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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第四章 働き続ける死者たち

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第11話 昨日を繰り返す鉱夫

事故の日を繰り返し、三番坑を掘り続ける七十一人の鉱夫たち。


レインたちは崩落した坑道へ入り、鐘によって固定された「終わらない一日」の中へ足を踏み入れる。

 翌朝。


 旧セレン坑の入口を塞いでいた鉄鎖は、夜のうちに切れていた。


 刃物で断ち切った跡ではない。


 太い鉄が、内側から握り潰されている。


 昨日現れた巨大な白い指。


 その形どおりに鎖が歪み、地面へ落ちていた。


「この太さの鉄鎖を素手で?」


 バルドが腰を落とし、切断部分を調べる。


「人間の力ではないな」


「人間の手でもありませんでした」


 レインは坑口の闇を見つめた。


 朝になった今も、内部からつるはしの音が聞こえている。


 かん。


 かん。


 かん。


 夜明けとともに止まると思っていた。


 しかし音は続いている。


 鐘が三度鳴ってから、鉱夫たちの作業速度は落ちていなかった。


『昨日より近い』


 ミラがレインの隣で坑道へ顔を向ける。


「何が」


『掘る音。奥からじゃなくて、入口のすぐ向こうから聞こえる』


「鉱夫たちが戻ってきている?」


『分からない。音だけが近づいてる』


 セシリアは坑口の前へ銀杖を立て、感知術を展開した。


 青白い光が地面を這い、崩れた木材の隙間から内部へ流れ込む。


「第一坑道までは大きな崩落なし。魔力の乱れも小さいです」


「その先は?」


「反応が重なっています」


「死霊ですか」


「死霊だけではありません。同じ場所が、複数の形で存在しているような……」


 セシリアは言葉を選んだ。


「現在の坑道と、事故当時の坑道が重なっています」


「眠り鹿亭と同じ現象か」


 エルザとグレゴールは、鐘の破片によって異なる時代の宿を同じ夜だと思い込んでいた。


 旧セレン坑では、建物の一室ではなく、山の内部全体で時間が重なっている可能性がある。


「生者が入った場合、どちらの坑道を歩くことになりますか」


 バルドが尋ねる。


「分かりません」


「またそれか」


「分からないものを、分かるとは言えません」


「気に入った。教会の人間らしくない」


「褒められている気がしません」


 バルドは笑ったが、その視線は坑道から外れなかった。


 十年前に消えた五人の部下。


 その声が奥から聞こえている。


 彼は平静を装っているが、昨夜はほとんど眠っていないらしい。


 銀匙亭の食堂へ最初に下りてきたのも、夜明け前だった。


「ドレクさんは村へ残ってください」


 セシリアが言った。


 案内役として坑口まで来たドレクは、不満そうに顔をしかめる。


「三番坑までの道を知っているのは俺だ」


「二十年前の坑道と、現在の坑道が一致する保証はありません」


「それでも、お前たちよりは知ってる」


「崩落現場へ入れば、足手まといになります」


 セシリアは遠慮なく言い切った。


 ドレクの残った右手が握られる。


 だが反論はしなかった。


 左腕を失い、年齢も七十を超えている。


 自分でも分かっているのだろう。


「入口で合図を待ってください」


 レインが言った。


「決めた時間までに戻らなければ、村へ知らせてほしい」


「戻らなかったら、救助を呼べって?」


「違います」


「では何だ」


「入口を再び塞いでください」


 バルドとセシリアが同時にレインを見る。


「中にいる何かを、村へ出さないためです」


 昨日の白い指は、入口の鉄鎖を壊した。


 まだ外へ出てはいない。


 だがレインとミラを呼んでいる。


 調査によって、その存在が完全に目覚める可能性もある。


「戻ってこない前提で話さないでください」


 セシリアが厳しい声を出す。


「最悪の事態を考えているだけです」


「なら、戻るための手順も確認します」


 セシリアは革袋から細い銀色の縄を取り出した。


 教会の術式を織り込んだ探索用の縄だという。


 一端を坑口へ固定し、全員の腰へ順番に結ぶ。


 先頭はバルド。


 その後ろにセシリア。


 レイン。


 最後尾は――生者であれば誰かを置くところだが、ミラは縄を持つことができない。


『私はどこでもいい?』


「レインの前にいてください」


 セシリアが答えた。


『私の声、少し分かるようになった?』


「あなたが何か質問したことだけは」


「俺の前にいろ。勝手に奥へ行くな」


『昨日は、勝手についてくるなって言った』


「今日は同行を認めている」


『昇格した』


「何にだ」


『正式な同行者』


 レインは返答せず、聞き書き帳を確認した。


 昨夜現れた警告は、そのまま残っている。


鐘が鳴った後、名前を呼ばれても振り返るな。


 誰が書いた警告なのか。


 信じてよいのか。


 まだ分からない。


 それでも、危険を避けるための情報として全員へ共有しておく。


「坑道内で鐘が鳴った後、後ろから名前を呼ばれても振り返らないでください」


「理由は」


 セシリアが尋ねる。


「帳面に警告が出ました」


「その帳面の指示は信用できないのでは?」


「信用はしません。ただ、無視もしない」


「では、振り返らずに何を確認する」


「呼ばれた方向、声の特徴、発言内容を記録します」


 バルドがあきれたように笑う。


「振り返らないのに記録はするのか」


「何も確認せず逃げたら、次も同じ危険に遭います」


「やはり変わり者だな」


『バルドに言われてる』


「お前は嬉しそうだな」


「出発します」


 セシリアが会話を切った。


     ◇


 坑口の封鎖を外すと、冷たい空気が流れ出した。


 土と鉄。


 古い油。


 湿った木材。


 そして、人が長期間閉じ込められていた場所に残る、淀んだ匂い。


 事故から二十年が経っている。


 それでも、つい昨日まで鉱夫が働いていたような気配があった。


 バルドが角灯を掲げ、先頭を進む。


 入口付近の支柱は腐っている。


 セシリアが一つずつ強度を確かめ、危険な場所へ光の印を残した。


 レインは歩きながら、坑道の壁へ目を向ける。


 何人もの鉱夫の幽霊が、岩壁の中へ上半身を沈めたままつるはしを振っていた。


 現在の坑道では、そこは掘削されていない。


 事故当時の通路だけが幽霊側に残っている。


『交代まで止めるな』


『あと十二刻』


『監督が見ている』


 同じ言葉を繰り返す。


「こちらへ反応は?」


 セシリアが尋ねる。


「ありません」


『目も合わない』


 ミラが鉱夫の前で手を振る。


 幽霊は彼女をすり抜け、つるはしを振り続けた。


「意識が過去の作業へ固定されています」


 レインは帳面へ記す。


第一坑道の鉱夫は、外部からの呼びかけに反応せず。

現在は存在しない壁面を掘削している。

事故当時の坑道を認識している可能性。


「昨日、ガランは話を聞きました」


 バルドが振り返らずに言う。


「坑外では意識が戻っていた?」


「人数の矛盾を指摘した後、一時的に」


「なら、ここでも記憶の食い違いを示せば止まるかもしれない」


「まず、何を昨日として繰り返しているか確認します」


 事故が起きた日なのか。


 事故前日の作業なのか。


 複数の日が混ざっているのか。


 幽霊が繰り返す行動だけでは判断できない。


 第一の分岐点へ到着した。


 左は第二坑。


 右は資材運搬路。


 正面は三番坑へ続く主坑道。


 ドレクから受け取った古い地図では、正面は崩落しているはずだった。


 しかし実際には、何も崩れていない。


 新しい支柱が並び、魔石灯まで点灯している。


「これは現在の坑道ではありません」


 セシリアが足を止める。


「支柱に触れないでください」


 バルドが剣の鞘で支柱を軽く押す。


 鞘は何の抵抗もなく木材をすり抜けた。


「幽霊の坑道か」


「事故当時の記憶が形になっている」


 レインには、明るい主坑道と、その後ろに重なる崩落現場の両方が見えた。


 片方だけに意識を向ければ、もう片方が薄くなる。


 足元には平らな線路がある。


 しかし現実には、崩れた岩と折れた木材が積み重なっている。


「進めませんね」


 セシリアが言う。


『通れるよ』


 ミラは明るい坑道の中へ入っていく。


「待て」


『こっちは何も崩れてない』


「お前は幽霊側を歩けても、俺たちは通れない」


『向こうから回れる道を探す』


「一人で行くな」


 ミラは振り返った。


『でも、私なら下敷きにならない』


「鐘がいる」


『名前は言わない』


「それだけが危険とは限らない」


 ミラは少し不満そうだったが、戻ってきた。


 バルドが崩落した岩の隙間を調べる。


「人一人なら通れそうだ」


「崩れる可能性があります」


「ほかの道を探せば、時間がかかる」


 そのとき、主坑道の奥から荷車の音が聞こえた。


 がらがら。


 鉄の車輪が線路を走る。


 幽霊の鉱夫たちが、鉱石を積んだ荷車を押してくる。


 レインたちが立つ崩落地点へ向かっている。


『道を空けろ!』


 先頭の鉱夫が叫んだ。


「こちらが見えるのか」


 鉱夫はレインを見ていない。


 だが事故当時も、同じ場所で誰かへ道を空けるよう叫んだのだろう。


 荷車が近づく。


 レインには二つの光景が見えた。


 何事もなく通り過ぎる幽霊の荷車。


 そして崩落した岩へ激突し、鉱夫たちが押し潰される光景。


「下がってください!」


 セシリアが叫ぶ。


 四人は脇道へ避けた。


 荷車は崩落地点へ突っ込み、消えた。


 次の瞬間、坑道全体が震える。


 岩が砕ける音。


 木材が折れる音。


 何十人もの悲鳴。


 事故の瞬間が再現された。


 レインは頭を抱えた。


 死者の声が一斉に流れ込む。


『崩れるぞ!』


『三番坑から離れろ!』


『出口を開けてくれ!』


『監督はどこだ!』


『まだ生きてる!』


 視界が暗転する。


 生き埋めになった鉱夫の記憶。


 土の匂い。


 胸を圧迫する岩。


 折れた足。


 暗闇で聞こえる仲間の声。


 レインは自分が坑道に立っているのか、二十年前の土の下にいるのか分からなくなる。


『レイン!』


 ミラの声が届く。


「聞こえている」


『私を見て』


 礼拝堂で無数の幽霊に囲まれたときと同じ言葉。


 レインは目の前のミラを見る。


 銀色の髪。


 白い服。


 不安そうな顔。


 現在のミラ。


 現在の坑道。


「レイン・アスター」


 自分の名前を口にする。


「二十二歳。リベルタ生まれ」


 セシリアの手が肩に触れる。


「ここは旧セレン坑です」


 今度は彼女の声も聞こえる。


「事故から二十年後。あなたは調査のために入っています」


「分かっています」


「では、今の音は?」


「過去の再現です」


 レインは呼吸を整えた。


 悲鳴が遠ざかる。


 再現された崩落も薄れ、再び明るい幽霊の坑道が現れる。


 荷車を押していた鉱夫たちは、何事もなかったように最初の位置へ戻っていた。


 そして再び歩き出す。


『道を空けろ!』


「同じ場面が始まった」


 バルドが低く言う。


 荷車。


 警告。


 崩落。


 悲鳴。


 その後に巻き戻し。


 これを二十年間、繰り返している。


「一日のすべてではありません」


 レインは帳面へ書きながら言った。


「特定の場面が短く繰り返されている」


「昨日を繰り返しているというより、死の直前へ閉じ込められている?」


「鉱夫によって違うかもしれません」


 入口の鉱夫は、崩落前の作業を繰り返していた。


 ここでは事故の瞬間。


 三番坑では、鐘を掘り出す作業を続けている。


 それぞれ別の時間に固定されている。


「鐘が、死者ごとに強い記憶を繰り返させている」


 セシリアが言う。


「強い記憶というより、命令ではないでしょうか」


「命令?」


「入口では人数を数える。ここでは荷車を運ぶ。三番坑では礼拝所を開ける。全員、事故当日に命じられた仕事を続けている」


 死んでも休めない。


 未練ではなく、命令によって。


 レインは聞き書き帳へ一文を記した。


鉱夫たちは事故を繰り返しているのではない。

死亡時に果たせなかった「命令」を繰り返している可能性。


 文字を書いた瞬間、荷車を押していた鉱夫の一人が動きを止めた。


 ほかの者は進み続ける。


 彼だけがレインを見る。


『命令』


「俺が見えるのか」


『終わってない』


「何が」


『運べと言われた』


「誰に」


『監督』


「何を運んでいた」


 鉱夫は荷車へ視線を向ける。


 レインには鉱石しか見えない。


 だがミラが荷車の奥へ顔を近づけた。


『石じゃないものがある』


「何だ」


『黒い板』


「記憶鐘片か?」


『鐘の破片より大きい。文字がいっぱい書いてある』


 レインが荷車へ近づくと、鉱石の下に黒い石板が見え始めた。


 幽霊の記憶として隠されていたもの。


 表面には名前らしき文字が並び、すべて太い線で消されている。


「これは何だ」


『名簿』


 鉱夫が答える。


『礼拝所から出た』


「どこへ運ぶ予定だった」


『監督の部屋』


「鉱山主へ渡すため?」


『分からない』


「この荷車は崩落に巻き込まれた?」


『運べなかった』


「だから、今も繰り返している?」


 鉱夫は自分の腕を見る。


『俺は、まだ運んでない』


「二十年前に死んでいる」


『違う』


「名前は?」


『ハル』


「姓は」


『分からない』


「家族は」


『妹がいる』


「何歳だった」


『俺より六つ下』


「あなたが死んだことを知っている」


『違う』


 ハルの輪郭が崩れかける。


 死を指摘するだけでは拒絶される。


 エドガーと同じだ。


 レインは問い方を変えた。


「荷車を運び終えたら、何をする予定だった」


『村へ戻る』


「妹へ会う?」


『給金で靴を買う』


「どんな靴だ」


『赤い紐の靴』


 ハルの顔に、わずかな表情が戻る。


「妹の名前は?」


『ニナ』


 その名前を書き留めた瞬間、ハルの姿が鮮明になった。


 茶色の髪。


 細い顔。


 右の眉に小さな傷。


 ただの鉱夫の一人だった男が、個人の姿を取り戻す。


「ハル。ニナは二十年分、歳を取っている」


『そんなはずはない』


「村へ戻れば確認できる」


『仕事が終わってない』


「名簿を運ぶことが仕事か」


『監督が言った』


「監督の名前は」


『ヴァロ』


 ドレクが語った鉱山主ゲオルグとは別人。


 現場監督だろう。


「ヴァロはどこにいる」


 ハルの顔に恐怖が浮かんだ。


『三番坑』


「幽霊になっている?」


『違う』


「何が違う」


『監督は、まだ死んでない』


 セシリアが息をのむ。


「事故の生存者?」


『死んでない。ずっと、礼拝所で見てる』


「二十年間?」


 ハルは急に頭を押さえた。


 遠くから鐘が鳴る。


 ゴン。


『交代時間だ』


「待て」


『名簿を運べ』


「ハル!」


 彼の表情が消える。


 荷車へ手をかけ、再び同じ動きを始めた。


『道を空けろ!』


 レインたちは脇へ避ける。


 荷車が崩落地点へ進む。


 再び事故が起きる。


 今度はレインも準備していた。


 ハルの悲鳴だけを聞き分ける。


『ニナ』


 崩落の瞬間、彼は妹の名を呼んでいた。


 そして時間が巻き戻る。


 だがハルの胸元には、赤い糸のような光が残っていた。


 ニナという名前。


 現在へつながる記憶。


「一度の聞き取りでは解放できない」


 レインは帳面を閉じた。


「しかし、繰り返しの中へ変化を残せる」


「名前と記憶を書いたから?」


 セシリアが尋ねる。


「本人を示す情報が増えたことで、命令以外の記憶が戻った」


 すべての鉱夫に同じことができれば、命令から解放できるかもしれない。


 ただし七十一人いる。


 さらにバルドの部下五人と、行方不明になった十一人。


 一人ずつ聞き取るには時間がかかる。


「まず、命令の発信源を止める」


 バルドが言った。


「現場監督ヴァロか」


「三番坑にいると、ハルは話しました」


「生きていると」


「二十年間、普通に生存しているとは考えにくいです」


 セシリアは銀杖を握り直した。


「生者でも死者でもない状態かもしれません」


『白い腕と混ざってる?』


 ミラの言葉をレインが伝えると、バルドの顔が険しくなった。


「そいつが部下の声を変えている可能性もあるな」


「三番坑へ進みます」


「道は崩れています」


「迂回路がある」


 バルドは古い地図を広げた。


「第二坑から換気路へ入り、資材庫を抜ければ主坑道の先へ出られる」


「十年前、部下たちもその道を?」


「ああ」


「では、部下の声がする場所を通る可能性があります」


「そのために来た」


 バルドの返事に迷いはなかった。


 セシリアは全員の状態と銀縄を確認する。


「鐘が鳴った後の警告を忘れないでください」


「名前を呼ばれても振り返らない」


「特にバルド。あなたは部下の声へ反応しないように」


「分かっている」


 バルドはそう答えた。


 だが、その声には確信がなかった。


     ◇


 第二坑道は、主坑道よりも狭かった。


 天井が低く、バルドは何度も頭をぶつけそうになる。


 壁には水が流れ、床は滑りやすい。


 進むほど、つるはしの音が遠ざかった。


 代わりに、別の音が聞こえ始める。


 鎧が擦れる音。


 重い靴音。


 王国騎士が行軍するときの足音。


 バルドが立ち止まった。


「部下ですか」


「おそらく」


 前方の暗闇に五人の騎士が見える。


 古い王国軍の外套。


 胸元には北部騎士団の紋章。


 先頭の青年は、左手に盾を持っている。


『隊長』


 声がした。


 バルドには、レインと異なる言葉に聞こえる可能性がある。


「今、何と聞こえています」


「隊長、こちらです」


 レインには違った。


『隊長、止まってください』


 二人目の騎士が口を開く。


 バルドには、


「道は安全です」


 レインには、


『道はもうありません』


 三人目。


「早く来てください」


『私たちを見ないでください』


 バルドの呼吸が荒くなる。


「進むぞ」


「待ってください」


「部下が呼んでいる」


「違う。警告しています」


「お前には、そう聞こえているだけかもしれない」


 その通りだった。


 レインの聞き取りも、絶対に正しいとは限らない。


 鐘が声を歪めているなら、レインの認識まで影響を受けている可能性がある。


 だから証言だけでは決めない。


「騎士たちへ質問します」


 レインは先頭の青年へ向かって声をかけた。


「名前は?」


『エリオット・バーンズ』


「階級は」


『北部騎士団副隊長』


 バルドが反応した。


「エリオット」


 青年の幽霊が、一瞬だけバルドを見る。


『隊長』


 今度はレインにも、バルドにも同じ言葉が聞こえた。


「十年前、ここで何があった」


『盗掘者を追った』


「何人いた」


『四人』


「あなたたちは五人だったはずです」


 エリオットの輪郭が揺れる。


『四人』


「誰か一人を忘れている」


『四人』


 ほかの騎士たちも、同時に四人と繰り返す。


 実際には目の前に五人いる。


 鉱夫たちが囚人労働者を数えなかった現象と同じだ。


「一人の名前が消されている」


 レインは騎士を一人ずつ見る。


 エリオット。


 長身の槍兵。


 小柄な弓兵。


 女性の治療兵。


 そして、一番後ろにいる顔の見えない騎士。


 ほかの四人は、その人物を認識していない。


「バルド。五人目は誰です」


 男は暗闇へ目を凝らした。


「五人全員の名を言ってください」


「エリオット。ガイ。ローダン。メイベル。それから……」


 言葉が止まる。


「思い出せない」


「十年間、部下を探していたのに?」


「顔は分かる。だが名前が出ない」


 顔のない騎士が一歩進む。


 胸元に数字が刻まれていた。


 十一。


 鉱山で行方不明になった十一人。


 その最後の一人として、名前を失ったのかもしれない。


『隊長』


 顔のない騎士が呼ぶ。


 その声だけは、レインとバルドへ同じ言葉として届いた。


『振り返らないでください』


「振り返るな?」


 バルドが眉を寄せる。


 その瞬間。


 坑道の奥で鐘が鳴った。


 ゴン。


 セシリアが叫ぶ。


「全員、前を向いたまま進んでください!」


 四人は騎士たちの横を通り過ぎる。


 誰も後ろを見ない。


 銀縄を頼りに、狭い坑道を進む。


 背後から声がした。


『レイン』


 ミラの声だった。


 しかし本物のミラは、レインの目の前を漂っている。


『レイン、待って』


「偽物だ」


 目の前のミラがうなずく。


 次はセシリアの声。


「レイン、封印が破れました。戻ってください」


 セシリア本人は前を歩いている。


「振り返らないで!」


 本物のセシリアが叫んだ。


 バルドの背後から、若い騎士の声。


『隊長、助けてください』


 バルドの肩が震える。


『今度は置いていかないで』


「前を見ろ!」


 レインが叫ぶ。


「分かっている!」


 声は返る。


 だがバルドの歩みが遅くなる。


『隊長』


 五人の声が重なる。


『俺たちは、まだ生きています』


 バルドが足を止めた。


「生きている?」


「鐘が聞かせている言葉です!」


「本当に生きている可能性は」


「十年です!」


「鉱山には二十年生きていると言われた監督がいる!」


 バルドの言うことにも理屈はある。


 生者と死者の境界を歪める鐘があるなら、部下たちが完全には死んでいない可能性も否定できない。


 それでも、今は振り返るべきではない。


 警告を出した存在が信用できるからではない。


 目の前のミラと、今聞こえるミラの声が同時に存在している。


 少なくとも、背後の声の一部が偽物なのは確かだった。


「バルド・グレイン!」


 レインは男の名前を強く呼んだ。


「元北部騎士団。十年前、部下五名を旧セレン坑で失った!」


「今、それを言う必要があるか!」


「あなた自身を確認するためです!」


 レインは続ける。


「部下の声を十年間聞き続けた! だが、声の意味が歪められていると知って調査へ来た!」


 バルドの肩から少し力が抜ける。


「あなたの目的は、声へ従うことではない!」


「俺の目的は」


「何が起きたか確かめることです!」


 バルドは歯を食いしばり、再び歩き始めた。


「そうだ」


 低い声。


「確かめるまでは、振り返らん」


 背後の部下たちの声が、悲鳴へ変わる。


『隊長!』


『行かないで!』


『見捨てないで!』


 それでも誰も振り返らない。


 やがて声が遠ざかり、鐘の余韻も消えた。


 狭い換気路を抜けた先で、坑道が大きく開けた。


 古い資材庫。


 崩れた棚と、錆びた道具。


 床には十年前のものと思われる王国軍の装備が散らばっている。


 盾。


 弓。


 治療道具。


 五人分。


 バルドは一つずつ見つめたが、触れなかった。


「部下はここへ来た」


「その先へ進んだようです」


 レインは床の足跡を見る。


 生者の足跡ではない。


 半透明の光が五人分、三番坑へ続く扉へ向かっている。


 そして六人目。


 大きな裸足の跡。


 人間の数倍ある。


 白い腕の持ち主。


「部下たちは、これを追った」


 バルドがつぶやく。


「あるいは、追われた」


 セシリアが扉を調べる。


 厚い鉄板。


 表面に十三本の線を持つ鐘の模様。


 中央には、文字が刻まれている。


「読めますか」


 レインが尋ねる。


 セシリアは付着した土を払い、古い文字をなぞった。


「《作業継続命令》」


「命令?」


「鐘守りの名が揃うまで、死者に作業を継続させる」


 レインの背中を冷たいものが走った。


 鉱夫たちは偶然、死の直前を繰り返しているのではない。


 記憶鐘の儀式に必要なものを掘り出すため、意図的に死後も働かされている。


「教会が作ったものですか」


 バルドがセシリアを見る。


「この術式は、現在の聖導教会のものではありません」


「過去の教会なら?」


「可能性は否定できません」


 セシリアは悔しそうに答えた。


「扉を開けられるか」


「外側からは、十三人分の名前が必要です」


「また名前か」


 レインは聞き書き帳を取り出した。


 扉の模様を写し取る。


 書いた瞬間、鉄板の向こうからつるはしの音が止まった。


 しんと静まり返る。


 その後。


『十四番目』


 白い腕の声が響いた。


『十二の名は中にある』


「残りはミラ?」


『十三番目を渡せ』


「断る」


『ならば、鉱夫たちは永遠に働く』


 レインは扉へ手を当てた。


「お前は何者だ」


『名前を失った者』


「一人か」


『すべて』


 眠り鹿亭の顔のない女と同じ答え。


 複数の死者が混ざった存在。


 だが規模が違う。


 腕だけで坑道を埋めるほど巨大な集合体。


「鉱夫たちの名前も混ざっているのか」


『まだ』


「まだ?」


『仕事が終われば、鐘へ入る』


 鉱夫たちは鐘を掘り出した後、自分たちもその中へ収容される。


 名前と記憶を混ぜられ、白い腕の一部になる。


「だから終わらないほうが、まだ消えずに済んでいる?」


『終わらせろ』


 声が急に低くなる。


『十三番目を渡せ』


「ミラは渡さない」


『ならば、別の十三番目を選べ』


「別の?」


 扉の表面に、十三の名前が浮かび上がった。


 十二は黒く塗り潰されている。


 最後の一つだけ空欄。


 その下に、別の文字が現れる。


新たな鐘守りを選定せよ。


 セシリアの銀杖が強く反応した。


「下がってください!」


 空欄から黒い糸が飛び出す。


 狙われたのはミラではない。


 セシリアだった。


 糸が彼女の胸元の月輪へ巻きつく。


「セシリア!」


 レインが手を伸ばす。


 バルドが剣で糸を切ろうとするが、刃はすり抜ける。


 ミラが黒い糸へ飛びついた。


 幽霊の手なら触れられる。


『離して!』


 糸がミラの腕にも絡む。


 扉の文字が変化する。


第十三鐘守候補。

聖導教会神官、セシリア・ローデン。


「なぜ私が」


『神官だから』


 白い腕が答える。


『名を差し出すことを教えられた者』


 黒い糸がセシリアを扉へ引き寄せる。


 彼女は銀杖を床へ突き立てて耐える。


「レイン、記録を!」


 礼拝堂の地下と同じだ。


 事実を書き、自分たちの立場を固定する。


 レインは帳面を開いた。


 だが筆を置く前に、白い頁へ文字が浮かぶ。


セシリア・ローデン。

第十三鐘守として適格。


「勝手に書くな!」


 レインが頁を破ろうとする。


 紙は刃のように硬くなり、指を弾いた。


 白い帳簿を封印した革袋も震え始める。


 中から、銀色の目の声が響く。


『代わりを選べば、ミラは自由になる』


『嘘』


 ミラが叫ぶ。


『誰かの代わりに、誰かの名前を渡すのは違う!』


『お前が拒んだから、死者は苦しみ続けた』


『だからって、セシリアを渡していい理由にはならない!』


 黒い糸がさらに増える。


 セシリアの身体が一歩、扉へ引かれた。


「レイン!」


 レインは筆を握った。


 セシリアを示すもの。


 教会の肩書ではない。


 鐘守りの候補でもない。


 これまで見てきた彼女自身を記録する。


セシリア・ローデン。

二十四歳。

聖導教会怪異調査官。


 黒い糸は止まらない。


 肩書だけでは、鐘が望む「神官」と変わらない。


 レインは続けた。


初対面では、死者を危険な存在と決めつけた。


「今、その記録が必要ですか!」


「本人を示すためです!」


だが、誤りを知った後、壁の中の死者へ謝罪した。


 一本の糸が切れる。


教会本部の命令書を確認し、提示されない命令への服従を拒んだ。


 二本目。


地下名簿を証拠として守り、死者の証言を記録と照合すると決めた。


 三本目。


苦すぎる薬草茶を、味の改善もせず人へ飲ませる。


「それは必要ですか!」


『必要』


 ミラが答える。


 セシリアを引く力が少し弱まった。


無茶をする調査協力者へ、何度止めてもついてくる。


「管理のためです!」


危険な能力を持つ者の監視と主張しながら、本人が倒れれば生者側へ引き戻す。


 黒い糸がさらに切れる。


セシリア・ローデンは、誰かに決められた鐘守りではない。


 レインは最後の一文を強く書いた。


自分で確認し、自分で疑い、自分で行動を選ぶ神官である。


 すべての黒い糸が弾けた。


 セシリアは後方へ倒れかけ、バルドが受け止める。


 扉の空欄から彼女の名前が消えた。


 白い腕の声が低く唸る。


『また、拒むのか』


「誰かを犠牲にしなければ終わらない仕組みなら、終わらせ方そのものを変える」


『十四番目は、変わらない』


「俺はまだ十四番目だと認めていない」


『帳面は認めている』


 聞き書き帳の頁へ、勝手に文字が現れる。


十四番目、レイン・アスター。

第十三を選び、鐘を完成させよ。


 レインはその下へ書き加えた。


要求を拒否。


 頁が激しく震える。


拒否は認められない。


拒否を記録する。


鉱夫は解放されない。


別の方法を調査する。


調査中に死者が失われる。


だから急ぐ。


 帳面との応酬を、ミラが横から見ていた。


『喧嘩してる』


「そう見えるか」


『帳面と喧嘩する人、初めて見た』


「俺も初めてだ」


 聞き書き帳は最後に一行だけ残した。


ならば、三番坑の監督へ聞け。


 文字が止まる。


 扉の十三の円のうち、一つが白く光った。


 続いて二つ目。


 十二まで順番に点灯する。


 最後の一つは空白のまま。


 それでも、鉄の扉がわずかに開いた。


 人一人が通れる隙間。


 向こう側から、腐った空気と白い霧が流れ出す。


 つるはしの音が再び始まった。


 今までとは違う。


 扉のすぐ向こう。


 何十人もの鉱夫が、同じ壁へ一斉につるはしを振り下ろしている。


 その奥に、男が一人立っていた。


 鉱山監督の服。


 右手には鞭。


 左手には鐘楼のような形をした小さな器具。


 男の身体は生者のように色を持っている。


 だが下半身は、巨大な白い腕へ溶け込んでいた。


「ヴァロ」


 レインが名を呼ぶ。


 男はゆっくりと顔を上げた。


 皮膚は生きた人間のように赤みがある。


 胸も呼吸に合わせて動いている。


 しかし瞳の中には、何十人もの死者の顔が浮かんでいた。


「新しい交代要員か」


 今度の声は、生者の耳にも聞こえた。


 セシリアとバルドが同時に身構える。


 ヴァロは三人を見回し、最後にレインへ目を止めた。


「遅かったな、十四番目」


「あなたは生きているのか」


「働いている」


「質問に答えていない」


「仕事をしている者は、生きている」


 エドガーとは違う。


 自分が死んだことを認められないのではない。


 生と仕事を同じものとして扱っている。


「二十年間、鉱夫たちを働かせているのか」


「まだ終わっていない」


「何を掘っている」


 ヴァロは鉱夫たちの向こうを指した。


 壁には亀裂が走っている。


 その隙間から、巨大な金属の表面が見えた。


 黒い鐘。


 山の内部へ埋め込まれた、礼拝堂ほどもある鐘の一部。


「第一の鐘だ」


 ヴァロが笑う。


「お前たちが壊したつもりでいる、最初の門だ」


 ミラの身体が震えた。


『第一の鐘』


「宿屋の破片は、これから削り取られたものか」


「破片は各地へ散った。どれも働き続けている」


「鐘が働く?」


「死者を集め、混ぜ、名前を消す。それが鐘の仕事だ」


「なぜ掘り出す」


「再び鳴らすため」


「誰の命令だ」


 ヴァロは鞭を持ち上げた。


 鉱夫たちが一斉に作業を止める。


 七十一人。


 さらに十年前の騎士五人。


 鉱山で消えた十一人。


 彼らの幽霊が、ヴァロの背後へ並んだ。


「命令する者など、とうにいない」


 ヴァロの笑みが深くなる。


「だから私が命令になった」


 左手の器具が鳴った。


 小さな音。


 だが坑道全体が大きく揺れる。


 鉱夫たちの目が空洞へ戻った。


『作業を続けろ』


 ヴァロの声が、すべての死者の口から響く。


『鐘守りの名が揃うまで』


 黒い鐘の亀裂から、巨大な白い指が一本ずつ現れる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 山全体を内側から掴むように、岩壁へ食い込んでいく。


 セシリアが青ざめた。


「このままでは、坑道が崩れます」


「退路は」


 バルドが振り返る。


 先ほど通ってきた扉の向こうで、岩が崩れ始めている。


 銀縄が強く引かれた。


 坑口側ではなく、さらに地下へ。


 誰かが縄を引っ張っている。


『隊長』


 バルドの部下の声。


『今度こそ、こちらです』


「また声を変えているのか」


 バルドが歯を食いしばる。


 レインはヴァロを見た。


 監督を止めなければ、鉱夫たちは解放されない。


 しかしヴァロ自身が、巨大な白い集合霊と融合している。


 単純に倒せば、中に混ざった死者まで失われる可能性がある。


「聞き取りを続けます」


 レインが言った。


「この状況で?」


 セシリアが叫ぶ。


「ヴァロが命令になった理由を調べる。そこを崩せば、鉱夫たちの繰り返しを止められるかもしれない」


「坑道の崩落が先です!」


「なら、崩れる前に聞きます!」


 バルドが大剣を抜き、二人の前へ立つ。


「時間は俺が作る」


「相手は幽霊です」


「白い腕は岩を動かせる。なら、剣が届く部分もある」


 セシリアも銀杖を構えた。


「三分です」


「短い」


「一分よりは長いでしょう」


「以前と同じですね」


「こんなときに思い出さないでください!」


 ミラがヴァロを見つめる。


『私も聞く』


「危険だ」


『鉱夫たちの声をまとめる』


「できるか」


『たぶん』


「そこは断言しろ」


『やってみる』


 ヴァロが鞭を振り下ろした。


 白い指が坑道を薙ぐ。


 バルドがレインを突き飛ばし、セシリアが光の盾を展開する。


 巨大な衝撃が坑道を揺らした。


 天井から石が降る。


 レインは地面へ転がりながらも、聞き書き帳を手放さなかった。


 頁を開く。


 新しい聞き取り対象。


ヴァロ。

旧セレン坑現場監督。

生死不明。

巨大な集合霊と融合。

「自分が命令になった」と主張。


 文字を書いた瞬間、ヴァロの顔が歪んだ。


「記録するな」


「なぜです」


「私は命令だ。人ではない」


「なら、人だった頃の名前を捨てたのか」


「黙れ」


「鉱夫たちはあなたを監督と覚えている」


「黙れ!」


「あなたにも、鐘の命令へ従う前の記憶がある」


 ヴァロの足元。


 白い腕の中で、何人もの死者の顔が動く。


 その中に、一人の少年がいた。


 ヴァロによく似た顔。


『父さん』


 少年の声がした。


 ヴァロの動きが止まる。


 レインは聞き逃さなかった。


「あなたの息子ですか」


「違う」


 即答。


 だが声が揺れている。


「名前は?」


「知らない」


「幽霊は真実だけを話すわけではない」


 レインは筆を構えた。


「あなたも例外ではない」


 ヴァロの鞭が再び持ち上がる。


 その背後で、少年の幽霊がもう一度呼んだ。


『父さん。昨日は、もう終わったよ』


 坑道に響いていたつるはしの音が、一瞬だけ止まった。


 七十一人の鉱夫たちが同時に顔を上げる。


『昨日は、終わった』


 ミラが少年の言葉を繰り返す。


 ほかの幽霊たちへ届くように。


『事故の日は、もう終わった』


 ガランの目に光が戻る。


 ハルの胸元に赤い糸が現れる。


 名前のない囚人たちが、番号ではなく互いの顔を見る。


『終わった?』


『仕事は?』


『帰っていいのか』


 ヴァロが怒鳴った。


「作業を続けろ!」


 小さな鐘を鳴らす。


 だが、鉱夫たちはすぐには動かなかった。


 少年の一言が、二十年間繰り返された命令へ初めて亀裂を入れた。


 レインは少年へ尋ねる。


「名前は?」


『ノア』


「ノア・ヴァロ?」


『ノア・セルド』


 ヴァロと姓が違う。


「母親の姓か」


『うん』


「なぜ、ここにいる」


『父さんを迎えに来た』


 ヴァロが叫ぶ。


「黙れ!」


『母さんも、ずっと待ってる』


「黙れ!」


『もう、仕事は終わったよ』


 巨大な白い腕に亀裂が走った。


 ヴァロの下半身が、一瞬だけ人間の足へ戻る。


 鐘の命令ではない記憶。


 家族。


 息子。


 帰る場所。


 その存在が、命令そのものになった男を人間へ引き戻そうとしていた。


 しかし同時に、山の奥で巨大な鐘が鳴り始める。


 ゴン。


 一度。


 ゴン。


 二度。


 黒い鐘の表面が震え、坑道の亀裂が広がる。


 ヴァロは頭を抱えた。


「違う」


 男の声と、集合霊の声が重なる。


「仕事は終わっていない」


『終わったよ』


「鐘を掘り出さなければ」


『帰ろう』


「私は監督だ!」


『父さん』


「私は――」


 ヴァロの言葉が止まる。


 レインは筆を走らせた。


ヴァロは、命令そのものではない。


ノア・セルドの父である。


 白い腕が大きく崩れた。


 中から、死者たちの顔が次々と分離する。


 だが鐘は三度目の音を響かせた。


 ゴン。


 時間が巻き戻される。


 崩れた白い腕が元へ戻る。


 鉱夫たちの表情が消える。


 ノアの姿が薄くなる。


 ヴァロの下半身も、再び集合霊へ飲み込まれていく。


「また繰り返す気か!」


 レインが叫ぶ。


 ヴァロの目から一筋の涙が落ちた。


 だが口から出たのは、感情のない命令だった。


『作業を続けろ』


 つるはしの音が一斉に再開する。


 かん。


 かん。


 かん。


 何も変わらなかったかのように。


 ただ一つ。


 ヴァロの胸元に、小さな白い文字が残っていた。


ノアの父。


 巻き戻されても消えない記録。


 レインの聞き書き帳によって固定された、命令以外の彼の姿。


 ノアは消えかけながら、レインを見た。


『もう一度、父さんに思い出させて』


「必ず」


『鐘が鳴るたび、忘れる』


「なら、鳴るたびに記録する」


 レインは立ち上がった。


 鉱夫たちの昨日は、まだ終わっていない。


 だが、完全に同じ昨日でもなくなった。


 ハルには妹ニナの記憶が残った。


 ヴァロには「ノアの父」という言葉が刻まれた。


 一度の聞き取りで解決できなくても、記録は繰り返しの外側へ残せる。


「退却します!」


 セシリアが叫ぶ。


 天井の崩落が激しくなっている。


 バルドが扉を押さえ、レインとセシリアを先へ通す。


「三分を超えたぞ!」


「申し訳ありません!」


「後で追加料金をもらう!」


「報酬はいらないと言ったでしょう!」


「気が変わった!」


『私の分も?』


「幽霊の護衛料は知らん!」


 ミラは消えかけたノアを振り返った。


『一緒に来ないの?』


『父さんのそばにいる』


『でも、また忘れられるかも』


『それでも、呼ぶ』


 ノアは薄く笑った。


『昨日が終わるまで』


 レインたちは扉の外へ走った。


 背後では、ヴァロの号令とつるはしの音が続いている。


 そしてその間に、一人の少年の声が何度も響いていた。


『父さん』


『昨日は、もう終わったよ』


 坑道が崩れる音の中でも、その声だけは途切れなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


鉱夫たちは事故そのものではなく、死亡時に与えられた「命令」を繰り返していました。


三番坑の監督ヴァロは、巨大な集合霊と融合し、自らを命令そのものだと思い込んでいます。


次回、第12話「鉱山事故は、事故ではなかった」。


レインたちは鉱夫たちの家族と記録を調べ、ヴァロと鉱山主が隠した崩落の真相、そして鐘の下に埋められたものを明らかにします。

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