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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第四章 働き続ける死者たち

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第10話 死んでも休めない鉱山

二十年前の崩落事故で、四十七名の鉱夫が死亡した旧セレン坑。


閉山したはずの鉱山では、今も夜ごとにつるはしの音が響いている。


レインたちは、仕事を終えられない死者たちに会うため、北部の廃鉱山へ向かう。

 休むことも調査の一部である。


 セシリアはそう言った。


 レインも、理屈としては正しいと思う。


 身体が冷え、生者の声が聞こえなくなった状態で死者の話を聞いても、正確な記録は残せない。


 判断力が落ちれば、幽霊の証言を鵜呑みにする可能性もある。


 だから二日間、休養を取ることに異論はなかった。


 問題は、休養中も幽霊たちが放っておいてくれないことだった。


『レイン。墓地の北側で、新しく来た男が場所を譲らない』


「古参同士で話し合ってくれ」


『あの男は、自分が領主だと言っている』


「本当に領主だったかもしれないだろ」


『墓石には靴職人と書いてある』


「では、本人の記憶が混乱している。後で話を聞く」


『いつだ』


「鉱山から帰った後だ」


『それでは遅い』


「死者が急ぐな」


『生きている頃に急がなかったから、死んでもここにいるのだ』


「妙に説得力のあることを言うな」


 墓地の老人を追い返した直後、今度は街道の少年が窓から顔を出した。


『僕の名前は見つかった?』


「まだだ」


『調べるって言った』


「街道事故の記録は三十年分ある。お前がいつ死んだのか分からなければ絞れない」


『右足がなくなった事故』


「街道では珍しくない」


『そんなにあるの?』


「驚くところではない」


 さらに、ミラは朝から部屋の中を落ち着きなく漂っていた。


『鉱山へ行かないの?』


「明日だ」


『昨日もそう言ってた』


「昨日の明日が今日だから、出発は今日だ」


『では、今から?』


「朝食を食べてからだ」


『もう食べたでしょう』


「まだパンが半分残っている」


『さっきから全然減ってない』


「見張るな」


 レインはパンを口へ押し込んだ。


 二日間、しっかり休んだはずだった。


 だが以前より疲れた気がする。


 向かいの椅子では、父のダリオが不思議そうに息子を見ていた。


「最近、独り言が増えたな」


「考えを整理しているだけです」


「教会の調査というのは大変なのか」


「話の通じない相手が多くて」


『誰のこと?』


 ミラが尋ねる。


「全員だ」


「教会の人たちか?」


「そちらも含みます」


 父には、旧セレン坑で起きている異常を調べるため、教会の調査へ同行すると説明している。


 嘘ではない。


 死者への聞き取りが中心であることを省いただけだった。


「鉱山は危険な場所だ」


 ダリオは真剣な顔で言った。


「閉山した後も、何度か岩が崩れている。坑道へ入るなら、無理をするな」


「分かっています」


「分かっている顔ではないな」


『私もそう思う』


「父さんまでセシリアと同じことを言わないでください」


「神官様も同じことを?」


 玄関の扉が三度叩かれた。


 噂をすれば、本人が来たらしい。


 扉を開くと、旅装へ着替えたセシリアが立っていた。


 白い法衣の上から灰色の外套を羽織り、背中には荷物と銀杖を固定している。


「出発の準備はできていますか」


「今からです」


「昨夜のうちに済ませておくよう伝えました」


「必要なものは、ほとんど鞄に入っています」


「封印物は?」


「こちらに」


 焦げた記憶鐘片と白い帳簿。


 二つとも銀糸の封印布に包まれ、聞き書き帳とは別の革袋へ収めている。


 セシリアは封印を確かめた。


「異常はありません」


「毎朝確認しなくても大丈夫では?」


「白い帳簿が勝手に目を開いたと聞いた翌日に、その発言ができますか」


「できれば、開かないでほしいとは思っています」


『私は少し話したい』


「駄目だ」


「ミラが何か?」


「白い帳簿と話したがっています」


「絶対に開かないでください」


『二人とも同じ顔で怒る』


「当然です」


 セシリアはダリオへ丁寧に頭を下げた。


「息子さんは、教会の責任でお預かりします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「預けられるような年齢ではありません」


「なら、無茶をしないでください」


「それとこれとは別です」


「別ではありません」


 父とセシリアに同時に言われ、レインは黙った。


 ミラだけが楽しそうに笑っていた。


     ◇


 旧セレン坑は、リベルタから北へ馬車で半日ほどの場所にある。


 かつては銀と鉄を産出し、周辺でも有数の鉱山として栄えていた。


 しかし二十年前、大規模な崩落事故が発生した。


 坑内にいた鉱夫四十七名が死亡。


 遺体を回収するための救助隊も、二度目の崩落に巻き込まれた。


 それ以降、鉱山は閉鎖されている。


 鉱山の麓には、鉱夫の家族たちが暮らしていた村が残っていた。


 ただし、最盛期には千人近くいた住民も、現在は百人に満たない。


 石造りの家々には空き家が目立ち、店もほとんど閉まっている。


 馬車を降りたレインは、最初に音を聞いた。


 かん。


 かん。


 かん。


 金属が石を打つ乾いた音。


 遠くの山から、規則正しく響いている。


「昼間でも聞こえるんですね」


 セシリアが鉱山を見上げた。


「生者にも?」


「ええ」


 レインはミラを見る。


『もっとたくさん聞こえる』


「何人くらいだ」


『分からない。山の中、全部から』


 レインにも、つるはしの音に混じって声が聞こえ始めた。


『もっと掘れ』


『交代まで止めるな』


『今日中に三番坑を開ける』


『監督が見ているぞ』


 働く男たちの声。


 誰も自分が死んだとは考えていない。


「鉱山へ行く前に、村で事故について聞きましょう」


 セシリアの提案に、レインもうなずいた。


 一人の死者の証言だけで判断しない。


 まず、生者側の記録と記憶を集める必要がある。


 村の中心にある食堂は、宿屋も兼ねていた。


 店先の看板には《銀匙亭》と書かれているが、匙の絵は半分剥げ落ちている。


 扉を開くと、恰幅のよい老女が二人を迎えた。


「旅の方かい?」


「聖導教会の怪異調査官、セシリア・ローデンです」


 セシリアが紋章を見せる。


 老女の表情が曇った。


「また教会かい」


「以前にも調査が?」


「事故の直後に何人も来たよ。祈って、入口へ札を貼って、それで終わりさ」


 老女はレインを見る。


「あんたは?」


「レイン・アスター。記録係です」


『聞き書き人って言わないの?』


「まだ正式な職業ではない」


「誰と話してるんだい?」


「考えを声に出す癖がありまして」


 老女は不審そうだったが、追及はしなかった。


「私はマーサ。この店の主人さ。部屋なら空いてるよ。いつでも空いてる」


「鉱山の音について、話を聞かせてください」


 マーサは大きく息を吐いた。


「今さら何を調べるんだい」


「最近、音に変化はありませんでしたか」


「変化ならあったよ」


「いつから?」


「六日前からさ」


 ミラが墓地へ現れた日。


 礼拝堂で鐘の音が再び聞かれた日と同じだった。


「以前から音はしていたんですね」


「ああ。事故が起きた夜から、ずっとね。ただし夜だけだった」


「六日前から昼間にも聞こえるようになった?」


「そのうえ、近づいてる」


「音が?」


「それだけじゃない」


 マーサは食堂の奥を見た。


 そこには一人の老人が座り、昼間から酒を飲んでいた。


 顔には深い傷があり、左腕は肘から先がない。


「昨夜、死んだ夫が家へ帰ってきたと言う者が三人いる」


 老人が酒杯を机へ置く。


「鉱山から、村へ降りてきてるんだ」


 声は低く、重かった。


「あなたは?」


「ドレク。事故当時、セレン坑の掘削班にいた」


「生存者はいないと記録されています」


 セシリアが言うと、老人は鼻で笑った。


「教会の記録はそうなってるらしいな」


「事故現場にいたのですか」


「いた。崩落が起きる一時間前に坑道を出た」


「なぜ生存者として記録されていない」


「鉱山主に雇われた鉱夫じゃなかったからだ」


「臨時雇い?」


「囚人だった」


 マーサが気まずそうに目を伏せた。


 ドレクは気にせず続ける。


「当時のセレン坑は、王国から囚人を借りて働かせていた。正式な鉱夫の名簿には載せない。死んでも補償がいらないからな」


「事故で亡くなった四十七名以外にも、死者がいる?」


「少なくとも二十人はいた」


 セシリアの表情が険しくなる。


「教会の事故記録には記載がありません」


「鉱山主と役人が消したんだろう。教会が知らなかったかどうかは、俺には分からん」


 レインは聞き書き帳を開いた。


公的記録の死亡者数は四十七名。

生存者ドレクの証言では、未登録の囚人労働者が少なくとも二十名存在。


「事故の原因を知っていますか」


「坑道の掘りすぎだと発表された」


「実際は?」


「分からん」


「何か隠している?」


 ドレクの目が細くなる。


「あんた、記録係にしては聞き方が失礼だな」


「よく言われます」


「否定しないのか」


「否定できません」


 ドレクはしばらくレインを見た後、酒杯へ酒を注ぎ直した。


「崩落の前、三番坑の奥で変な部屋が見つかった」


「どんな部屋です」


「石造りの礼拝所だ」


 セシリアとレインが顔を見合わせた。


「鉱山の中に、教会が?」


「教会じゃない。女神像も、月輪もなかった。代わりに、壁いっぱいに鐘の絵が描かれていた」


『同じ』


 ミラがつぶやく。


「何が同じだ」


『礼拝堂の地下で見た模様』


 レインはドレクへ確認する。


「鐘には、十三本の線がありましたか」


 老人の酒を持つ手が止まった。


「なぜ知ってる」


「別の場所でも同じ模様を見た」


「ある。鐘を囲むように、十三人が立っていた」


 旧セレン坑は、教会の地下にあった記憶鐘の施設とつながっている。


 偶然とは考えにくい。


「鉱山主は、その部屋をどうしたんです」


「誰にも話すなと命じた。三番坑をさらに掘らせた」


「なぜ」


「壁の奥に、銀より価値のあるものがあると言ってた」


「何があった」


 ドレクは酒を一口飲んだ。


「見ていない。俺は、その日の昼に監督を殴って坑道を追い出された」


「それで助かった?」


「助かったとは思ってない」


 老人は失われた左腕を見る。


「逃げる途中で落石にやられた。仲間は全員、下に残った」


「救助へ戻らなかったのですか」


 セシリアの問いに、ドレクは冷たい目を向けた。


「入口は鉱山主の兵が封鎖した」


「二次崩落を防ぐためでは?」


「中から声がしていた」


 食堂の空気が静まる。


「崩落から三日間、坑道の中からつるはしの音がしていた。助けを求める声もな」


「生存者がいた」


「ああ。だが鉱山主は入口を開かなかった」


「理由は」


「三番坑で見つけたものを、外へ知られたくなかったんだろう」


 レインの筆が止まった。


「鉱山主の名前は?」


「ゲオルグ・バルデン」


「今は?」


「事故の翌年、王都で病死した」


『ここにはいない』


 ミラが食堂を見回す。


「鉱山主の幽霊は、この村にはいないそうです」


「誰が言った」


「同行者です」


「見えない同行者か」


 ドレクは酒杯を置き、何もない場所を見つめた。


「本当に死者と話せるのか」


「今から確かめに行きます」


「鉱山へ入るつもりなら、やめておけ」


「なぜ」


「夜になると、坑夫たちは仕事を始める。生きている者を見つけると、交代要員だと思って奥へ連れていく」


「戻った者は?」


「いない」


「行方不明者がいるんですか」


「この二十年で十一人」


 教会記録にはない情報だった。


 セシリアが詳しい日付と名前を尋ね、マーサが村の記録帳を持ってくる。


 山菜採りの青年。


 閉山した鉱山から鉱石を盗もうとした者。


 幽霊の噂を確かめに来た冒険者。


 全員、鉱山付近で消息を絶っている。


「死体は見つかっていません」


 マーサが言った。


「なら、鉱山の中で幽霊になっている可能性がある」


「可能性で危険な場所へ入るのですか」


 セシリアがレインを見る。


「調査のために来たんでしょう」


「安全確認をしてからです」


「具体的には?」


「坑道の構造、崩落地点、魔力反応、退路を調べます。それから護衛を雇います」


「護衛?」


「私一人では、生者を相手にした戦闘まで対応できません」


『レインは戦えないしね』


「短剣くらいは使える」


『木の枝を踏んだ音で逃げるのに?』


「慎重だと言え」


 ドレクが初めて声を上げて笑った。


「死者と話せても、怖いものは怖いか」


「幽霊が見えるからこそ、怖いものが増えます」


「気に入った」


 老人は立ち上がり、食堂の外を指さした。


「護衛なら、一人いる。鉱山跡を見回ってる変わり者がな」


「誰です」


「バルド・グレイン。元王国騎士だ」


 予定にはなかった名前だ。


 だがセシリアには心当たりがあるらしい。


「北部騎士団のバルド?」


「知っているんですか」


「十年前、隊を辞めた人物です。腕は確かですが……」


「ですが?」


「上官の命令へ従わないことで有名でした」


「信用できますね」


「なぜそうなるのです」


「命令書を確認する人かもしれない」


「あなたの判断基準は偏っています」


     ◇


 バルドは村の外れにある鉱山慰霊碑の前にいた。


 四十代半ば。


 短く刈った黒髪には白いものが混じり、日に焼けた顔には無精ひげが生えている。


 背には幅広の剣。


 革鎧の上から古い王国軍の外套を羽織っていた。


 大柄な身体は、立っているだけで道を塞ぐほどだった。


 慰霊碑へ酒をかけていた男は、近づくレインたちを振り返る。


「教会がまた来たのか」


「怪異調査官のセシリア・ローデンです」


「見れば分かる」


「同行者のレイン・アスター」


「記録係です」


『ミラです』


「幽霊のミラもいます」


 バルドの手から酒瓶が滑りかけた。


「今、何と言った」


「同行している幽霊です」


 男はレインの隣へ視線を向けた。


 当然、何も見えない。


「冗談か」


「よく言われます」


「セシリア。こいつは大丈夫なのか」


「身体は回復しています」


「頭の話だ」


「そちらは調査中です」


「否定してください」


『面白い人』


 ミラがバルドの顔をのぞき込む。


『私のこと怖い?』


「ミラが、自分を怖いかと聞いています」


 バルドの顔が引きつった。


「俺の近くにいるのか」


「目の前です」


 男は一歩下がった。


 ミラも同じだけ近づく。


『逃げた』


「近づくな」


『怖いか確かめたい』


「十分分かっただろう」


「何を話している」


「あなたが怖がっていると」


「怖がっていない」


 その声は少し上ずっていた。


 腰の大剣へ手をかけているが、幽霊には意味がない。


「鉱山の護衛を依頼したい」


 レインが言うと、バルドの表情から冗談めいた動揺が消えた。


「中へ入るのか」


「亡くなった鉱夫へ話を聞きます」


「死者を連れ出すつもりか」


「本人たちの意思次第です」


「浄化しない?」


「俺にはできません」


「教会は」


 バルドの視線がセシリアへ移る。


「危険が確認されるまでは、強制的な浄化を行いません」


「ずいぶん変わった神官だな」


「最近、考え直す機会がありました」


『私のおかげ』


「一部は」


 セシリアは否定しなかった。


「護衛料はいくら出せる」


 バルドの問いに、レインとセシリアが顔を見合わせる。


「教会の調査費から支払います」


「勝手に決めていいんですか」


「必要経費です」


「本部から処分されるかもしれないのに?」


「処分と経費は別の問題です」


 セシリアはバルドへ金額を提示した。


 男は即座に首を横に振る。


「金はいらん」


「では、何を」


「三番坑へ行くなら、俺も同行する」


「理由を聞いています」


「俺の隊が、十年前にあそこで消えた」


 レインは眉を寄せた。


「閉山後に?」


「ああ。盗掘者を追って坑道へ入った。俺だけが入口へ残され、五人が中へ入った」


「戻らなかった?」


「声だけは、今も聞こえる」


 バルドは慰霊碑の向こう、黒い坑口を見上げた。


「毎晩、俺の名前を呼ぶ」


 レインは耳を澄ませた。


 つるはしの音。


 鉱夫たちの掛け声。


 その奥に、確かに別の声がある。


『隊長』


『入ってこないでください』


『ここは出口ではない』


 五人の声。


 バルドを呼んでいるのではない。


 来るなと警告している。


「声は、あなたを呼んでいません」


 レインが言った。


「何?」


「入ってくるな、と言っています」


「嘘だ」


「毎晩、何と聞こえるんです」


「隊長、こちらです。早く、と」


「聞こえている言葉が違う」


 バルドの顔が険しくなる。


「俺が嘘をついていると言うのか」


「そうではありません。幽霊の声が、別の意味に聞こえる現象が起きています」


 眠り鹿亭でも、エルザの話し声が生者には笑い声として聞こえていた。


 鐘の破片は、死者の時間だけでなく、声の意味まで変えていた。


「鉱山に記憶鐘か、その一部がある可能性が高い」


 セシリアが言う。


「声を使って、生者を中へ誘っている?」


「誰が、何のために誘っているかは分かりません」


 バルドは長く黙った。


 やがて、大剣の留め具を確かめる。


「俺が先頭を歩く」


「幽霊が怖いのでは?」


「怖くない」


『まだ声が震えてる』


「ミラは黙っていろ」


『レインと同じこと言った』


 レインは聞き書き帳へ、バルドの情報を記した。


バルド・グレイン。

元北部騎士団。

十年前、旧セレン坑で部下五名が行方不明。

本人には「来い」と聞こえるが、死者の声は「来るな」と警告している。


「出発は日没前です」


 セシリアが言う。


「夜に入るのか」


「鉱夫の幽霊が現れる時間を確認します。ただし今日は坑口付近まで。内部への侵入は、構造を調べてからです」


「慎重だな」


「この人がすぐ無茶をするので」


「俺のことですか」


「ほかに誰がいるのです」


『私もいるよ』


「あなたも同じです」


     ◇


 日が山の向こうへ沈み始めた頃、四人は旧セレン坑の入口へ向かった。


 レイン。


 ミラ。


 セシリア。


 バルド。


 さらにドレクが、坑口まで案内すると申し出た。


 山道の途中には、崩れた作業小屋や錆びた荷車が残っている。


 地面には古い鉱石の欠片が散らばり、踏むたびに白く光った。


 坑口は、太い木材と鉄鎖で封鎖されていた。


 立入禁止を示す教会の札は、風雨で文字が消えている。


 その前に立った瞬間、レインの視界が変わった。


 昼間には空だった道。


 そこへ何十人もの男たちが現れる。


 頭に布を巻き、煤と土で汚れた作業着を着ている。


 肩につるはしを担ぎ、列を作って坑口へ進んでいた。


『遅れるな!』


『今日こそ三番坑を開けるぞ!』


『交代まであと十二刻だ!』


 幽霊の鉱夫たちは、生者であるレインたちを見ていない。


 封鎖された木材も、彼らには存在しないようだった。


 そのまま壁を通り抜け、坑道へ入っていく。


「見えるんですか」


 バルドが低い声で尋ねる。


「四十人以上」


『もっといる』


 ミラが坑口の奥を見る。


『中に、ずっと働いてる人がいる』


「鉱夫たちは俺たちに反応していません」


「今は、ということですね」


 セシリアが銀杖を構える。


 ドレクは青ざめた顔で、幽霊の列が通る場所を見つめていた。


「ガラン」


「知っている人が?」


「今、聞こえた。あいつの口癖だ」


 ドレクには姿が見えない。


 だが声の一部が届いているらしい。


「ガランは、どんな人物です」


「掘削班の班長だ。事故の日、三番坑へ入った」


 レインは列の先頭を探した。


 大柄で、赤い布を頭に巻いた男が、部下たちへ指示を出している。


『第三班、道具を確認しろ!』


「赤い頭巾ですか」


「ああ」


「います」


 ドレクの顔が歪んだ。


「二十年も、働いてるのか」


 ガランの幽霊は立ち止まり、人数を数え始めた。


『四十三、四十四、四十五……』


 四十七まで数え、眉をひそめる。


『足りない』


 再び最初から数える。


 何度数えても四十七人。


 公的記録と同じ人数だった。


 しかしドレクは、未登録の囚人が二十名以上いたと証言している。


『足りない』


 ガランは繰り返す。


『七十一人いなければならない』


 レインは帳面へ書いた。


「ガラン本人も、本当の人数を覚えている」


「七十一人?」


 セシリアが尋ねる。


「公的記録より二十四名多い」


 ドレクの証言と近い。


 ガランは人数を数え続ける。


 やがて、列の外にいるレインへ顔を向けた。


 初めて視線が合った。


『お前』


「俺が見えるのか」


『遅刻だぞ』


 ガランが近づいてくる。


『道具はどうした』


「鉱夫ではない。話を聞きに来た」


『話は休憩中にしろ』


「あなたたちは二十年前に死んでいる」


 ガランはレインの言葉を聞いていないように、背後を振り返った。


『新入りが三人来た!』


「三人?」


 ガランが指したのは、レイン、セシリア、バルドだった。


 ミラは人数に入っていない。


 幽霊の鉱夫たちが一斉にこちらを見る。


 その目は空洞だった。


『これで五十人』


『まだ足りない』


『あと二十一人』


 坑道の奥から、つるはしの音が止まる。


 完全な静寂。


 次の瞬間、何十人もの鉱夫がレインたちへ向かって歩き始めた。


「下がってください」


 セシリアが杖を掲げる。


「攻撃はまだです」


「囲まれています」


「彼らは交代要員だと思っているだけです」


「それで坑道へ連れ込まれた人が十一人も消えています」


 バルドが大剣を抜く。


 幽霊には届かない。


 それでも武器を持つことで恐怖を抑えているらしい。


「どうする、聞き書き人」


「まだ正式な職名ではありません」


「今はどうでもいい」


 レインはガランへ向かって声を上げた。


「班長! 人数が足りない理由を調べに来た!」


 ガランの動きが止まる。


 鉱夫たちも足を止めた。


『人数を?』


「名簿には四十七人しかいない。だが、あなたは七十一人いたと覚えている」


 ガランの輪郭が揺れた。


『七十一』


「消された二十四人の名前を知りたい」


『名前』


 鉱夫たちが一斉にざわめく。


『名前がない』


『俺は誰だ』


『番号しかない』


『囚人に名前はいらない』


 列の後方に、今まで見えていなかった人影が浮かび上がった。


 一人。


 二人。


 次々と。


 首や腕に鉄の輪をつけた男たち。


 未登録の囚人労働者だった。


 だが彼らの顔は白く塗り潰され、胸には数字しか残っていない。


 一番。


 五番。


 十二番。


 二十四番。


 名前を記録されなかった死者たち。


 ガランが彼らを見て、頭を抱えた。


『いた』


「思い出したのか」


『毎日、一緒に働いていた』


「なぜ今まで見えなかった」


『監督が、数えるなと言った』


 幽霊になっても、命令に従って認識から外していた。


 名簿から消されただけではない。


 仲間たちの記憶からも、存在を外されていた。


 レインは囚人たちへ尋ねる。


「名前を覚えている者はいるか」


 返事はない。


 全員、数字しか口にしない。


『七番』


『十一番』


『十九番』


 人ではなく、労働力として与えられた番号。


 レインは一人ずつ数字を記録した。


 名前が分からなくても、存在していたことは残せる。


旧セレン坑・未登録労働者。

現時点で二十四名を確認。

本名不明。

生前、番号で管理されていた可能性。


 文字を書いた瞬間、囚人たちの白く塗られた顔に、わずかな凹凸が戻った。


 目。


 鼻。


 口。


 完全ではない。


 だが人の顔に近づいていく。


『見える』


 ガランがつぶやく。


『お前たちが、見える』


 ほかの鉱夫たちも、囚人の幽霊へ視線を向ける。


『一緒に掘った』


『水を分けた』


『あいつは歌がうるさかった』


『こいつは賭けで俺の靴を取った』


 小さな記憶が戻っていく。


 名前はなくても、一緒に生きた痕跡は残っていた。


 レインがさらに質問しようとしたとき、山の向こうから鐘が鳴った。


 ゴン。


 ミラが耳を塞ぐ。


『また』


 鉱夫たちは一斉に動きを止めた。


 ガランの顔から表情が消える。


『交代時間だ』


「待て。まだ話は終わっていない」


『交代時間だ』


 すべての鉱夫が同じ言葉を繰り返す。


 彼らはレインたちから目をそらし、坑道へ向かって歩き始めた。


 囚人たちも後へ続く。


「どこへ行く」


『三番坑』


「なぜ」


『礼拝所を開ける』


 ガランは感情のない声で答えた。


『今日中に、鐘を掘り出す』


 鉱夫の列が、封鎖された坑口を通り抜けていく。


 最後の一人が消えた瞬間、内部から激しいつるはしの音が始まった。


 かん。


 かん。


 かん。


 それまでよりも速い。


 追い立てられるような音だった。


「決まった時刻になると、全員が奥へ戻る」


 セシリアが言う。


「鐘の音が、行動を切り替えている」


 レインはガランの最後の言葉を記録した。


 礼拝所。


 三番坑。


 鐘を掘り出す。


 事故前に鉱山主が求めていたものと同じだった。


 鉱夫たちは二十年間、鐘を掘り出す作業を繰り返している。


 終わらない仕事。


 終わることを許されない一日。


「明日、坑道へ入ります」


 レインが言った。


「今日は坑口までという話でした」


 セシリアが即座に返す。


「だから明日です」


「今夜、準備と経路確認を行います」


 バルドは暗い坑口を見つめている。


「俺の部下の声は、あの奥から聞こえる」


「先ほどの鐘が鳴る前、警告していました」


「来るな、と?」


「はい」


「なら、なおさら行く」


「なぜです」


「あいつらが俺を遠ざけようとしているなら、中にもっと危険なものがある」


 バルドは大剣を鞘へ戻した。


「部下が十年も守っているものを、隊長だけが知らないままにはできん」


 ドレクは震える手で坑口を指した。


「三番坑へ行くなら、気をつけろ」


「何に」


「事故の日、ガランたちが掘っていたのは鐘じゃない」


「では何です」


「鐘の下に埋まっていたものだ」


 老人の顔から血の気が失われている。


「俺は崩落の直前に見た。礼拝所の床が割れて、その下から白い腕が出てきた」


『白い腕』


 ミラが顔を上げる。


 眠り鹿亭の壁に現れた、関節の多い白い指。


 名前を失った死者たちの集合体。


「人間の腕ですか」


「違う」


 ドレクは首を横に振った。


「腕だけで、坑道を埋め尽くすほど大きかった」


 そのとき、坑道の奥から何かが這う音がした。


 ずる。


 ずる。


 ずる。


 つるはしの音に混じり、重いものが地面を引きずっている。


 ミラが坑口を見つめた。


『レイン』


「何が見える」


『鉱夫じゃないものが、こっちへ来てる』


 封鎖された坑口の暗闇。


 木材の隙間から、白い指先が現れた。


 人間の腕ほど太い一本の指。


 関節がいくつも折れ曲がりながら、鉄鎖へ巻きつく。


 ぎしり。


 太い鉄鎖が引っ張られる。


 セシリアが杖を構え、バルドが再び大剣を抜く。


 白い指はしばらく外の空気を探るように動いた。


 やがて、レインへ向けて止まる。


『十四番目』


 坑道の奥から声がした。


 男でも女でもない。


 何十人もの死者が、一つの喉を使っているような声。


『記録する者が来た』


 聞き書き帳が鞄の中で開く。


 頁へ黒い文字が浮かび上がった。


地下礼拝所へ入れ。


鉱夫たちが掘り出したものを見届けよ。


ただし、鐘が鳴った後、名前を呼ばれても振り返るな。


 レインが警告を読み終えると、白い指が坑道の闇へ引っ込んだ。


 鉄鎖は切れなかった。


 だが表面には、指の形をした白い跡が残っている。


『あれ』


 ミラが自分の腕を抱いた。


『私を知ってる』


「声が聞こえたのか」


『私には別のことを言った』


「何と」


 ミラは暗い坑口から目を離さなかった。


『十三番目を連れてこい』


 山の中で、鐘がもう一度鳴った。


 今度は一度ではない。


 ゴン。


 二度。


 ゴン。


 三度。


 音が増えるたび、坑道のつるはしは速くなる。


 鉱夫たちは、何かを掘り出そうとしている。


 そして地下の何かは、レインとミラが来ることを待っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


旧セレン坑では、公的記録から消された二十四名の囚人労働者を含む七十一名の鉱夫が、二十年前の作業を繰り返していました。


鐘の音とともに三番坑へ戻る亡霊たち。


そして、地下礼拝所から現れた巨大な白い指。


次回、第11話「昨日を繰り返す鉱夫」。


レインたちはバルドを護衛に加え、崩落した坑道へ入ります。そこで、鉱夫たちの一日が鐘によって何度も巻き戻されていることを知ります。

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