102 その目だけは確信に満ちた光を放ちながら
うわぁ、大鍋を放り出して飛び出しちゃったよ。
親父さんもれんげちゃんも、怒ってるよなぁ。
…ま、客なんか、どうせまばらにしか来ないんだから、大丈夫だけどさ。
入り口で息を整え、何事も無かったような顔を作って、暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ!…もう、どこ行ってたんですか?」
「そうだよ鳴人君。お客がきたら、あっしが麺を茹でなきゃならない所だったゾ」
「はは、スイマセン。どうしても気になった事があったもんで」
思った通り、客は入っていない。
二人とも、声は怒っているけど、表情はそうでもないみたいだ。
しかし、あの主任と呼ばれていたお客さんに言われてみると、確かに親父さんとれんげちゃん、ラーメン屋を切り盛りしている夫婦ものに見えなくも…
ない。
皆無だ。
ありえない。
全然、そんな風には見えない。
だって、まるで年齢差が釣り合わない。
ったく、おかしな事言ってるよなあ、あのお客さんも。
「それで、なにか判ったんですか?」
さりげにカウンターのイスを引いてくれて、ついでとばかりに冷たい水の入ったコップまで用意してくれたれんげちゃんが、期待を込めた瞳で俺を見つめている。
「いや、その、別に…」
彼女も判っているんだ。俺の茹でた麺を残さず食べてくれた客は、あの人たちが初めてだという事に。
「お? やっぱり、なんかあったのかい?」
なんだ親父、気づいてなかったのかよ。
「親父さん、さっきのお客さんは“昔の”来々軒の事をよく知っている感じだったんですけど」
「ああ、そうかい。何度か見た顔だなあとは思っていたんだけどネ。やっぱり、そうだったのかい」
そうだったのかいって、常連さんの顔位、覚えておけよ。
そんな俺の思いが表情に現れたのか、親父は顔をニヤっとほころばせた。
「あっしは、お客の接待はみんな女房に任せていたからねエ。でもね、全部一人でやるようになってからは、そういう事の大変さを身に沁みて判ったんだヨ。
…れんげ、いつも本当にありがとうネ」
「そ、そんな…」
急に話を振られて、れんげちゃん、頬が桜色に染まっていく。
「あのお客さんは、そうだね、昔っから週一位で通ってくれてたみたいだネ。でも、ラーメンを全部食べてくれたわけじゃ無かったヨ。今のように完食してくれるようになったのは、ここ最近の事じゃないかネェ」
ここ最近って、そうか、れんげちゃんが店に来てからのことか。
そりゃそうだよ。親父が一人で作ってたあの不味いラーメンを残さず食べるっていうのは、よっぽどラーメンが好きじゃないと出来ないだろうね。
「その点、鳴人君は、毎日のように通ってくれたし、必ず残さずに食べてくれたからネェ。いつも嬉しかったんダヨ」
いや、そんなにニコニコと笑われても困るのだが。
俺は単に、残したらラーメン代が勿体ないというだけの事だったし。
「でもね、あっしも正直言って、こんなに客のこないラーメン屋なんか、もう辞めちまおうって、いつも思っていたんだヨ」
まあ、そりゃそうだよ。あの頃の来々軒は、本当に酷かったからな。
「しかしネ、あっしは、どうしても来々軒の看板を降ろせなかった。だから、多少客足が遠のいた位じゃ、もうビクともしないヨ。鳴人君がそんなに心配するような事じゃないんだからネ」
いや、親父に同情されても困るんだけどな。
まあ、俺も店の事自体は、そんなに心配はしていない。
なんたって、親父の腕が治れば済むだけの話なんだし。
信金男根岸との融資の件は、最初から無かった事にすればいいだけの事だ。
でも、俺自身、しばらく麺茹でをやらせて貰って、まさかここまではっきりと自分の未熟さが現れているのが我慢できなくて。
いつか、れんげちゃん以上、とは行かなくても、少なくとも肩を並べて、胸を張って一緒に仕事が出来るようにはなりたい俺にとって、例えようもない壁を感じているだけの事なんだ。
たかがラーメン一杯を作るって事が、こんなに大変な事なんだとは思っていなかった、ただそれだけの事なんだけどさ。
「……親父さん、どうしてあの時、本当に廃業しなかったんですか?」
こんなに大変な仕事なのに。
まして、どんなに一生懸命やったって、お客に見限られたらそれまでの商売なのに。
「そうだねェ。あっし一人でやっていたら、もう、いつから辞めてただろうネ」
一人って、れんげちゃんが勤める前の事を聞いてるんだけど?
「でもね鳴人君。あっしはずっと、女房と一緒にやってきたからネ。ずっと二人でやっていくって、誓いあってたからねェ」
なぜか照れくさそうな顔をして、しかしその目だけは確信に満ちた光を放ちながら、親父は腹の底から押し出すように、そんな事を言っていた。
何度も廃業しようと思っていた親父。
なので、こんなに客が少なくなった程度は、別にどうって事ないんですよ。
お前たち、心配しすぎなんだヨ。
もっとドッシリと構えていなさいネ。
いや、親父があまりにもいい加減だから、心配してるだけなんだけどな。
…本人には、言えないけどな。




