109 それでいいんだ、という事だけの話なんだヨ
来々軒の麺は、氷温熟成という方法を使っており、普通のラーメン屋とはちょっと違う。製麺所で造って貰った麺を、一晩、零度近くに温度調整した冷蔵庫の中に保管して、ゆるやかに麺を熟成させるのだそうだ。
そのまま取り出して茹でると、鍋の温度が下がるし、麺自体も温度差の関係でダマになってしまうので、事前に薄力粉をつけた指でほぐして、少し温めておく必要があるとれんげちゃんに教わった事がある。普通のラーメン屋では、こんな手間のかかる事はやらないのだとも。
でも、手慣れてくれば、そんなに難しくはない作業だ。麺は腰が強いし、完全に凍っているわけではないので、丁寧にやれば千切れたりはしない。
薄力粉の加減も、多すぎず少なすぎず、麺に擦り込むというよりは、コーティングしてやるような具合でよいわけだ。
れんげちゃんが来る前の来々軒でも、親父さんは同じように麺の下ごしらえをしてはいたらしい。もちろん、朝一番に客がくるわけでもないし、せいぜい30食も出れば良いあの経営状態だから、時間はふんだんに掛けられたのだろうが。
しかし、当時の麺の味と、今の来々軒の麺の味は、格段の違いがある。もちろん同じ材料ではない。今の方が何倍も高い高級麺だから。
むしろ、高級な麺だからこそ、その持ち味を充分に引き出すために必要な下ごしらえなのかもしれない。
とはいえ、俺が下ごしらえして茹でた麺は、不味い、よなあ。
以前の親父さんが造っていた来々軒のラーメンそのもの、とさえ言えるのかもしれない。
しかし、今、俺の目の前で下ごしらえをしている親父のやり方通りにやっているつもり、なのだが。
どこが違うのか、俺にはさっぱり判らない。
「ああ、久しぶりだネエ、この感覚」
やけに嬉しそうに麺をほぐす親父。
額から汗が、うっすらと滲み始めている。
調理台が狭いので、二人同時に仕事をするわけにも行かず、せいぜい俺に出来る事と言えば、台の上に麺を出したり、ほぐし終わった麺を親父さんが箱に戻すのを手伝ったりといった下働き位だ。
その分、どんな風に手を動かしているのか、とか、身体の向きはどうなっている、などは判る。
が、普段自分でやっているのと大差はない。
なのに、こうも味に違いが出るというのは、茹で加減に問題にあるのかもしれない。
「イテ、イテテテ…」
親父さんが腕を抱えて、粉が白く吹いた手で撫ぜさすっている。
「親父さん、やっぱり、腕、まだ…」
「うーん、そうだネ。無理は禁物のようだネ」
「俺、代わりますよ」
「そうしてくれるかい」
身体を入れ換えて、俺は麺をほぐし始める。
親父さんと同じような手つきで。
もう、スピードも変わらないし、手つきやリズムも遜色はないと思う。
麺のほぐれ具合も、見た目には区別はつかないし…
「鳴人君、随分と上手くなったネエ。さすがに若いと、上達が早いんだネエ」
俺のほぐした麺を箱に詰め直しながら、親父もそんな風に褒めてくれる。
「でも、お客さんはみんな麺を残すし、客足も減らしてしまいましたし…」
言わないでおこうとは思うのだが、ツイツイ愚痴をこぼしてしまう。
「鳴人君、それは、お客が自分で選ぶ事だろう? あっしらは、自分のラーメンの味を、来々軒の味を守っていくのが務めだからネ」
自分の味、ったって、食べて貰えないんじゃしょうがないと思うけど。
そんな風に、俺の顔に書いてあったらしい。
親父は、身体を割り込ませるようにして、俺のほぐした麺に、再び手を加え始めた。
「やっぱり、俺のほぐした麺、おかしい、ですか…?」
壁際に押しつけられて親父の体温を直に感じながら、俺は真剣に親父の手に見入っていた。
「いや、オカシクはないよ。鳴人君は良くやってくれているよ。ただ、ネ」
「ただ…?」
一旦、麺をバラバラにして、再び組み直すように元の形に麺を丸めると。
親父は、俺の手に自分でほぐし直した麺を手渡してくれた。
「あっしのように、鳴人くんはラーメンを作れない、それでいいんだ、という事だけの話なんだヨ」
「親父さんのようには、作れない…?」




