106 哀しみと怒りがない交ぜになったような細くて黒い瞳が
自分が生まれる前の、両親の思い出の写真。
照れるよね。
よく分からないです。
?
れんげちゃんが、よく分からないです。
いや、最初から、よく分からなかったんですけど。
「こういうのって、なんだか照れるよね?」
「え?」
コーヒーを注ぐ手を止めて、れんげちゃんが振り向いた。
「いや、自分の両親の若い頃の写真って、なんか照れくさくならない?」
「わたしには…よく判らないです」
なんともいい薫りのコーヒーを手渡してくれながら、彼女は考え込むようにそう言った。
「そうかなあ。だって、俺ん家もそうだったけど、自分の知らない所であのクソ親父や母ちゃんが青春してたんだなあとか思うとさ、なんかこう、背中がこそばゆくなるっていうのか…」
「そうですよね。わたしが年末にお邪魔しました鳴人さんのお家のご家族、とっても仲が良さそうで“アイ”が溢れていましたもの」
“アイ”…?
「よ、よしてよ。あんな非常識でゴーイングマイウエィなクソ親父に、愛情のカケラなんてあるもんか。俺の顔を見るたびにデキ損ないだの覇気が無いだのシッカリしろだのしか言わないんだぜ? 聞かされるこっちの身にも……」
「そう言って貰えるだけ、幸せなことなんですよ。だから、鳴人さんはお父さんの麺を茹でられるのかもしれませんね」
「れんげ、ちゃん…?」
彼女は、俺が見終わったアルバムを取り上げると、そのまま胸に抱きしめた。
「わたしには、この中にしかないんです。わたしが理解る“アイ”は…」
え?
だって親父さんと奥さんの若い時のアルバムでしょ?
誕生れていないれんげちゃんは、まだ写っていないでしょうが。
「わたしのお父さん、来々軒のマスターは、わたしの本当のお父さんじゃないんです」
ああ、そういうことか。
「…やっぱり、ね」
うん、そうじゃないかとは、思っていたんだ。
聞きづらい事だし、実の娘じゃないと、ここまでお店に貢献しようと思うかどうか、判らなかったから。
「わたしの母は、お父さんと一緒に造ってきたお店を、来々軒の味を捨てた裏切り者なんです。そしてわたしは、裏切り者の娘…」
なにか、思い詰めているような彼女の声。
俯いたまま、絞り出すように話す声が、抱えているアルバムの中に吸い込まれていく。
「う、裏切りだなんて、そんな…」
「いえ、それでもマスターは、わたしの事を受け入れてくれました。そして“娘”と呼んでくれました。今でもお父さんは、わたしの母の事をアイし続けているんです。二人で造った来々軒の味を、来々軒の看板を守り続けることによって…」
「れんげちゃん…」
「鳴人さん。そんなマスターが、鳴人さんに麺を預けたんです。店の味を、アイの味を任せたんです。だから、きっと鳴人さんは出来ます。いえ、もう出来ているんです。鳴人さんも、ずっと来々軒の味をアイし続けてくれた人だから…」
顔を上げた彼女の目は、潤んでいた。
罪悪感に囚われ続けていた犯人が、自首して全てを打ち明け終えたかのように。
しかし、俺には彼女が全てを語ってくれたようには思えなかった。
確かに彼女は、俺の事を信頼してくれているんだ、とは、思う。
俺は、二人でいるときも彼女の信頼を損なうようなことは一切していないという自信があるし、そのようでありたいと願ってもいた。
もちろん、彼女の全てを抱きしめたいと思ってもいるし、一緒に人生を歩いていきたいとすら考え…なくもないんだけど。
でも、今の俺はそこまで大きくも強くもない事はよく判っている。
そしてそれは、彼女もよく判っている、判っているはずなんだ。
だから、今の俺に、全てを打ち明けられるはずはないんだ。
判っている、判っている。
だけど、そんな表面的な事だけじゃダメなんだ。彼女の言う、親父さんの言う、常連の客たちが言う、来々軒の“アイ”が一体なんなのか判らない限り、俺は自信をもって麺を茹でる事が出来ないだろうから。
「ち、ちょっと待ってよ。君のお母さんが親父さんの元を離れたからって、君のせいにはならないじゃないか。そんな考え方はおかしいよ」
「おかしくなんかナイ、おかしくなんかナイです! わたしは、わたしも、裏切り者なんですッ!」
強い口調で尋ねる俺に、れんげちゃんは同じような勢いで返してきた。
哀しみと怒りがない交ぜになったような細くて黒い瞳が、精一杯の勢いで見開かれている。
俺は自分でも知らない内に立ち上がっていた。
「判らないよ、そんな事。
じゃあ、どうして来々軒に来たんだよ。
どうして俺を誘ったんだよ。
どうして俺に“ラーメン”を教えてくれるんだよ。
君自身が言うように、君は“裏切り者”だからか?
自分の裏切りのために、俺を“利用”したのか?
だから、これ見よがしに親父さんのアルバムを見せたりしたのか?
君のお母さんが親父さんを裏切ったと言うように、君も俺を散々利用した後、裏切るつもりなのかっ?!」
「なる…と、さん…」
れんげちゃんの手から、バサリとアルバムが落ちた。
彼女が語る「家族」が、そっくりそのまま失われていくかのように。
「ゴメンナサイっ!」
腕を捉える事すら出来なかった。
彼女は激しい勢いで、俺を突き飛ばすかのような勢いで部屋を走り出ていったから。
カンカンカン…
アパートの階段を打ちつける金属音で、俺は我に返った。
「あの、バカっ!」
俺は、ため込んでいた怒りを爆発させるかのように、彼女の後を追いかけ始めた。
俺が聞きたいのは、彼女の裏切りとかなんとか、そんな事じゃないんだ。
俺が聞きたいのは、来々軒の“アイ”の味の事なんだ。
君が俺を“利用”したいのなら、そうすればいいんだ。誰もそんな事、咎めているわけじゃないのに。
三段飛びで階段を踏み抜く勢いで駆け降りると、走り去っていく小柄な人影が街灯の向こうで夜影に変わろうとしていた。
「待てよっ! れんげちゃん!」
彼女の足は速い。
スクーターに乗って追いかけようかと、一瞬躊躇した。
が、カギを取りにいく間に見失ってしまうだろう。
俺はそのまま全力疾走して、後を追いかけ始めた。
彼女は俺の方を振り向くと、なおも足を早める。
「待てよ、待てって!」
「こないでッ!」
「そうはいくかよっ!」
ええいこの分からず屋めっ!
所詮は女の足、と高をくくっていたが、考えてみれば彼女も長時間の立ち仕事、しかも店内をこまめに歩き回って足は鍛えてあるのだ。
追いつかない所か、引き離され始めていく。
部屋を飛び出して、古いアパートの階段を、高らかな金属音を鳴らしながら駆け降りる彼女。
混乱しながらも、必死で追う、彼氏。
うん、こういうのですよ。
槇原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」なんですよ。(気になる方は、ご自分でお調べください)
こういうのを、いつか自分でも書きたいなと、思っていたシーンなんですよ。
こういうのって、二人の関係性がキチンと進まないと書けないんで。
やっと、ここまできたのか。長かったなぁ…




