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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第三章 神官は幽霊を信じない

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第8話 祈りを邪魔していたのは誰か

礼拝堂へ押し寄せた無数の幽霊。


彼らは祈りを妨害していたのではなく、祭壇の地下から鳴る鐘を恐れていた。


レインたちは、教会が隠してきた死者の名簿を調べるため、暗い階段を下りていく。

 暗い階段から、十二度の鐘が響いた。


 最後の一度だけを残して。


 礼拝堂に集まった幽霊たちは、音が止んでも耳を塞いだまま動かなかった。


 死者に鼓膜があるのか、レインには分からない。


 だが彼らの表情に刻まれた恐怖は、生きた人間のものと何も変わらなかった。


『もう鳴らない?』


 幼い少年の幽霊が尋ねる。


『分からない』


 古い神官服の老女が答えた。


『いつも十二で止まる。けれど、第十三の方が戻れば――』


 老女はミラを見た。


 言葉の続きを恐れるように、口を閉ざす。


『私がいるから鳴るの?』


 ミラの問いに、老女は答えなかった。


 周囲の幽霊たちも視線を伏せる。


 信仰による敬意なのか。


 恐怖なのか。


 それとも、口にすること自体を禁じられているのか。


 レインには判断できない。


「ミラを見て、鐘守りと呼んだな」


 レインは老女の前へ立った。


「第十三鐘守とは何だ」


『私たちは、そう呼んでいただけです』


「誰から教えられた」


『分かりません』


「あなたはいつの時代の神官だ」


『分かりません』


「自分の名前は?」


 老女は答えようとして、喉を押さえた。


 胸元に、十三本の線を持つ黒い輪が浮かぶ。


『言えない』


「オルドと同じだな」


 先ほど消えた首なし神官も、自分の名を失っていた。


 ミラに名前を呼ばれたことで、一人の幽霊へ戻った。


 ならば、この老女にも名前があるはずだ。


「名簿を見れば分かるかもしれない」


『開けてはいけません』


 老女が即座に言った。


「自分の名前を取り戻したくないのか」


『取り戻したい』


「なら、なぜ止める」


『名前を戻せば、鐘にも見つかります』


 レインは聞き書き帳を開いた。


「名前を失った状態なら、鐘から隠れられる?」


『完全には』


「では、何のために教会は名前を消した」


『救うためだと、教えられました』


「オルドと同じ答えだ」


『名前がなければ、未練も薄れる。苦しみも消える。鐘へ入ることも怖くなくなると』


「実際には?」


 老女は周囲の幽霊たちを見た。


 皆、姿が不安定だった。


 顔の一部が抜け落ちた者。


 服装が何度も変化する者。


 年老いた姿と若い姿を繰り返す者。


 名前を失うことは、苦しみだけを消してはいない。


 本人が本人であるための記憶まで削り取っている。


『何も分からなくなりました』


 老女が答える。


『家族の顔も、自分が何を祈っていたのかも』


「それを救いとは呼べない」


『ですが、名前を戻せば鐘に呼ばれる』


「どちらを選ぶかは、本人が決めるべきだ」


 老女は悲しそうに目を伏せた。


『昔、同じことを言った方がいました』


「誰だ」


 老女はミラを見る。


『第十三鐘守様です』


 ミラがわずかに後ずさった。


『私が?』


『すべての死者から名前を奪う儀式を、あなただけが拒みました』


『覚えてない』


『だから、鐘が完成しなかった』


「完成すれば、どうなる」


『すべての死者が、同じ場所へ送られる』


「同じ場所とは、死後の世界か」


『分かりません』


 老女の言葉は、そこで途切れた。


 知っていることを隠しているのではない。


 その先の記憶そのものが欠けている。


 レインは帳面へ記録した。


第十三鐘守は、死者から名前を奪う儀式に反対した可能性あり。


儀式の目的は、死者を一つの場所へ送ること。


送り先は不明。


「レイン」


 セシリアが呼んだ。


 彼女は地下への階段前で銀杖を構え、暗闇を調べている。


「下から死霊反応が続いています。ただし、先ほどより弱い」


「オルドが消えたから?」


「それもあります。しかし、さらに深い場所に別の反応があります」


「鐘か」


「判断できません」


 セシリアは祭壇のそばで倒れていた参列者たちを見た。


 黒い糸から解放された者は目を覚まし始めている。


 若い神官たちが治療室へ運び出していた。


「全員、命に別状はありません」


「記憶は?」


「今のところ、自分の名前も家族も答えられます」


「今のところ?」


「鐘の影響が遅れて現れる可能性があります」


 セシリアの言葉には、以前より慎重さがあった。


 宿屋の事件であれば、彼女はすぐに浄化を選んでいただろう。


 だが今回は違う。


 幽霊の証言を否定せず、生者への影響も確認しようとしている。


『少しだけ、いい人になったね』


 ミラが言った。


「まだ聞こえています」


 セシリアが顔をしかめる。


『褒めたのに』


「ミラは褒めています」


「少しだけ、という部分を省きましたね」


「聞こえているなら通訳は不要でしょう」


「全部ではありません。強い感情があるときだけです」


 ミラがセシリアの周囲を回った。


『今は聞こえる?』


「何か話していることは分かりますが、言葉にはなりません」


『変な感じ』


「俺も最初からそう思っている」


「私を研究対象のように扱わないでください」


「それはこちらの台詞です」


 主任司祭マルセルが階段の前へ来た。


 老神官の顔は、先ほどよりも老けて見える。


「地下へ下りる前に、話しておかなければならないことがあります」


「地下室を知っていたんですか」


 レインが尋ねる。


「存在を知ったのは、私がこの礼拝堂へ着任した日です」


「四十年前?」


「正確には四十二年前です。前任者から鍵を渡されました」


 マルセルは先ほど使った古い鍵を見せた。


「地下室は開けるな。中の記録を読むな。鐘の音を聞いても、誰にも話すな。そう命じられました」


「鐘の音を聞いたことがある?」


「三度だけ」


「いつ」


「最初は、着任した夜。二度目は二十一年前。三度目は六日前です」


 ミラが墓地へ現れた日。


 町の住人が夢の中で鐘を聞き始めた日でもある。


「二十一年前には、何があった」


「町で疫病が流行しました」


「死者が増えた?」


「百人近く亡くなりました」


 礼拝堂に集まった幽霊たちが、ざわめいた。


 中には当時の死者もいるのだろう。


「教会は何をしたんです」


「死者を弔いました」


「それだけですか」


 マルセルは答えなかった。


 レインは問いを重ねる。


「名前を名簿へ記録し、地下へ収めた?」


「当時の主任司祭が行いました」


「あなたは止めなかった」


「名前を記録することは、弔いの一部だと聞かされていました」


「地下の名簿に何が起きるかは?」


「知りませんでした」


「本当に?」


 マルセルは目を閉じた。


「疑わなかった、と言うべきでしょう」


 老神官は祭壇へ目を向ける。


「病で苦しみ、家族を失った者たちに、女神のもとへ必ず送ると約束しました。死者の名を記録し、鐘へ預ければ、迷うことなく旅立てると」


「誰から教えられた」


「王都本部から派遣された神官です」


「名前は?」


「ルディウス・ハルバート」


 セシリアの顔が変わった。


「知っているんですか」


「二十一年前、王都大神殿の典礼局に所属していた人物です」


「今は?」


「大司教補佐です」


 教会の上層部にいる。


 過去の人物ではない。


 今も生きており、権力を持っている。


「直接聞けますね」


 レインが言うと、セシリアは厳しい顔をした。


「簡単には面会できません」


「死者の名前を奪った責任者かもしれない」


「まだ証言と状況だけです。記録との照合が必要です」


「だから地下へ行く」


 レインは角灯へ火を入れた。


「名簿を確認しましょう」


 マルセルが階段を見下ろした。


「私は、ここに残ります」


「来ないんですか」


「参列者と礼拝堂を守る者が必要です」


 それは正しい。


 だが、地下へ下りることを恐れているのも事実だろう。


 レインは責めなかった。


「幽霊たちはどうします」


 セシリアが尋ねた。


「全員連れていけば、レインが再び倒れる可能性があります」


『私が整理する』


 ミラが言った。


「どうする」


『一人ずつ順番を決める』


「何百人いると思っている」


『じゃあ、代表を決める』


 ミラは幽霊たちの前へ立った。


『地下へ行きたい人』


 全員が手を上げた。


『多すぎる』


「お前が聞いたんだろう」


『自分の名前があるかもしれないもの。みんな行きたいよ』


 ミラは少し考え、続けた。


『地下のことを覚えている人』


 今度は十数人が手を上げた。


『その中で、言葉を話せる人』


 五人。


『自分の名前を少しでも覚えている人』


 二人だけになった。


 一人は古い神官服の老女。


 もう一人は、右半身が黒く焦げた若い男性だった。


『二人に来てもらいます』


 ミラが決める。


「他の者は納得するのか」


 幽霊たちは不満そうにざわめいた。


 ミラが振り返る。


『名前が見つかったら、全員に伝える』


 その一言で、騒ぎが収まった。


 レインはミラを見た。


「本当に、なぜ皆がお前に従う」


『分からない』


「便利だな、その答え」


『レインも使ってた』


 否定できなかった。


     ◇


 階段は、見た目よりも深かった。


 祭壇の床から地下室まで二メートル程度だとセシリアは言っていたが、その先にも階段が続いている。


 白い石から、黒い岩へ。


 教会の建築とは明らかに異なる。


「礼拝堂より古い構造です」


 セシリアが壁へ触れた。


「この場所の上に、後から礼拝堂を建てた可能性があります」


「神のいない礼拝堂と関係がある?」


「その呼称は、古い禁忌記録に出てくるだけです」


「どんな記録です」


「詳細は読んでいません」


「なぜ」


「閲覧権限がありません」


「何なら知っているんです」


 セシリアが振り返った。


「地方の怪異調査官に、教会の禁忌をすべて教えると思いますか」


「危険な現場へ送るのに、情報を与えない?」


「教会にも階級と規則があります」


「死者より、生者の組織のほうが面倒だな」


『私もそう思う』


「二人で同意しないでください」


 階段の先には、古い木製の扉があった。


 表面には月輪ではなく、十三の小さな円が刻まれている。


 十二の円は黒く塗られ、最後の一つだけ白い。


 ミラが扉を見た瞬間、足を止めた。


『知ってる』


「この扉を?」


『夢で見た』


「いつ」


『眠らないから、夢じゃないかも』


「では、どこで」


『分からない』


 彼女の表情が苦しそうに歪む。


 レインは無理に思い出させるのをやめた。


「今は見たことがあるという事実だけでいい」


『帳面に書く?』


「書く」


 ミラが少し安心したようにうなずいた。


 自分の記憶が曖昧でも、レインが書き残していれば消えない。


 それが彼女にとって、小さな支えになり始めている。


 セシリアが扉へ感知の術を使った。


「向こうに複数の反応があります。ただし、動いてはいません」


「死者?」


「記憶鐘片に近い反応です」


 扉に鍵穴はない。


 取っ手を引いても動かなかった。


 焦げた男性の幽霊が前へ出る。


『名前を言う』


「誰の名前を?」


『入る者の名』


 彼は自分の胸へ手を当てた。


『私は……ラド』


 それ以上が出ない。


『ラド……何だった』


 名前を思い出そうとすると、輪郭が崩れる。


「無理をするな」


『入るには名前が必要』


 老女も扉へ近づく。


『生者の名でも開きます』


「危険は?」


『分かりません』


 レインは扉の前へ立った。


「レイン・アスター」


 何も起きない。


「墓地管理人ダリオ・アスターの息子。二十二歳。リベルタ生まれ」


 十三の円のうち、一つが淡く光った。


 扉の奥で、金属が動く音がする。


「名前だけでは足りないのか」


『自分を示す言葉が必要』


 老女が説明する。


『ここでは、名前は文字だけではありません』


「自分が誰かを語る必要がある?」


『はい』


 レインは少し考えた。


「死者の声を聞く者」


 二つ目の円が光る。


「幽霊の言葉を記録する者」


 三つ目。


「死者の証言を、最初から真実とは決めない者」


 四つ目。


「それでも、死者だからという理由で無視しない者」


 五つ目。


 レインは聞き書き帳を胸の前へ掲げた。


「名前を失った者の話を書き残す者」


 十三の円が一斉に光った。


 扉が低い音を立てて開く。


 セシリアが驚いた顔でレインを見る。


「今ので開くのですか」


「俺に聞かれても分かりません」


『そればっかり』


「今は本当に分からない」


 扉の向こうには、広い部屋があった。


 壁一面に棚が並び、分厚い帳簿が収められている。


 数十冊ではない。


 数百冊。


 天井近くまで積み上げられていた。


 中央には、円形の石台がある。


 その上には鐘ではなく、鐘を置いていたと思われる空の枠だけが残っている。


 床には十三本の溝。


 眠り鹿亭の地下にあったものと同じ形だった。


「これが、名簿」


 レインが角灯を掲げる。


 最も手前の棚から、一冊取り出した。


 表紙には、古い文字で年代が記されている。


 頁を開く。


 一人目。


 農民。


 病死。


 名前の上に黒い線。


 二人目。


 兵士。


 戦死。


 同じく黒い線。


 どの頁も、名前が塗りつぶされている。


「消したのではない」


 セシリアが頁へ指を近づける。


「文字の上から塗ったものではありません。紙そのものから名前だけが抜け落ちています」


「記憶鐘片の影響か」


「おそらく」


 老女の幽霊が帳簿をのぞき込んだ。


 手が震えている。


『私がいる』


「どこだ」


 彼女は一つの空欄を指さした。


 名前はない。


 だが、生前の役職が残っている。


礼拝堂記録官。

女性。

疫病患者の弔いを担当。

儀式への反対を理由に拘束。

名を剥離した後、鐘へ収容。


「儀式に反対していた」


『覚えている』


 老女の姿が少し鮮明になる。


『死者は名前を失いたくないと言っていた』


「あなたは、その声を聞けた?」


『すべてではありません。夢の中で、死者たちが泣いているのを見ました』


「それを上に報告した」


『はい』


「そして拘束された」


『私は……』


 老女は両手で顔を覆った。


『私も、鐘へ入れられた』


 ミラが老女の肩へ触れようとする。


 幽霊同士の手が、わずかに重なった。


 今度は声が届いたらしい。


『あなたの名前を探そう』


 老女がミラを見る。


『鐘守り様』


『ミラでいい』


『それは本当のお名前では』


『今は、私の名前』


 ミラは静かに言った。


『レインがつけてくれたから』


 レインは何も言わず、帳面へ記録した。


 仮の名前であっても、本人が受け入れている。


 ならばそれは、現在の彼女を示す名前だ。


 セシリアは別の帳簿を調べていた。


「二十一年前の疫病記録です」


 マルセルが語った時期。


 頁をめくるたび、百近い空欄が並ぶ。


 死者の職業。


 年齢。


 死因。


 家族構成。


 名前だけがない。


「全員、鐘へ収容と書かれています」


「鐘はここにない」


「移されたのでしょう」


「どこへ」


 セシリアは最後の頁を開いた。


 そこには、担当者名が残っていた。


儀式監督者――ルディウス・ハルバート。


 現在の大司教補佐。


「証拠が見つかりましたね」


 レインが言う。


「少なくとも、彼が儀式を監督した記録です」


「死者の名前を消したことも?」


「儀式の詳細は別の記録が必要です」


「まだ認めない?」


「認めるために調べているのです」


 セシリアの声には苦しさがあった。


 教会を守りたいのか。


 真実を知りたいのか。


 彼女自身も、その間で揺れている。


 レインは責めなかった。


 疑いながらも、記録を確認しようとしている。


 それだけでも、最初に会った頃とは違う。


『あった』


 焦げた男性の幽霊が、奥の棚で声を上げた。


 彼は一冊の薄い帳簿を抱えていた。


『私の頁』


 頁には名前が残っている。


ラドム・フェイン。

礼拝堂鐘楼守。

二十八歳。

地下儀式中の火災により死亡。

儀式妨害の疑い。

名前の剥離、未完了。


「ラドム」


 レインが呼ぶ。


 焦げた男性の輪郭が大きく震えた。


『そうだ』


「ラドム・フェイン」


『私の名前』


 黒く焦げていた右半身が、少しずつ元の姿へ戻っていく。


 若い男。


 短い黒髪。


 礼拝堂の作業服。


 腰には鐘楼の鍵束。


『思い出した』


「何を」


『火をつけた』


 セシリアが身構える。


「この地下室へ?」


『違う。鐘を運ぶ荷車に』


「なぜ」


『鐘を王都へ運ばせないため』


「鐘はどこへ運ばれる予定だった」


『神のいない礼拝堂』


 レインとセシリアは顔を見合わせた。


「場所を知っているか」


『王都の北。古い処刑場の下』


「処刑場?」


『教会が建つ前、死者を集める穴があった』


「そこが神のいない礼拝堂?」


『神を祀る場所ではない。死者を鐘へ入れるための場所』


 ラドムは頭を押さえた。


『だが、鐘は運ばれなかった』


「火事で壊れた?」


『一部は』


「焦げた破片が、眠り鹿亭へ流れたのかもしれない」


 宿屋は街道沿いにある。


 運搬中に壊れた鐘の一部が、何らかの経緯で宿へ持ち込まれた可能性がある。


「本体はどこにある」


 ラドムは中央の空の枠を見る。


『下』


「さらに地下がある?」


『鐘は、落ちた』


 その瞬間、床の十三本の溝が黒く光った。


 部屋全体が揺れる。


 棚の帳簿が一斉に開いた。


 何百、何千もの頁から、失われた名前の痕跡が黒い煙となって浮かび上がる。


 煙は中央の石台へ集まった。


 空だった枠の中に、巨大な鐘の影が形作られていく。


『来る』


 老女が叫ぶ。


『鐘が、名を探している!』


 ミラの身体が強く引かれた。


『レイン!』


 彼女が中央の鐘影へ向かって滑っていく。


 レインは手を伸ばした。


 触れられない。


 分かっていても、反射的に掴もうとする。


「ミラ!」


『止まれない!』


 十三本の溝のうち、十二本が黒く染まる。


 最後の一本だけが、ミラへ向かって伸びていた。


 セシリアが杖を床へ突き立てる。


「月光封鎖!」


 白い光が溝を遮った。


 だが黒い線は光の下を這い、ミラへ近づいていく。


「止まりません!」


「名前を呼べ!」


 ラドムが叫んだ。


『鐘に取られる前に、こちらから名前を呼ぶんだ!』


「本当の名前は分からない!」


『今の名前でいい!』


 レインは叫んだ。


「ミラ!」


 黒い線の動きがわずかに遅くなる。


「墓地で出会った、名前のない少女!」


 二本目の白い光が床へ現れる。


「自分が死んでいるかも、よく分かっていなかった幽霊!」


『そこまで言わなくていい!』


 ミラが叫び返す。


 その声に、少しだけいつもの調子が戻る。


「人の部屋へ勝手に入る!」


『窓が開いてたから!』


「指示を聞かずについてくる!」


『結果的に役に立ってる!』


「分からないことを、全部たぶんで済ませる!」


『レインも使ってるでしょう!』


 白い光が一本ずつ増えていく。


 レインの言葉が、今のミラを形作っている。


 本当の名前でも、生前の記憶でもない。


 この六日間で彼が知った、目の前の少女の姿。


「怖がっている幽霊を放っておけない!」


 黒い線が止まる。


「自分が消えるかもしれないのに、壁の中の死者をかばった!」


 ミラの輪郭が鮮明になる。


「名簿の中の名前を探そうと約束した!」


 最後の白い光が、黒い溝を押し返す。


「お前はミラだ!」


 十三本目の溝が白く輝いた。


 鐘の影に大きな亀裂が走る。


『私は、ミラ』


 少女が自分の胸へ手を当てた。


『今は、それが私の名前』


 鐘影が砕けた。


 黒い煙が帳簿へ戻り、頁が一斉に閉じる。


 地下室の揺れも止まった。


 ミラは床の上へゆっくり降りる。


 幽霊なので足は少し浮いたままだった。


「大丈夫か」


『大丈夫』


「本当に?」


『たぶん』


「そこは断言しろ」


 ミラが笑った。


 だが、安堵するには早かった。


 中央の石台に、鐘の影が残した文字が刻まれている。


 古い文字。


 セシリアが膝をつき、指でなぞった。


「読めますか」


「一部だけ」


 彼女はゆっくりと読み上げた。


第十三の名が戻るとき、鐘は完成する。


ただし、その名が自ら選んだものであれば、鐘は命令できない。


「ミラが自分で名前を選んだから、連れていかれなかった?」


「その可能性があります」


 レインは聞き書き帳を開いた。


 ミラの項目。


 仮名と書いていた部分を、線で消す。


 その上に書き直した。


現在の名前――ミラ。

本人が選択し、受け入れた名前。


『本当の名前じゃなくてもいいの?』


「本当かどうかを、誰が決める」


『生まれたときにつけられた名前とか』


「それは過去のお前の名前だ」


『今の私は?』


「ミラだろう」


 少女は少しの間、帳面の文字を見つめていた。


『うん』


 短い返事だった。


 しかし、これまで彼女が口にしたどの言葉よりも確かな響きがあった。


 ラドムが中央の石台を調べている。


『この下に通路がある』


「開けられるか」


『今は無理だ』


「なぜ」


『鐘が向こう側から塞いでいる』


「鐘の本体がある?」


『たぶん』


 レインが見ると、ラドムは申し訳なさそうに肩をすくめた。


『思い出したばかりだから』


「便利な言葉が増えたな」


 老女が、棚の一番奥を見つめていた。


『私の名前はありませんでした』


「別の名簿かもしれない」


『見つかるでしょうか』


「探す」


 レインは即答した。


「この部屋にないなら、別の教会、王都、神のいない礼拝堂まで調べる」


『そこまでしていただけるのですか』


「始めたことだからな」


 老女の表情が少し和らぐ。


『では、一つだけ思い出したことをお伝えします』


「何だ」


『第十三鐘守様には、名前が二つありました』


 ミラが顔を上げる。


『二つ?』


『生者としての名前と、鐘守りとして与えられた名前』


「ミラはどちらも失った?」


『いいえ』


 老女は首を横に振った。


『ご自身で、一つを鐘へ捨てたのです』


「なぜ」


『もう一つを守るために』


 ミラの表情がこわばる。


『どっちを守ったの?』


『思い出せません』


 老女は苦しそうに胸元を押さえた。


 黒い輪が再び浮かびかける。


「無理をするな」


 レインが止める。


「今はそれだけで十分だ」


 ミラには、生前の名前と鐘守りとしての名前がある。


 一つを自分で捨て、もう一つを守った。


 だが現在は、そのどちらも覚えていない。


 ならば、鐘へ捨てた名前はどこにあるのか。


 守ろうとした名前は誰のものなのか。


 レインは記録を続けた。


 そのとき、地下室の入口から足音が聞こえた。


 マルセル司祭が階段を下りてくる。


「残ると言ったはずでは?」


 セシリアが立ち上がる。


「王都から使者が来ました」


「この状況で?」


「鐘が鳴ったことを、すでに知っています」


 レインは眉を寄せた。


「誰も報告していないのに?」


「王都大神殿には、各地の記憶鐘片の動きを確認する聖具があるそうです」


「使者は何と」


 マルセルはレインを見た。


「地下の名簿と、焦げた鐘の破片を引き渡すように」


「誰の命令です」


「大司教補佐、ルディウス・ハルバート」


 地下室の空気が冷えた。


 ラドムの表情に怒りが浮かぶ。


『あいつだ』


「知っているのか」


『二十一年前、鐘を運ぶ命令を出した男』


「当時から同じ立場だった?」


『違う。若い神官だった』


 ルディウスは二十一年前の儀式を監督し、現在は教会上層部にいる。


 そして鐘が動いたことを、遠く離れた王都ですぐに察知した。


「使者はどこに」


「礼拝堂の外です」


「何人」


「神官騎士が六名」


 セシリアの表情が険しくなる。


「回収だけにしては人数が多すぎます」


「抵抗を想定している」


 レインは聞き書き帳を閉じた。


 帳面の最後の頁が、勝手に開く。


 黒い文字が現れた。


名簿を渡せ。

王都へ行けば、十三番目が目覚める。


 これまでの警告と違い、今回は名簿を渡せと書いてある。


 レインは文字を見つめた。


 教会に渡すな、ではない。


 渡せ。


 王都へ行くな。


 誰かが、レインたちをこの町に留めようとしている。


「レイン?」


 ミラが尋ねる。


「何が書いてあるの」


「名簿を渡せ、と」


「従うのですか」


 セシリアが聞く。


「従わない」


「即答ですね」


「これを書いている者は、俺たちが王都へ行くことを恐れている」


 レインは警告の下へ記した。


王都へ行く必要あり。

ただし、名簿の原本は渡さない。


「どうするつもりです」


「名簿をすべて写す」


 セシリアが棚を見上げる。


「何百冊あると思っているのですか」


「全部ではない。ミラ、鐘守り、二十一年前の儀式に関係する部分を優先する」


「使者が待ちません」


「なら、時間を稼いでください」


「私に命令しないでください」


「教会内部の問題でしょう」


 セシリアは不満そうにレインを見た。


 だが、否定はしなかった。


「一時間です」


「短い」


「三十分よりは長いでしょう」


「交渉の余地は?」


「ありません」


『前より息が合ってきたね』


 ミラが笑う。


「どこがですか」


「俺もそう思う」


「同意しないでください」


 セシリアは階段へ向かった。


 マルセル司祭も後に続く。


 レインは机代わりになる石台へ帳簿を広げた。


「ミラ。頁を確認してくれ」


『私、字が読めない』


「名前のない場所や、黒い輪が見える場所を探すんだ」


『それならできる』


「ラドムは二十一年前の記録を」


『分かった』


「あなたは」


 レインは老女を見る。


「礼拝堂記録官だった頃の印や、見覚えのある帳簿を探してほしい」


『承知しました』


 三人の幽霊が棚へ散る。


 レインは筆を握った。


 地上では、王都から来た神官騎士たちが待っている。


 地下では、教会が消した死者の名前が眠っている。


 すべてを書き写す時間はない。


 何を残し、何を後回しにするか決めなければならない。


 死者の言葉を記録するだけでは足りない。


 消される前に、必要な事実を選び取る。


 それもまた、聞き書き人の仕事なのかもしれない。


『レイン』


 ミラが一冊の帳簿を抱えて戻ってきた。


『これ、変』


「何が」


『頁が一枚だけ、私を見てる』


「頁が?」


 帳簿を開く。


 何も書かれていない白紙。


 だが、中央に小さなへこみがある。


 指で触れると、冷たい。


 レインが頁へ顔を近づけた瞬間、白紙の中に目が開いた。


 人間の目。


 銀色の瞳。


 ミラと同じ色だった。


『見つけた』


 頁の向こうから、少女の声がした。


『十三番目の抜け殻を』


 ミラの身体が硬直する。


『誰?』


 白紙の目が細くなる。


『あなたが捨てた名前』


 頁に文字が浮かび上がった。


 最初の一文字だけ。



 続く文字が現れる前に、地上から激しい音が響いた。


 剣が抜かれる音。


 誰かの怒鳴り声。


 そしてセシリアの声。


「ここから先へは、通しません!」


 王都の神官騎士たちが、地下室へ入ろうとしている。


 白紙の目はゆっくりと閉じた。


 文字も消える。


 レインはその帳簿を聞き書き帳とともに鞄へ入れた。


「続きは後だ」


『名前が、分かるかもしれないのに』


「だからこそ、奪われないようにする」


 階段の上から、鎧の足音が迫ってきた。


 ラドムがレインの前へ立つ。


『今度こそ、鐘を渡さない』


 老女も帳簿を抱えた。


『私たちの名前も』


 ミラは一度だけ不安そうに鞄を見た。


 それからレインの隣へ並ぶ。


『私も残る』


「逃げてもいいんだぞ」


『勝手についてくるなって言ったでしょう』


「言ったな」


『だから、今は自分で残ると決めた』


 レインは小さく笑った。


「分かった」


 階段の闇から、白い鎧をまとった神官騎士が姿を現す。


 先頭の男は、抜き身の剣を構えていた。


「教会命令により、地下の禁忌記録を回収する」


 男はレインの鞄を指した。


「記録を渡し、死霊から離れろ」


 レインは聞き書き帳を開いた。


 新しい頁へ、男の言葉を書き留める。


「何をしている」


「記録しています」


「今すぐやめろ」


「なぜです」


 男の表情が険しくなる。


 レインは筆を止めなかった。


「記録されると困ることでもあるんですか」


 地下室の棚で、何百冊もの名簿が一斉に震えた。


 名前を失った死者たちが、レインの言葉を聞いている。


 彼らは礼拝を邪魔していたのではない。


 生者へ取り憑きたかったわけでもない。


 ただ、祭壇の下で鳴る鐘から逃げていた。


 そして、奪われた自分の名前を取り戻したかっただけだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


礼拝堂へ集まった幽霊たちは、祈りを妨害したのではなく、地下の鐘から逃げていました。


ミラは自ら選んだ名前によって鐘の支配を退けましたが、名簿の白紙には「捨てた名前」を名乗る存在が潜んでいます。


次回、第9話「神殿の地下に、死者の名簿があった」。


レインたちは王都の神官騎士と対峙し、名簿を守りながら、教会が行った過去の儀式の証拠を地上へ持ち出そうとします。

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