第6話 焦げた鐘を回収する神官
宿屋の怪異を解決したレインの前に、聖導教会の神官が現れた。
彼女が求めたのは、焦げた鐘の破片。
そして、死者と話しているというレイン自身だった。
「死者と会話しているという疑いについてです」
白い法衣をまとった女性神官は、通りの中央でそう告げた。
夜明け前の町はまだ眠っている。
宿屋《眠り鹿亭》から逃げ出した客たちは、少し離れた場所でこちらの様子をうかがっていた。
誰も近づこうとはしない。
神官の胸元には、女神セレネを象徴する銀色の月輪が輝いている。
腰には細身の剣。
右手には、先端へ青い魔石を埋め込んだ銀杖。
年齢はレインより少し上、二十四、五歳ほどだろう。
淡い金色の髪を後ろでまとめ、冷静な青い瞳をレインへ向けている。
疲れてはいるようだが、立ち姿に隙はなかった。
「疑いだけで、人の荷物を渡せと言うんですか」
レインは鞄の口を押さえたまま尋ねた。
「中にあるものが、教会の管理する聖具である可能性が高いためです」
「聖具?」
「焦げた鐘の破片です」
レインは表情を変えないよう努めた。
宿から出たばかりで、まだ誰にも破片の存在を伝えていない。
「なぜ、それを持っていると分かるんです」
「宿全体に広がっていた死霊反応が、あなたの鞄へ集まっているからです」
神官が銀杖をわずかに掲げる。
先端の青い魔石から、糸のような光が伸びていた。
光は真っすぐ、レインの鞄を指している。
『あの人、私のことも見えてるのかな』
背後に隠れているミラが、小声で尋ねた。
「静かにしていろ」
「誰に言いました?」
神官が問い返す。
「独り言です」
「あなたは先ほどから、自分の後ろへ誰かがいるように話しています」
「癖です」
「ずいぶん具体的な癖ですね」
『やっぱり気づいてる』
「黙っていろと言っただろう」
「もう一度聞きます。誰と話しているのですか」
神官の杖が少し持ち上がった。
レインは返答しなかった。
正直に幽霊がいると答えれば、死霊術師と疑われる。
だが、無理に隠し続けても、この神官は納得しない。
背後から宿主オスカーが恐る恐る口を挟んだ。
「あの、神官様」
「あなたが宿の主人ですね」
「はい。オスカーと申します。レインさんは、私の頼みで宿へ来ていただいただけでして」
「何を依頼したのですか」
「壁から聞こえる声の調査を」
「その結果、何が起きました?」
オスカーはレインを見る。
どこまで話してよいか判断できないらしい。
「古い火災の跡が見つかりました」
レインが代わりに答えた。
「壁の中には焦げた木材が残っていた。その中に鐘の破片が挟まっていました」
「それだけですか」
「宿泊者が恐れていた笑い声の原因も確認しました」
「原因は?」
「昔、この宿で亡くなった者の記憶です」
神官の眉がわずかに動いた。
「死者を見たと?」
「記憶と言いました」
「言葉を変えても意味は同じです」
「同じとは限らない」
エドガーの黒い箱。
屋敷や物に残る感情。
そして、壁の中に混ざり合った死者たち。
幽霊が魂そのものなのか、死者の記憶が形になったものなのか、レインにも分からない。
教会の教えだけで断定するほうが危険だった。
「死者の魂は、女神の導きによって光の彼方へ還ります」
神官は教えを読み上げるように言った。
「地上に残って人へ語りかけるものは、死者本人ではありません。残留思念か、人の記憶を利用する魔性です」
「実際に話を聞いたことは?」
「ありません」
「見たことは?」
「死霊術によって作られたものなら」
「俺が聞いている者たちは、術者に呼び出されたわけではない」
「やはり、聞こえているのですね」
しまったと思ったときには遅かった。
神官は鋭い視線を向けた。
「今、自分から認めました」
「言葉の流れで」
「聖導教会王都本部所属、怪異調査官セシリア・ローデンです」
女性神官――セシリアは胸元の紋章へ手を置いた。
「レイン・アスター。死者との接触、および教会管理物の無断所持について、事情を聞かせていただきます」
「拒否したら?」
「強制的に連行する権限があります」
『感じの悪い人』
ミラがセシリアをにらむ。
セシリアの視線が、再びミラのいる場所へ向く。
「そこに何かいますね」
「見えるんですか」
「見えません」
セシリアは即答した。
「ただ、魔力の流れが人の形を避けています」
完全に見えているわけではない。
しかし、ミラの存在する空間だけ魔力の動きが変わっているらしい。
「悪意は感じますか」
「今のところは」
『今のところって何よ』
「怒るな」
「また話しましたね」
「そちらが刺激するからです」
「存在を認めるのですか」
「認めなければ、話が進まない」
セシリアは銀杖を構えた。
「その存在から離れてください」
『嫌』
「本人が嫌だと言っています」
「従う必要はありません。死者を装うものは、生者の同情を利用します」
「装っていない」
「何を根拠に?」
レインは答えられなかった。
ミラが本当に死者であると証明する方法はない。
自分が誰だったかも、なぜ死んだかも分からない。
鐘の前にいたという断片的な記憶だけを持っている。
だが、証明できないことと、存在しないことは違う。
「少なくとも、彼女は俺を襲っていません」
「今は、でしょう」
『私、そんなに怖く見える?』
「俺には見えないか聞いている」
レインが伝えると、セシリアは少し困ったような顔をした。
「姿は見えません」
『なら怖くないでしょう』
「見えないものほど危険だと言っている」
『失礼ね』
「俺を間に挟んで口論するな」
オスカーが二人と一人のやり取りを見て、混乱した表情を浮かべていた。
「神官様。宿の中にいる方々は、誰も人を襲っておりません」
「いる方々?」
「二人ほど」
「二人だけではありません」
セシリアは宿を見上げた。
「建物全体から、数十人分に相当する反応があります」
レインは目を細めた。
壁の中で混ざり合っていた死者たちを、セシリアは魔力反応として感知している。
「それを浄化するつもりですか」
「危険度を確認した後で判断します」
「本人たちの意思は?」
「死者に意思はありません」
『あるわよ』
宿の二階から、エルザの声がした。
セシリアには聞こえていない。
だが、レインにははっきり届いた。
『勝手に消されるのは嫌』
隣からグレゴールも言う。
『わしも、まだ椅子を替えてもらっておらん』
緊張した場面で、妙に生活感のある希望だった。
「二階の二人は、ここに残ることを望んでいます」
「あなたがそう思い込んでいるだけかもしれません」
「本人へ聞きました」
「その回答が、あなたを操るための言葉ではないと言い切れますか」
「言い切れない」
セシリアは意外そうに瞬きをした。
「認めるのですね」
「幽霊も嘘をつく。記憶を間違える。都合のよい話を作ることもある」
「ならば、なおさら信用できないでしょう」
「信用できないから、聞かなくてよいとはならない」
レインは鞄から聞き書き帳を取り出した。
「一人の証言だけでは決めない。別の死者に聞く。現場を調べる。生者の記録とも照合する」
「それは何です」
「記録帳です」
「見せてください」
「嫌です」
「なぜ」
「本人の許可なく、聞いた内容を見せるつもりはありません」
「死者の許可?」
「生者より秘密が少ないと思いますか」
セシリアは言葉を止めた。
オスカーは二人の間で困ったように立っている。
空が少しずつ明るくなり始めていた。
このまま通りで話し続ければ、町の住人が集まってくる。
「場所を変えましょう」
セシリアが提案した。
「宿の中を調査します。危険がないと確認できれば、すぐに浄化することはしません」
「約束できますか」
「教会の調査官として約束します。ただし、危険な存在が確認された場合は別です」
「俺も同行します」
「当然です」
◇
宿へ戻ると、セシリアは入口で祈りの言葉を唱えた。
銀杖の先端から、淡い青色の光が広がる。
光は床、壁、天井を薄く覆い、奥へ流れていった。
ミラが身を縮める。
『少し痛い』
「止めてください」
「まだ何もしていません」
「彼女が痛がっています」
「浄化ではなく、感知の術です」
「それでも弱めてください」
「感知対象に痛みが生じるのは、その存在が死霊に近い性質を持つ証拠です」
「死者なのだから当然でしょう」
「それを確かめているのです」
セシリアは術を弱めなかった。
レインは杖の前へ立った。
「どいてください」
「先に弱めると約束してください」
「あなたまで術の影響を受けます」
「構いません」
「死者をかばって自分を危険にさらすのですか」
「勝手に痛めつけておいて、危険な存在だと決めるほうがおかしい」
二人はしばらくにらみ合った。
やがてセシリアが小さく息を吐き、杖を下げる。
青い光が弱くなった。
『楽になった』
「大丈夫か」
『うん』
セシリアはそのやり取りを観察している。
「彼女は何と言いました?」
「楽になったと」
「名前は?」
「ミラ」
『仮の名前だけど』
「仮の名前です」
「本名を知らない?」
「記憶を失っています」
「いつ死亡したのですか」
「分かりません」
「死因は」
「分かりません」
「出身地は」
「分かりません」
「それで、なぜ死者だと信じられるのです」
ミラが自分の身体を見下ろした。
『透けてるから』
「身体が透けているそうです」
「魔性も透けます」
『少し浮いてる』
「浮いている」
「精霊も浮きます」
『お腹が減らない』
「食事を必要としない」
「魔力を食べている可能性があります」
『この人、何を言っても信じないね』
「俺もそう思う」
「聞こえていますよ」
「聞こえるように言いました」
セシリアはこめかみを押さえた。
「まず、宿にいる存在を確認します」
二階へ上がる。
二〇三号室ではエルザが壁の穴の近くに立ち、二〇四号室のグレゴールと話していた。
セシリアには二人の姿が見えない。
だが部屋へ入ると、杖の魔石が強く光った。
「二体」
「二人です」
「呼び方の違いで本質は変わりません」
「本人たちが嫌がります」
『私は嫌』
『わしはどちらでもいい』
「一人は嫌がり、一人は気にしていないそうです」
セシリアは壁へ向けて杖を掲げた。
エルザが警戒して後ずさる。
「何をする」
「簡単な問いかけです」
セシリアは目を閉じ、祈りを唱えた。
「光の彼方へ帰ることを望むならば、杖の光へ触れなさい」
杖の先に、小さな白い光が生まれる。
エルザとグレゴールは顔を見合わせた。
『どうする?』
『触ったら消えるのかもしれん』
『私は嫌』
『わしも、今はやめておこう』
二人とも動かなかった。
「触れませんね」
レインが言う。
「意思がある証明にはなりません。警戒しているだけかもしれない」
「警戒すること自体、意思では?」
セシリアは答えず、別の言葉を唱えた。
「この場所へ害意を持つならば、姿を示しなさい」
変化はない。
エルザが腕を組む。
『私、宿を掃除していたのよ。害意なんてないわ』
グレゴールも椅子へ座る。
『椅子を替えてくれるなら、むしろ協力的だ』
「二人とも否定しています」
「あなたを通してしか確認できないことが問題です」
「なら、俺を通訳として使えばいい」
「あなたが内容を変えない保証は?」
「ありません」
「正直ですね」
「だから記録する。オスカーさんにも、質問と俺の返答を聞いてもらう」
セシリアはしばらく考えた後、うなずいた。
「では、試します」
エルザとグレゴールに、生前の名前、仕事、死亡時期、宿に残る理由を質問する。
レインが返答を伝え、オスカーが宿の記録と照らし合わせた。
エルザ・ノート。
七十三年前の火災で死亡。
宿の給仕係。
グレゴール・ハイン。
四十一年前、二〇四号室で死亡。
長期療養客。
記録と二人の証言は一致した。
「宿帳を読んで知った可能性があります」
セシリアが言う。
「俺が?」
「あなたか、宿の主人が」
「そこまで疑われると、何を答えても意味がありませんね」
「調査とは、疑うことです」
「疑うだけでは真実には届かない」
「信じるだけでも届きません」
二人の意見は対立している。
だが、レインはセシリアの言葉を完全には否定できなかった。
エドガーのような幽霊もいる。
死者の言葉を無条件に信じることは危険だ。
一方で、セシリアもレインの記録方法を頭から否定できないようだった。
「地下室を見せます」
レインが言った。
「そこに、二人とは別の存在がいます」
◇
地下室の壁を埋め尽くす名前を見て、セシリアは初めて明確に動揺した。
「これは……」
「この宿に滞在し、その後に亡くなった者の記録です」
「誰が作ったのですか」
「分かりません」
セシリアは壁の紙を一枚ずつ確認する。
女神暦。
古い地域名。
病死、事故死、戦死、失踪。
数十年分の死者の情報が並んでいる。
「教会式の死亡記録ではありません」
「宿の人間が独自に調べていたようです」
「この台座は」
「鐘が置かれていた可能性があります」
レインは鞄から焦げた破片を取り出した。
セシリアの杖が強く反応する。
青い魔石が痛いほどの光を放った。
「すぐに置いてください!」
セシリアが叫ぶ。
「何が分かった」
「それは聖具ではありません」
「先ほどは教会管理の聖具だと」
「教会が回収対象としている遺物です。正式名称は、記憶鐘片」
「知っていたのか」
「存在だけは」
セシリアは警戒しながら破片へ近づく。
「百年以上前から、各地で同様の破片が発見されています。死者の記憶を重ね、生者へ幻覚を見せる危険な遺物です」
「誰が作った」
「記録は残っていません」
「神のいない礼拝堂に心当たりは?」
セシリアの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
だがレインは見逃さなかった。
「知っていますね」
「その言葉を、どこで聞きました」
「壁の中にいる者から」
「答えてください」
「先にそちらが答えるべきです」
セシリアの表情から、これまでの冷静さが消えた。
「神のいない礼拝堂は、教会の禁忌記録にだけ残る呼称です。一般人が知る言葉ではありません」
「どこにある」
「知りません」
「嘘ですね」
「私は場所を知らない」
「では、存在は認める?」
セシリアは唇を結んだ。
そのとき、地下室の壁から白い指が一本だけ伸びた。
セシリアが即座に杖を向ける。
「下がって!」
「攻撃しないでください!」
「死霊反応が増大しています!」
杖の先に光が集まる。
白い指が震える。
『怖い』
幼い子どもの声だった。
レインはセシリアと壁の間へ割って入った。
「止めてください!」
「どきなさい!」
「これは一人の悪霊ではない!」
「複数の死霊が融合しているなら、さらに危険です!」
「名前を失った者たちです!」
セシリアの杖から光が放たれた。
レインは思わず目を閉じる。
しかし、光は彼へ届く直前で止まった。
ミラが前に立っていた。
半透明の両手を広げ、白い光を受け止めている。
『やめて!』
今までセシリアには聞こえていなかったはずの声。
だが、その瞬間だけ、地下室全体が震えた。
ミラの叫びが空気を揺らした。
「声が……」
セシリアの目が見開かれる。
光が消える。
ミラは膝をつくように床へ沈んだ。
「ミラ!」
レインが駆け寄る。
触れることはできない。
ただ名前を呼ぶしかなかった。
『大丈夫』
ミラは顔を上げる。
輪郭が大きく薄れている。
『少し、痛かっただけ』
「なぜ前に出た」
『壁の人たち、怖がってたから』
「お前まで消えたらどうする」
『消えるの、怖いね』
ミラは弱く笑った。
セシリアは杖を下ろしたまま、動けずにいた。
「今の声が聞こえたんですね」
レインが問う。
「……はい」
「悪意がありましたか」
セシリアは答えない。
「あなたを襲おうとしていましたか」
「いいえ」
「壁の者たちは、あなたの術を怖がっていました」
白い指が紙の中へ戻っていく。
地下室の壁から、すすり泣くような声がいくつも響いていた。
セシリアはゆっくりと杖を地面へ置いた。
「申し訳ありません」
誰に向けた言葉なのか。
レインにも、ミラにも、壁の中の死者たちにも聞こえる声だった。
「危険と判断するのが早すぎました」
『謝った』
ミラが小さくつぶやく。
「聞こえません」
「謝ったことに驚いています」
「聞こえなくても、内容を伝える必要はありません」
少しだけ、セシリアの頬が赤くなった。
彼女は焦げた鐘の破片を見た。
「これを教会へ渡してください」
「浄化するためですか」
「封印します」
「壁の中の者たちは、この破片とつながっている」
「持ち続けるほうが危険です」
「教会は、同じ破片をいくつ持っている」
セシリアは答えなかった。
「すべて封印されている?」
「答える権限がありません」
「誰なら答えられる」
「王都の大神殿です」
「なら、俺も王都へ行きます」
「何を言っているのです」
「破片を渡す代わりに、保管場所と過去の記録を見せてもらう」
「一般人が禁忌記録を閲覧することはできません」
「では渡しません」
「拒否するなら、回収します」
「また力ずくですか」
二人の間に再び緊張が走る。
だが、先ほどまでとは違う。
セシリアはすぐに杖へ手を伸ばさなかった。
「一時的に、あなたが保管してください」
やがて彼女が言った。
「ただし、教会の封印布で包みます。勝手に使用しないこと。鐘へ魔力を流さないこと。名前を刻まないこと」
「名前を刻むと何が起きる」
「分かりません」
「知らないのに禁止している?」
「過去に、それを行った町が一つ消えています」
地下室が静まり返った。
「町が消えた?」
「住民も、建物も残りました」
「では、何が消えた」
「町にいた全員の記憶から、その町の名前が消えました」
レインは手にした聞き書き帳を見る。
名前を失った死者。
記憶を重ねる鐘。
ミラが思い出した「名前を捨てれば痛くなくなる」という言葉。
「記憶鐘片は、名前を消すためのものなのか」
「分かりません。分かっているのは、教会が長年回収し、封じてきたということだけです」
「誰から守るために」
「それも、私には知らされていません」
セシリアは鞄から銀糸を織り込んだ白い布を取り出した。
破片を包むと、そこから漏れていた冷気が弱まる。
地下室の壁も静かになった。
「三日後、町の礼拝堂に来てください」
「なぜ」
「今回の件を上司へ報告します。その間、あなたの行動を確認します」
「監視ですか」
「調査です」
「同じでしょう」
「言葉の印象が違います」
「本質は変わらないと言ったのは、あなたでは?」
セシリアはわずかに顔をしかめた。
オスカーが、緊張を解くように咳払いをした。
「宿の方々は、これからどうなるのでしょう」
「二階の二人については、すぐに浄化しません」
セシリアが答える。
「地下の存在も、現時点では封印対象とします。攻撃性が再び確認されない限り、強制的な処置は行いません」
「封印すると、話せなくなるんですか」
「完全に閉じ込めるわけではありません。宿の外へ広がらないための結界を施します」
レインは壁の声を聞いた。
不安そうなざわめき。
「結界を張っても、俺が中に入って話すことはできる?」
「許可を取れば」
「誰の」
「教会です」
「宿の持ち主でも、ここにいる死者でもなく?」
「危険な怪異の管理は教会の役目です」
「その考え方は納得できません」
「納得できなくても、法は変わりません」
「なら、いつか変える必要がありますね」
セシリアがレインを見た。
「あなたは、自分が何を言っているか理解していますか」
「死者の存在を認めろと言っています」
「教会の教義を否定する発言です」
「事実を記録することが教義の否定になるなら、教義のほうを調べるべきです」
オスカーの顔がさらに青くなる。
「レインさん、そのくらいで……」
セシリアは怒らなかった。
代わりに、ひどく疲れたような表情をした。
「三日後、必ず来てください」
それだけ言い残し、彼女は地下室を出ていった。
◇
夜が明ける頃、宿の結界は完成した。
外から見ても何も変わらない。
だがレインには、建物の周囲を薄い膜が覆っているように感じられた。
二階のエルザとグレゴールは、今のところ問題なく会話できている。
『神官は帰った?』
エルザが尋ねる。
「今、出ていった」
『あの人、怖いわ』
『わしは少し好みだ』
グレゴールが言った。
『誰も聞いていないのに、自分の好みを話すな』
『死者は夜になると話が長くなるんだろう』
「どこで聞いた」
『壁越しに』
レインはため息をついた。
オスカーは約束通り、二〇四号室の椅子を交換することにしたらしい。
二〇三号室も掃除し、エルザが生前働いていた頃に近い内装へ整えるという。
「二人とも、この宿を守るつもりはありますか」
『もちろん』
エルザが答えた。
『怪しい客がいたら教えるわ』
『わしは夜番をしよう』
「客の部屋をのぞくな」
『疑っているのか』
「幽霊だから壁を通れると言って、勝手に入るな」
『わしを何だと思っている』
「死んでいることに四十一年間気づかなかった老人」
『言い方というものがあるだろう』
少し前まで恐怖の宿だった場所に、穏やかな空気が戻っている。
だが地下には、まだ多くの名前を失った死者が残っている。
レインは聞き書き帳に新しい項目を作った。
《眠り鹿亭・壁中混合霊》
構成人数不明。
少なくとも三十名以上。
焦げた記憶鐘片の影響により、異なる時代と記憶が混合。
個別の名前を呼ぶことで分離できる可能性あり。
宿泊記録、死亡記録、地域史の調査を継続する。
書き終えると、地下室の方向から小さな音が聞こえた。
こん。
鐘ではない。
誰かが壁を一度だけ叩いたような音。
『ありがとう』
複数の声が重なっていた。
レインは帳面を閉じた。
宿屋を出ると、朝日が町の屋根を照らし始めている。
ミラが隣を漂っていた。
『あの神官、また来るかな』
「来る」
『嫌だな』
「俺もだ」
『でも、少しだけ話を聞いてくれた』
「攻撃した後でな」
『最後は謝ったよ』
「お前は人を許すのが早すぎる」
『私は何も覚えてないから、恨み方も分からないのかも』
軽く言った言葉だった。
だがレインは返答できなかった。
ミラが失ったものは、名前や家族だけではない。
誰を好きだったか。
誰を嫌っていたか。
何を恐れ、何を許せなかったか。
そうした感情まで鐘に奪われている可能性がある。
「三日後、教会へ行く」
『私も?』
「置いていっても、ついてくるだろう」
『分かってきたね』
「嬉しくない」
二人は墓地へ続く道を歩いた。
途中、レインは鞄の中の焦げた鐘の破片を確認する。
封印布に包まれ、今は音を立てていない。
その下で、聞き書き帳が勝手に開いていた。
最後の頁。
以前の文字の下へ、新しい一文が現れている。
焦げた鐘を知る神官を、信用してはならない。
レインは立ち止まった。
筆跡は、これまでと同じ。
誰が書いているのかは分からない。
セシリアを警戒しろという警告。
だが、それが真実とは限らない。
幽霊は嘘をつく。
帳面に文字を残す存在も、例外とは限らない。
レインは警告の下に、自分の筆跡で一文を書き加えた。
警告そのものも、検証すること。
頁が一度だけ震えた。
まるで、書き込んだ何者かが不満を示したようだった。
レインは帳面を閉じる。
「勝手に答えを決められてたまるか」
『何か言った?』
「独り言だ」
『最近、多いね』
レインは答えず歩き始めた。
彼はまだ知らなかった。
三日後に向かう町の礼拝堂で、床が見えないほど多くの幽霊と出会うことを。
そして、その礼拝堂の地下に、聖導教会が消した死者たちの名前が眠っていることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
エルザとグレゴールは宿へ残り、壁の中の死者たちについても調査を続けることになりました。
一方、焦げた鐘の破片を知る神官セシリアと、彼女を信用するなと警告する聞き書き帳。
次回、第7話「死者と話す者は、異端である」。
レインはセシリアの呼び出しを受けて町の礼拝堂へ向かい、祈りの最中に人々が倒れる新たな怪異へ巻き込まれます。




