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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第三章 神官は幽霊を信じない

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第7話 死者と話す者は、異端である

女性神官セシリアの呼び出しを受け、町の礼拝堂へ向かうレイン。


そこで待っていたのは、死者との会話を禁じる教会の尋問と、祈りの場へ押し寄せる無数の幽霊だった。

 三日後の朝。


 町の礼拝堂へ向かう道を歩きながら、レインは何度目か分からないため息をついた。


『行きたくないの?』


 隣を漂うミラが尋ねる。


「行きたいように見えるか」


『処刑されるわけじゃないんでしょう?』


「今のところはな」


『今のところなんだ』


「余計に不安そうな顔をするな」


 町リベルタの中央に建つ聖導教会の礼拝堂は、墓地とは正反対の場所だった。


 白い石壁。


 磨かれた青銅の扉。


 屋根の上には、女神セレネを表す銀色の月輪。


 正面広場には朝の祈りを終えた住民たちが行き交い、誰もが礼拝堂へ敬意を示して頭を下げている。


 この世界の人々にとって、教会は生まれてから死ぬまで関わる場所だ。


 子どもが生まれれば祝福を受ける。


 成人すれば女神の前で誓いを立てる。


 結婚も、葬儀も、病人の治療も教会が担う。


 死者の魂は女神のもとへ導かれる。


 それが、誰も疑わない常識だった。


 その教会へ、死者と話せることを認めたレインが呼び出されている。


 歓迎されるとは考えにくい。


「いいか。中では勝手に動くな」


『私は見えないでしょう?』


「見えなくても、魔力の流れで気づかれる」


『セシリアにはね』


「ほかの神官にも同じ能力があるかもしれない」


『分かった』


「祭壇へ近づかない」


『分かった』


「聖具に触れない」


『分かった』


「知らない幽霊がいても話しかけない」


『それは難しいかも』


「なぜそこだけ即答しない」


『向こうから話しかけてくるかもしれないでしょう』


「無視しろ」


『死者の話を無視しないのが、レインの仕事じゃないの?』


「まだ仕事にした覚えはない」


『帳面には書いてる』


「記録しているだけだ」


『お金はもらってないね』


「そういう問題ではない」


 実際、今のレインは墓地管理人の手伝いをしているだけである。


 宿屋の事件でも報酬は受け取らなかった。


 オスカーから食事券を渡されたが、父と使うつもりだった。


 死者への聞き取りで生計を立てられるとは考えていない。


 そもそも、公にすれば異端者扱いされる可能性がある。


 礼拝堂の扉の前には、セシリアが立っていた。


 三日前と同じ白い法衣。


 腰には剣。


 銀杖は手にしていない。


「時間どおりですね」


「来なければ連行すると言われましたから」


「そこまでは言っていません」


「強制的に連行する権限があるとは言いました」


「言葉の選び方の問題です」


「本質は同じでは?」


 セシリアは何か言い返しかけ、やめた。


 代わりにレインの背後へ視線を向ける。


「彼女も一緒ですか」


『見えないのに分かるのね』


「ミラは感心しています」


「あなたを通じて話す必要はありません」


『前より感じ悪くないかも』


「それは伝えなくていい」


 セシリアは礼拝堂の扉を開けた。


「中へ。主任司祭がお待ちです」


     ◇


 礼拝堂内部には、高い天井から朝の光が差し込んでいた。


 長椅子が左右へ整然と並び、奥には女神セレネの白い像が立っている。


 女神像は両手を広げ、その足元に月と星を従えている。


 祭壇の両脇では香が焚かれ、甘い匂いが漂っていた。


 レインが最初に感じたのは、清浄さではない。


 静かすぎる。


 墓地には昼でも死者がいる。


 町の通りにも、自分の家へ帰ろうとして歩き続ける幽霊や、店先を眺める死者がいる。


 ところが、礼拝堂の中には一人も見当たらなかった。


『変だね』


 ミラも同じことを感じたらしい。


『外にはいたのに、ここには誰もいない』


「外に幽霊がいたのか」


『入口の向かいに三人。広場の噴水にも一人』


 レインには見えていなかった。


 ミラのほうが、離れた死者を見つける力は強いらしい。


「礼拝堂へ入れないのかもしれない」


「何の話です?」


 セシリアが振り返る。


「幽霊が一人もいません」


「当然です」


「外にはいる」


 セシリアの表情がわずかに強張った。


「この場所は女神の加護によって守られています。死霊や魔性は容易に侵入できません」


「なら、ミラが入れたのはなぜです」


 セシリアは答えず、ミラのいる場所へ手を伸ばした。


 空中で指を動かす。


「反応が弱い」


『触ろうとしてる?』


「避けろ」


 ミラが横へ移動すると、セシリアの視線も追った。


「確かに移動しましたね」


「実験しないでください」


「彼女は死霊の性質を持ちながら、結界を通過している」


「珍しいことですか」


「通常ではあり得ません」


『私、すごい?』


「褒められてはいない」


 祭壇の奥にある小部屋へ通される。


 中には机と三脚の椅子が置かれていた。


 窓際に、一人の老神官が立っている。


 白い髪。


 深く刻まれた皺。


 法衣の襟には、地方礼拝堂の主任司祭を示す金糸が施されていた。


「レイン・アスターですね」


「はい」


「私は主任司祭のマルセルです。座ってください」


 口調は穏やかだった。


 だが机の上には、レインに関する記録らしき紙が何枚も並んでいる。


 出生。


 家族。


 父の職業。


 過去に教会から治療を受けた履歴。


 すでにある程度調べられていた。


 レインが椅子へ座ると、セシリアは扉の前に立った。


 ミラはレインの後ろへ回る。


「墓守ダリオ・アスターの息子。二十二歳。教会の洗礼を受け、成人の誓いも済ませている」


「記録どおりです」


「幼い頃、重い熱病にかかったことがありますね」


「八歳のときです」


「三日間、生死の境をさまよった」


「覚えています」


「死者の姿を見るようになったのは、その後ですか」


 レインはすぐに答えなかった。


 実際には、それ以前から見えていた。


 熱病の前にも、墓地で老人の幽霊と話した記憶がある。


「なぜ、その質問を?」


「死に近づいた者が、死者を名乗る幻を見る例があります」


「病気になる前から見えていました」


 マルセル司祭の指が止まる。


「何歳からです」


「はっきり覚えているのは五歳頃です」


「ご家族には」


「話していません」


「なぜです」


「信じてもらえないからです」


「教会へ相談しようとは?」


「幽霊は存在しないと教える教会へ?」


 部屋の空気が少し冷えた。


 セシリアがレインをたしなめるように見る。


 だが、マルセルは表情を変えなかった。


「死者の魂は女神の導きを受け、この世を去ります」


「なら、俺が見ているものは何です」


「残留思念、魔力の残滓、あるいは魔性です」


「彼らは名前を持ち、生前の記憶を持っている」


「人の記憶を読む魔物もいます」


「何十年も同じ場所に残り、家族のことを気にしている魔物が?」


「人を欺くためなら、どのような姿も取るでしょう」


「すべてが人を欺こうとしているわけではない」


「あなたには、そう見えているだけです」


 会話が同じ場所を回っている。


 教会にとって、死者の魂が地上へ残ることは認められない。


 死者の存在を否定する前提がある以上、どのような証拠を示しても別の説明へ置き換えられる。


「では、何を確認するために呼んだんです」


 レインが尋ねた。


「俺を説得するためですか。それとも異端者として扱うためですか」


 マルセルは机の上で手を組んだ。


「あなたが危険かどうかを判断するためです」


「危険?」


「死者を名乗るものと長く接触し続けた者は、次第に生者の声を聞かなくなります」


 レインは動きを止めた。


 自分の能力の制約として感じていたことだった。


 長時間死者の声を聞くと、身体が冷える。


 周囲の生者の声が遠くなる。


 それを教会が知っている。


「過去にも、俺のような人間がいたんですか」


 マルセルは答えなかった。


「今の話は、実例がなければ分からないはずです」


「禁じられた記録に、似た事例があります」


「その記録を見せてください」


「できません」


「なぜ」


「危険だからです」


「俺が危険か判断するための記録を、本人には見せられない?」


「あなたを守るためでもあります」


「知らないままのほうが危険でしょう」


 マルセルの表情に、かすかな迷いが浮かんだ。


 セシリアも黙っている。


「焦げた記憶鐘片を発見したそうですね」


 話題が変わった。


「持ってきています」


「こちらへ」


「記録を見せてもらえるまでは渡しません」


「教会が保管すべき品です」


「宿の壁に何十年も放置していたのは教会です」


「存在を把握していませんでした」


「それなら、教会に渡せば安全だという根拠もない」


 マルセルは深く息を吐いた。


「あなたは、教会を信用していないのですね」


「信用するための材料をもらっていません」


「女神も?」


「女神を見たことはありません」


「信仰を否定しますか」


「分からないことを、分からないと言っています」


 背後でミラが小さく笑った。


『私と同じ』


 マルセル司祭の目が、わずかにレインの背後へ向いた。


 見えてはいない。


 だが何かを感じたようだった。


「あなたの後ろにいるものは、何と?」


「ミラです」


「仮の名前だと聞きました」


「セシリアから?」


「報告を受けています」


「自分の記憶を失っています。鐘の音を聞くと、さらに輪郭が薄くなる」


 マルセルの顔色が変わった。


「鐘の音を聞く?」


「遠くから聞こえるそうです」


「何回」


「前回は四回」


「それ以前は」


「覚えていません」


 老神官は立ち上がった。


「セシリア。鐘楼を確認してください」


「今ですか」


「すぐに」


 セシリアは疑問を残した顔で部屋を出ていった。


「何を知っているんです」


 レインが尋ねる。


「この礼拝堂の鐘は、三日前から一度も鳴らしていません」


「壊れている?」


「鳴らさないよう、鐘縄を外しています」


「なぜ」


 マルセルは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。


 町の住民による訴えをまとめたものだった。


「夜中に鐘の音を聞いたという相談が、この一週間で十七件ありました」


「生者にも聞こえている?」


「夢の中で聞いたと話す者が大半です。その後、名前や家族の記憶が一時的に曖昧になる」


 ミラがレインの肩越しに紙を見る。


『同じ』


「ミラにも似た症状がある」


「彼女は、いつからこの町に?」


「墓地で出会ったのは六日前です」


「最初の相談が来た日と一致します」


「ミラが原因だと思っている?」


「判断できません」


「すぐに悪霊と決めないんですね」


「セシリアの報告を読みました」


 マルセルは苦い顔をした。


「死者を名乗る存在が、別の存在をかばったと」


『私のことだ』


「ミラは少し得意そうです」


「危険を顧みない行動を称賛するつもりはありません」


『レインと同じことを言う』


 そのとき、礼拝堂の広間から歌声が聞こえ始めた。


 朝の祈りとは別に、正午前の小礼拝が始まったらしい。


 数十人の住民が集まり、女神への祈りを唱えている。


 レインは机の上の聞き書き帳が震えるのを感じた。


「何だ」


 帳面を開く。


 何も書かれていなかった頁へ、黒い染みが広がっていく。


 染みは文字にならない。


 代わりに、何十本もの細い線となって、頁の中央へ集まっていく。


『レイン』


 ミラが広間の方向を見る。


『来る』


「何が」


『幽霊』


「礼拝堂には入れないはずだ」


『外から、たくさん』


 礼拝堂の歌声が、一瞬だけ乱れた。


 続いて、どさりと何かが倒れる音。


 悲鳴。


 椅子が動く音。


 マルセル司祭が扉を開ける。


 二人が広間へ戻ると、祈りを捧げていた女性が床へ倒れていた。


「誰か、治療室へ!」


 若い神官が駆け寄る。


 直後、別の男が胸を押さえて倒れた。


 さらに一人。


 二人。


 次々と参列者が長椅子から崩れ落ちていく。


「毒か?」


 レインは香炉を見る。


 煙に異常はない。


 倒れている人々は呼吸をしている。


 苦しんでいるというより、深く眠っているようだった。


「全員、外へ避難させなさい!」


 マルセルが指示を出す。


 神官たちが住民を抱え上げる。


 だが、礼拝堂の扉が勢いよく閉まった。


 内側から何人が押しても開かない。


『来た』


 ミラの声が震えた。


 白い石壁から、半透明の手が伸びていた。


 一つではない。


 壁。


 床。


 天井。


 礼拝堂全体から、幽霊たちが染み出すように姿を現す。


 老人。


 若者。


 兵士。


 子ども。


 修道女。


 農民。


 数えきれないほどの死者が、互いに重なりながら広間へ入ってきた。


 レインの視界が、一瞬で白く埋め尽くされる。


「こんなに……」


 墓地でも、ここまで多くの幽霊を同時に見たことはない。


 彼らは参列者を襲っているのではなかった。


 皆、怯えている。


 耳を押さえ、祭壇から逃げようとしている。


 だが扉や壁には見えない結界があり、外へ出られない。


『開けてくれ!』


『ここから出して!』


『下で鳴っている!』


『また名前を取られる!』


『嫌だ!』


 何十、何百もの声が一斉にレインへ届く。


「静かに――」


 声を上げても届かない。


 死者の叫びが頭の中へ流れ込む。


 耳を塞いでも意味はない。


 一人ひとりの言葉が重なり、巨大な濁流になる。


「レイン?」


 マルセルの声が遠くなる。


 身体が急激に冷えた。


 指先の感覚が消える。


 生者たちの姿が薄くなり、幽霊の輪郭だけが鮮明になっていく。


 長時間死者の声を聞いたときに起きる症状。


 だが、今までとは規模が違う。


 足元が揺れた。


 自分が生者の床に立っているのか、死者の群れの中へ沈んでいるのか分からない。


『レイン!』


 ミラの声だけが、はっきりと聞こえた。


 彼女がレインの正面へ立つ。


『私を見て』


「声が……多すぎる」


『一人ずつ聞かなくていい』


「それでは、何が起きているか分からない」


『今は倒れないことのほうが大事』


 ミラが両手を広げた。


 周囲の幽霊へ向かって叫ぶ。


『全員、黙って!』


 その声が礼拝堂を震わせた。


 無数の幽霊たちが、一斉に動きを止める。


 完全な静寂が訪れた。


 レインは荒い呼吸を繰り返した。


 ミラ自身も、自分の声の力に驚いている。


 墓地でも、彼女の言葉に古い幽霊たちが従った。


 今回も同じだった。


 何百もの死者が、名も記憶もない少女の一声で沈黙している。


「なぜ、皆がお前の言葉を聞く」


『分からない』


 ミラは不安そうに答えた。


 沈黙した幽霊たちの間を、一人の老女が進み出た。


 古い神官服を着ている。


 胸元の月輪は、現在の教会が使うものとは形が違っていた。


『鐘守り様』


 老女はミラの前で膝をついた。


 ミラが後ずさる。


『私?』


『お戻りになったのですね』


『人違いです』


『その声を忘れるはずがありません』


 周囲の幽霊たちも次々と膝をつく。


『鐘守り』


『第十三の方』


『名前を持たぬ方』


 ミラの顔から血の気が引く。


「ミラを知っているのか」


 レインが老女へ尋ねる。


 老女は初めてレインを見た。


『生者が、私たちを見ている』


「質問に答えてくれ。彼女は誰だ」


『鐘守り様を知らぬのですか』


「本人も知らない」


 老女の表情に混乱が浮かぶ。


『記憶をお持ちでない?』


『何も覚えていません』


 ミラが答える。


『私の名前を知っていますか』


 老女は口を開きかけ、突然両手で喉を押さえた。


 声が出ない。


 彼女の胸元に黒い輪が浮かび上がる。


 焦げた鐘の破片に刻まれていたものと同じ、十三本の線を持つ輪。


『言えない』


 老女が苦しそうにつぶやく。


『名を口にすれば、鐘に見つかる』


「鐘はどこにある」


 幽霊たちが一斉に祭壇を指さした。


 女神像。


 その足元。


 白い石床の下。


『地下』


『祭壇の下』


『ずっと鳴っている』


『生者には聞こえない』


『私たちを呼んでいる』


 レインはマルセル司祭を見る。


「祭壇の地下に何があります」


「地下室などありません」


「幽霊たちは全員、下に鐘があると言っています」


「この礼拝堂の設計図に地下空間はない」


「教会が把握していないだけでは?」


 マルセルの表情が強張る。


 そのとき、礼拝堂の正面扉が開いた。


 鐘楼の確認へ向かっていたセシリアが駆け込んでくる。


「主任司祭!」


 彼女は広間へ入り、倒れた人々とレインを見た。


「何が起きています」


「鐘楼は?」


 マルセルが尋ねる。


「鐘縄は外れたままです。鐘にも触れた形跡はありません」


『上じゃない』


 ミラが床を見る。


『下から聞こえる』


「ミラは、鐘が地下から聞こえると言っています」


 レインが伝える。


 セシリアは銀杖を取り出し、床へ向けた。


 青い魔石が激しく明滅する。


「地下から死霊反応があります」


「地下室はない」


「ですが、確かに空間が……」


 セシリアが祭壇へ近づく。


 その瞬間、幽霊たちが一斉に怯えて後退した。


『来る』


 老女が叫ぶ。


『鐘が鳴る!』


 ゴン。


 重い音が、床の下から響いた。


 今度はレインだけではない。


 マルセルも、セシリアも、まだ意識のある住民たちも聞いていた。


 礼拝堂全体が揺れる。


 女神像の表面に、細い亀裂が走った。


 倒れていた参列者の一人が、突然起き上がる。


 目は閉じたまま。


 唇だけが動いた。


「返して」


 別の参列者も起き上がる。


「私の名前を」


 三人目。


 四人目。


 倒れていた全員が、眠ったまま同じ言葉を口にする。


「返して」


「名前を」


「下にある」


「返して」


 セシリアが杖を構えた。


「全員、何かに取り憑かれています」


「待ってください」


「このままでは危険です!」


「浄化すれば、取り憑いている幽霊まで消えるかもしれない」


「生者の命が優先です!」


「彼らは襲っていない!」


「身体を乗っ取っています!」


 セシリアの杖へ白い光が集まる。


 その光を見て、幽霊たちが騒ぎ出した。


 再び声が重なる。


 レインの身体から体温が奪われていく。


「待て!」


 声を上げても、誰にも届かない。


 そのとき、ミラが祭壇の前へ進んだ。


『私が聞く』


「何を」


『みんなが何を返してほしいのか』


「一人ずつ聞けば、また声が重なる」


『一人ずつじゃない』


 ミラは女神像へ背を向け、礼拝堂を埋め尽くす死者たちを見渡した。


『同じ言葉なら、一緒に言って』


 幽霊たちが動きを止める。


『あなたたちは、何を失ったの?』


 何百もの死者が、同時に口を開いた。


『名前』


 声は重なっている。


 だが、先ほどの雑音とは違った。


 同じ言葉が一つの響きとなり、礼拝堂を揺らす。


『誰に奪われたの?』


『教会』


 マルセル司祭の顔が青ざめる。


『どこにあるの?』


 幽霊たちは祭壇の下を指さした。


『名簿』


『私たちの名前』


『浄化された者の名前』


『消された死者の名前』


 セシリアの杖から光が消える。


「浄化された者の名簿……」


 彼女はマルセルを見る。


「主任司祭。心当たりは」


「ない」


 答えは早かった。


 しかし、老神官の目は女神像の足元へ向いている。


「本当に?」


 レインが尋ねる。


「教会は、過去に似た事例を記録していた。死者の声を聞く者のことも、記憶鐘片のことも知っている」


「王都本部の記録です。この礼拝堂には関係ありません」


「では、床の下を確認しても問題ないはずです」


「祭壇を壊すことは許されません」


「人が倒れています」


「神聖な場所です」


「地下に何もなければ、壊す必要もない。調べるだけです」


 レインとマルセルの視線がぶつかる。


 セシリアが銀杖を床へ押し当てた。


「地下空間はあります」


「セシリア」


「深さは約二メートル。祭壇の後方に階段らしき構造も確認できます」


 マルセルは目を閉じた。


 長い沈黙の後、懐から一本の鍵を取り出した。


「主任司祭?」


「私がここへ着任した際、前任者から渡されたものです」


「何の鍵です」


「使ってはならないとだけ言われました」


 マルセルは女神像の台座へ近づいた。


 月の彫刻の一部へ鍵を差し込む。


 重い音を立て、祭壇脇の石床が動いた。


 下へ続く暗い階段が現れる。


 そこから冷たい空気と、古い紙の匂いが流れ出した。


 幽霊たちがざわめく。


『下にある』


『私の名前』


『返して』


 セシリアがレインを見る。


「私が先に入ります」


「俺も行きます」


「危険です」


「幽霊の声を聞ける者が必要でしょう」


「あなたは先ほど倒れかけた」


「ミラがいれば声をまとめられる」


『勝手に決めた』


「無理なら残れ」


『行く』


 マルセルが首を横に振る。


「地下室を開けるだけです。中へ入る必要はありません」


「何があるか知っているんですか」


「知りません」


「それなら止める理由もない」


「嫌な予感がするのです」


 階段の奥から、何かが床を引きずる音がした。


 ずる。


 ずる。


 ずる。


 暗闇の中に、白い人影が立つ。


 法衣を着た神官の幽霊だった。


 頭部がなく、首から上には黒い霧だけが漂っている。


 両腕で、分厚い帳簿を抱えていた。


『名を』


 首のない神官が言う。


『名を、返すな』


 礼拝堂にいた幽霊たちが悲鳴を上げる。


 首のない神官は帳簿を開いた。


 黒い頁から、無数の細い糸が飛び出す。


 糸は床へ倒れている参列者たちの胸へつながった。


 眠った人々の口が同時に動く。


「名前はいらない」


「名前がなければ苦しまない」


「忘れれば救われる」


 ミラが両手で頭を押さえた。


『その言葉……』


「知っているのか」


『鐘の前で聞いた』


 彼女の輪郭が大きく揺らぐ。


『名前を捨てれば、痛くなくなる』


 首のない神官が、ミラへ黒い帳簿を向けた。


 頁が勝手にめくられる。


 最後の頁で止まる。


 そこには、一つだけ名前を書くための空欄があった。


『第十三の名』


 神官が告げる。


『戻ってきた』


 黒い糸がミラへ伸びる。


「ミラ!」


 レインは彼女の前へ飛び出した。


 糸が聞き書き帳へ触れる。


 帳面が激しく震え、頁が次々と開く。


 エドガー。


 エリナ。


 エルザ。


 グレゴール。


 街道の少年。


 これまでレインが記録した死者の名前が、黒い糸によって引き抜かれようとしている。


「やめろ!」


 レインは帳面を胸へ抱え込んだ。


 首のない神官が階段を一段上がる。


『死者に名はいらない』


「必要かどうかを、お前が決めるな」


『名があるから、死者は残る』


「それでも、捨てるかどうかは本人が決める」


『生者が死者を惑わせるな』


「俺は聞いているだけだ」


 レインは震える指で帳面を開いた。


 空白の頁へ筆を走らせる。


地下の神官。

名称不明。

頭部なし。

死者の名前を奪う帳簿を所持。

「名があるから死者は残る」と主張。


 文字を書いた瞬間、首のない神官の身体が揺れた。


『記録するな』


「なぜだ」


『見るな』


「自分の名前を知られたくないのか」


『書くな!』


 神官の声が初めて激しくなる。


 黒い糸が一斉にレインへ襲いかかった。


 セシリアが前へ出る。


「月光の盾!」


 銀杖から半円状の光が広がり、黒い糸を弾く。


 礼拝堂に鋭い音が響いた。


「レイン! 調査は後です!」


「名前が分かれば、止められるかもしれない!」


「根拠は?」


「壁の中の死者たちは、名前を呼ぶことで分離できた!」


「この存在にも通じるとは限りません!」


「なら、ほかの方法がありますか!」


 セシリアは答えず、盾を支え続ける。


 黒い糸が何度も光の壁を打つ。


 銀杖の魔石に亀裂が入った。


 マルセル司祭が地下室の扉へ手をかける。


「閉めます!」


「待ってください!」


「このままでは全員が危険です!」


「閉じれば、取り憑かれた人たちはどうなる!」


 眠っている参列者と黒い帳簿を結ぶ糸は、まだ切れていない。


 地下を封鎖すれば、彼らの名前や記憶が奪われたままになる可能性がある。


 ミラが首のない神官を見つめていた。


『あの人、泣いてる』


「顔がないのに?」


『声の奥で』


 ミラは黒い糸の間を進む。


「近づくな!」


『私なら、話せるかもしれない』


 首のない神官がミラへ腕を伸ばす。


『第十三の名を返せ』


『あなたの名前は?』


 神官の動きが止まる。


『私の名前を欲しがるのに、どうして自分の名前を言わないの?』


『私に名はない』


『嘘』


 ミラは神官の抱える帳簿へ手を伸ばした。


『この中にあるでしょう』


 半透明の指が黒い表紙へ触れる。


 帳簿全体が大きく震えた。


 閉じられていた最初の頁が開く。


 そこには、薄れかけた文字が残っていた。


 レインには遠くて読めない。


 だがミラは、その名を口にした。


『オルド・レムナス』


 首のない神官の身体が硬直した。


 黒い糸がすべて動きを止める。


『違う』


『あなたの名前でしょう』


『違う』


『オルド』


『呼ぶな』


『オルド・レムナス』


『やめろ!』


 神官の首元に集まっていた黒い霧が吹き飛んだ。


 失われていた頭部が現れる。


 痩せた中年男性。


 深く落ちくぼんだ目。


 頬には乾いた涙の跡が残っている。


『私は』


 オルドは自分の顔へ触れた。


『名前を、持っていた』


 黒い糸が参列者たちから外れる。


 一人、また一人と目を覚ます。


 礼拝堂にいた幽霊たちの身体からも、黒い輪が消えていった。


 オルドは帳簿を抱え、膝をつく。


『私は、何をしていた』


「死者の名前を奪っていた」


 レインが答える。


『違う。私は、救おうとした』


「名前を消すことが?」


『苦しむ死者を、鐘へ送るために』


「本人の意思を聞いたのか」


 オルドは答えられない。


『教会に命じられた』


 礼拝堂が静まり返った。


 セシリアの顔から血の気が引く。


「いつの話です」


『分からない』


「どの教会が」


『ここだ』


 オルドは礼拝堂の床を見た。


『この場所で、名を捨てさせた』


『何人』


 ミラが尋ねる。


 オルドは黒い帳簿を見下ろす。


『数えられない』


 帳簿の頁が風もないのにめくられる。


 無数の名前。


 その多くに黒い線が引かれていた。


『名前を消せば、死者は鐘へ入る』


「鐘へ入った後は?」


『知らない』


「成仏したのでは?」


『知らない』


「知らないのに続けたのか」


『正しいと教えられた』


 レインはマルセル司祭を見る。


 老神官は青ざめたまま、何も言えずにいた。


 オルドの身体が少しずつ透け始める。


 名前を思い出したことで、集合的な怪異から一人の幽霊へ戻った。


「消えるのか」


『長く、帳簿に縛られすぎた』


「まだ聞きたいことがある」


『地下へ来い』


 オルドは黒い帳簿を床へ置いた。


『そこに、残っている』


「何が」


『教会が消した死者の名』


 彼の姿が光の粒へ変わる。


『第十三鐘守を、名簿へ戻してはならない』


「ミラのことか?」


 オルドは最後にミラを見た。


『あなたが戻れば、鐘は再び十三度鳴る』


 それだけを残し、消えた。


 黒い帳簿だけが床へ落ちる。


 礼拝堂にいた幽霊たちは、まだ消えていない。


 彼らは地下室の入口を見つめていた。


 返されていない名前が、まだ下に残っている。


 セシリアが杖を下ろした。


「これを、王都へ報告します」


「報告だけですか」


「教会内部の重大な問題です」


「その教会が名前を奪ったと、オルドは言った」


「何百年前の者かも分からない幽霊の証言です」


「また、死者だから信用できないと?」


「違います」


 セシリアは苦しそうに言った。


「だからこそ、記録と照合します」


 レインは彼女を見る。


 それは、自分が聞き書き帳へ記した原則と同じだった。


 一人の証言を真実と決めない。


 記録を調べる。


 別の証言と比べる。


「地下を調べます」


 レインが言う。


「今日中に?」


「幽霊たちは、自分の名前を待っています」


「危険が残っている可能性があります」


「あなたも一緒に来ればいい」


「命令しないでください」


「では、お願いします」


 セシリアはため息をついた。


「少なくとも、私が同行しないまま入らせることはできません」


『来るって』


 ミラが少し笑う。


「何を笑っています?」


「以前より、話を聞くようになったと」


「それは褒め言葉ですか」


『半分くらい』


「半分だけだそうです」


「伝えなくても結構です」


 マルセル司祭が地下への階段を見つめていた。


「私は、この礼拝堂を四十年守ってきました」


 震える声だった。


「その足元に、何があるかも知らずに」


「知らされていなかったのなら、あなたの責任ではありません」


 セシリアが言う。


 だがマルセルは首を横に振った。


「知らなかったことが、責任をなくすとは限らない」


 レインは老神官の言葉を帳面へ書き留めた。


 知らなかった。


 信じていた。


 命じられた。


 それらは行動の理由にはなる。


 だが、死者が失った名前を戻す理由にはならない。


 地下から、紙をめくる音が響く。


 一枚。


 また一枚。


 誰も触れていないはずの名簿が、レインたちを待っている。


 聞き書き帳の最後の頁に、新しい文字が浮かんだ。


地下の名簿を開くな。

第十三の名が、こちらを見る。


 レインは警告を読み、筆を取った。


 その下へ、自分の言葉を書き足す。


開く前に、誰が開かせたくないのかを確かめる。


 頁が激しく震えた。


 警告を書いた何者かは、明らかに不満を示している。


 レインは帳面を閉じ、地下へ続く暗い階段を見下ろした。


 死者の名を消した教会。


 名前を失った幽霊たち。


 第十三鐘守と呼ばれるミラ。


 そして、真実へ近づくことを妨げる聞き書き帳の声。


 疑うべきものが増えていく。


 だが、調べるべき場所は一つだった。


「行きましょう」


 レインは角灯へ火を入れた。


 階段の下。


 教会が存在を隠してきた部屋から、かすかな鐘の音が聞こえた。


 今度は一度ではない。


 ゴン。


 ゴン。


 ゴン。


 十二回まで鳴り、止まる。


 最後の一回だけを、待っているように。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


礼拝堂へ集まった無数の幽霊と、死者の名前を奪っていた神官オルド。


彼の証言により、教会が過去に幽霊の名前を消していた可能性が浮かびました。


次回、第8話「祈りを邪魔していたのは誰か」。


レインたちは祭壇の地下へ入り、名簿へ記された死者たちと、ミラを「第十三鐘守」と呼ぶ理由を調べます。

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