第13話 地図にない村
旧セレン坑の壁画に描かれていた、死者だけが暮らすルーヴェル村。
だが、その名は現在の地図にも、王国の記録にも存在しない。
レインたちは古い道順を頼りに、死者が自ら選んで暮らす村を探す。
地図に存在しない村を探す場合、最初に必要になるのは地図ではない。
地図を疑う人間である。
「ありません」
リベルタ礼拝堂の記録室で、少女はきっぱりと言った。
机の上には、北部地方の地図が十二枚広げられている。
新しい王国公認地図。
五十年前の街道図。
鉱山開発用の測量図。
教会が管理する旧巡礼路の記録。
どれにも、ルーヴェルという村は記されていなかった。
「だから、地図にない村だと言ったでしょう」
レインが答える。
「地図にないから存在しない、とは言っていません」
少女は眼鏡の位置を直した。
年齢は二十歳に届いていないように見える。
肩の辺りで切り揃えた赤茶色の髪。
小柄な身体には少し大きすぎる外套。
机の脇には、巻物や筆記具を詰め込んだ鞄が置かれていた。
王立記録院から派遣された文献調査員、エルナ・フィード。
旧セレン坑から発見された壁画と、地下礼拝所の文字を確認するため、王都からリベルタへ来たという。
「ルーヴェル村という名称は、現存する地図にはありません」
エルナは指を一本立てる。
「ですが、地名の記録は地図だけではありません。納税台帳、教会の巡礼記録、軍の行軍記録、商人の日誌、民話、古い歌。それらを照合すれば、消えた集落の存在を確認できる場合があります」
「地図を疑う人ですね」
「地図は、人間が必要だと思ったものだけを残した記録です」
エルナは当然のように答えた。
「必要がなくなった村、意図的に消された村、記録者が存在を認めなかった村は載りません」
『気が合いそう』
ミラが机の向こうからエルナをのぞき込む。
当然、エルナには見えていない。
「ミラは、あなたと気が合いそうだと言っています」
「今、私の目の前にいますか?」
「はい」
エルナが身体を固くした。
「どのくらい近くに?」
「顔一つ分です」
「ミラさん。申し訳ありませんが、初対面の相手へ顔を近づけるのはお控えください」
『見えないのに礼儀正しい』
「感心しています」
「見えないことと、存在を無視することは別問題です」
レインは思わずエルナを見た。
セシリアが初めてミラと会ったときとは、正反対の反応だった。
「幽霊の存在を信じているんですか」
「信じる、という言葉は正確ではありません」
エルナは眼鏡の奥からレインを見る。
「私は直接見ていません。ですから、現時点では、あなたとセシリア調査官が同じ対象を別々の方法で認識している、と判断しています」
「疑っている?」
「もちろんです」
『感じ悪い人?』
「ですが、否定もしていません」
エルナは続けた。
「見えないから存在しないと決めるのも、あなたが見えると言ったから存在すると決めるのも、調査ではありません」
「それなら、本当に気が合いそうです」
「私もそう思います」
『私も』
「ミラも同意しています」
記録室の入口に立っていたセシリアが、小さくため息をついた。
「似た者が増えましたね」
「俺とエルナさんのことですか」
「疑うことを楽しんでいる二人です」
「楽しんではいません」
「私は少し楽しいです」
エルナが即答する。
レインは彼女から少し距離を取った。
「似ていません」
『今のところ、一番似てる』
「ミラは黙っていてくれ」
「ところで、その声は本当にミラさんのものですか?」
エルナが尋ねた。
「どういう意味です」
「レインさんが、ミラさんの発言として自分の考えを話していない証拠はありません」
「ありませんね」
「素直に認めるのですか」
「だから、死者の証言だけでなく、別の記録と照合しています」
エルナは少し目を見開いた。
それから机の上の革表紙へ視線を落とす。
「それが、聞き書き帳ですか」
「誰から聞きました」
「旧セレン坑の報告書です。死者証言記録者レイン・アスター。所有する帳面には、記録内容を怪異へ固定する性質がある可能性」
セシリアが視線をそらした。
「報告書を全部読んだんですか」
「閲覧権限のある部分だけです」
「俺の帳面について書きすぎでは?」
「必要な情報でした」
「父には知られたくないんですが」
「一般公開される記録ではありません」
「王都から調査員が来ています」
「それほど重大な発見だということです」
エルナは壁画から写した道順の紙を広げた。
北の森。
二本に分かれた川。
倒れた巨人のような岩。
月が沈む方向。
名を呼ばず、名を尋ねず、三度目の霧を待て。
「最後の一行は、前回読めませんでした」
セシリアが紙を見る。
「煤で隠れていた部分です。エルナが復元しました」
「名を呼ばず、名を尋ねず?」
レインは聞き書き帳を開く。
「死者の村で、名前を聞いてはいけないという意味ですか」
「村へ着くまでの規則かもしれません」
エルナが答える。
「古い魔術では、名前は道を固定する役割を持ちます。特定の場所へ入る際、自分の名前を名乗ると、生者側の位置へ引き戻されるという伝承があります」
「伝承?」
「事実かは未確認です」
『便利な言葉が違う』
「ミラが何か?」
「ミラは『分からない』と言いますが、エルナさんは『未確認』と言うそうです」
「意味はかなり違います」
『同じようなもの』
「違うそうです」
エルナは少し不満そうだった。
「それで、いつ出発しますか」
「同行するつもりですか」
「当然です」
「危険です」
セシリアが止める。
「ルーヴェル村が実在するかも分かりません。実在したとして、生者が入れる場所かも不明です」
「だから調査する必要があります」
「戦闘能力は?」
「ありません」
「治癒魔法は?」
「使えません」
「幽霊は見えますか」
「見えません」
「同行を許可できる要素が一つもありません」
エルナは鞄から一冊の古文書を取り出した。
「ですが、古語を読めます」
セシリアが黙る。
「壁画の道順を復元したのも私です。ルーヴェルという名称が、現在の王国語ではなく古代北部語から来ていることも分かりました」
「意味は?」
「《留まる灯》です」
レインは筆を止めた。
「死者が留まる場所」
「可能性があります」
「ほかには?」
「三百年前の旅人の日誌に、同じ道順と思われる記述を見つけました」
エルナは古文書を開く。
森で道を失い、死者の灯を見た。
家々には火があり、人々は笑っていた。
しかし誰にも影がなく、朝になると村も道も消えていた。
老人は私へ、まだこちらへ来るべきではないと言った。
「地図に記載されていなくても、目撃記録はある」
エルナは眼鏡を押し上げる。
「私を連れていかない場合、この文書の解読結果も渡しません」
「脅迫ですか」
「交渉です」
『気が合う』
「今回は否定しません」
セシリアは額を押さえた。
バルドは記録室の壁にもたれ、最初から黙って話を聞いていた。
「連れていけばいい」
「バルドまで」
「見えない幽霊の次は、戦えない学者が一人増えるだけだ」
「負担が増えているではありませんか」
「護衛料も増やしてくれ」
「前回は不要だと言いました」
「鉱山で気が変わった」
バルドは大剣の留め具を確かめる。
「それに、文字が読めずに罠を踏むよりましだ」
セシリアは長い間考え、最終的に条件付きで同行を認めた。
単独行動をしない。
未知の物へ勝手に触れない。
レインが死者と会話している間も周囲を確認する。
危険時には、記録より撤退を優先する。
「最後の条件は、レインにも適用します」
「俺にも?」
「一番必要な人です」
『私もそう思う』
「全員で同じことを言わないでください」
◇
ルーヴェル村への道は、旧セレン坑からさらに北へ続いていた。
最初の目印は、二本に分かれた川。
現在の地図には《レム川》という一本の川しか記されていない。
しかし森へ入って半日ほど進むと、地図と異なる場所で水音が聞こえた。
「川が二本あります」
エルナは地図と方位器を見比べた。
「一本は地図どおり東へ。もう一本は北へ流れています」
北へ向かう支流は、川岸から数歩離れると見えなくなった。
水音だけは聞こえる。
近づけば再び水面が現れる。
「幻術でしょうか」
セシリアが銀杖を向ける。
「魔力反応は弱いです」
『幽霊の川』
ミラが水面をのぞき込む。
「何が見える」
『人が流れてる』
レインも目を凝らした。
最初は水底の影にしか見えなかった。
だが、次第に人の顔や腕が浮かび上がる。
半透明の死者たちが、水の流れに乗って北へ運ばれていた。
叫んでいる者はいない。
眠るように目を閉じている。
「死者が川を流れている」
レインが説明すると、エルナはすぐに紙へ書いた。
「人数は?」
「数えられません」
「年代や服装は」
「さまざまです。兵士、農民、旅人、子ども」
「流れる速度は水と同じ?」
「少し遅い」
「会話できますか」
「試します」
レインは川岸へしゃがんだ。
「聞こえますか」
流れる死者の一人が目を開く。
若い兵士だった。
『名前を呼ぶな』
「呼んでいません」
『尋ねるな』
「村へ向かっている?」
兵士は答えず、再び目を閉じた。
ほかの死者たちも同じ言葉を繰り返す。
『名前を呼ぶな』
『名前を尋ねるな』
『川に数えられる』
「川に数えられるとは?」
返事はなかった。
兵士たちは流れの先へ消えていく。
エルナが道順の一行を指した。
「名を呼ばず、名を尋ねず」
「この川では名前を口にしてはいけない」
「先ほど、礼拝堂で互いの名前を何度も呼びました」
セシリアが周囲を警戒する。
「村への道へ入る前なら問題ない可能性があります」
「今からは?」
「全員、名前で呼び合わないようにしましょう」
バルドが眉を寄せた。
「では、どう呼ぶ」
「記録係」
エルナがレインを指す。
「神官」
セシリア。
「護衛」
バルド。
「学者」
自分。
『私は?』
「幽霊」
「本人が気に入らないそうです」
「では、銀髪」
『名前より長い』
「仕方ありません」
「私は、いつもどおり『お前』でいい」
バルドが言う。
『感じが悪い』
「伝えなくていい」
名前を避けながら、北へ流れる川沿いを進む。
やがて森の奥に、巨大な岩が現れた。
横倒しになった人間のような形。
頭。
肩。
伸ばされた腕。
苔に覆われているが、自然の岩とは思えないほど輪郭が整っている。
「倒れた巨人」
エルナが古文書を確認する。
「次は、月が沈む方向へ進む」
「今は昼です」
セシリアが空を見る。
「月は見えません」
「だから、ここで待つ必要があります」
「三度目の霧もまだです」
岩の周囲には、薄い霧が漂っていた。
風が吹くたびに消え、また森の奥から流れてくる。
「霧を三回待て、という意味でしょうか」
エルナは岩の表面を調べ始めた。
「触れないという条件は」
「観察しているだけです」
「手を伸ばしています」
「苔の厚さを」
「触れないでください」
セシリアがエルナの襟をつかんで引き戻す。
『レインと同じ扱い』
「違います」
「同じです」
レインとエルナが同時に答えた。
バルドが笑う。
「神官の苦労が増えたな」
「あなたも監視してください」
「護衛料に含まれていない」
日が沈むまで、四人は巨人岩のそばで休むことにした。
ただしミラだけは休む必要がない。
岩の周囲を漂い、森の奥を何度も見ている。
『誰かいる』
夕暮れが近づいた頃、ミラが言った。
「どこに」
『木の後ろ』
レインも視線を向ける。
細い木の陰に、少女の幽霊が立っていた。
年齢は十歳ほど。
緑色の服。
頭には白い花を編んだ冠。
こちらをじっと見ている。
「話しかけるな」
レインが小声で言う。
『でも、見てる』
「名前を尋ねてはいけない」
『名前以外ならいいでしょう』
ミラが少女へ近づく。
『村から来たの?』
少女は答えない。
『私たちを迎えに来た?』
やはり答えない。
その代わり、少女は指を唇へ当てた。
静かにしろ、という仕草。
次に巨人岩を指さす。
岩の目に当たる部分から、白い霧が流れ出した。
一度目。
周囲が白く覆われる。
わずか数秒で霧が晴れると、少女の立つ位置が変わっていた。
木の陰から、巨人岩の肩の上へ。
「移動した瞬間が見えなかった」
セシリアが杖を構える。
「敵意は感じません」
「それでも警戒してください」
二度目の霧。
岩も木々も見えなくなる。
レインは銀縄を確認した。
セシリア。
バルド。
エルナ。
三人の身体は、縄でつながっている。
ミラには触れられないため、レインの目の前にいることを声で確認する。
「銀髪」
『いる』
「護衛」
「いる」
「神官」
「います」
「学者」
「記録中です」
「今は周囲を見てください」
「見えないので、霧の濃度を」
三度目の霧が来た。
それまでよりも濃い。
白い霧の中で、音が消える。
川の流れ。
木々の揺れる音。
生者の呼吸。
何も聞こえない。
レインには、自分たちのすぐそばを何人もの死者が通り過ぎる気配だけが分かった。
『振り返らないで』
少女の声が初めて聞こえた。
どこからかは分からない。
『名前を呼ばれても、答えないで』
旧セレン坑と同じ警告。
霧の奥から、声がした。
「レイン」
父ダリオの声。
「どこへ行くんだ」
レインは答えない。
次に、セシリアの声。
「レイン、こちらです」
本人は銀縄の前方にいる。
霧の中から聞こえる声は別物だ。
「ミラ」
今度はレイン自身の声が、ミラの名を呼んだ。
目の前のミラが身体を震わせる。
「答えるな」
『分かってる』
「ミレイア」
知らない女の声。
ミラが動きを止めた。
「ミレイア・セレスト」
完全な名前。
以前、王都亡霊夜行の構想で明らかになるはずだった名。
だが今のミラは、その名前に反応している。
『私?』
「答えるな!」
レインが叫ぶ。
名前を呼んだ声が、霧の中で笑った。
「覚えているでしょう、第十三鐘守」
ミラの輪郭が霧へ引かれる。
レインは触れられない手を伸ばした。
「今の名前は何だ!」
『ミラ』
「もう一度!」
『ミラ!』
「誰が選んだ!」
『私が選んだ!』
霧の中から伸びていた黒い影が弾ける。
少女の声が響いた。
『こちらへ!』
白い花冠をつけた幽霊が、霧の中で小さな灯を掲げていた。
青白い炎。
レインたちは銀縄を頼りに、その灯へ向かって進む。
背後から何度も名前を呼ばれる。
父。
知人。
死者。
聞いたことのない者。
レイン・アスター。
セシリア・ローデン。
バルド・グレイン。
エルナ・フィード。
ミレイア・セレスト。
誰も答えない。
ただ、役割を呼び合う。
「記録係、進んでください!」
「神官、縄を強く引かないでください!」
「護衛、後ろを確認するな!」
「分かっている!」
「学者、止まらないでください!」
「足元に文字があります!」
「今は読まなくていい!」
「重要な記録かもしれません!」
「後にしてください!」
霧の中を進み続ける。
やがて足元の感触が変わった。
湿った森の土から、硬い石畳へ。
レインは前方を見る。
青白い灯が一つずつ増えている。
一つ。
二つ。
十。
百。
霧の奥に、家々の輪郭が現れた。
石造りの壁。
木製の屋根。
窓辺に置かれた花。
通りには露店が並び、遠くから人々の話し声が聞こえる。
普通の村のようだった。
ただし、住人たちの身体は全員透けていた。
年老いた者。
子ども。
商人。
兵士。
農民。
人間だけではない。
角を持つ魔族。
獣の耳を持つ者。
小さな翼を持つ妖精族。
さまざまな種族の死者が、同じ通りを歩いている。
『着いた』
花冠の少女が言った。
『留まる灯の村、ルーヴェルへ』
霧が完全に晴れる。
レインが振り返ると、背後に森はなかった。
あるのは、村の入口へ続く一本の石橋。
その下には、無数の死者を運ぶ白い川が流れている。
「ここが死者の村」
レインは息をのんだ。
セシリアとバルドは、何もない荒野を見るような顔をしている。
「村は見えますか」
「建物の輪郭だけです」
セシリアが答える。
「薄い光が並んでいます」
「俺には石畳と家が見える」
「私は何も見えん」
バルドは大剣へ手を置いた。
「ただ、誰かに囲まれている感じはする」
「エルナさんは?」
返事がない。
「学者?」
銀縄の最後尾を見る。
エルナは立ち尽くしていた。
眼鏡の奥の目が大きく見開かれている。
「見えます」
「幽霊が?」
「完全ではありません。でも、灯と建物と、人影が」
「なぜ」
セシリアが驚く。
エルナは自分の手を見る。
指先がわずかに透けていた。
「私たち、生者側から少し外れています」
「危険な状態では?」
「興味深い状態です」
「先に危険性を考えてください」
村の入口には、門番らしき二人の幽霊が立っていた。
一人は古い鎧を着た男性。
もう一人は、杖を持つ老女。
二人とも身体は半透明だが、墓地の幽霊たちより輪郭が鮮明だった。
『生者が来た』
男性が言う。
『三人』
レイン、セシリア、バルド、エルナ。
生者は四人いる。
「一人足りません」
老女はエルナを見た。
『その娘は、半分こちらへ来ている』
「エルナさん」
「聞こえました」
エルナが小さな声で答える。
「今の言葉が、はっきりと」
死者の村へ入ったことで、彼女も幽霊の声を聞き始めている。
「すぐに戻るべきです」
セシリアが言った。
「断ります」
「身体が透けています!」
「今しか記録できません」
「命を優先すると約束しました」
「まだ死んでいません」
『まだ、だね』
「ミラは余計なことを言わないでくれ」
老女の門番が杖を上げる。
『ここでは、名を尋ねてはならない』
「なぜです」
『生者の名は、川が覚える』
「川が覚えると、どうなる」
『帰り道が消える』
レインは聞き書き帳へ記録した。
ルーヴェル村では、生者の本名を口にしてはならない。
白い川に名を認識されると、生者側への帰路を失う可能性。
『帳面を持つ者』
男性の門番がレインを見る。
『村へ来た目的を答えよ』
「死者たちへ話を聞くためです」
『何を聞く』
「なぜ、この村へ残っているのか」
周囲の空気が変わった。
入口付近にいた幽霊たちが、一斉にレインを見る。
「成仏を望まない理由も」
ざわめきが広がる。
『成仏』
『また、その言葉か』
『教会の者が来た』
『鐘へ送る気だ』
通りの奥から、さらに多くの死者が集まってくる。
セシリアの銀杖が反応し、青い光を放つ。
「攻撃するつもりはありません」
彼女が呼びかける。
だが、多くの幽霊には届いていない。
レインが通訳する。
「神官は、強制的な浄化をしないと約束しています」
『神官の約束など信じられるか』
獣人の幽霊が叫ぶ。
『昔も同じことを言った!』
『名前を記録するだけだと!』
『そして鐘へ送った!』
死者たちの声が重なる。
レインの身体から体温が奪われ始める。
だがミラが前へ出た。
『一人ずつ話して!』
村中へ届く声。
幽霊たちが一斉に沈黙する。
門番の二人がミラを見る。
最初は驚き。
次に恐怖。
そして、深い敬意。
男性の門番が片膝をついた。
老女も杖を置き、頭を下げる。
『お帰りなさいませ』
ミラが困った顔でレインを見る。
『また人違い』
「おそらく違わない」
『でも、私は何も覚えてない』
通りの幽霊たちも、次々と膝をつき始めた。
『鐘守り様』
『第十三の方』
『死者の選択を守った方』
村の奥から、背の高い老人が歩いてくる。
黒い長衣。
首元には、十三本の線を持つ鐘の紋章。
だが教会の神官とは違い、紋章には大きな亀裂が描かれていた。
『ようやく戻られた』
老人はミラではなく、レインを見て言った。
『十四番目の鐘守りよ』
「俺は鐘守りではありません」
『帳面を持つ者は、皆そう名乗った』
「聞き書き人では?」
老人の表情がわずかに変わる。
『その名を、まだ知っているのか』
「レオ・アスターという人物を知っていますか」
老人は答えなかった。
代わりに周囲の幽霊たちへ命じる。
『生者たちを客人の家へ』
「質問に答えてください」
『ここで名を呼ぶな』
「本名でなくても?」
『レオという名は、この村で最も深い墓へ置かれている』
ミラが老人へ近づく。
『レオは、ここにいるの?』
老人は初めてミラを正面から見た。
『いない』
『では、墓だけ?』
『墓とは、身体を埋める場所だけではない』
「何を埋めたんです」
老人はレインの聞き書き帳へ目を落とした。
『約束だ』
「どんな約束を」
『あなたたちが、すでに破った約束を』
老人の視線がセシリアへ向く。
『神官を連れてきた』
次にエルナ。
『生者へ、村を見せた』
バルド。
『武器を持つ者を門へ通した』
最後に、ミラ。
『そして第十三の方を、名前とともに戻した』
『私の名前はミラ』
『その名ではない』
ミラの身体が揺れる。
老人が一歩近づく。
『あなたが鐘へ捨てた名は、すでに村へ届いている』
「白い帳簿の中の存在か」
『帳簿ではない』
「では、どこに」
老人は村の中央を指さした。
通りの先には、高い塔が立っている。
鐘楼に似ている。
だが鐘は吊るされていない。
代わりに、塔の中央へ巨大な白い扉が立っていた。
『三日前、扉が現れた』
「三日前?」
礼拝堂で地下の名簿を開いた頃だ。
『扉の向こうから、少女の声がする』
『何と言っているの?』
ミラが尋ねる。
老人は低い声で答えた。
『ミラという名を捨てろ、と』
村の死者たちがざわめく。
『本当の名へ戻れ』
『鐘を完成させろ』
『残ることを選んだ死者を、すべて門へ送れ』
ミラが青ざめる。
「誰が、そんなことを言っている」
『第十三鐘守の本当の名前だ』
老人は塔を見上げた。
『そして、その声は今も村中の死者へ問いかけている』
「何を?」
『成仏するか、ここへ残るかではない』
白い扉の表面に、銀色の目が開いた。
白い帳簿で見たものと同じ目。
『今の名前を捨てるか』
少女の声が村中へ響く。
『それとも、存在そのものを捨てるか』
ミラの輪郭が強く揺れた。
聞き書き帳が勝手に開く。
新しい頁に文字が現れた。
ルーヴェル村の住人は、死者ではない。
鐘から名前を持ち逃げした、記録上存在しない者たちである。
続いて、もう一行。
村の門が閉じる前に、住人全員の名を記録せよ。
レインは村を見渡した。
数百人。
あるいは、それ以上。
すべての死者の名前を記録しなければ、村が消える。
だが、この村では名前を口にすれば帰り道を失う。
名前を守るために作られた村で、名前を聞くことが禁じられている。
矛盾した条件。
老人は聞き書き帳に現れた文字を読んだように、静かに告げた。
『帳面の命令に従ってはならない』
「なぜ」
『この村の名前をすべて記した者が、村の新しい鐘守りになる』
「誰が決めた」
『レオ・アスターだ』
ミラが息をのむ。
『レオが?』
『村を守るために』
「では、聞き書き帳は俺を鐘守りにしようとしている?」
『最初から、そのためにあなたをここへ導いた』
帳面の頁が激しく震えた。
黒い文字が次々と浮かぶ。
老人の言葉を信じるな。
村長は死者を閉じ込めている。
白い扉を開けよ。
レインは老人を見る。
「あなたが村長ですか」
『今は、そう呼ばれている』
「本名は」
尋ねた瞬間、村中の灯が消えた。
白い川が激しく逆流する。
門番たちが叫ぶ。
『名を尋ねた!』
『生者の道が閉じる!』
「本名を答えていない!」
『問いそのものを川は聞く!』
石橋の向こうにあった森が、霧の中へ消えていく。
セシリアが銀縄を引いた。
「戻る道が見えません!」
エルナの身体が、さらに透明になる。
「こちら側へ引かれています」
「喜んでいる場合ではありません!」
「喜んでいません。記録しています」
バルドが大剣を抜く。
「何を斬ればいい」
「今は何も斬らないでください!」
白い扉の銀色の目が、レインを見た。
『十四番目』
ミラを見た。
『ミレイア』
村中の幽霊を見渡す。
『名前を返して』
塔から鐘の音が鳴った。
鐘は存在しない。
それでも、一度。
ゴン。
死者たちの身体から、小さな光が抜け始める。
名前の一部。
記憶の一部。
村を形作っていたものが、白い扉へ吸い込まれていく。
村長が杖を地面へ突き立てた。
『客人の家へ急げ!』
「逃げるだけでは解決しません」
『今夜は名を聞くな!』
「村が消えます!」
『だからこそだ!』
老人の声が初めて激しくなる。
『名前を記せば、帳面に村を奪われる!』
聞き書き帳は黒い文字を浮かべ続ける。
記録せよ。
名を集めよ。
鐘が十三度鳴る前に。
二度目の鐘が響いた。
ゴン。
ミラが白い扉へ引かれる。
レインは彼女の前へ立った。
「今の名前を言え!」
『ミラ!』
「誰が選んだ!」
『私!』
吸い込まれる力が弱まる。
だが村中には、自分の名を思い出せない死者が大勢いる。
『私は誰だ』
『名前を言って』
『でも、言えば川が聞く』
『どうすればいい』
レインは聞き書き帳を閉じた。
帳面は強く抵抗する。
頁が開こうとする。
それを両手で押さえ込む。
「今夜は、誰の名前も書かない」
村長がレインを見る。
『帳面へ逆らうのか』
「名前を集めれば救えるという証拠がない」
『では、村が消える』
「だから、名前以外を聞く」
『何?』
「好きだったもの。嫌いだったもの。ここへ来た理由。残ることを選んだ理由」
旧セレン坑で、集合霊を分離した方法。
名前がなくても、その者を示す記憶は残せる。
「名前を口にせず、村人一人ひとりを記録します」
エルナがすぐに紙束を取り出した。
「人数を分担しましょう」
「見えるんですか」
「完全ではありませんが、聞こえます」
セシリアも銀杖を構える。
「私が死者の境界を保護します」
バルドは周囲を見渡した。
「俺は?」
『護衛』
ミラが答える。
「見えない相手をどう守る」
「村の外から来るものを止めてください」
「何が来る」
石橋の向こう。
消えた森の代わりに、黒い人影が立っている。
一人。
二人。
何十人。
顔のない神官たち。
全員、胸に黒い鐘の紋章をつけていた。
『名前を回収する』
人影が同時に言う。
『記録から逃げた死者を、鐘へ戻す』
バルドが大剣を肩へ担ぐ。
「見える相手なら話が早い」
「今は見えるんですか」
「薄くだがな」
「倒せるかは分かりません」
「それは斬ってから考える」
村長が長衣を翻した。
『客人たちを中央広場へ! 灯を絶やすな!』
死者だけの村に、三度目の鐘が響いた。
ゴン。
ルーヴェルの夜が始まった。
成仏を拒んだ死者たちが、自分の名前を守るために戦う夜。
そしてレインが初めて、一人ではなく、村全体の聞き書きを始める夜だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
地図に存在しないルーヴェル村は、記憶鐘から名前を持ち逃げした死者たちが暮らす避難地でした。
新たな同行者エルナを加え、村へ到着したレインたち。
しかし、白い扉から現れた「ミラが捨てた名前」が、村人たちの名前を奪い始めます。
次回、第14話「幽霊たちの市場」。
レインたちは名前を口にできない村で、死者が取引する記憶と供物の市場を調べながら、住人たちが成仏を望まない理由を聞き取ります。




