
「見たことと、そう思ったこと。聞いたことと、そう解釈したこと。その区別が曖昧になると、事件は犯人に都合のよい形になります」
その言葉に、僕は第二章の証言を思い出した。
紗英さんは、玲司さんの姿を見たわけではない。
気配で、そこにいたと思った。
僕は悲鳴を聞いた。
けれど、それが人間の声だったかは分からない。
静乃さんは、男の背中を見た。
けれど、それが玲司さんか蓮司さんかは分からない。
奏太さんは、低いラを何度も聞いた。
けれど、それがすべて同じ場所で鳴ったとは限らない。
確かに、証言の多くは、事実と解釈が混ざっていた。
「まず、時間を区切ります」
白瀬さんが言った。
「事件発見前後ではなく、もっと広く見ます」
「どのくらいですか」
「夕方の音楽室確認後から、蓮司さん発見まで」
僕はペンを止めた。
「夕方から?」
「はい」
「零時前後じゃないんですか」
「零時前後だけを見れば、悲鳴と扉と死体に引っ張られます」
「それが一番大事なんじゃ」
「大事です。けれど、それだけではありません」
白瀬さんは、僕が書いたメモの一行を指差した。
夕方には紙ロールなし。
午後九時半には紙ロールあり。
「この変化は、零時より前に起きています」
「あ……」
「紙ロールを入れた人物は、少なくとも夕方から午後九時半までの間に音楽室へ入っている。つまり、事件は零時に始まったわけではありません」
事件は零時に始まったわけではない。
その言葉は、第二章で白瀬さんが言ったこととつながっていた。
死体が見つかった時点から始まったわけではない。
もっと前から、誰かが音を置いていた。
「では、まず確認します」
白瀬さんは玲司さんを見た。
「夕方、私たちが音楽室を出た後、音楽室の扉はどうなっていましたか」
玲司さんは疲れた顔で答えた。
「開けておくように指示していました。第五楽章を探す可能性があると思ったので」
「鍵はかけなかった」
「はい」
「それは全員に伝えていましたか」
「明確には言っていません。ただ、音楽室は見てよいと伝えました」
「つまり、誰でも入れる状態だった」
「そうなります」
白瀬さんは頷いた。
「鷺沼さん」
「はい」
「午後十時の戸締まりで、音楽室を確認したと言いましたね」
「はい」
「その時、扉は?」
「閉まっておりました」
「施錠は?」
「しておりません」
「中を確認しましたか」
「いいえ。扉が閉まっていることを確認しただけです」
「なぜ中を確認しなかったのです」
鷺沼は一瞬だけ沈黙した。
「玲司様が、音楽室を開けておくようにとおっしゃっていたため、あまり立ち入るべきではないと判断いたしました」
「使用人として?」
「はい」
「それとも、音楽室に入ることを避けたかった?」
鷺沼の表情は変わらなかった。
「私は、旦那様の部屋には必要以上に入らないようにしておりました」
「亡くなった後も?」
「はい」
白瀬さんは、それ以上追及しなかった。
僕は書く。
午後十時、鷺沼は音楽室の扉が閉まっていることを確認。
施錠はしていない。
中は確認していない。
「次に、午後九時半です」
白瀬さんは久世さんを見た。
「久世さん。あなたは午後九時半頃、音楽室へ入った」
「ええ」
「その時、扉は開いていましたか」
「閉まっていましたが、鍵はかかっていませんでした」
「中には誰も?」
「いませんでした」
「自動演奏ピアノに紙ロールがあった」
「はい」
「譜面台に第五楽章の楽譜はなかった」
「ありませんでした」
「懐中時計のケースは?」
「見ましたが、触れていません」
「グランドピアノは?」
「閉じていました。少なくとも、私は触っていない」
「紙ロールに触れていないという証言も変わりませんか」
「変わりません」
久世さんは指輪を撫でながら答えた。
「ただ、見ました。端に『第五楽章』と書いてありましたので」
「なぜ、その時点で誰かに知らせなかったのですか」
「自分で先に価値を確認したかったからです」
部屋の空気が冷えた。
久世さんは悪びれない。
「隠すつもりはありません。私は商売人です。見つけた者に相続権とまで言われた第五楽章。その名を冠した紙ロールがあれば、確認したくなる」
「確認できましたか」
「いいえ。使い方が分からなかった」
「では、そのまま部屋を出た」
「はい」
「その時、紙ロールはまだ入っていた」
「そうです」
白瀬さんは少し考えた。
「久世さん。あなたが音楽室を出た時、扉は閉めましたか」
「閉めました」
「鍵は?」
「持っていません」
「当然ですね」
久世さんは肩をすくめた。
僕は書く。
午後九時半、久世が音楽室へ入る。
紙ロールあり。
譜面台に楽譜なし。
久世は紙ロールに触れていないと証言。
扉を閉めて出た。
「ここまでで、分かることがあります」
白瀬さんが言った。
「紙ロールを入れた人物は、夕方から午後九時半までの間に音楽室へ入った可能性が高い」
「久世さんより前に、ですね」
僕が言う。
「ええ」
「でも、久世さんが嘘をついている可能性は?」
「あります」
久世さんが苦笑した。
「本人の前で堂々と言いますね」
「嘘をついていない可能性もあります」
「それはどうも」
「大事なのは、久世さんの証言を信じるかどうかではありません」
白瀬さんは僕に向き直った。
「その証言が真実なら、何が分かるか。嘘なら、何を隠したいのか。その両方を置いておくことです」
僕は頷いた。
証言を信じるか、疑うか。
それだけでは足りない。
真実の場合に見える線と、嘘の場合に見える線を、両方残す。
それが今の段階で必要なことなのだろう。
「次は、午後十一時半前の低いラです」
白瀬さんが奏太さんを見た。
奏太さんはびくりと肩を揺らした。
「奏太さん。あなたは十一時半より少し前、低いラを聞いた」
「はい」
「その時、どこにいましたか」
「二階の自室です」
「本当に?」
奏太さんは俯いた。
「……部屋の扉を開けて、廊下に少し出ていました」
「階段までは?」
「行っていません」
「なぜ廊下に出たのですか」
「眠れなかったんです。音楽室のことが気になって」
「第五楽章が?」
奏太さんは唇を噛んだ。
「はい」
「音楽室へ行こうとは思わなかった?」
「思いました」
「でも行かなかった」
「怖くなったんです」
「何が怖かったのです」
「先生の曲が」
その答えは、思ったよりも静かだった。
奏太さんは腕時計を握りしめた。
「宗一郎先生は、才能がない人間を見抜くのが得意でした。先生の曲を聴くと、自分が空っぽだと分かる気がするんです」
「それでも第五楽章を見たかった」
「見たかったです」
「なぜ」
「先生が最後に何を書いたのか、知りたかったから」
「本当に、宗一郎さんが書いたものかどうかも含めて?」
奏太さんが顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
白瀬さんはそれ以上言わなかった。
奏太さんはしばらく黙り、それから小さく言った。
「低いラは、十一時半より少し前に聞きました。その後、小さな金属音も」
「その音は、夕方に真柴さんが聞いた金属音と似ていましたか」
「たぶん」
僕が聞かれたわけではないのに、背中が冷えた。
夕方。
十一時半前。
零時頃。
低いラと金属音が繰り返されている。
「二度目の低いラは?」
「真柴さんの声が聞こえる直前です」
「その後に悲鳴は?」
「聞いていません」
「施錠後の低いラは?」
「聞きました」
「その後に金属音は?」
「分かりません。低いラに驚いて、それどころでは」
奏太さんの証言を整理すると、低いラは少なくとも三度鳴っている。
一度目、十一時半前。
二度目、零時頃。
三度目、音楽室施錠後。
しかし、他の人の多くは一度しか聞いていない。
なぜ、奏太さんだけが複数回聞いたのか。
耳がよいからか。
部屋の位置の問題か。
それとも、奏太さん自身が何かを隠しているのか。
「次に、十一時半頃の男の足音です」
白瀬さんは静乃さんを見た。
「静乃さん」
「ええ」
「あなたは一階の寝室にいた」
「そうよ」
「十一時半頃、男の足音を聞いた」
「ええ。廊下を通ったわ」
「音楽室の方へ?」
「いいえ。反対の方へ」
「顔は見ていない」
「背中だけ」
「玲司さんか、蓮司さんかは分からない」
「分からないわ。よく似ているもの」
玲司さんの顔が強張った。
「叔母様は、兄が館に戻っている可能性を考えたんですか」
「その時はね」
「なぜ言わなかったんです」
「言ったところで、あなたは信じたかしら」
玲司さんは答えられなかった。
静乃さんは薄く笑った。
「この館では、信じたくないことは、だいたい本当なのよ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
「静乃さん」
白瀬さんが続ける。
「あなたは、蓮司さんが生きていることを本当に知りませんでしたか」
「知らなかったわ」
「けれど、戻ってくる可能性は考えていた」
「宗一郎さんが、よく言っていたから」
「あの子はまだ館の中にいる」
「ええ」
「それは比喩だと思っていましたか」
「宗一郎さんにとっては、比喩と現実に大した違いはなかった」
静乃さんは、暖炉の火を見つめた。
「あの人は、音楽に閉じ込めれば、人も時間も所有できると思っていた」
白瀬さんは、その言葉をメモするよう僕に目で合図した。
宗一郎は、音楽に人も時間も閉じ込めようとした。
僕はそう書いた。
「ここまでで、時系列を作りましょう」
白瀬さんが言った。
僕は新しいページに時刻を書いた。
夕方。
午後九時半。
午後十時。
十一時半前。
十一時半頃。
零時頃。
発見後。
それぞれの横に、分かっていることを書き込んでいく。
夕方。
音楽室初回確認。
自動演奏ピアノに紙ロールなし。
低いラの後、金属音。
懐中時計は十一時二十分。
午後九時半。
久世が音楽室へ。
紙ロールあり。
譜面台に第五楽章なし。
午後十時。
鷺沼が戸締まり確認。
音楽室の扉は閉まっていたが、施錠なし。
中は未確認。
十一時半前。
奏太が低いラと金属音を聞く。
十一時半頃。
静乃が男の足音を聞く。
玲司か蓮司か不明。
零時頃。
真柴が女性らしい人影を見る。
低いラ、金属音、短い悲鳴。
音楽室の扉は外から開かない。
発見後。
蓮司の遺体。
割れた懐中時計。
現場の第五楽章。
紙ロール。
密室状況。
施錠後にも低いラ。
書き終えると、事件が少しだけ形を持った。
しかし、それは答えの形ではなかった。
穴だらけの譜面のようだった。
音符がある場所よりも、空白の方が気になる。
「白瀬さん」
僕はメモを見ながら言った。
「十一時半前から零時までの間に、何かが起きています」
「ええ」
「でも、蓮司さんがいつ死んだのかは分からない」
「そこが重要です」
白瀬さんは言った。
「今、全員が無意識に零時頃を死亡時刻だと考えています」
「悲鳴が聞こえたから」
「はい」
「でも、悲鳴が本当に蓮司さんの声か分からない」
「そして、低いラも複数回鳴っている」
「十一時二十分の時計も、死亡時刻とは限らない」
「その通りです」
白瀬さんは、応接室の置時計を見た。
「この事件では、時刻を示すものほど疑わしい」
時刻を示すものほど疑わしい。
時計。
腕時計。
懐中時計。
証言の時刻。
十一時二十分。
すべてが、時間を教えているようでいて、むしろ時間を隠しているのかもしれない。
「では、次に何を確認するんですか」
僕が尋ねると、白瀬さんは静かに答えた。
「アリバイです」
「今までも確認していたのでは?」
「今までは、零時前後の所在確認です」
「違うんですか」
「違います」
白瀬さんは、僕の時系列メモを指差した。
「本当に確認すべきなのは、十一時二十分前後です」
十一時二十分。
また、その時刻だった。
「でも、十一時二十分は死亡時刻とは限らないんですよね」
「はい」
「それなのに、なぜ?」
「死亡時刻ではないかもしれないからこそです」
白瀬さんの声は低かった。
「誰かがその時刻を見せようとしている。なら、その時刻の前後に何を隠したいのかを考える必要があります」
僕は息を呑んだ。
十一時二十分は、答えではない。
だが、犯人か誰かが、僕らに見せようとしている目印ではある。
その目印の周囲に、隠したいものがある。
「ここから見るべきなのは、十一時二十分のアリバイです」
白瀬さんは言った。
「誰がその時刻に何をしていたのか。何を聞き、何を見て、何を見ていないのか」
応接室の全員が沈黙した。
その沈黙の中で、僕は時計塔の針を思い出していた。
館の中央で、雨に濡れたまま止まっている針。
十一時二十分。
あの時刻は、過去のものなのか。
今夜のものなのか。
それとも、誰かが作った舞台の幕なのか。
白瀬さんは最後にこう言った。
「真柴さん、次のページを開いてください」
「はい」
「ここからは、誰が犯人かではなく、誰がいつ嘘をついたかを調べます」
僕は新しいページを開いた。
見出しに、こう書く。
十一時二十分のアリバイ。
その瞬間、霧雨館のどこかで、古い時計が一つだけ鳴った。
鐘ではない。
針が動いたような、かすかな音。
かちり。
誰も声を出さなかった。
止まっているはずの館の時間が、ほんの少しだけ動いた気がした。




