107 どうして…
読者さまから、貴重なご指摘を戴きまして。
一旦、前書き、後書きを廃止してみます。
ご意見、ご感想ございましたら、ぜひぜひ、ご指摘くださいませ。
「待てってばっ!」
早くも俺は、息がキレ始めている。学生の頃から、ロクな運動をしてきたわけじゃないんだ。
俺の体力なんて、せいぜいが必要にかられての警備員のバイトをしてからの、いわば付け焼き刃なんだし。
実家のスーパーの手伝いでも、使い物にならないとか、ひ弱すぎるとか、よく親父や兄貴たちに叱られていた位だから。
だから、それでいいのだと思っていた。俺は所詮、その程度なんだと自分を慰めていた。
フザケンナよ、その程度でいい理由が無いだろうがっ!
クルシイ、クルシイ、クルシイ……
息が止まりそうになる。酸素を求めて口があえいでいる。
立ち止まれば、楽になれる。判っているんだ。今までずっと、そうしてきたから。
それでも俺は、走るのを止めなかった。やみくもにがむしゃらに後を追いかけ続けた。
全身が走る事を拒絶している。
目がかすみ、薄暗い視界がさらにぼやける。
彼女の姿が、まるで元々いなかったかのように、移ろいゆく幻影のように遠くに霞んでいく。
まるで、今の俺と彼女のように。決して縮まらない距離のように。
だから、走ったって無駄なんだ。自分というものをワキマエナケレバ……
それでいい理由が無いだろうがっ!
泣きながらよろめきながら、大勢の観客が見守っている中で喘ぎながら、それでもゴールに向かって走り歩いていくランナーのように、俺は彼女を目指し続けた。
すると、幻なのかとすら思っていた彼女が、俺の目の前で急速に血肉を備えた存在として実体化していった。
繁華街のスポットに、照らしだされて。
れんげちゃんは、いつのまにか立ち止まって、俺を待っていてくれたんだ。
「どうして…」
「当たり前だろうがっ!」
最後の力を振り絞って、俺は彼女に体当たりでもするかのように、その細い体を力一杯抱きしめた。
勢い余った体を回転させるようにして逃がしながら、大鍋で麺を茹でるかのように、彼女を大きく振り回す。
れんげちゃんは、そんな俺のなすがままに、一緒にワルツでも踊るようにグルグルと回っていた。
「どうして…」
俺の腕の中で、俺の顔を見上げながら、彼女はもう一度尋ねた。
「これでいい理由がないんだ。俺も、そして君も。
君は裏切り者なんかじゃないんだ。
いや、もしそうなんだとしても、俺にはそんな事どうでもいいんだ。
君が俺に、親父さんのように“アイ”の味を作れというなら、俺はきっと造って見せる。例え君のお母さんが親父さんを裏切ったように、君が俺を裏切ったとしても。
俺は親父さんのように、いつまでも来々軒のラーメンを作り続けてみせるから」
「な、鳴人さん…」
いつのまにか泣きじゃくっている彼女を、そのまま建物の壁に押しつける。
腕の中から、すり抜けていかないように。
いつまでも、俺の腕の中に留めておけるように。
「れんげちゃん、俺は君が好きだよ。多分、心から愛してるんだよ。
でもそれは、こんな言葉じゃダメなんだよ。
君が来々軒のラーメンを心から愛しているように、俺も君のように来々軒のラーメンを心からアイしてみせるよ」
「でも、わたしは、裏切り者の娘…」
ああっもう、まだ言うのかこのバカ娘はっ!
俺は返事の代わりに、より強くれんげちゃんを抱きしめた。
「親父さんが、今までずっと来々軒の味を守り続けていたのは、君のお母さんを裏切らなかったからだろう?
アイって、相手の気持ちに関わり無く、自分の気持ちを貫き通すものなんだろうが。
関係ない、関係ないんだ。親父さんがずっとそうしてきたように、俺も君のために来々軒の味を受け継いでみせるよ。
だから、もう自分の事を裏切り者なんて言うなよ…」
「なる、と、さん…」
彼女は、俺に抱かれるままになっていた。
胸の中で、嗚咽が聞こえる。
これでいいのかどうかは、俺には判らない。
でも、これでいいのだと、俺には判っている。
俺はきっと、彼女がいようといるまいと、来々軒の味をアイしているのだろうし。
俺はきっと、彼女がここにいるからこそ、来々軒の味をアイしているのだから。
親父がずっと、ラーメンを作り続けることによって、奥さんの事を想い続けてきたのと同じように。
俺もきっと、来々軒のラーメンを作り続けることによって、れんげちゃんの事を想い続けていられるのだろうから。
だからいいんだ。君は、自分の事を裏切り者だなんて呼ばなくても…
「君たち、お取り込みの所、申し訳ないんだが…」
「へ?」
「え?」
不意に声がして、俺とれんげちゃんは同時に振り向いた。
壮年の警察官が二人、遠慮がちに懐中電灯を俺たちに向けている。
気がつくと、10人ほどの野次馬に、取り囲まれてさえいる。
「通報があったものでね。若い女性が、ストーカーに追いかけられていると。人相からすると、君たちのようなんだが…
えー、その、君たちは“恋人同士”なのかね?」
「へ?」
「え?」
言われて急に、俺は自分がれんげちゃんを固く抱きしめている事に気がついた。
いや、気付かなかったわけじゃないんだけど、いやでも、そんなつもりはなかったわけでも、ないわけじゃないけど、いや、そんなつもりはないわけで……
「ご、ゴメンっ!」
慌てて彼女から離れて、平謝りする。
野次馬どもが騒めくのが、否が応にも耳に入る。ウルセーよ、ほっとけっ!
「ふむ、ちょっと事情を聞く必要があるので、署まで来てきて貰おうかね」
「あ、いえ、私たちは、その…」
れんげちゃんも慌てて間に入るけど。
「いいよいいよ。男がいる前では話し辛い事もあるだろうし。通報があった以上は、適切に対応するのが警察の仕事だからね」
な、なにが適切なんだよっ!
「はい、いいからいいから。なんなら手錠でも掛けておくかね?」
「よ、よして下さいよ、行きますよ、行けばいいんでしょ?!」




