第5話 幽霊が幽霊に気づかない理由
異なる時代に死んだエルザとグレゴール。
二人の記憶を重ねていたのは、宿泊者名簿に存在しない三人目の死者だった。
レインは、壁の中に残された記録を調べ始める。
白い指は、壁の隙間からゆっくりと伸びていた。
人間のものより細く、関節が多い。
指先には爪がなく、その代わりに黒い糸のようなものが絡みついている。
がり。
がり。
がり。
焦げた柱を引っかく音が、暗い客室に響く。
『まだ、思い出すな』
壁の中の女が言った。
声には一人分ではない重なりがあった。
若い女。
老いた男。
泣いている子ども。
それらが同じ言葉を、わずかにずれながら繰り返している。
オスカーは床へ座り込んだまま、顔を青ざめさせていた。
「今の声は……何です」
「分かりません」
「分からないものと話していたんですか?」
「今、初めて出てきたんです」
「それは安心できる説明ではありません」
「俺も安心していません」
レインは鐘の破片を布で包み直した。
破片から伝わる冷気は、布を何重にしても消えない。
手の中に、冬の川から拾い上げた石を握っているようだった。
壁から伸びた白い指が、破片を追うように動く。
『返せ』
今度は、はっきりと一人の女の声だった。
「これは、あなたのものか」
レインが尋ねる。
返事はない。
白い指が勢いよく伸びた。
「レイン!」
ミラが叫ぶ。
レインは身体を引いた。
指先が外套をかすめる。
布が裂け、触れた部分が一瞬で黒く変色した。
「触れられるのか」
通常、幽霊は生者へ直接触れることができない。
強い感情によって冷気や音を生む者はいるが、身体や衣服へ明確な傷をつける者は珍しい。
レインは腰の短剣へ手をかけた。
だが、抜いたところで死者へ刃は届かない。
『下がって』
ミラがレインの前へ出た。
「何をする気だ」
『話してみる』
「危険だ」
『私は、もう死んでる』
「そういう問題ではない」
『でも、幽霊同士なら声が届くかもしれない』
グレゴールにはミラの声が聞こえなかった。
だが、壁の女にも同じとは限らない。
ミラは白い指へ近づいた。
『あなたは誰?』
指の動きが止まる。
『この宿で死んだ人?』
返事はない。
『エルザとグレゴールの記憶を混ぜたのは、あなた?』
壁の中から、低い笑い声が漏れた。
『違う』
初めて質問に答えた。
『では、誰が』
『鐘』
ミラの表情が強張る。
『鐘がやったの?』
『鐘は、重ねる』
「何を重ねる」
レインが尋ねる。
女の声が再び重なった。
『死』
『時』
『名』
『忘れた者』
白い指が一斉に引っ込んだ。
壁の奥で何かが這う。
二〇三号室から二〇四号室。
二〇四号室から廊下。
天井裏を通り、一階へ向かう。
宿全体が軋んだ。
その直後、食堂から客たちの悲鳴が上がった。
「下です!」
オスカーが立ち上がる。
三人は客室を飛び出した。
階段を駆け下りる途中、壁の中を白い影が並走している。
魔石灯が一つずつ消えていく。
一階の食堂では、宿泊客たちが出口へ殺到していた。
「壁から手が出た!」
「女が笑っている!」
「悪霊だ!」
普段は幽霊の見えない客にも、白い指が見えている。
壁紙が内側から膨らみ、無数の手の形が浮かび上がっていた。
「全員、外へ出てください!」
オスカーが叫ぶ。
客たちは荷物も持たず、宿の外へ逃げていく。
厨房から従業員たちも飛び出してきた。
最後の一人が外へ出たことを確認し、オスカーは扉を閉めた。
「宿が……」
壁の中から笑い声が続く。
レインは食堂中央へ立ち、周囲を見回した。
幽霊がいる場所には、冷気や光の歪みが生じる。
だが、今は宿全体が一つの巨大な幽霊になったようだった。
「エルザ!」
レインが呼ぶ。
二階から彼女の声が返る。
『ここにいるわ!』
「グレゴールは」
『隣の部屋!』
二人は移動していない。
ならば、宿全体を動き回る白い女は別の存在だ。
「オスカーさん。過去の火災記録をすべて見せてください」
「今ですか?」
「この存在は、火災と改築された壁に関係しています」
「ですが、ここにいて大丈夫なんですか」
「外へ出ても、原因は消えません」
オスカーは迷った末、地下倉庫へ向かった。
レインとミラも続く。
地下へ下りる階段は狭く、湿った土と古紙の匂いがした。
倉庫には樽、壊れた家具、帳簿を詰めた木箱が並んでいる。
壁の中から聞こえていた音は、地下へ入ると弱くなった。
『ここには来たくないみたい』
ミラが天井を見上げる。
「何かを恐れているのか」
『それとも、入れないのかも』
オスカーが古い木箱を開けた。
「火災に関する記録は、祖父がまとめていました」
中から革紐で束ねられた書類を取り出す。
最初の火災は七十三年前。
厨房から出火。
宿の東側半分が焼失。
死者は三名。
従業員エルザ・ノート。
宿泊者の夫婦二名。
「エルザの名前があります」
「三人目の女ではありませんね」
「ええ。夫婦の妻は六十代でした」
「遺体は全員見つかった?」
オスカーは記録を追った。
「エルザと夫の遺体は発見されています。妻の遺体は……見つかっていません」
「名前は」
「ベアトリス・ハルン」
レインは帳面へ記録した。
だが、白い指の女は若い声も持っていた。
失踪した老女一人で説明できるとは思えない。
「二度目の火災は」
「五十八年前です」
最初の火災から十五年後。
建て直された西棟の屋根裏から出火。
規模は小さく、死者はいないと記録されている。
ただし、改修作業中だった職人が一人行方不明。
「死者なしなのに、行方不明者がいる?」
「当時は、火事の前に仕事を放棄して逃げたと判断されたようです」
「名前は」
「ローレン・ディム。二十九歳の男性です」
壁の女ではない。
「ほかに火災は」
「大きなものは二度です。ただ、四十一年前にも小さな煙騒ぎがありました」
グレゴールが亡くなった年だ。
暖炉の煙道が詰まり、二階客室へ煙が逆流した。
火災には至らなかったが、療養中のグレゴール・ハインがその夜に死亡。
「死因は?」
「病死とされています」
「煙を吸った可能性は」
「記録にはありません」
グレゴール本人は、自分が咳をしていたことしか覚えていなかった。
壁の中では、異なる火災と死が同じ出来事として重なっている。
「改築履歴はありますか」
「こちらに」
建物の図面が広げられた。
最初の建物。
七十三年前の再建。
五十八年前の改修。
四十一年前の煙道修理。
複数の図面を重ねると、奇妙な点が見つかった。
二〇三号室と二〇四号室の間にある壁。
現在は一直線だが、最初の宿では小さな空間が存在していた。
「この空間は何です」
「収納庫でしょうか」
「出入口がない」
図面上では、廊下からも客室からも入れない。
縦二歩、横一歩ほどの細長い空間。
最初の火災後、その空間ごと壁で塞がれている。
「火災前の記録を見てください」
オスカーがさらに古い帳簿を探す。
宿の備品一覧。
部屋の用途。
従業員の勤務記録。
やがて一枚の紙が見つかった。
「《鳴り部屋》」
「何です、それは」
「分かりません。二階東側、鳴り部屋と記されています」
備考欄には、短い一文だけがあった。
夜間の使用を禁ず。
ミラが紙へ顔を近づける。
『ここ、黒い』
「何が」
『文字の後ろに、別の文字がある』
レインには見えない。
「読めるか」
『少しだけ』
ミラは目を細めた。
『鐘を……置く……部屋』
オスカーが息をのむ。
「鐘?」
「宿に鐘があった記録は」
「食事や緊急時に使う小さな鐘なら、今もあります。しかし、専用の部屋を作るほどのものでは……」
レインは布包みを開いた。
焦げた鐘の破片。
銀色の輪の模様。
最初の火災で焼け、壁の内部へ残された。
「この宿は、鐘を保管するために建てられた可能性があります」
「宿が?」
「少なくとも、創建時には鐘専用の部屋があった」
そのとき、地下倉庫の奥から音がした。
こん。
小さな金属音。
三人が振り返る。
樽と木箱の間に、一本の細い通路がある。
「この先は?」
「ただの壁です」
オスカーが角灯を近づける。
石壁の一部だけ色が違う。
後から塞がれた跡だった。
レインが触れると、聞き書き帳が鞄の中で震えた。
帳面を開く。
新しい文字が浮かんでいる。
名簿にない者は、名を持たないのではない。
名簿から消された。
「この壁を開けます」
「地下にも部屋が?」
「二階の鳴り部屋と同じ位置です」
オスカーは工具を取り出し、石を一つずつ外した。
かなり古い塞ぎ方だった。
石の奥には、暗い空洞がある。
冷たい空気が流れ出した。
腐臭ではない。
乾燥した紙と、燃えた木の匂い。
人一人が通れるほど穴を広げ、レインは角灯を差し入れた。
小さな地下室だった。
壁一面に、紙が貼られている。
人の名前。
生年月日。
死亡日。
死因。
宿泊した部屋。
何百人分もの記録が、隙間なく並んでいた。
「宿泊者名簿とは違う」
オスカーが震える声で言った。
「この宿で亡くなった者の記録です」
「そんなに多くの人が?」
「この宿で直接死んだ者だけではない」
レインは一枚の紙を見る。
宿泊後、街道で死亡。
別の紙には、宿泊から十年後に病死。
この宿を利用した者の死を、誰かが追い続けていた。
部屋の中央には、黒く焼けた台座がある。
鐘を置いていたと思われる形。
その周囲に、十三本の細い溝が刻まれていた。
『レイン』
ミラの声が震えた。
『ここに、女の人がいる』
「どこだ」
『紙の中』
壁一面の名前が、一斉にざわめいた。
紙から白い指が生える。
一本。
二本。
十本。
何百本。
名前の書かれた紙を突き破り、部屋中央へ伸びてくる。
『返せ』
重なった声が地下室を満たした。
レインは鐘の破片を握る。
「何を返せばいい」
『名前』
「あなたの名前は、この中にあるのか」
『ない』
「消されたのか」
『違う』
白い指が絡み合い、人の形を作り始めた。
腕。
肩。
長い髪。
顔の部分だけが空洞になっている。
『私は、一人ではない』
声がした。
『ここで名を取られた者』
『ここで時を重ねられた者』
『誰にも死を知られなかった者』
『その全部』
顔のない女は、複数の死者が混ざった存在だった。
一人の幽霊ではない。
宿を訪れ、鐘の影響を受け、名前や記憶を奪われた死者たち。
それらが壁の中で絡み合い、一つの形になっている。
「エルザとグレゴールを混ぜたのも、あなたか」
『違う』
「鐘がした?」
『破片が、近い死を重ねた』
「なぜ二人は互いを生者だと思った」
『生者と死者の違いを、鐘が薄くした』
レインは理解した。
エルザは七十三年前。
グレゴールは四十一年前。
異なる時代に、同じ場所で死んだ。
壁に残された鐘の破片が、二人の記憶と時間を重ねた。
その結果、互いの声を生者の声として認識した。
ミラの声がグレゴールへ届かなかったのは、鐘の影響で彼の認識が固定されていたためだ。
「あなたは二人を傷つけたいのか」
『違う』
「では、なぜ壁から出てきた」
『破片が動いた』
レインが鐘の破片を取り出したことで、重ねられていた記憶が揺らいだ。
顔のない女は鐘そのものを守ろうとしたのではない。
自分たちの形が崩れることを恐れていた。
「破片を壊したら、あなたたちはどうなる」
『分からない』
何百もの声が同時に答えた。
『消える』
『戻る』
『思い出す』
『また忘れる』
それぞれが違う答えを持っている。
レインは帳面へ書き留めた。
複数の霊が混合した集合体。
個別の記憶と発言が分離していない。
鐘の破片を核としている可能性。
「一人ずつ分かれることはできるか」
女の身体が揺れる。
『名前があれば』
「名前を集めればいいのか」
『名を呼べば、死は分かれる』
地下室の壁には、多数の名前がある。
だが、名簿から消された者もいる。
「全員の名前がここにあるとは限らない」
『だから、聞け』
「誰に」
『死者に』
顔のない女がレインへ手を伸ばす。
今度の動きに攻撃する意志はなかった。
指先が聞き書き帳へ触れる。
頁が激しくめくれた。
何も書かれていなかった頁に、次々と文字が現れる。
すべて名前だった。
ただし途中で途切れている。
姓だけ。
最初の一文字だけ。
古すぎて読めない文字。
名前ではなく、職業や呼び名しか残っていないもの。
その数は三十を超えていた。
最後の頁に、一文が加わる。
忘れられた死者は、他者の記憶へ混ざる。
顔のない女の身体が崩れ始めた。
「待て。まだ聞きたいことがある」
『鐘を、元の場所へ返せ』
「元の場所はどこだ」
『神のいない礼拝堂』
「どこにある」
『鐘が覚えている』
白い指が紙の中へ戻っていく。
最後に、若い女性の声だけが残った。
『エルザを、火の中へ戻さないで』
その言葉を最後に、地下室は静かになった。
壁の名前も動きを止める。
レインは鐘の破片を布へ包み直した。
「今の存在は、消えたんですか」
オスカーが尋ねる。
「壁の中へ戻っただけです」
「また出てくる?」
「可能性はあります」
「どうすれば」
「まず、二階の壁を元通りに塞がないでください」
「開けたままに?」
「鐘の破片を壁へ戻せば、二人の記憶が再び混ざります」
「では、その破片を処分すれば」
「壊した結果、壁の中の死者たちまで消える可能性がある」
オスカーは言葉を失った。
簡単に悪霊として追い払える存在ではない。
何十人もの死者が混ざり、声すら失っている。
彼らを元へ戻すには、一人ずつ名前を調べる必要がある。
「宿泊記録を貸してください」
「まさか、全部調べるつもりですか」
「すぐに全部は無理です。ですが、顔のない存在に混ざっている死者を特定できれば、少しずつ分離できるかもしれない」
「そこまでする理由が」
レインは壁一面の名前を見た。
誰かが何十年も書き続けた記録。
それでも、すべての死者を残すことはできなかった。
「名前が残らなければ、他人の記憶に混ざって、自分が誰だったか分からなくなる」
ミラが黙って聞いている。
「それを知った以上、放ってはおけません」
地下室を出た後、レインたちは再び二階へ向かった。
壁の中の笑い声は消えている。
二〇三号室では、エルザが床へ座っていた。
二〇四号室では、グレゴールが壁際に立っている。
「二人とも、今は互いの姿が見えるか」
レインが修繕板をさらに外す。
壁に人の顔ほどの穴が開いた。
だが、物理的な穴だけでは足りない。
レインは鐘の破片を壁から離し、廊下へ置いた。
エルザとグレゴールの輪郭が揺れる。
二つの部屋に重なっていた時間が、少しずつ分離していく。
エルザの窓の外には、夏の夜。
グレゴールの窓には、冬の雪景色。
一瞬だけ異なる季節が見え、やがて現在の夜へ戻った。
『聞こえる?』
エルザが壁の穴へ近づく。
グレゴールが顔を上げる。
『ああ』
『私が見える?』
『見える』
二人は初めて、互いの姿を直接見た。
若い給仕の女性。
白髭の老人。
長い間、壁越しに話していた相手が、想像とはまるで違う姿で立っている。
グレゴールが目を細めた。
『思っていたより若いな』
エルザが笑う。
『あなたは、思っていたよりお爺さんね』
『声は若いつもりだった』
『少し無理があったわ』
『毎晩笑っていたのは、そのせいか』
『笑っていたんじゃない。笑わせようとしていたの』
『わしは笑っていたぞ』
『壁の外には、私の笑い声として聞こえていたみたい』
『それは迷惑な話だ』
『本当に』
二人は同時に笑った。
今度の笑い声は壁を通らず、部屋の中だけに響いた。
ミラが嬉しそうに二人を見ている。
レインは帳面へ記録した。
鐘の破片を壁から除去。
エルザとグレゴール、相互認識に成功。
異なる死亡時期の記憶分離を確認。
「これからどうする」
レインが二人へ尋ねる。
『この部屋に残るわ』
エルザが答えた。
『火はもう見えない。扉にも近づける気がする』
グレゴールもうなずく。
『わしも、しばらくここにいる』
「成仏したいとは思わないのか」
『死んでいたと知ったばかりだぞ』
『少し考えさせて』
二人とも消えることを望んでいない。
レインはそれを否定しなかった。
「宿の客を脅かさないこと」
『努力するわ』
「ミラと同じ答えだな」
『では、分かった』
「夜中に大声で笑わない」
『壁越しでなければ、外には聞こえないでしょう?』
「確認するまでは小声にしてくれ」
オスカーは恐る恐る部屋へ入った。
「ここに、お二人がいるんですね」
「います」
「私の声は届きますか」
エルザとグレゴールは反応しない。
「直接は聞こえていません。俺が伝えます」
オスカーは深く頭を下げた。
「長い間、部屋を閉めたままにして申し訳ありませんでした」
レインが言葉を伝える。
エルザは困ったように笑った。
『あなたのせいではないわ。私も、外へ出ようとしなかったから』
グレゴールは髭を撫でた。
『できれば、部屋の椅子を新しくしてくれ。身体が半分沈む』
「幽霊なのに椅子が必要なのか」
『気分の問題だ』
オスカーは事情を聞き、何度もうなずいた。
「二〇三号室と二〇四号室は、しばらく客室として使いません。お二人の部屋として整えます」
「経営は大丈夫ですか」
「壁から笑い声がする宿として噂が広がるよりはましです」
『私たちがいることを宣伝したら?』
エルザが提案する。
「悪霊の宿として封鎖される」
『残念』
事件はひとまず収まった。
だが、レインの手元には焦げた鐘の破片が残っている。
地下室には、名前を失った死者たちがいる。
そして「神のいない礼拝堂」という新たな場所が示された。
帰宅する前、レインは破片を机の上へ置き、詳しく観察した。
焦げた表面を布で拭う。
銀色の輪の内側に、細かな文字が刻まれていた。
エルナのような古文書の専門家でなければ読めない文字だ。
レインが帳面へ形を写していると、ミラが肩越しにのぞき込んだ。
『これ、十三じゃない?』
「何が」
『模様の中。小さい線が十三本ある』
よく見ると、銀の輪から外側へ伸びる線が十三本ある。
黒い箱に入っていた銀板も十三枚。
帳面に現れた警告も十三度の鐘。
偶然ではない。
レインは破片を裏返した。
裏面には、焼け焦げて読めなくなった文字がある。
だが、一部だけ残っていた。
「……第一鐘?」
その言葉を口にした瞬間、破片が震えた。
ゴン。
低い音が一度だけ響く。
宿の幽霊たちが一斉に静まり返った。
ミラが耳を押さえる。
『違う』
「何が」
『これは第一の鐘じゃない』
「では、何だ」
ミラは破片を見つめたまま、青ざめた。
『第一の鐘から、削り取られた欠片』
彼女の瞳に、知らない光景が映っていた。
巨大な鐘。
白い服を着た人々。
床に並べられた、数えきれない死者。
そして、鐘の前に立つ十三人の影。
『私、これを見たことがある』
「いつ」
『分からない』
ミラは頭を抱える。
『でも、あの鐘が鳴ったとき、誰かが言った』
「何と」
『名前を捨てれば、痛くなくなるって』
次の瞬間、ミラの身体が大きく揺らいだ。
輪郭が薄れ、向こう側の壁が透けて見える。
「ミラ!」
レインが手を伸ばす。
当然、その腕は彼女をすり抜けた。
『大丈夫』
「大丈夫に見えない」
『少し、思い出しただけ』
「何を」
ミラは震えながら顔を上げた。
『あの鐘の前に、私がいた』
レインは言葉を失った。
『でも、私は一人じゃなかった』
「十三人いたのか」
『たぶん』
ミラは自分の胸元を押さえる。
『みんな、名前を呼ばれてた』
「お前の名前も?」
『私の番になる前に、誰かが鐘を鳴らした』
彼女の姿がさらに薄れる。
『それから、何も分からなくなった』
焦げた鐘の破片に、新しい亀裂が走った。
そこから黒い煙のようなものが漏れ出す。
煙は文字となり、机の上へ落ちた。
第二の名は、壁の中で失われた。
文字はすぐに消えた。
レインは帳面を開き、同じ文を書き残す。
一つ目の名。
二つ目の名。
誰の名前なのかは分からない。
だが、失われた名が増えるたび、鐘に何かが近づいている。
レインは宿の地下室を振り返った。
壁の中に混ざった死者たち。
名前を取り戻せば、一人ずつ分けられるかもしれない。
それはミラにも当てはまるのではないか。
彼女の本当の名前を見つければ、記憶も戻る。
鐘が奪ったものを取り返せる。
「ミラ」
『何?』
「お前の名前を探す」
ミラが目を見開いた。
「墓地の記録だけではない。鐘の破片、この宿の地下室、神のいない礼拝堂。全部調べる」
『どうして』
「聞き書きを始めたからだ」
『私、まだ何も話せないよ』
「話せないことも記録になる」
レインは帳面のミラの項目を開いた。
空欄だった「目的」の欄へ書き加える。
本当の名前と、鐘を聞いた理由を探す。
ミラは頁をのぞき込み、少しだけ笑った。
『今度は見ても怒らないの?』
「本人に伝えるべき内容だからな」
『ありがとう』
その言葉は、今までの軽い調子とは違っていた。
レインは照れを隠すように帳面を閉じる。
「ただし、勝手についてくるなという命令は変わらない」
『もう一緒に調べるって決めたでしょう』
「調査協力と無断同行は別だ」
『同じだと思う』
「違う」
宿の外では、夜明け前の空が薄く白み始めていた。
二つの異なる時代を重ねていた夜が終わる。
だが、鐘の謎はより深くなった。
レインは焦げた破片を鞄へ入れた。
その破片が、聖導教会と彼らを結びつけることになるとは、まだ知らなかった。
宿の外へ一歩出たとき、通りの向こうに白い法衣の女性が立っていた。
腰には銀の杖。
胸には女神セレネの紋章。
聖導教会の神官である。
女性は宿を見上げ、次にレインの鞄へ視線を落とした。
「その中にあるものを、こちらへ渡してください」
静かな声だった。
だが、拒否を許す響きではなかった。
「教会が回収すべき、穢れた遺物です」
ミラがレインの背後へ隠れる。
女性神官は、見えていないはずのミラがいる場所を正確に見つめた。
「そして、あなたにも話を聞かせていただきます」
レインは鞄の口を押さえた。
「何についてです」
神官は銀の杖を地面へ突く。
「死者と会話しているという疑いについてです」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
顔のない女は、名前を失った複数の死者が混ざり合った存在でした。
エルザとグレゴールは初めて互いの姿を認識しましたが、焦げた鐘の破片とミラの過去には、さらに大きな謎が残っています。
次回、第6話では女性神官がレインへ接触し、鐘の破片を巡って聖導教会が動き始めます。




