86 鳴人くん、ほら、コレだよコレ
開店前の準備。
一番遅い、危なっかしい、お荷物の鳴人君ヘのフォローに最大限割り振って、開店準備が進みます。
そこまで言うことないだろ!
いや、もっともだと思うネ。
後の事は一切、私がやりますから。
く、くそぉ…
翌朝。
普段はもっと遅くにやってくる親父も、今日はさすがに俺たちと変わらない時刻で店に現れた。
昨日の手さばきぶりから、麺の仕込みに倍の時間はかかることが判っていたので、掃除や具材、スープの支度などは、全部れんげちゃんが引き受けて、俺と親父は麺の仕込みやほぐしに専念すると決めてある。
「ヨシ、早速、始めるヨ」
「はいっ」
親父の見守る中、木製の調理台の上に、やや氷がかった、ひんやりと冷たい麺を並べ、指で温もりを与えるようにして、徐々にほぐしていく。
ダマにならないように、ちぎってしまわないようにという手加減、指加減が肝心で、昨日初めてやったときには、その冷たさに手の感覚が徐々に無くなっていくし、妙に固まったり、逆にバラバラにさせすぎるなど、散々なものだった。
だが、一度、コツをつかんでしまえば、後は、いかに同じような手さばきで素早くほぐせるか、という事だ。
今日の麺は、親父のほぐしたものに比べるとまだまだだが、それでも、それなりに形になってきている。
無駄な力が省けているみたいだし、麺の冷たさも、それほど気にならなくなってきた。
「鳴人君、そうだ、その加減だヨ。やっぱり、あっしが見込んだだけの事はあるネエ」
うん、自分でも上手く出来てきていると思う。
体が熱くて、指先にまで血が充分通っている感じだ。
自然に汗が吹き出して、顔を滴り落ちていく。
「鳴人くん、ほら、コレだよコレ」
親父、ふと気配が消えたと思ったら、捩り鉢巻なんか引っ張りだしてきた。
なるほどね、確かに必要かも知れない。
「すいません」
礼を言って頭に巻き上げる。
なんか、いっぱしの職人みたいに思えてきたというか、らしく見えるというか。
「なあに、あっしの愛用品の鉢巻きだからネ」
「げえっ、親父さんの汗がたっぷり染み込んでるんですか!」
「なに言ってんだい、ちゃんと洗濯してるよオ」
二人で笑っている中に、れんげちゃんの笑い声も小さく聞こえた。
うん、れんげちゃん、なんとかやれそうだよ。きっとなんとかしてみせるよ。
~ ・ ~
開店前に、どうにか麺の準備は間に合った。
掃除やスープの準備は、れんげちゃんが一人で全部やっていたが、当然のごとく完璧に支度は済んでいる。
俺の実家で、れんげちゃんが俺を茹で方に専念させて、あとの一切合切を引き受けた時と同じように。
そう、そうだよ。あの時の経験を、ここでも生かせばいいんだ。
まして、慣れ親しんでいる来々軒の中でのことだ。出来ないだなんて、言い訳にしか過ぎないよな。
「マスター、お客さん、もうかなり並んでいます」
「ウン、開店しよう」
れんげちゃんが入り口の引き戸を開けると、外の寒気と共に、待ちかねたかのようにお客さんがドッと流れ込んできた。
いよいよだ。
なんか、緊張してきた。
「いらっしゃいませっ!」
「ヘイイラッシャイッ!」
れんげちゃんと親父の掛け声が、店内に響く。
「いらっしゃいっセー!」
俺も負けじと声を張り上げながら、早速、麺を茹で始める。
親父と違って、一度に五食分しかこなせないから、少しでも早くしないとな。
「マスター、醤油三丁味噌一丁塩四丁!」
「アイヨッ、醤油三丁味噌一丁塩四丁!」
「オッケー、醤油三丁味噌一丁塩四丁!」
ハハ、早速、八食分か。ドンドン茹でていかないと、間に合わないな。
茹で加減を見計らいながら、ドンブリの準備もしておきたい所だが、注文前に茹で始めたから、もう鍋に張り付いていないとならないし、これは大変だよな…
なんて、考えるまでもなかった。
れんげちゃんが、さっと厨房に入ってきたかと思うと、手早く五食分のドンブリの準備を済ませてしまった。
「鳴人君、今だ」
かたわらで見守ってくれる親父が、声を掛ける。
「はいっ!」
手早くは出来ないけど、でも、なるべく急いで、俺は平ザルを振り回すように湯切りすると、ドンブリに麺を注ぎ込む。
入れると同時に、れんげちゃんが両手に持った菜箸で具材を盛りつけていく。
うっ、速い。
俺が次の麺を湯切りする前に、もう具材を持って構えている。
うわぁ、待たせてるよ。
「焦らなくていいですよ。丁寧に正確に、そして素早く、です」
「は、はいッ」
声が裏返りかかるのを堪えて、なんとか二食目の麺をドンブリに入れ終える。
次々にこなさなきゃならないのに、手がもどかしい位に遅い。
それでも、なんとか三食目、四食目をドンブリに入れ終える。
やっと、最後の麺を茹で鍋から揚げようとした時…
「鳴人さん、最後の麺は茹でなおして下さい」
左手でスープの入ったドンブリを流しに捨てながら、れんげちゃんはそう言い残して、ラーメンを持って客席に行ってしまった。
「え?え?」
「…鳴人くん、それはもう伸びきってしまっているんだよ。さあ、すぐに次の麺を茹でるんだ」
「…は、はい…」
親父より三食も少ない、五食分しか茹でていないのに、茹ですぎになってしまう。
俺の湯切りや、ドンブリに入れるスピードが遅すぎるのか。
マズイなあ…
しかし、お客さんが入ってきている中で逃げ出すわけにもいかない。
それに、れんげちゃんや親父の期待にも、なんとか応えたい。
麺を大鍋に放り込みながら、頭の中で湯切りから移し替えまでのイメージを思い描く。
「丁寧に正確に」やって、出来るようになったら「素早く」やればいい。
そう、れんげちゃんは教えてくれている。
素早くやるのは、最後でいい。
焦っちゃだめなんだ。
焦ってミスしたり、手元がおろそかになるから、却って余計な時間が掛かるんだ。
集中、集中して…
「鳴人くん」
「はいっ」
れんげちゃんがすでに用意してくれているドンブリの中に、茹で上がった麺を放り込んでいく。
一つ、二つ、三つ…
四つ目を入れたとき、れんげちゃんの顔色を伺いたくなったが、そこを堪えて五つ目の麺を揚げる。
彼女は何も言わない。
まだ、茹で過ぎてはいないんだ。
そのままドンブリに入れると、彼女は颯爽と具材を入れて客席に運んでいく。
よ、よし、やったぞ…
「鳴人くん、次だよ次…」
「は、はいっ!」
親父に急かされるままに、俺は次の麺を茹で上げに取りかかる…
~ ・ ~
「ありがとうございましたっ!」
「アリガトヤシタっ!」
「ありがとっしたぁ!」
最後の客が店を出た。
同時に、どっと疲れが吹き出す。
へなへなと崩れ落ちた俺の肩を、親父がポンポンと叩いてくれる。
「初めてにしては、上出来だヨ」
「そ、そうですか…」
少し照れくさいけど、なんとか一日、四百食分の麺を茹で上げたんだ。
この、俺が。
やれば出来るもんだよ、うん。
「片づけは、私がやっておきますから、鳴人さんは休んでいて下さい」
れんげちゃん、ちょっと固い笑顔で、そう言ってくれる。
「い、いや、そうはいかないよ。俺も手伝う…」
ただでさえ、親父の怪我の分まで、れんげちゃんがカバーしているんだ。
疲れてるからって、そんなに甘えられない。
彼女の方が、俺の何倍も疲れているはずなんだ。
あの、見ている方が嬉しくなってくるような笑顔じゃ、なかったから。
なんだかんだ言って、今日一日を乗り切りましたね。
さすが、鳴人君だ。あっしが見込んだことはあるヨ!
後は、わたしがやりますから…
あ、ありがとう。さすがに、腰がヘナヘナなんだよね…




