110 相当照れくさかったらしい
「うーん…」
言葉が足りない、と親父も思ったらしい。言葉を探すように視線がしばらく宙に舞う。
「あっしのようにラーメンを作れる人がいるとしたら、それはあっしの女房しか、いないんだろうね」
へ?
「いや違う、だからネ、鳴人君は、とても良くやってくれているんだヨ。うん、本当に」
へ?
「いや、女房だったらそう出来たんだろうけど。あっしが麺を、女房がスープを作って来々軒のラーメンが出来ていた訳だからネ。となると、あっしも同じように、女房のスープを作れるのも、あっししかいなかったわけで…」
な、何を言っているんだ?
親父も、自分で喋っている内に、判らなくなってきたらしい。
間合いを計るように、再び麺をほぐして、組み直し始める。
「鳴人君、例えばだネェ、君は、誰のためにラーメンを作っているのか、という事なんだヨ…」
「誰のため、って…」
仕事だから、自分のため、だよなあ。
でも、前の警備員のバイトを続けていても良かったんだろうし。
給料を貰うためなら、大学を休講、というより、ほぼ辞めたような状態で来々軒で働いていなくてもいいんだよな。
まあ、店が忙しい時期だったし、本当は行きたくもなかった大学に通っても、面白くはないわけだし。
じゃあ、お客さんのため、か。
そうだよな。食べて貰いたいから、ラーメンを作っているわけなんだし。
「お客さんの笑顔がみたいから、です…」
「そうかい。あっしはチガウけどネ」
ようやく得心が行った、という風に、親父は俺の顔を、目を細めながら見つめる。
「違う、んですか?」
「ああ、違うネ。何度も言うようだけど、あっしは来々軒のラーメンの味を守るために店を開けているんだヨ。
…じゃあ逆に聞くけど、お客によって好みの味というのは、人それぞれ違ってくるだろう? 鳴人君は、その人それぞれに合わせて味を変えたりするのかい?」
「で、出来ませんよ、そんな事」
「そうだろ? じゃあ、お客によっては美味しいと感じても、別の客には不味く感じる事もあるネ。“お客の笑顔がみたいから”というのは、ラーメン屋にとっては“アイ”じゃなくて自己満足にしかスギナイんだヨ」
自己満足…
確かに俺は「親父さんのように作っている」という自己満足な気持ちはあった。
だけど、現に不味いラーメンにしかならなくて、お客に食べて貰えないんじゃ仕方がないだろうに。
大体、れんげちゃんが来る前の、親父が作っていたラーメンは、客のことなんて考えていない、まさに自己満足そのものラーメンだったじゃないか。
「じゃあ、親父さんのいう“アイ”って、なんなんですか」
「照れるような事を何度も言わせるんじゃないヨ」
親父、本当に顔が赤くなっている。
なんで照れるんだ?
「あっしは、女房と二人で築き上げた来々軒の味を守っているんだヨ。
…あっしが造るラーメンは“女房のため”にあるんだヨ。
あとは、お客が自分で上手いか不味いかを判断することで、あっしがお客に合わせるつもりは無いし、そんなもんは“アイのあるラーメン”なんかじゃないヨ」
奥さんのために作るラーメン…
だ、だって、奥さんとはもう離婚したんじゃないのか?
それに、今はともかく、昔のあのクソ不味いラーメンで、奥さんは本当に納得して食べてくれていたのか?
「だからネ、鳴人君が店の常連として、ずっとあっしの造ったラーメンを食べ続けてくれていたのは、ホントウに嬉しかったんだヨ。
…鳴人君もれんげも、あっしのラーメンをアイしてくれて、こうして店で働いてくれている。あっしは、本当に幸せもんダヨ」
茹で上げられたタコみたいに顔を真っ赤にしながら、親父はほぐし終わった麺箱を調理台の下に片づけて、そのまま店の外に出かけていった。
スポーツ新聞を買い忘れたとか言い残していったが、実の所、相当照れくさかったらしい。
ふと、客席の方を見ると。
れんげちゃんがやっぱりというか、目を潤ませて俺を見つめ返していた。
思えば、確かに彼女は、来々軒のラーメンが好きだから、こうして働いているようなものだ。
じゃなければ、実の父親でもない親父の店の二階に寝泊まりしてまで働こうとは思わないだろうし。
第一、彼女の腕前ならば引く手は数多、というより自分で店を出しても充分以上に繁盛するに違いない。
そうしないのは、彼女自身が認めているように、来々軒のラーメンに“アイ”を感じているからなのだろう。
アイ、それはつまり、自分が一番その味を伝えたい人のために作る味の事なんだ。
そして、親父はずっと、奥さんのためにラーメンを作り続けてきたんだ。
例え、何があろうとも、誰がなんと言おうとも。
そうか、だから、例えばナベさんが自分なりのやり方でラーメンを作る手伝いをしようとしていたのを無下に断ったりしていたんだ。
だから、店が忙しくなってきても、むやみに従業員を増やしたりはしなかったし、客足が落ちても、味を変えようとはしなかったんだ。
ただ、俺が作るラーメンが、本当に親父のアイの味を受け継いでいるとは思えない。
親父さんは「よくやってくれている」と言ってはいるけど。
でも、俺は親父さんの奥さんのことなんか、よくは知らないわけだし。
顔だって、昨日、れんげちゃんのアルバムで、しかもうんと若い頃のをようやく見せて貰ったようなものだし。
だから俺は、自分が知っている親父さんが作ったラーメンの味は理解っても、奥さんのために作ったりは出来ない。出来るはずが無い。
そうだよ、だから親父さんは「自分のようにはラーメンを作れない」とも言っていたんだ。
でも。
じゃあ、なんで親父さんは、俺にラーメンを作らせているんだろう。
自分でしか作れない、伝えられないはずの、奥さんへの“アイ”のラーメンを。
(続く)




