第9話 神殿の地下に、死者の名簿があった
教会が消した死者の名を記した、地下の名簿。
王都から来た神官騎士たちは、その記録を回収しようとする。
レインは死者の証言だけでなく、生者の命令そのものを記録し始める。
「記録されると困ることでもあるんですか」
レインの声が、地下室へ静かに響いた。
白い鎧をまとった神官騎士は、答えなかった。
代わりに、抜いていた剣の切っ先をわずかに上げる。
脅しというより、命令に従わせるための動作だった。
「その帳面を閉じろ」
「理由を聞いています」
「禁忌記録の無断閲覧は、教会法に反する」
「ここにあるのは、亡くなった人たちの名前です」
「教会が管理すべき記録だ」
「管理とは、名前を消すことですか」
神官騎士の眉が動いた。
レインはその反応も書き留めた。
神官騎士、名前の剥離について明確に否定せず。
「勝手な推測を書くな」
「では、訂正してください」
「何?」
「なぜ名前が消えているのか。教会が何をしたのか。正しい説明をいただければ、そのまま記録します」
「貴様に説明する義務はない」
「なら、分からないものとして残します」
レインは筆を走らせた。
説明を求めるも、回答を拒否。
「書くなと言っている!」
神官騎士が一歩踏み込む。
背後に並ぶ五人も、剣や杖へ手をかけた。
地下室の空気が急激に冷える。
棚に収められた何百冊もの名簿が、かたかたと震え始めた。
死者たちの不安が伝わっている。
『また、取られる』
老女の幽霊が帳簿を胸へ抱いた。
『名前を見つけても、また消される』
ラドムが神官騎士の前へ立つ。
生者には見えていない。
だが焦げ跡の消えた顔には、二十一年前と同じ怒りが浮かんでいた。
『あのときも同じだった』
「何が」
レインが小声で尋ねる。
『記録を見せろと言った。王都へ運ぶだけだと言った。それから、死者の名前が消えた』
「誰が命令した」
『ルディウスだ』
王都大神殿の大司教補佐。
二十一年前、鐘を運び出す儀式を監督した神官。
そして今回、鐘が動いた直後に神官騎士を派遣した人物。
「あなた方は、ルディウス・ハルバート大司教補佐の命令で来たんですね」
レインが確認する。
先頭の神官騎士は、答えず剣を構え直した。
「それも書きます」
「命令書を見せなさい」
階段の上から、セシリアの声がした。
彼女は銀杖を手に、神官騎士たちの後ろへ立っていた。
白い法衣の裾には土埃がつき、髪も少し乱れている。
地下へ入ろうとする騎士たちを止めるため、かなり激しく押し問答をしたらしい。
「セシリア調査官」
先頭の男が振り返る。
「地方調査官に命令を開示する必要はない」
「ここは私が担当する怪異調査区域です」
「王都本部の命令が優先される」
「命令の内容を確認せず、禁忌物を引き渡すことはできません」
「先ほどまで、この民間人が所持する記憶鐘片すら回収できなかった者が言うことか」
セシリアの目が細くなる。
「回収しなかったのではありません。現場とのつながりを確認するため、一時的な保管を認めました」
「規則違反だ」
「怪異調査官には、状況に応じた判断権があります」
「死霊に惑わされているのではないか」
その言葉に、セシリアの表情が凍った。
レインは彼女が怒鳴ると思った。
しかしセシリアは、静かに左手を差し出した。
「命令書を」
「拒否する」
「では、あなた方を正式な回収部隊と認めることはできません」
神官騎士たちの間に緊張が走った。
「セシリア・ローデン。教会本部へ反逆するつもりか」
「命令書の確認を求めているだけです」
「同じことだ」
「それが同じなら、教会の規則は命令を確認する者を反逆者と定めていることになります」
レインは思わず帳面へ書き加えた。
セシリア、命令書の提示を要求。
神官騎士側は拒否。
命令の正当性を確認できず。
「あなたも書かないでください」
セシリアがレインをにらんだ。
「重要なやり取りです」
「分かっています。ですが、今は状況を悪化させないでください」
『でも、少し嬉しそう』
ミラがレインの横で言った。
「何がです」
「ミラには、あなたが少し嬉しそうに見えるそうです」
「そのようなわけがありません」
『口元が少し上がってる』
「上がっていません」
緊迫した地下室で交わす会話ではない。
だが、その短いやり取りでセシリアの肩からわずかに力が抜けた。
先頭の神官騎士は、二人を交互に見た。
「死者の声を通訳しているのか」
「そうです」
レインが答える。
「死霊術師であることを認めるのだな」
「呼び出しても、使役してもいません」
「死者と話す者は異端だ」
「誰が決めたんです」
「教会法だ」
「条文を見せてください」
「何?」
「死者との会話そのものを禁じた条文です。残留思念の調査や、死霊に対する尋問まで一律に禁じているのか確認したい」
神官騎士は答えられなかった。
セシリアが小さく息を吐く。
「教会法に、死者との会話という表現はありません」
「セシリア調査官!」
「禁じられているのは、死体や魂を魔術で拘束し、使役する行為です」
「同じことだ!」
「同じかどうかを判断するために、私は調査しています」
セシリアはレインへ視線を移した。
「彼は死者を呼び出していない。命令もしていない。少なくとも、私が確認した範囲では」
『命令はしてるよ』
ミラが言った。
「何を命令されたんですか」
「静かにしろ、勝手についてくるな、部屋へ入るな」
「それは使役ではありません」
『ほとんど守ってないけど』
「そこは伝えません」
「聞こえています」
先頭の男の顔に苛立ちが浮かぶ。
「これ以上の議論は不要だ。記録を回収する」
彼が剣を掲げると、後方の神官騎士二人がレインへ向かって進んだ。
セシリアが銀杖を床へ突く。
「月光障壁」
淡い光の壁が階段と地下室を分けた。
進もうとした二人が足を止める。
「障壁を解け」
「命令書を確認するまで、この現場は封鎖します」
「自分が何をしているか分かっているのか」
「怪異調査官として、証拠を保全しています」
白い光の向こうで、騎士たちが武器を構えた。
衝突すれば、セシリアは教会へ戻れなくなるかもしれない。
レインは帳面を閉じた。
「一時間はいりません」
「何を言っているのです」
「必要な頁だけ、今すぐ写します」
「この状況で?」
「騎士たちを止め続けるより、早く終わらせたほうがいい」
「原本を渡すつもりですか」
「渡すとは言っていません」
レインはミラを見る。
「白紙の目が出た帳簿を持てるか」
『持てない。幽霊だから』
「さっきは抱えていただろう」
『あれは、持ってるように見せてただけ』
「紛らわしいな」
ラドムが進み出る。
『私なら触れられる』
「なぜ」
『この地下の名簿に、名前が戻ったからだと思う』
ラドムが棚へ手を伸ばすと、半透明の指が帳簿の背へかかった。
完全ではないが、少し動かせる。
「では、奥の帳簿を一冊ずつ確認してくれ。ルディウス、鐘守り、第十三という言葉があるものを探す」
『分かった』
「あなたは、儀式へ反対した記録官の名前を探してください」
老女がうなずく。
『承知しました』
「ミラは」
『白紙を見る』
「白紙に近づきすぎるな」
『分かった』
「触れるな」
『分かった』
「声がしても返事をするな」
『それは難しい』
「なぜ毎回そこだけ守れない」
『向こうが私の名前を知ってるかもしれないから』
「だから危険なんだ」
レインは焦げた鐘の破片を包んだ封印布と、写しを取る紙を石台へ並べた。
地下室にある全記録を守ることはできない。
ならば、教会が消そうとしている理由を証明できるものを残す。
生者の命令。
死者の証言。
古い名簿。
同じ出来事を、異なる側から照合する。
それがレインのやり方だった。
◇
最初に見つかったのは、二十一年前の儀式手順書だった。
ラドムが棚の奥から引き出した帳簿の間に、折り畳まれて挟まっていた。
紙は黄ばみ、端が焼けている。
表題には、次のように記されていた。
疫病死者に対する集団送魂儀式。
セシリアは障壁を維持しながら、背後を振り返った。
「内容を読んでください」
レインは手順を追った。
「死者の名前を名簿へ記録する。遺族に名前を三度呼ばせる。死亡時の記憶を記憶鐘へ移す。その後、名簿から名前を剥離する」
「剥離の目的は」
「死者と生者の縁を断つため、と書かれています」
『違う』
礼拝堂記録官の老女が言った。
『家族が名前を呼ぶほど、死者は強く残りました』
「続きは」
「名前を剥離された死者は、鐘の内側へ収容される。十三名分の鐘守りの名を用いて、門を開く」
ミラの表情が変わる。
『十三人の名前が鍵だった』
「お前は、そのうちの一人だった可能性が高い」
『でも、自分の名前を捨てた』
「儀式を完成させないために?」
老女が小さくうなずく。
『そうだったと思います』
レインは手順書の下部を確認した。
署名欄。
監督者、ルディウス・ハルバート。
承認者の名前は削られている。
だが、さらにその下に小さな注記があった。
第十三名欠損のため、完全送魂に失敗。
鐘本体を王都北部施設へ移送し、再儀式を実施すること。
「王都北部施設」
「神のいない礼拝堂です」
セシリアが言う。
「禁忌記録では、そう呼ばれています」
「なぜ神のいない礼拝堂なんです」
「女神像も祭壇も置かれず、死者を処理する儀式だけが行われたからだとされています」
「処理」
レインはその言葉を繰り返した。
「弔いではなく?」
セシリアは答えなかった。
障壁の向こうから神官騎士が叫ぶ。
「セシリア! 今すぐ開けろ! 大司教補佐の名誉を傷つける行為は許されない!」
「名誉ではなく、記録を確認しています」
「その記録は偽造だ!」
レインの筆が止まった。
神官騎士は、こちらから内容を聞かされていない。
それなのに、偽造だと断定した。
「今の発言を記録してください」
セシリアが静かに言った。
「いいんですか」
「重要なやり取りでしょう」
レインは少しだけ笑い、帳面へ書いた。
地下記録の内容を伝えていない段階で、神官騎士が偽造と断定。
記録の存在または内容を事前に把握していた可能性あり。
障壁の向こうが静かになる。
「不用意でしたね」
セシリアの声は冷たかった。
「命令書を提示しない。記録の内容を知っている。にもかかわらず、現場調査官へ説明せず原本だけを求めている」
「黙れ」
「ルディウス大司教補佐は、何を隠そうとしているのです」
返事はない。
◇
『あった』
ミラの声が地下室の奥から聞こえた。
「動くなと言っただろう」
『見るだけならいいって言った』
「言っていない」
『言った気がした』
「都合よく記憶を作るな」
レインが奥へ行くと、ミラは床へ膝をつくような姿勢で、一冊の帳簿を見つめていた。
表紙は真っ白。
書名も年代もない。
先ほど銀色の目が現れたものとは、別の帳簿だった。
『この中から、私の声がする』
「自分の声?」
『少し違う。でも、私が話してる気がする』
レインは慎重に表紙を開いた。
最初の頁には、一行だけ書かれている。
第十三鐘守・証言記録。
次の頁。
死者は、名を失うことを望んでいない。
その次。
鐘へ入れられた者は、光の彼方へ旅立っていない。
さらに次。
鐘の内側で、互いの記憶を食い合っている。
眠り鹿亭の壁の中で起きていたことと同じだ。
異なる死者の記憶が混ざり、一つの顔のない存在になる。
記憶鐘は死者を救っていない。
ただ、一か所へ押し込み、個人としての形を失わせている。
「これを書いたのは、お前か」
『分からない』
頁を進める。
私は、第十三の名を渡さない。
十二の鐘守は、教会の命令に従った。
私だけが拒めば、門は開かない。
ミラが震え始める。
『知ってる』
「何を」
『この文章を書いてた場所』
彼女の瞳に、過去の光景が映る。
白い石の部屋。
床に刻まれた十三本の線。
中央に吊るされた巨大な鐘。
法衣を着た十二人の男女。
その中央に、一人の少女が立っている。
『私、名前を聞かれた』
「誰に」
『顔が見えない人』
「教会の人間?」
『白い服だった』
現在の神官服と似ているが、胸元の紋章が違う。
月輪の中央に、黒い鐘が描かれている。
『名前を言えば、死者を救えるって』
「言わなかった?」
『言った』
「何を」
ミラは口を開く。
だが声が出ない。
喉元に、十三本の黒い線を持つ輪が現れた。
「無理に言うな」
『違う。思い出せないんじゃない』
「では?」
『言おうとすると、なくなる』
ミラの輪郭が、指先から薄くなっていく。
レインは帳簿を閉じた。
黒い輪が消え、ミラの姿も戻る。
「この帳簿は持っていく」
『でも、私の名前があるかも』
「だからこそ、今ここで開き続けるのは危険だ」
レインは白い帳簿を鞄へ入れようとした。
その瞬間、表紙に銀色の目が開く。
『逃がさない』
少女の声がした。
ミラと似ている。
だが、ミラより冷たく、感情が薄い。
『あなたは戻らなければならない』
『誰?』
ミラが問いかける。
レインが止めるより早かった。
銀色の目が細くなる。
『私は、あなたが鐘へ捨てた名前』
『名前が、話すの?』
『名は器。記憶は中身』
「では、お前はミラ本人ではない」
『今のそれも、本人ではない』
銀色の目がレインを見る。
『空の器へ、勝手に別の名を入れた』
「本人が選んだ名前だ」
『仮初めだ』
「仮でも、今の彼女が受け入れた」
『過去を捨てるつもりか』
「過去を調べるために、今を消す必要はない」
目の奥で、何かが動いた。
『聞き書き人』
「なぜ、その呼び方を知っている」
『あなたの家は、昔からそう呼ばれていた』
レインの手が止まる。
「アスター家を知っているのか」
『墓を守る家ではない』
「何だと」
『名を記録し、鐘守りを監視する家』
「誰を監視していた」
『第十三鐘守』
銀色の目がミラへ向く。
『あなたの家は、これを忘れさせるために残された』
頁が激しくめくれた。
文字が次々と浮かぶ。
アスター。
観測者。
聞き書き人。
十四番目。
レインは頁を押さえた。
「十四番目とは何だ」
『十三人の鐘守りを記録する者』
「俺の祖先が?」
『そして、失敗した儀式を終わらせる者』
「俺に何をさせたい」
銀色の目が笑うように細くなった。
『第十三の名を帳面へ戻せ』
「戻したら、どうなる」
『鐘が完成する』
地下室の床が揺れた。
十三本の溝が再び黒く光り始める。
『十二の名は、すでにある』
「残りはミラだけ」
『違う』
目がレインへ向く。
『第十三と、十四番目』
「俺の名前も必要なのか」
『鐘を鳴らす者には、記録する者が必要』
聞き書き帳が鞄の中で暴れるように震え始めた。
勝手に飛び出し、白い帳簿の横へ落ちる。
二冊の帳面が同時に開く。
聞き書き帳の最後の頁に、黒い文字が浮かんだ。
第十三の名を書け。
白い帳簿には、銀色の文字。
十四番目の名を書け。
二つの記録が、レインとミラの名前を求めている。
「書くな!」
ラドムが叫んだ。
『名前を書けば、鐘とつながる!』
老女も駆け寄る。
『帳面を閉じてください!』
レインは聞き書き帳を掴んだ。
だが頁が閉じない。
紙の表面から黒い糸が伸び、彼の指へ絡みつく。
白い帳簿からは銀色の糸が伸び、ミラの身体を縛った。
『レイン!』
「自分の名前を言うな!」
『でも、引かれる!』
十三本の溝のうち、十二本が光る。
最後の一本が二つに分かれた。
一方はミラへ。
もう一方はレインへ伸びる。
地下室全体に、鐘の輪郭が現れ始めた。
巨大な黒い影。
内部には、無数の人影が押し込められている。
死者たちが互いの身体と記憶を奪い合いながら、声にならない叫びを上げていた。
「これが、鐘の中」
レインは息をのんだ。
成仏でも、救済でもない。
個人の境界を失わせ、死者を一つの塊へ変える牢獄だった。
『助けて』
鐘の内側から声がする。
『名前を返して』
『私は誰』
『ここから出して』
聞き続ければ、レインの意識が引き込まれる。
身体の温度が急激に下がった。
生者側にいるセシリアの声が遠くなる。
「レイン!」
白い光が地下室を横切った。
セシリアの術が黒い糸を切り払う。
完全には切れない。
だが、レインの腕への拘束が一瞬だけ弱まった。
「今です! 帳簿を閉じて!」
「閉じられない!」
「なら、別の記録で上書きしてください!」
「別の記録?」
「あなたの帳面は、書いた内容によって怪異へ影響を与えています!」
エドガーのとき。
名前を記録したことで、死者は形を得た。
オルドも、名前を呼ばれたことで首を取り戻した。
聞き書き帳は、ただの帳面ではない。
死者を記録し、その存在を固定する力がある。
ならば、鐘が要求する名前を書くのではなく、今起きていることを記録する。
レインは筆を握った。
震える手で、開いた頁へ書き始める。
記憶鐘は、死者を救済する道具ではない。
鐘の影が揺れる。
死者の名前を剥離し、記憶を混合する。
黒い糸が一本切れた。
鐘の内側に入った死者は、個人としての形を失う。
二本目。
第十三鐘守ミラは、現在の名前を自ら選択した。
ミラを縛る銀色の糸が弱まる。
過去の名が存在しても、現在の名を否定する理由にはならない。
『私は、ミラ』
少女が自分の名前を叫ぶ。
銀色の糸が弾けた。
レインは最後の一文を書く。
レイン・アスターは、鐘を完成させる十四番目ではない。
死者の意思を記録し、鐘の命令を検証する聞き書き人である。
黒い糸がすべて切れた。
十三本の溝から光が消える。
巨大な鐘の影に亀裂が走り、内部の死者たちの姿が薄れていく。
白い帳簿の銀色の目が大きく見開かれた。
『なぜ、拒む』
「お前の言葉が正しいか、まだ確認できていない」
『私は、捨てられた名だ』
「それも証言の一つだ」
『過去を知りたくないのか』
「知りたい」
レインは帳簿を閉じる。
「だから、お前だけの話では決めない」
表紙の目が閉じた。
二冊の帳面が同時に静かになる。
地下室の揺れも止まった。
レインは膝をついた。
呼吸が苦しい。
指先が青白くなり、身体の感覚が薄れている。
ミラがそばへ来る。
『レイン』
「聞こえている」
『私が見える?』
「見える」
『セシリアは?』
レインは顔を上げた。
セシリアが口を動かしている。
だが声が聞こえない。
遠く、水の向こうにいるようだった。
「声が……聞こえない」
『生者の声が?』
「ああ」
死者の声だけが、異様にはっきりしている。
地下室の棚。
帳簿。
床の下。
そこにいる何百人もの死者の囁きが、一つずつ聞き分けられる。
代わりに、生者の世界が薄くなっていた。
ミラがセシリアへ何か伝えようとする。
セシリアはレインの肩を掴んだ。
その感触さえ弱い。
彼女は銀杖を床へ置き、両手でレインの顔を挟んだ。
何かを叫んでいる。
聞こえない。
ミラが通訳した。
『レイン・アスター。自分の名前を言って、と言ってる』
「俺の……名前」
『鐘に渡すんじゃない。生者側に戻るため』
レインは息を吸った。
「レイン・アスター」
セシリアが何かを言う。
『もう一度』
「レイン・アスター」
『あなたは誰?』
「墓守ダリオ・アスターの息子」
生者側の音が、わずかに戻る。
セシリアの声が、途切れ途切れに聞こえた。
「……二十二歳……リベルタ……生まれ……」
彼女が問いかけている。
「二十二歳。リベルタ生まれ」
「職業は」
「墓地管理人の手伝い」
『それだけ?』
ミラが不満そうに言う。
「死者の話を記録している」
「何のために」
今度はセシリアの声がはっきり聞こえた。
「幽霊の謎を解明するため」
身体へ温度が戻る。
地下室の死者たちの声が遠ざかり、生者の息遣いと衣擦れが聞こえるようになる。
レインは大きく息を吐いた。
「戻りましたか」
セシリアが尋ねる。
「たぶん」
「そこは断言してください」
『レインが言われた』
「お前は嬉しそうだな」
セシリアは安堵したように目を閉じた。
それから、すぐに厳しい顔へ戻る。
「長時間、死者の声を聞きすぎました」
「分かっています」
「分かっていて続けたのですか」
「途中でやめられる状況ではなかった」
「次からは、倒れる前に言ってください」
「次がある前提なんですね」
「あなたがやめるとは思えません」
反論できなかった。
◇
障壁の向こうでは、神官騎士たちが沈黙していた。
巨大な鐘の影は、彼らにも見えていたらしい。
先頭の男の顔には、先ほどまでの強硬さがなかった。
「今のものは何だ」
「あなた方が回収しようとしている記録に残されていた結果です」
セシリアが答える。
「死者の名前を剥離し、鐘へ収容する儀式。教会が救済と呼んでいたものです」
「虚偽だ」
「ならば、命令書と王都側の記録を開示してください」
「私には権限がない」
「先ほどは説明する義務がないと言いました。今は権限がない。どちらですか」
男は答えられなかった。
セシリアは障壁を解かずに続ける。
「地下記録の原本は、この礼拝堂で封印します。王都へは、私の調査報告書と写しを送ります」
「認められない」
「では、怪異調査院の正式な審査を求めてください」
「大司教補佐の命令に逆らうのか」
「命令の正当性を確認するまで、証拠を保全します」
先頭の男はしばらくセシリアをにらんでいた。
やがて剣を鞘へ戻す。
「後悔することになる」
「その発言も記録しました」
レインが言う。
「お前は黙っていろ!」
「脅迫的発言も追加します」
「レイン」
セシリアが止める。
「今は少し黙っていてください」
「分かりました」
『素直』
「状況による」
神官騎士たちは階段を上っていった。
足音が遠ざかるまで、セシリアは障壁を解かなかった。
完全に聞こえなくなると、銀杖を下ろす。
「王都へ報告が届けば、私たちに対する正式な処分が検討されるでしょう」
「俺たち?」
「あなたは無許可で禁忌記録を閲覧し、持ち出そうとしました」
「あなたは?」
「本部命令を妨害しました」
『仲間だね』
「違います」
「即答ですね」
「立場が同じになっただけです」
「それを仲間と言うのでは?」
「言いません」
ミラが笑った。
老女とラドムも、少しだけ表情を和らげている。
しかし、地下室にはまだ重要な問題が残っていた。
「老女の名前を探しましょう」
レインが言う。
『今からですか』
「一つの事件は、始めた日に終わるとは限らない」
『でも、レインは休んだほうがいい』
ミラが珍しく真剣な顔をしている。
セシリアもうなずいた。
「地上へ戻ります。残りの調査は身体を温めてからです」
「名簿は?」
「マルセル司祭と私で封印します」
「王都の者が戻ってきたら」
「礼拝堂の神官たちにも、今起きたことを共有します。少なくとも、秘密のまま奪うことはできません」
隠すことができない人数へ、事実を伝える。
それも証拠を守る一つの方法だった。
レインは白い帳簿を鞄へ入れようとして、手を止めた。
「これは持ち出すべきか」
セシリアが表紙へ感知の術を使う。
「強い死霊反応があります。ですが、この地下へ置けば鐘と再接続する可能性もある」
『持っていこう』
ミラが言った。
「危険だぞ」
『私の過去を知ってる』
「お前を鐘へ戻そうとしている」
『だから、そばに置いて監視する』
「誰が」
『レインが』
「また勝手に決めたな」
『聞き書き人でしょう』
レインは白い帳簿を見た。
自分たちを誘導している可能性がある。
嘘をついているかもしれない。
だが、ミラの名前とアスター家について、今までにない情報を持っている。
「封印できますか」
セシリアは白い帳簿と焦げた鐘の破片を別々の封印布で包んだ。
「完全ではありません。一日に一度、状態を確認します」
「俺の家へ来るんですか」
「ほかに保管場所がありますか」
「礼拝堂は?」
「王都側に知られています」
「宿屋の地下」
「すでに別の怪異がいます」
「墓地」
「死者が多すぎます」
『レインの部屋』
「本人が言っています」
「彼女の部屋ではありません」
「毎晩いるので、ほとんど同じです」
「違います」
セシリアは深くため息をついた。
「当面、私もあなたの家の近くに滞在します」
「監視ですか」
「封印物の管理です」
「同じでは?」
「言葉の印象が違います」
以前と同じやり取りだった。
ただし今度は、セシリアの口元にもかすかな笑みがあった。
◇
地上へ戻ると、礼拝堂の広間には朝とは違う光景が広がっていた。
倒れていた参列者たちは全員目を覚ましている。
家族に支えられながら、自分の名前と記憶を確かめ合っていた。
礼拝堂を埋め尽くしていた幽霊たちも、まだ残っている。
だが恐怖に叫ぶ者はいない。
地下の鐘影が一時的に消えたことで、落ち着きを取り戻していた。
マルセル司祭が祭壇前に立つ。
「皆さんへ、お話ししなければならないことがあります」
神官たちと住民が彼を見る。
マルセルは長く仕えてきた女神像を一度見上げた。
「この礼拝堂の地下に、過去に亡くなられた方々の記録が保管されていました」
ざわめきが広がる。
「その記録が、正しい弔いに使われていなかった可能性があります」
若い神官が息をのむ。
「主任司祭、それを公にしてよいのですか」
「隠した結果が、今日の出来事です」
マルセルは住民たちへ頭を下げた。
「私は地下室の存在を知りながら、調べませんでした。教会の命令を信じることを、確認しない理由にしてきました」
誰も声を上げない。
幽霊たちも、老神官の言葉を聞いている。
「今後、この礼拝堂に残る記録を調査し、亡くなられた方々の名を可能な限り復元します」
一人の女性が手を上げた。
「亡くなった母の名前も、そこにあるのでしょうか」
「調べます」
「私たちにも見せてもらえますか」
マルセルは一瞬迷い、うなずいた。
「はい」
教会の地下にある記録を、教会の外にいる者へ見せる。
小さな決断だ。
だが、それまでの教会の方針からすれば大きな一歩だった。
レインはその言葉も聞き書き帳へ記録した。
『あの人』
老女の幽霊が、階段の入口からマルセルを見ている。
『私と同じことをしようとしている』
「記録を守ることを?」
『死者の名前を、地上へ戻すことを』
「あなたも、そうしようとしたんですね」
『はい』
「必ず名前を見つけます」
老女は静かに微笑んだ。
『急がなくて構いません』
「なぜ」
『名前を探してくださる方がいると分かっただけで、少し思い出せた気がします』
彼女は自分の胸元へ手を置く。
『私の名前は、花に関係していました』
「花?」
『白い、春の花』
完全な名前ではない。
だが、何もなかった場所に最初の手がかりが生まれた。
レインは記録する。
元礼拝堂記録官。
本名は春に咲く白い花に関係する可能性。
書いた瞬間、老女の法衣の胸元に、小さな白い花の刺繍が現れた。
彼女自身も驚いて見下ろす。
『これ』
「覚えていますか」
『スノーベル』
春の終わり、雪解けの頃に咲く白い花。
『私の母が、好きだった花です』
「名前はスノーベル?」
『違います。でも、近い』
「十分です。また一つ戻った」
レインは帳面を閉じた。
すべての名前を一度に取り戻すことはできない。
しかし、一つずつなら進められる。
記憶。
家族。
好きだった花。
本人を示すものを集めれば、名前へたどり着けるかもしれない。
◇
礼拝堂を出る頃には、空が夕方の色へ変わっていた。
一日中、地下にいたような感覚だった。
レインは身体を温めるため、セシリアから渡された薬草茶を飲んでいる。
ひどく苦い。
「これ、本当に薬ですか」
「身体を温める調合です」
「味をよくする工夫は?」
「薬効を優先しています」
『少しもらってみたい』
「味は分からないだろう」
『香りは分かるかも』
ミラが湯気へ顔を近づける。
直後、嫌そうに顔を背けた。
『苦そう』
「香りだけで分かるだろう」
セシリアは焦げた鐘の破片と白い帳簿の封印を確認している。
「今夜、あなたの家へ運びます」
「父には何と説明します」
「教会の調査へ協力していただいていると」
「嘘ではないですが、かなり省略していますね」
「死者と話す息子を教会が監視している、と正直に伝えますか」
「やめてください」
「なら、必要な省略です」
ミラが楽しそうに二人を見比べる。
『やっぱり仲間みたい』
「違います」
今度はレインとセシリアが同時に答えた。
『息も合ってる』
二人とも黙った。
そのとき、聞き書き帳が鞄の中で開いた。
最後の頁に新しい文章が現れる。
礼拝堂の名簿は開かれた。
第十三の名は、まだ戻っていない。
次に鐘が鳴るとき、神殿の下から死者が目覚める。
レインは文章を読み、さらに下を確認した。
これまでとは違い、最後に場所が記されている。
北部廃鉱山、旧セレン坑。
「セシリア」
「何です」
「次の場所が示されました」
「帳面に?」
「北部の廃鉱山です」
セシリアの顔が変わった。
「旧セレン坑なら、二十年前に閉鎖されています」
「理由は」
「大規模な崩落事故です。鉱夫四十七名が死亡しました」
『死者がたくさんいる』
ミラがつぶやく。
「生存者は?」
「一人もいなかったと記録されています」
レインは帳面に現れた地名を見る。
礼拝堂の地下にいた死者。
眠り鹿亭の壁に混ざった死者。
そして次は、事故の日を繰り返し続ける鉱夫たち。
「鉱山へ行きます」
「まだ身体が戻っていません」
「今すぐではありません」
「二、三日は休んでください」
「一日で」
「三日です」
「鐘がいつ鳴るか分からない」
「倒れて何も聞けなくなれば、調査もできません」
正論だった。
レインは少し考える。
「二日」
「三日」
「間を取って二日半」
「半日をどう数えるつもりですか」
「昼から出発します」
セシリアは額を押さえた。
「二日後の朝、身体の状態を確認します。問題がなければ出発を認めます」
「あなたも来るんですか」
「封印物と、危険な能力を持つ協力者の管理が必要です」
「監視ですね」
「調査同行です」
『仲間だね』
「違います」
ミラの笑い声が、夕暮れの礼拝堂前に響いた。
今回の事件は、まだ完全には終わっていない。
名前を失った死者たちは地下に残っている。
ルディウス・ハルバートも、王都大神殿も動き始めるだろう。
白い帳簿の中には、ミラが捨てた名前を名乗る存在がいる。
それでも、最初の変化は起きた。
教会は、地下に死者の名簿があったことを公にした。
死者の声を、最初から悪意として切り捨てなかった。
そしてセシリアは、教会の命令よりも現場の記録を守ることを選んだ。
小さな一歩。
だが、消されてきた死者たちにとっては、何十年も待ち続けた一歩だった。
レインは聞き書き帳の新しい頁へ、次の調査場所を書いた。
聞き取り予定地――旧セレン坑。
対象――崩落事故後も働き続ける鉱夫たち。
確認事項――地下礼拝所、鐘の痕跡、事故記録との食い違い。
書き終えると、墓地の方角から遠い声が聞こえた。
『レイン』
名前を呼ばれた気がした。
振り返っても、誰もいない。
ミラも聞こえなかったらしい。
声はもう一度だけ響いた。
『早く来てくれ』
男たちの声。
一人ではない。
何十人もの鉱夫が、土の下から同じ言葉を繰り返している。
『仕事が終わらない』
旧セレン坑では、閉鎖から二十年が経った今も、つるはしの音が止まっていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
礼拝堂の地下には、教会が名前を剥離した死者たちの名簿と、記憶鐘の儀式記録が残されていました。
ミラが捨てた名前を名乗る白い帳簿、アスター家に伝わる「十四番目」の役目、そして教会上層部のルディウス。
次回、第10話「死んでも休めない鉱山」。
レイン、ミラ、セシリアは旧セレン坑へ向かい、事故の日を繰り返す亡霊鉱夫たちと出会います。




