表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第四章 働き続ける死者たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/14

第12話 鉱山事故は、事故ではなかった

巨大な白い集合霊と融合し、死者たちへ作業を命じ続ける監督ヴァロ。


鐘が鳴るたび、鉱夫たちは事故の日へ戻される。


レインたちは終わらない昨日を止めるため、二十年前の崩落に隠された真相を聞き出す。

『作業を続けろ』


 ヴァロの声が三番坑へ響いた。


 七十一人の鉱夫が、一斉につるはしを振り上げる。


 かん。


 かん。


 かん。


 黒い岩壁を打つ音が、山そのものの鼓動のように重なった。


 その奥には、巨大な鐘が埋まっている。


 礼拝堂を丸ごと覆えるほど大きな黒い鐘。


 表面には無数の名前が刻まれていたが、どの文字も途中で削られている。


 鐘の割れ目から伸びた白い腕が、坑道の壁と天井へ食い込んでいた。


 何十人、何百人もの死者が混ざり合い、一つの巨大な身体を作っている。


 ヴァロの下半身も、その白い肉体へ取り込まれていた。


 だが彼の胸元には、聞き書き帳によって刻まれた言葉が残っている。


ノアの父。


 鐘の時間が巻き戻されても、その記録だけは消えなかった。


『父さん』


 ヴァロの近くに立つ少年が、何度も呼びかける。


『昨日は、もう終わったよ』


「黙れ!」


 ヴァロが鞭を振る。


 鞭はノアの身体をすり抜けた。


 それでも少年の輪郭が一瞬だけ崩れる。


 鞭そのものではなく、父親から拒絶された記憶が彼を傷つけているらしい。


「ノアから離れろ!」


 レインが叫ぶ。


「私は監督だ!」


 ヴァロの声に、白い集合霊の声が重なった。


『命令を守らせる』


『働かせる』


『鐘を掘り出す』


『仕事を終わらせる』


「それは、あなた自身の言葉ですか」


「何?」


「鉱山主から言われた言葉を繰り返しているだけでは?」


 ヴァロの表情が引きつった。


「私は自分で命令している」


「事故の日、鉱山主ゲオルグ・バルデンから何を命じられた」


「鐘を掘り出せ」


「それだけですか」


「作業を止めるな」


「ほかには?」


「誰も外へ出すな」


 言葉が出た瞬間、ヴァロ自身が息をのんだ。


 鉱夫たちのつるはしが、一拍だけ止まる。


 レインは筆を走らせた。


ヴァロは事故当日、鉱山主ゲオルグから「誰も外へ出すな」と命じられた。


「なぜ鉱夫を外へ出さなかった」


「違う」


「今、自分で言った」


「崩落が起きたからだ!」


「崩落前から命令されていたのでは?」


「違う!」


 ヴァロの怒声とともに、白い腕が壁から離れた。


 巨大な掌が、レインたちへ振り下ろされる。


「伏せろ!」


 バルドがレインの襟を掴み、横へ投げた。


 セシリアは銀杖を掲げる。


「月光障壁!」


 白い腕と光の盾が激突した。


 衝撃で坑道が揺れる。


 天井から拳ほどの石が降り、バルドの肩へ当たった。


「バルド!」


「この程度は傷にもならん!」


 そう言いながら、男は顔をしかめている。


 レインは地面へ転がった聞き書き帳を拾った。


 頁は勝手にめくられ、ヴァロの記録が開かれていた。


 その余白へ、黒い文字が浮かぶ。


命令した者を記録せよ。


「ゲオルグのことか」


 帳面は答えない。


 代わりに、文字が滲むように広がった。


事故の命令者は、三番坑にいる。


 レインはヴァロを見る。


「事故を起こしたのは、あなたですか」


「違う!」


「では、誰が命じた」


「ゲオルグだ!」


「何を?」


 ヴァロは口を閉ざした。


 白い腕が再び動く。


 セシリアの障壁へ何度も打ちつけられ、青い魔石に亀裂が走る。


「レイン! 長くは保ちません!」


「あと少しです!」


「先ほども同じことを言って、三分を超えました!」


「今回は二分で!」


「必ず守ってください!」


 バルドが大剣を構えた。


「俺が腕を引きつける。神官は坑道を支えろ」


「あなた一人では」


「幽霊本体を斬れなくても、あいつが動かしている岩は斬れる」


 白い腕が壁から岩塊を引き剥がす。


 バルドは正面から走った。


 振り下ろされた岩へ大剣を叩きつける。


 轟音。


 岩塊が二つに割れ、男の左右へ落ちた。


「聞くなら早くしろ!」


「分かっています!」


 レインはヴァロへ問いを重ねた。


「事故の前、鉱山主は三番坑の礼拝所を見ましたね」


「見た」


「鐘も?」


「見た」


「鐘を掘り出せば、何が得られると言われた」


「死者の記憶だ」


 ヴァロの声から、急に怒りが消えた。


「死んだ者が隠した金。取引。弱み。王家や貴族が消したい秘密。すべて取り出せると」


 エドガーが持っていた黒い箱と同じ商売。


 死者の記憶を盗み、生者へ売る。


 その根源が、この鐘だった。


「ゲオルグは鐘を売るつもりだった?」


「違う。使うつもりだった」


「誰と取引していた」


「王都の神官」


 セシリアの杖を握る手が震える。


「名前は?」


「知らない」


「本当に?」


「名乗らなかった。月輪の中に黒い鐘を描いた紋章をつけていた」


 ミラの記憶に現れた、古い神官たちと同じ紋章。


 現在の聖導教会が公にしていない、記憶鐘の儀式を行う者たち。


「その神官は、鉱山主へ何を命じた」


「鐘の下を掘れと」


「鐘ではなく?」


「鐘の下に、死者が溜まっていると言った」


 巨大な白い腕が震える。


 皮膚の表面に浮かぶ無数の顔が、一斉に口を開いた。


『暗い』


『名前がない』


『誰か出して』


『混ぜるな』


「鐘の下には、この集合霊が埋まっていた」


「《名無き者》だ」


 ヴァロが答える。


「鐘に入れられ、名前を失い、互いに混ざった死者たち。神官は、そいつらを掘り出せば鐘が目覚めると言った」


「ゲオルグは、その命令に従った」


「銀より価値があると信じた」


「あなたも?」


 ヴァロの瞳が揺れる。


「私は、監督だった」


「答えになっていない」


「命令に従うのが仕事だ」


「鉱夫が危険だと分かっていても?」


「監督は作業を終わらせる!」


「父親としては?」


 ヴァロの顔が歪んだ。


 ノアが一歩近づく。


『父さんは、その日、帰ってくるって言った』


「黙れ」


『誕生日だったから』


「黙れ!」


『木彫りの馬を作ってくれるって』


「黙れと言っている!」


 ヴァロの胸元にある「ノアの父」という文字が白く輝く。


 集合霊に飲まれていた足が、再び人間の形へ戻り始めた。


 レインはノアへ尋ねた。


「その日の朝、父親は何と言った」


『仕事が終わったら、すぐ帰るって』


「ヴァロ。覚えていますか」


「覚えていない」


「木彫りの馬は?」


「知らない」


『作業小屋の机に入ってる』


 ノアが答える。


『まだ片方の足ができてなかった』


 ヴァロの指が震えた。


 鞭を握っていない右手が、何かを削るように動く。


 記憶が身体へ残っている。


「その馬は、今もあるかもしれない」


 レインが言う。


「村へ戻れば確認できる」


「私は戻れない」


「なぜ」


「仕事が終わっていない」


「何が終われば帰れる」


「鐘を掘り出す」


「それは、ゲオルグの仕事ですか。王都の神官の仕事ですか。それとも、あなた自身が望んだ仕事ですか」


 ヴァロは答えられない。


 レインはさらに踏み込んだ。


「崩落が起きたとき、ゲオルグはどこにいた」


「坑外だ」


「あなたは?」


「三番坑」


「ゲオルグは事前に外へ出ていた?」


「視察を終えただけだ」


「坑道が崩れることを知っていたのでは?」


「違う」


「では、なぜ兵士に入口を封鎖させた」


「二次崩落を防ぐためだ」


「崩落から三日間、中には生存者がいた」


「知らない」


『嘘だ!』


 鉱夫の一人が叫んだ。


 ガランだった。


 鐘の命令に支配されながらも、顔には怒りが戻っている。


『俺たちは入口まで行った!』


 別の鉱夫もつるはしを落とす。


『向こうから声がした!』


『監督が、戻れと言った!』


『掘る場所はこっちだと!』


 鉱夫たちの証言が次々と重なる。


 だがレインはそのまま真実とは決めない。


「ヴァロ。崩落後、鉱夫を入口から遠ざけましたか」


「礼拝所を守る必要があった」


「誰から?」


「外の者からだ」


「救助隊から?」


「鐘を奪われる」


「救助隊は人を助けに来た」


「ゲオルグは違うと言った!」


 ヴァロが叫んだ。


 その言葉が坑道へ反響する。


 レインは筆を止めなかった。


崩落後、ヴァロはゲオルグの指示を受け、坑内生存者を出口から三番坑へ戻した。

理由は、地下礼拝所と記憶鐘の存在を隠すため。


「事故ではない」


 レインは静かに言った。


「ゲオルグは、坑道を意図的に崩した」


「違う」


「事故なら、崩落前に兵を入口へ配置する必要はない」


「盗掘を防ぐためだ」


「崩落直後、生存者を救助しなかった」


「危険だった」


「三日間聞こえた声を無視した」


「私は命令された!」


「だから従った?」


「監督だからだ!」


「いいえ」


 レインは帳面を掲げた。


「あなたは、命令に従った人間です」


「同じことだ!」


「違います。命令は責任を負わない。人間は、自分が従ったことを記憶できる」


 ヴァロの顔が大きく歪んだ。


「私に何をしろと言う」


「話してください」


「すでに話した!」


「まだ隠している」


「何を」


「崩落を起こした方法です」


 沈黙。


 つるはしの音も止まった。


 白い集合霊の顔が一斉にヴァロを見る。


「ゲオルグは、どうやって坑道を崩した」


 ヴァロの唇が震える。


「支柱を抜いた」


「誰が」


「私だ」


 小さな声だった。


 だが、坑道にいるすべての死者へ届いた。


「何本」


「主坑道から三本。礼拝所へ続く道から二本」


「事故に見せかけるため?」


「ああ」


 ガランがつるはしを落とした。


 ハルが両手で顔を覆う。


 名前を失った囚人たちは、数字を刻まれた胸を押さえる。


『監督が』


『俺たちを埋めた』


『事故じゃなかった』


『分かっていたのか』


 ヴァロは耳を塞ぐ。


「黙れ!」


 しかし死者の声は止まらない。


『助けを求めた』


『入口まで行った』


『妻が待っていた』


『子どもがいた』


『名前さえ記録されなかった』


「黙れ!」


「聞いてください」


 レインが言う。


「二十年間、あなたは命令する側の声だけを聞いてきた」


「私は、こいつらを働かせなければならない」


「今は、命令された側の話を聞く番です」


 ミラが鉱夫たちの前へ立った。


『一人ずつ話して』


 怒りと悲鳴が重なっていた死者たちが、彼女の声で静まる。


『全員で叫んだら、ヴァロに届かない』


 ガランが最初に進み出た。


『監督。俺はお前を信じていた』


 次にハル。


『妹へ靴を買うはずだった』


 番号しか持たない囚人の一人。


『俺は名前も思い出せない。でも、死ぬために働いていたわけじゃない』


 女性の声もあった。


 坑道で行方不明になった冒険者だろう。


『私は鐘を見に来ただけだった。仕事を命じられる理由はない』


 そして、バルドの部下たちが前へ出る。


 副隊長エリオット。


 槍兵ガイ。


 弓兵ローダン。


 治療兵メイベル。


 最後に、名前を失っていた五人目の騎士。


 彼の顔はまだ薄い。


『隊長』


 バルドの身体が強張る。


 今度の声は、レインとバルドへ同じ言葉として届いていた。


『俺の名前を、覚えていますか』


「すまない」


 バルドは拳を握った。


「思い出せん」


『分かっています』


「なぜ、お前だけが消された」


『監督に触れられたからです』


「ヴァロに?」


『三番坑へ入ったとき、白い腕に掴まれました。名前を取られ、ほかの行方不明者と混ぜられた』


 レインは騎士を観察する。


「覚えていることを話してください」


『北部騎士団。バルド隊。五番目』


「役職は」


『斥候』


「好きだったものは」


『酒』


 バルドが小さく笑った。


「全員そうだった」


『甘い酒です』


「それは一人だけだ」


 バルドの目が見開かれる。


「待て」


 男は騎士の顔を見つめた。


「甘い果実酒しか飲めず、強い酒を水で薄めていた」


『はい』


「料理当番になると、必ず豆を焦がした」


『鍋が悪かったのです』


「雨の日だけ、古傷のある右膝を引きずる」


 顔のない騎士の右足が、少しだけ形を取り戻す。


「お前は……」


 バルドの声が震えた。


「シオン」


 騎士の輪郭に光が走る。


「シオン・エルグ!」


 失われていた顔が戻った。


 二十代後半の青年。


 癖のある茶色の髪。


 右頬に小さな傷。


 穏やかな笑み。


『思い出していただけましたか』


「忘れていた」


『鐘のせいです』


「それでも、忘れたのは俺だ」


『では、もう一度覚えてください』


 バルドは何度もうなずいた。


「シオン・エルグ。北部騎士団の斥候。俺の部下だ」


 レインはその言葉を記録した。


シオン・エルグ。

北部騎士団、バルド隊所属。

十年前、旧セレン坑で行方不明。

白い集合霊に名前を奪われていた。

バルド・グレインの証言により、本名を復元。


 文字が完成した瞬間、シオンの身体から黒い糸が外れた。


 糸はヴァロの下半身へつながっている。


 ほかの騎士や鉱夫たちにも、同じ糸が伸びていた。


「ヴァロは、全員の名前を命令へ結びつけている」


 セシリアが言う。


「名前を戻せば、糸が切れる?」


「一人ずつでは間に合いません」


 七十一人の鉱夫。


 行方不明者十一人。


 騎士五人。


 さらに鐘の内部に混ざった死者は数えきれない。


 すべての名前を今すぐ復元することは不可能だ。


「命令そのものを止める必要がある」


 レインはヴァロの左手を見る。


 鐘楼の形をした小さな器具。


 あれが鳴るたび、死者たちは作業へ戻る。


「その鐘を壊せますか」


 セシリアが答える。


「通常の物質ではありません。ヴァロの記憶と融合しています」


「なら、本人に手放させるしかない」


「どうやって」


 ノアが父親の前へ立った。


『帰ろう』


「私は帰れない」


『どうして』


「私は、お前の母親を裏切った」


『母さんは知ってるよ』


 ヴァロの顔が上がる。


「何を」


『父さんが事故を起こしたこと』


「嘘だ」


『ゲオルグが死ぬ前に、手紙が届いた』


「そんなはずはない」


『自分だけの責任にされるのが怖くなったんだって。父さんの名前と、支柱を抜いたことが書いてあった』


 鉱山主ゲオルグは、死の前に真相を残していた。


「手紙は今もある?」


 レインが尋ねる。


『母さんが隠した。作業小屋の床下』


 ヴァロが激しく首を振る。


「私は戻れない」


「手紙があれば、事故の真相を証明できます」


「私が殺したことも証明される」


「すでにあなた自身が証言した」


「死者の証言など、誰が信じる!」


「だから生者の記録と照合する」


 レインはヴァロの目を見た。


「鉱山主の手紙。作業小屋の木彫りの馬。村の記録。鉱夫たちの証言。坑道の支柱。全部調べます」


「私を裁くのか」


「俺は裁判官ではありません」


「では、何をする」


「何があったか記録する」


「それだけか」


「それだけです」


 ヴァロは呆然とした。


 責められると思っていた。


 許されると思っていた。


 どちらでもない。


 レインは事実を聞き、残す。


 許すかどうかは死者たちが決める。


 裁くかどうかは生者の社会が決める。


 ヴァロが自分をどう見るかは、ヴァロ自身が決めなければならない。


「私は、命令に従った」


「記録しました」


「ゲオルグに脅された。ノアと妻を囚人の家族として扱うと言われた」


「それも記録します」


「私は怖かった」


「それも」


「だが、支柱を抜いたのは私だ」


「はい」


 ヴァロの左手から、鞭が落ちた。


 次に、小さな鐘の器具へ視線を向ける。


「これを手放せば、私は何になる」


「ヴァロになります」


「監督ではなく?」


「ノアの父で、ゲオルグの命令に従い、鉱夫たちを死なせた人間です」


「ひどい答えだ」


「よく言われます」


 ヴァロはかすかに笑った。


 それは初めて見せた、人間らしい表情だった。


 彼は小さな鐘を床へ置く。


 手を離した瞬間、鐘が激しく震えた。


『命令を続けろ』


 巨大な白い集合霊が叫ぶ。


『仕事を終わらせろ』


『十三番目を渡せ』


『鐘を掘り出せ』


 白い腕がヴァロへ巻きつく。


「私が命令をやめても、こいつが止まらない!」


「それは、鐘へ入れられた死者たちの声です」


「私を戻そうとしている!」


「あなたの命令がなくなれば、自分たちも形を失うと思っている」


 集合霊はヴァロを核にしていた。


 監督の命令があるから、多数の死者が一つの作業へまとまっている。


 命令を失えば、混ざった死者たちは分裂し、自分が誰か分からなくなることを恐れている。


 眠り鹿亭の顔のない女と同じだった。


「消えたくないなら、一人ずつ話してください!」


 レインは白い腕へ向かって叫んだ。


『名前がない』


「名前以外でもいい!」


『何もない』


「好きだったものは!」


『分からない』


「嫌いだったものは!」


 白い腕の動きが一瞬止まる。


 複数の声が、ばらばらに答え始めた。


『暗い場所』


『冷たいスープ』


『鐘の音』


『名前を呼ばれないこと』


『一人になること』


「十分です!」


 レインは帳面へ書く。


白い集合霊を構成する死者たちは、同一の存在ではない。


暗闇を嫌う者。

冷たいスープを嫌う者。

鐘の音を恐れる者。

名前を呼ばれないことを嫌う者。

一人になることを恐れる者。


 白い腕の表面に亀裂が走る。


 同じものとして扱われていた死者たちに、小さな違いが生まれる。


『私は、歌が好きだった』


 一つの顔が腕から浮き上がる。


『私は犬が嫌いだった』


 別の顔。


『私は海を見たかった』


『私は娘へ謝りたかった』


『私は、死んだことを知らない』


 一人ずつ声が分かれていく。


 ミラが両手を広げた。


『順番に話して!』


 何百もの声が、彼女の言葉へ従う。


『レインが書くから!』


「全部は無理だ!」


『できるところまで!』


「簡単に言うな!」


 それでも筆を止めない。


 名前がなくてもいい。


 年齢が分からなくてもいい。


 自分を示す何か一つ。


 それを一人ずつ記録する。


 白い腕が少しずつ細くなり、表面から人影が剥がれていく。


 セシリアが床へ銀杖を突き立てた。


「分離した死者を、月光結界で保護します!」


「浄化では?」


「違います! 互いに混ざらないための境界を作ります!」


 淡い光が地下礼拝所へ広がる。


 分離した幽霊たちの周囲に、小さな光の輪が生まれた。


 一人分の境界。


 一人分の形。


 バルドは白い腕が崩した岩を大剣で払い、死者たちが移動する場所を作る。


「俺に見えなくても、そこにいるんだな!」


「右へ二歩空けてください!」


「こうか!」


「もう一歩!」


「幽霊相手の誘導は難しいな!」


『バルドの足元に一人いる!』


「何と言った!」


「動くな!」


 バルドが不自然な姿勢で固まる。


 足元から、小柄な女性の幽霊が抜け出した。


『ありがとう、大きな人』


「感謝されています」


「なら、早く移動してもらえ!」


 白い集合霊は急速に小さくなっていく。


 最後に残ったのは、十数人分の絡み合った身体。


 彼らは同じ言葉を繰り返していた。


『鐘守り』


『十三番目』


『戻して』


 ミラが近づく。


「行くな」


『私が聞かないと、分かれない』


「お前を鐘へ連れ戻そうとしている」


『でも、この人たちも鐘に入れられた』


 ミラは絡み合った死者たちの前へ立った。


『私を知ってる?』


『第十三鐘守』


『名前は?』


『言えない』


『私の名前じゃない。あなたたちの名前』


『ない』


『では、鐘に入る前は何をしてた?』


 長い沈黙。


 一人が答えた。


『祈った』


『何を?』


『娘が助かるように』


 別の者。


『鐘を運んだ』


 また別の者。


『名前を書いた』


 十数人の中に、記憶鐘の儀式に関わった神官たちが混ざっている。


『十二人の鐘守り?』


 ミラが尋ねる。


 死者たちの身体が大きく揺れた。


『違う』


『鐘守りを選んだ者』


『名を奪った者』


『命令に従った者』


 教会側の儀式執行者たち。


 彼らも死後、鐘へ入れられたのだ。


「儀式を行った者も、最後は処理された?」


 セシリアの顔が青ざめる。


『秘密を知ったから』


『鐘へ入れと言われた』


『救われると信じた』


 ミラは静かに問いかけた。


『私のことを知ってる?』


『知っている』


『本当の名前は?』


 絡み合った死者たちは、一斉に口を開いた。


 しかし声は鐘の音に変わった。


 ゴン。


 ミラの身体が揺らぐ。


「離れろ!」


 レインが叫ぶ。


 だがミラは動かなかった。


『名前は言わなくていい』


 死者たちが沈黙する。


『私が何をしたかだけ教えて』


『拒んだ』


『何を?』


『死者から、選ぶ権利を奪うことを』


『それから?』


『鐘を割った』


 レインたちの視線が、岩壁に埋まった巨大な黒い鐘へ向く。


 表面には大きな亀裂がある。


 事故や採掘で割れたのではない。


 ミラが壊した。


『どうやって?』


『十三番目の名を、二つに分けた』


「生者の名前と鐘守りの名前」


 礼拝堂地下の老女が話していた。


 ミラには二つの名前があった。


 一つを鐘へ捨て、もう一つを守った。


『どちらを捨てたの?』


 死者たちは答えない。


 代わりに、一人ずつ絡まりから分かれ始めた。


『覚えていない』


『鐘が取った』


『壁に残した』


「壁?」


 黒い鐘の背後に、古い石壁がある。


 鉱夫たちが掘ろうとしていた礼拝所の最奥。


 白い腕が消えたことで、その表面が見えるようになった。


 壁一面に、大きな絵が描かれている。


 巨大な鐘を囲む十三人。


 十二人は大人の神官。


 最後の一人だけが、少女だった。


 肩まで伸びた淡い銀髪。


 白い衣服。


 銀色の瞳。


 現在のミラと同じ姿。


『私』


 ミラが壁画を見上げる。


 少女の隣には、黒い帳面を持つ少年が描かれていた。


 十四人目。


 顔立ちはレインと似ている。


「アスター家の祖先か」


 壁画の下部には古い文字が刻まれている。


 セシリアが土を払い、読み上げた。


十三の鐘守りが死者を送る。


十四の聞き書き人が、死者の意思を確かめる。


ただし、聞き書き人が沈黙したとき、鐘守りは死者を選ばず送るものとなる。


「本来、聞き書き人には儀式を監視するだけでなく、死者の意思を確認する役目があった」


 レインが言う。


「教会は、その役目を消した?」


「あるいは、聞き書き人がいなくなった後も儀式だけを続けた」


 セシリアが答える。


 壁画の少年は、少女へ帳面を見せている。


 少女は鐘ではなく、足元の死者たちを見ていた。


 これは処刑や強制送魂の儀式ではない。


 本来は、死者一人ひとりの意思を聞くための仕組みだったのかもしれない。


 それを誰かが変えた。


 名前を奪い、すべての死者を同じ場所へ押し込む装置へ。


「レイン」


 ミラが壁画を見ながら言った。


『私、この人を知ってる』


「十四人目を?」


『うん』


「名前は?」


『思い出せない。でも』


 ミラは壁画の少年が持つ帳面へ触れた。


『この人は、最後に私を止めなかった』


「鐘を壊すことを?」


『私が名前を捨てることを』


 壁画の一部が淡く光る。


 少年の隣に、小さな文字が浮かび上がった。


聞き書き人レオ・アスター。


「レオ」


 レインが名前を読む。


 聞き書き帳が震えた。


 最初の頁。


 革表紙の裏側に、今まで見えなかった文字が現れる。


所有者――レオ・アスター。


 父から渡された古い帳面。


 修繕箇所を記録するためのただの帳面だと思っていた。


 それは、かつて第十三鐘守と行動した聞き書き人のものだった。


『レオ』


 ミラが名前を繰り返す。


 その瞳から、涙のような光が一粒こぼれた。


『私、この人を置いてきた』


「どこに」


『鐘の向こう』


 それ以上は思い出せなかった。


 だが、新しい事実が残った。


 アスター家の聞き書き人。


 レオ・アスター。


 ミラとともに最初の鐘へ関わった人物。


 レインは壁画と文字を帳面へ写した。


     ◇


 ヴァロが小さな鐘を完全に手放すと、鉱夫たちのつるはしが地面へ落ちた。


 かん。


 最後の一音が響く。


 その後、二十年間続いていた作業音が止まった。


 誰も動かない。


 ガランが自分の両手を見る。


『終わったのか』


「終わりました」


 レインが答える。


『まだ、鐘を掘り出していない』


「掘り出す必要はない」


『監督は?』


 ヴァロは人間の姿へ戻っていた。


 足もある。


 鞭も、監督用の小さな鐘も消えている。


 ノアが隣へ立っている。


「私は」


 ヴァロが鉱夫たちを見る。


「お前たちを死なせた」


 誰も否定しない。


 誰もすぐには責めない。


 長い沈黙の後、ガランが言った。


『そうか』


 たった一言だった。


 だが、その声には二十年分の重さがあった。


『俺は、お前を許さん』


「分かっている」


『だが、ここでお前を殴り続けても、家族のところへは戻れん』


「私はどうすればいい」


『知らん』


 ガランは背を向けた。


『自分で考えろ。俺たちは二十年、お前の命令を聞いた。もう答えまでお前に教える気はない』


 ほかの鉱夫たちも、一人ずつヴァロから離れていく。


 許さない者。


 怒鳴る者。


 泣く者。


 何も言わない者。


 彼らの反応は同じではなかった。


 死者だからといって、同じ結論を持つわけではない。


 ヴァロはすべてを受け止めるように、その場へ立ち続けた。


 ノアだけが隣にいる。


『帰ろう』


「私は、お前と行ってよいのか」


『僕は父さんを迎えに来た』


「母さんは」


『もう死んでる』


 ヴァロが顔を上げる。


『でも、ここにはいないよ』


「どこへ行った」


『分からない。最後まで父さんを待って、それから白い扉を見たって』


「扉へ入ったのか」


『たぶん』


 ミラが少し笑った。


『便利な言葉だね』


『何も分からないから』


『私と同じ』


 ノアはヴァロの手へ自分の手を重ねた。


 幽霊同士の指が、今度はすり抜けなかった。


 ヴァロの姿が薄くなる。


「レイン・アスター」


「はい」


「私の証言を、消さないでくれ」


「消しません」


「ゲオルグの手紙も見つけてくれ」


「確認します」


「鉱夫たちの名前も」


「分かる限り」


 ヴァロは目を閉じた。


「私は、命令に従った。それでも、選んだのは私だ」


 レインはその言葉を記した。


ヴァロ・セルド。

旧セレン坑現場監督。

鉱山主ゲオルグ・バルデンの命令を受け、支柱五本を抜き、崩落を意図的に発生させたと証言。


本人の最終証言――

「命令に従った。それでも、選んだのは私だ」


 記録が完成すると、ヴァロとノアの身体が淡い光へ包まれた。


『父さん』


「ああ」


『今度こそ、帰ろう』


 二人は手をつないだまま、光の中へ消えた。


 成仏したのか。


 母親のもとへ向かったのか。


 別の場所へ移動しただけなのか。


 レインには分からない。


 ただ、監督の命令は坑道から消えていた。


     ◇


 鉱夫たちは、全員がすぐに消えたわけではなかった。


 ガランは、仲間の人数をもう一度数えた。


『六十八、六十九、七十、七十一』


 今度は囚人労働者も含めている。


『全員いる』


「未登録の二十四人は、まだ名前が分かりません」


『俺たちが覚えていることを話す』


 ガランが答えた。


『名前は知らなくても、あいつらのことは知ってる』


 歌がうるさかった男。


 靴を賭けで奪った男。


 石を積むのが誰より速かった男。


 病気の仲間へ自分の水を渡した男。


 一人ずつ、小さな記憶を集めていく。


 完全な名前へ戻れなくても、人として生きていた痕跡を残すことはできる。


 ハルは村へ戻ることを選んだ。


『ニナを見たい』


「妹は生きていれば、四十代になっています」


『赤い紐の靴、渡せなかった』


「その話も伝えます」


『俺が忘れていても?』


「帳面には残っています」


 ハルは安心したように笑った。


 バルドの部下たちも、命令から解放された。


 エリオットが隊長へ敬礼する。


『十年間、お待たせしました』


「待たせたのは俺だ」


『隊長は入口を守る命令を受けていました』


「命令を疑わなかった」


『だから、今はここまで来たのでしょう』


 バルドは五人の顔を順番に見た。


「帰れるか」


『分かりません』


 シオンが答える。


『ですが、もう偽の声で隊長を呼ぶことはありません』


「では、どこへ行く」


『村の慰霊碑まで』


 メイベルが笑う。


『私たちの名前が刻まれていませんから』


「刻ませる」


『お願いします』


 五人の姿はまだ残っている。


 やり残したことがある死者は、すぐに旅立つとは限らない。


 だが彼らはもう、坑道の奥へバルドを誘わない。


 自分たちの意思で、外へ向かって歩き始めた。


 巨大な黒い鐘は、岩壁へ埋まったままだった。


 集合霊が分離したことで、白い腕は消えている。


 だが鐘そのものを壊せたわけではない。


 セシリアが銀杖で状態を調べる。


「反応は大幅に弱まりました。しかし、完全には停止していません」


「持ち出すことは?」


「不可能です。大きすぎます」


「封印できますか」


「今の私一人では」


 壁画の下に、古い封印方法が刻まれていた。


 十三本の溝へ鐘守りの名前を入れるのではなく、死者自身の選択を記録する術式。


 レインは鉱夫たちへ尋ねた。


「鐘の中へ入ることを望む者はいますか」


 誰も手を上げない。


「この場へ残る者は」


 数人。


「村へ戻る者は」


 多くの手が上がる。


「白い扉を探す者は」


 ガランを含む十数人。


 一人ひとりの選択を、聞き書き帳へ記す。


 その文字をセシリアが封印式へ写し取った。


 十三本の溝は、名前ではなく、死者の意思を示す白い光で満たされていく。


 最後の一人を記録したとき、黒い鐘の亀裂が閉じた。


 鐘は消えない。


 だが、二度と勝手に死者を呼び込めない状態となった。


「これが、本来の封印方法だったのかもしれません」


 セシリアが言う。


「鐘守りと聞き書き人が、死者へ選択を聞く」


「それを教会は省いた」


「効率が悪いからでしょう」


「効率?」


「一人ずつ意思を確かめるには時間がかかります。戦争や疫病で死者が増えれば、なおさら」


「だから、全員から名前を奪って同じ場所へ送った?」


「当時の者は、それを救済だと信じたのかもしれません」


「信じていれば正しいとは限らない」


「はい」


 セシリアは、迷わずうなずいた。


     ◇


 坑道を出たとき、外は夜明けを迎えていた。


 入口で待っていたドレクは、七十一人分の足音を聞いたという。


 生者の足音ではない。


 それでも、長い列が坑道から村へ向かっていることは分かったらしい。


「ガランはいるか」


「先頭にいます」


『ドレク』


 ガランが立ち止まる。


「何と言ってる」


「逃げたことを責めていない、と」


 ガランは実際には、少し違うことを言っていた。


『監督を殴ったことだけは、もっと強く殴ればよかったと言っておけ』


 レインはそのまま伝えた。


 ドレクは声を上げて笑い、途中から泣いた。


「相変わらずだな、あいつは」


『お前も老けたな』


「二十年経ちましたから」


『そうか』


 ガランは朝日に照らされる村を見る。


『昨日は、本当に終わったんだな』


「はい」


 その言葉を聞くと、彼は仲間たちを連れて山道を下り始めた。


 鉱山から、つるはしの音はもう聞こえない。


 二十年間続いた仕事が、ようやく終わった。


     ◇


 村の作業小屋の床下から、ゲオルグ・バルデンの手紙が見つかった。


 内容はヴァロの証言と一致していた。


 鉱山主は王都の神官から記憶鐘の存在を聞き、鐘を掘り出すために危険な採掘を強行した。


 地下礼拝所の発見を隠すため、ヴァロへ支柱を抜かせ、崩落事故を偽装した。


 さらに生存者の救出を拒み、入口を兵で封鎖した。


 事故の翌年、ゲオルグは自分へ捜査が及ぶことを恐れ、責任をヴァロへ押しつけるために手紙を書いた。


 だが送る直前に死亡し、手紙は作業小屋へ隠されたままだった。


 机の引き出しからは、片足だけ作られていない木彫りの馬も見つかった。


 ノアの証言も事実だった。


 死者の言葉。


 生者の記録。


 現場の痕跡。


 三つが一致した。


 旧セレン坑の崩落は、事故ではない。


 鐘の存在を隠すために起こされた人為的な事件だった。


 セシリアは王都へ正式な調査報告を送ることにした。


 ただし、原本は村とリベルタの礼拝堂で別々に保管する。


「また神官騎士が来るでしょうか」


 レインが尋ねる。


「来る可能性は高いです」


「ルディウスの名前も報告へ?」


「記載します」


「処分されますよ」


「事実を省けば、報告書ではありません」


 セシリアは写しの最後へ署名した。


 以前の彼女なら、教会内部の問題を外へ出すことをためらっただろう。


 今は違う。


 疑い、照合し、自分で選んでいる。


「あなたも署名してください」


「俺が?」


「死者側の証言を記録した責任者として」


「正式な役職がありません」


「《聞き書き人》では?」


「まだ職業ではないと言っているでしょう」


「では、《記録協力者》で」


『聞き書き人のほうが格好いい』


「ミラはそう言っています」


「私も、そちらのほうが正確だと思います」


「二人で勝手に決めないでください」


 結局、レインはこう署名した。


死者証言記録者――レイン・アスター。


 聞き書き人と名乗るには、まだ分からないことが多すぎる。


 だが少しずつ、その役目へ近づいている気もした。


     ◇


 村を離れる前、レインたちはもう一度、三番坑の壁画を確認した。


 ミラの姿。


 レオ・アスター。


 十三人の鐘守り。


 そして壁画の端には、今まで土に隠れていた小さな絵があった。


 鐘の下から外へ続く道。


 その先に、家々が並んでいる。


 村のように見える。


 だが描かれた住人は全員、身体が半透明だった。


「死者の村?」


 セシリアが文字を読む。


「《名を持つ死者の避難地》」


「場所は」


「地図ではなく、道順が書かれています」


 北の森。


 二本に分かれた川。


 倒れた巨人のような岩。


 そこから、月が沈む方向へ進む。


 最後に記された地名は、現在の王国地図に存在しない。


ルーヴェル村。


 ミラが壁画へ近づく。


『ここ、知ってる気がする』


「行ったことがある?」


『分からない。でも、村の人たちが私を待ってる』


「また鐘が見せている可能性があります」


 セシリアが警戒する。


「それでも、調べる必要はある」


 レインは道順を書き写した。


 死者だけが暮らす村。


 名を持つ死者の避難地。


 そこなら、鐘の儀式から逃げた幽霊たちがいるかもしれない。


 ミラの過去。


 レオ・アスター。


 十三人の鐘守り。


 神のいない礼拝堂。


 それらを知る者も。


 聞き書き帳の最後の頁へ、新しい文字が現れた。


ルーヴェル村へ行くな。


あの村の死者は、成仏を望んでいない。


 レインは警告を読んだ。


 そして、その下へ書き加える。


成仏を望まない理由を確認する。


 帳面が不満そうに震える。


『また喧嘩してる』


「意見を書いただけだ」


『帳面には嫌われてるね』


「俺も、向こうを信用していない」


 ミラは壁画の中の自分を見上げた。


『死者だけの村か』


「怖いか」


『少し』


「行かない選択もできる」


 ミラは首を横に振った。


『行く』


「なぜ」


『今の私は、名前を自分で選んだ』


 彼女は胸元へ手を置いた。


『同じように、残ることを選んだ幽霊がいるなら、話を聞きたい』


 レインはその言葉を帳面へ記した。


ミラは、死者だけが暮らす村への同行を自ら選択。


『わざわざ書くの?』


「選択を記録するのが、聞き書き人の役目らしいからな」


『認めた』


「正式な職業とは言っていない」


 セシリアが横から言う。


「まだ、その話を続けるのですか」


 バルドは坑道の外で待つ五人の部下を見た。


「俺も行く」


「ルーヴェル村へ?」


「部下たちの慰霊碑へ名前を刻ませた後にな」


「目的は」


「幽霊ばかりの村へ、戦えない記録係と神官二人で行かせられるか」


『私は神官じゃない』


「ミラは一人として数えられています」


「見えない相手まで護衛できる自信はないがな」


『怖いんだ』


「怖くない」


 バルドの声は、今回も少し上ずっていた。


 レインは新しい頁を開く。


次回調査地――ルーヴェル村。


地図に存在しない、死者だけの村。


確認事項――

村の成立理由。

成仏を望まない死者たちの意思。

第十三鐘守とレオ・アスターの記録。


 鉱山の仕事は終わった。


 だが、聞き取りは終わらない。


 今度の相手は、成仏できない死者ではない。


 自ら成仏しないことを選んだ幽霊たちだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


旧セレン坑の崩落は、記憶鐘と地下礼拝所の存在を隠すため、鉱山主ゲオルグと監督ヴァロが意図的に起こした事件でした。


ヴァロが命令を手放し、七十一人の鉱夫たちは二十年間続けた仕事から解放されました。


そして壁画に描かれていた、第十三鐘守ミラと聞き書き人レオ・アスター。


次回、第13話「地図にない村」。


レイン、ミラ、セシリア、バルドは、成仏を拒んだ死者たちだけが暮らすルーヴェル村へ向かいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ