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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第二章 壁の中で笑う女

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第4話 宿屋の壁から笑い声がする

夜ごと、壁の中から女の笑い声が響く古い宿屋。


悪霊退治を求められたレインは、その声が本当に笑っているのかを確かめる。

 死者の言葉を記録し始めてから、レインの日常は明らかに悪くなった。


 朝は父と墓地の手入れをする。


 昼は埋葬記録と、街道で亡くなった者の名簿を調べる。


 夜は幽霊たちから、頼んでもいない話を聞かされる。


 眠る時間になれば、ミラが家の窓から入ってくる。


『レイン、起きてる?』


「寝ている」


『返事してる』


「寝言だ」


『器用ね』


「帰れ」


『帰る場所がない』


 そう言われると、強く追い返せない。


 結局、ミラはレインの部屋に居座るようになった。


 もっとも、幽霊なので寝床も食事も必要ない。


 椅子を使うわけでもない。


 ただ部屋の隅に浮かび、レインが本を読む様子をじっと見ている。


 何もしないからこそ落ち着かなかった。


「見られていると眠れない」


『目を閉じれば?』


「お前が閉じろ」


『眠くない』


「幽霊は眠らないのか」


『分からない』


「便利な言葉だな」


 名前を失った少女は、何を尋ねても「分からない」と答える。


 だが、それは嘘ではない。


 ミラの記憶は、鐘の音を境に抜け落ちている。


 エドガーが盗んだ黒い箱のように、何者かが彼女の記憶を奪ったのかもしれない。


 レインは聞き書き帳を開いた。


 ミラの項目には、まだ空欄が多い。


 生前の名前。


 出身地。


 死亡時期。


 家族。


 死因。


 何一つ判明していない。


 分かっているのは、遠くから鳴る謎の鐘を聞けること。


 鐘を聞くたび、強い恐怖を示すこと。


 そして墓地の幽霊たちよりも、死者の声を細かく聞き分けられることだけだった。


『また私のこと書いてる』


「見るな」


『見てない。顔で分かる』


「どんな顔だ」


『難しいことを考えているのに、答えが出ない顔』


「いつも同じ顔だと言いたいのか」


『そうかも』


 レインが帳面を閉じたとき、階下から父の声がした。


「レイン! 客だぞ!」


「こんな時間に?」


 窓の外はすでに暗い。


 夕食を終えた後に訪ねてくる客など、よほど急ぎの用がある者だけだ。


 レインが階下へ下りると、玄関に大柄な男が立っていた。


 丸い腹。


 濃い口ひげ。


 上等ではないが、丁寧に手入れされた外套。


 男は帽子を胸へ抱え、落ち着きなく周囲を見回している。


「こちらが息子のレインです」


 父ダリオが紹介した。


「墓地の記録でしたら、私より息子のほうが詳しいこともあります」


「いや、墓の用ではないんです」


 男は声を低くした。


「亡くなった者のことで、相談したい」


 レインの警戒心が上がる。


 父は何も知らない。


 レインが幽霊を見られることも、エドガーの事件を調べたことも話していないはずだ。


「俺に、ですか」


「町の衛兵から聞きました。街道の事故について、墓守の息子が妙に詳しい情報を持ってきたと」


「父から聞いた話を伝えただけです」


「そういうことにしておきましょう」


 男は無理に笑った。


 何かを知っている顔だった。


「私は、宿屋《眠り鹿亭》の主人、オスカーと申します」


 その名ならレインも知っている。


 町の南門近くにある古い宿屋だ。


 建物は古いが、料理がうまく、旅商人の評判も悪くない。


「宿で何か?」


「女の笑い声がするんです」


 父が眉を寄せた。


「酔った客ではなく?」


「客ではありません。誰も泊まっていない部屋から聞こえるんです」


 オスカーは帽子を握りしめた。


「毎晩、決まって深夜になると、壁の中から笑い声がする。最初は鼠か、風の音だと思いました。ですが三日前、宿泊客が聞いたんです」


「その客は何と?」


「女が壁の中で笑っている、と」


 レインの背後で、ミラが興味深そうに顔を出した。


 もちろん、オスカーと父には見えていない。


『壁の中に人がいるの?』


「黙っていろ」


 レインが小声で言うと、父が不思議そうに見た。


「何か言ったか?」


「独り言です」


 オスカーは身を乗り出した。


「今夜、来ていただけませんか」


「なぜ俺が」


「神殿へ相談する前に、確かめたいんです」


 神殿へ怪異を報告すれば、神官が派遣される。


 怪異が悪霊と判断されれば、建物ごと封鎖される可能性もある。


 宿屋にとっては致命的だ。


「私は幽霊退治などできません」


「退治してほしいとは言いません。ただ、亡くなった者に関係があるのかどうか、それだけでも」


 父が心配そうにレインを見る。


「危ないことではないのか」


「音を確認するだけです」


『嘘。絶対に話しかけるでしょう』


 ミラが耳元でささやく。


 レインは無視した。


「分かりました。今夜だけ確認します」


 オスカーの顔が明るくなる。


「ありがとうございます!」


「ただし、俺が見聞きしたことを無断で誰かに話さないでください」


「もちろんです」


「神殿へ報告する場合も、先に相談してください」


「約束します」


 父には角灯と工具を持ち、壁の破損を確認するだけだと説明した。


 完全な嘘ではない。


 壁の中から声がするなら、壁も確認する必要がある。


 その声の主が死者である可能性が高いことを隠しているだけだ。


     ◇


 《眠り鹿亭》は、南門へ続く大通りから一本外れた場所に建っていた。


 二階建ての木造建築で、正面には枝角を持つ鹿の看板が吊るされている。


 夜風に揺れるたび、金具がきいきいと鳴った。


 宿へ入ると、食堂には数人の客がいた。


 旅商人らしい男たちが酒を飲んでいるが、声は小さい。


 皆、二階を気にしている。


 噂はすでに広まっているらしい。


「今夜の客は三組だけです」


 オスカーが声を潜める。


「笑い声がする部屋の両隣は空けました」


「その部屋は?」


「二〇三号室です。今は倉庫代わりにしています」


「以前は客室だった?」


「ええ。ただ、十年ほど前から使っていません」


「なぜです」


 オスカーの表情が曇った。


「客が嫌がるようになったからです」


「笑い声は最近始まったのでは?」


「はっきり聞こえるようになったのが最近です。それ以前から、あの部屋では妙なことがありました」


 部屋へ置いた物の位置が変わる。


 窓を閉めても朝には開いている。


 誰もいないのに、床がきしむ。


 宿泊客が、眠っている間に誰かから髪を撫でられたと訴える。


「それを十年間放置したんですか」


「部屋を閉めれば済むと思っていました」


「済んでいませんね」


「おっしゃる通りです」


 ミラが食堂の天井を見上げていた。


『上にいる』


「分かるのか」


『女の人の声がする』


「笑っている?」


『今は歌ってる』


「歌?」


『聞いたことのない歌』


 オスカーにはレインの声しか聞こえない。


 彼は青ざめた顔で尋ねた。


「もう、何かいるんですか」


「まだ分かりません」


『いるよ』


「黙っていろ」


「私にですか?」


「違います」


 オスカーの顔色がさらに悪くなる。


 レインは説明を諦め、階段へ向かった。


 二階の廊下は薄暗い。


 壁に設置された魔石灯が、弱い青色の光を放っている。


 建物はかなり古く、歩くたびに床板がきしんだ。


 廊下の突き当たりに二〇三号室がある。


 扉には錠がかかっていた。


「鍵を」


 オスカーが震える手で鍵を差し込む。


 金具が回り、扉が開いた。


 中には古い椅子、壊れた机、使われなくなった寝具が積み上げられている。


 埃っぽい匂いがした。


 窓は閉じている。


 壁にも目立った穴はない。


 だが部屋へ入った瞬間、レインは視線を感じた。


 ミラが右側の壁を指さす。


『あそこ』


「壁の中か」


『壁の向こう』


 レインは壁へ耳を近づけた。


 普通の音は何も聞こえない。


 隣室は空室のはずだ。


「オスカーさん。笑い声はどこから聞こえますか」


「その壁です」


「隣は?」


「二〇四号室です。ただ、今夜は誰も泊めていません」


 レインは二〇四号室の鍵も借りた。


 隣室へ入る。


 こちらは通常の客室として整えられている。


 ベッド。


 小さな机。


 洗面台。


 窓辺の椅子。


 人はいない。


 しかし椅子には、一人の老人が座っていた。


 半透明の身体。


 古い型の上着。


 白い髭。


 老人は窓の外を眺め、ぶつぶつと何かを話している。


『今日は来ないのかのう』


 レインには聞こえた。


「誰を待っている」


 老人が振り返る。


『おや』


 驚いたように目を細める。


『お前さん、わしが見えるのか』


「見える」


『珍しい客だ』


 ミラが老人の周囲を回った。


『この人も幽霊』


「見れば分かる」


『誰と話してるの?』


「ミラ、直接聞け」


 ミラが老人へ話しかける。


『誰を待ってるんですか?』


 老人は反応しない。


 ミラがもう一度尋ねる。


 やはり返事はない。


『聞こえてないみたい』


「幽霊同士でも話せないことがあるのか」


『初めて』


 レインは帳面を取り出した。


「名前は?」


『グレゴール』


「いつからこの部屋にいる」


『さて。長いことになる』


「死んだ時期は?」


 老人は不機嫌そうに眉をひそめた。


『わしは死んでおらん』


 レインは筆を止めた。


「身体が透けている」


『年を取れば薄くもなる』


「ならない」


『なるかもしれん』


「椅子から身体が半分沈んでいる」


 グレゴールが下を見る。


 確かに腰から下が椅子へ入り込んでいた。


『椅子が悪い』


「あなたは幽霊だ」


『失礼な若者だな』


 エドガーと似た反応だった。


 死を理解していない幽霊は珍しくない。


 だが、今回は別の点が気になる。


「誰を待っている」


『隣室の娘だ』


「二〇三号室にいる女性か」


『そうだ』


「名前は?」


『知らん』


「知らないのに待っている?」


『毎晩、わしを笑わせに来る』


「笑わせる?」


『壁越しに面白い話をするんだ』


 レインはミラを見る。


『女の人はいる。でも、今は歌ってる』


「老人には笑い声として聞こえるのかもしれない」


『どうして?』


「分からない」


『私の言葉を使った』


「便利だからな」


 オスカーは部屋の入口で立ち尽くしている。


 彼には老人の姿が見えないため、レインが空の椅子へ話しかけているようにしか見えない。


「本当に、そこに誰かいるんですか」


「老人がいます」


「老人?」


「グレゴールという名前に心当たりは?」


 オスカーは考え込んだ。


「聞いたことがありません」


「古い宿泊記録は残っていますか」


「地下倉庫にあります。先代、その前の代の記録も捨てずに保管しています」


「後で確認しましょう」


 そのとき、壁の向こうから声がした。


『ねえ』


 女の声。


 レインにも、はっきり聞こえた。


『今日も眠れないの?』


 グレゴールが嬉しそうに壁を見る。


『待っていたぞ』


 レインは二〇三号室へ戻った。


 ミラも続く。


 オスカーは廊下で迷った末、恐る恐るついてきた。


 女の幽霊は、壁際に立っていた。


 年齢は二十代半ばほど。


 淡い茶色の髪を後ろで束ね、古い給仕服を着ている。


 胸元と左腕が黒く焦げていた。


 だが、顔には苦痛よりも柔らかな笑みが浮かんでいる。


『また来たのね』


 女は壁へ話しかけている。


『今日は何のお話がいい?』


「あなたが、夜ごと笑っている女性か」


 レインが声をかける。


 女は驚いて振り返った。


『私が見えるの?』


「見えるし、声も聞こえる」


『まあ』


 女は口元へ手を当てた。


 その仕草の途中で、焦げた指先が一瞬崩れ、黒い灰のように散った。


 すぐに元へ戻る。


「名前は?」


『エルザ』


「この宿の従業員だった?」


『ええ。給仕と部屋の掃除をしていたの』


「いつ頃?」


 エルザは首を傾げた。


『少し前』


「何年前か分かる?」


『そこまでは』


「自分が死んでいることは?」


『知っているわ』


 グレゴールとは違い、自覚がある。


「壁の向こうの老人を知っているな」


『もちろん。毎晩お話ししているもの』


「彼も幽霊だ」


 エルザは笑った。


『冗談でしょう』


「冗談ではない」


『あの人は生きているわ』


「なぜそう思う」


『だって、毎晩部屋に泊まりに来るもの』


「幽霊でも同じ場所に残る」


『食事も頼むわ』


「実際に料理を食べているのを見た?」


 エルザの笑みが少し曇る。


『見てはいないけれど』


「部屋から出るところは?」


『最近は見ていないわね』


「話したことは?」


『毎晩話しているでしょう』


「直接、顔を合わせて?」


『壁越しに』


 レインは帳面へ記録した。


 エルザ。


 元宿屋従業員。


 死亡自覚あり。


 隣室のグレゴールを生者と認識。


 壁越しに会話。


「なぜ壁越しなんだ」


『私、この部屋から出られないの』


「扉は通れない?」


『扉へ近づくと、火が見える』


 エルザの表情が初めて強張った。


『煙が入ってきて、息ができなくなる。死んでいるのに、おかしいでしょう』


 胸元の焦げ跡。


 火災で亡くなった可能性が高い。


「窓は?」


『開けられない』


「壁は越えられる?」


『この壁だけ、声が通るの』


 レインは二〇三号室と二〇四号室を隔てる壁へ触れた。


 古い木材。


 部分的に新しい板が使われている。


 過去に修繕された跡がある。


「毎晩、グレゴールを笑わせているのか」


『笑わせようとしているの』


「宿の客には、あなたの声が笑い声として聞こえている」


『私が笑っているように?』


「そうだ」


 エルザは困惑した。


『私は話しているだけよ』


「どんな話を」


『昔、この宿に来た変なお客さんの話。料理に塩を入れすぎた日の話。猫が主人の帽子を盗んだ話』


 恐怖を呼ぶ内容ではない。


「なぜグレゴールを笑わせたい」


 エルザは壁へ視線を向ける。


『あの人、いつも寂しそうだから』


「知り合いではない?」


『いいえ。お客さんとして来るようになったのは、私が死んだ後だと思う』


「どうしてそう思う」


『生きていた頃には見た覚えがないから』


「グレゴールは、あなたが隣室にいると思っている」


『いるでしょう』


「姿を見たことは?」


『ないわ』


「声だけ?」


『ええ』


 両者とも、壁越しの声しか知らない。


 姿を見ていないため、互いを生者だと思い込んでいる。


 だが、それだけでは奇妙な点が残る。


 通常、幽霊同士の声は生者の声よりも届きやすい。


 それなのにミラの声はグレゴールへ届かず、エルザとグレゴールは互いの正体を認識できない。


 何かが二人の間を歪めている。


「エルザ。あなたが死んだ火事について聞きたい」


 エルザの輪郭が揺れた。


『火事?』


「服に焦げ跡がある」


『これは』


 彼女は胸元を見る。


『厨房で火傷した跡よ』


「左腕全体が焼けている」


『そうだったかしら』


「死因を覚えていないのか」


『病気だったと思う』


「どんな病気?」


『熱が出て……眠って……』


 声が曖昧になる。


 ミラがエルザの顔をのぞき込んだ。


『本当に覚えてないみたい』


「グレゴールは火事について知っているかもしれない」


 レインは再び隣室へ戻った。


 老人は壁の前へ椅子を動かし、満足そうに目を閉じている。


『今夜も面白い娘だ』


「エルザという名前だ」


『そうか。初めて知った』


「彼女は幽霊だ」


『まだ言うか』


「そして火事で亡くなった可能性がある」


 グレゴールの表情が固まった。


『火事』


「知っているのか」


『この宿は、昔焼けた』


「いつ?」


『わしが若い頃だ』


「その火事でエルザが死んだ?」


『知らん』


「あなたは何歳だった」


『二十七だ』


「その後も宿へ来ていた?」


『ああ。建て直されてから、何度も泊まった』


「最後に泊まったのは」


『昨日だ』


「昨日、この部屋へ案内した者は誰だ」


 グレゴールは答えようとして、口を閉じた。


『宿の主人だ』


「名前は?」


『オスカー』


 部屋の入口にいたオスカーが身体を震わせる。


「私は、この方を案内していません」


「見覚えも?」


「ありません」


 グレゴールがオスカーの声へ反応した。


『誰かいるのか』


「宿の主人だ」


『主人なら、若い男だろう』


 オスカーは五十歳を超えている。


「あなたが知っている宿の主人は、誰だ」


『ロベルトだ』


 オスカーの顔色が変わった。


「祖父です」


「いつ亡くなりました」


「三十八年前です」


 レインはグレゴールを見る。


「あなたは、三十八年以上前の宿を昨日だと思っている」


『馬鹿な』


「オスカーさん。祖父の時代の宿泊記録を確認したい」


「すぐに」


 地下倉庫から運ばれてきた記録帳は、埃と湿気の匂いがした。


 オスカーが古い頁を慎重にめくる。


 宿泊者名。


 部屋番号。


 滞在日数。


 支払い記録。


 数十年前の文字が細かく並んでいる。


「グレゴールという名を探してください」


 三人で記録を追う。


 ミラは読めない文字を眺めて、すぐに飽きた。


『死者本人に聞いたほうが早いのに』


「本人の記憶が正しいとは限らない」


『エドガーみたいに?』


「そうだ」


 やがてオスカーが声を上げた。


「ありました」


 四十一年前の宿泊記録。


 グレゴール・ハイン。


 二〇四号室。


 滞在二十七日。


 備考欄には、療養のため長期滞在と書かれている。


「療養?」


 レインがグレゴールへ尋ねる。


「病気だったのか」


『少し咳が出ていただけだ』


「二十七日も宿へ泊まっている」


『仕事で滞在していた』


 記録帳の次の頁には、赤い線が引かれていた。


 宿泊費未払い。


 宿泊者、滞在中に死亡。


 オスカーが息をのむ。


「グレゴールさんは、この部屋で亡くなっています」


『嘘だ』


 老人は立ち上がった。


 その身体が椅子をすり抜ける。


『わしは昨日ここへ来た!』


「誰と話した」


『主人と』


「主人のロベルトは三十八年前に死んだ」


『そんなはずはない』


「最後に食事をしたのは?」


『昨日の夜だ』


「何を食べた」


『……スープだ』


「味は」


『温かかった』


「どんな味だった」


 老人は答えない。


「本当に食べたのか」


『食べた』


「器に触れた?」


『触れた』


「その器は今どこにある」


『知らん!』


 グレゴールの声が荒くなる。


 壁の向こうで、エルザの声が止まった。


『どうしたの?』


 彼女には老人の動揺が伝わったらしい。


『嫌な夢でも見た?』


 グレゴールは壁へ向かい、震える手を伸ばす。


『わしは、生きている』


 その言葉は、レインではなく、壁の向こうのエルザへ向けたものだった。


『生きているとも』


 エルザは答える。


『ええ。分かっているわ』


 二人は互いを安心させるために、同じ誤解を支え合っている。


 レインはすぐに真実を突きつけるべきか迷った。


 エドガーのように、死を認めることが解放につながる場合もある。


 だが、二人が長年保ってきた関係を壊す可能性もある。


 そのとき、ミラが壁へ耳を近づけた。


『変な音がする』


「どんな音だ」


『火が燃える音』


 エルザの部屋ではない。


 壁の内部から聞こえているらしい。


 レインは修繕された板を叩いた。


 一か所だけ、音が違う。


「オスカーさん。この壁を開けられますか」


「今からですか?」


「声の原因が中にあるかもしれません」


 オスカーは工具を取りに走った。


 板を固定する釘を抜き、壁の一部を外す。


 内部には古い柱と、黒く焦げた木材が残っていた。


 宿を建て直した際、焼けた部分の一部を壁の中へ残していたのだ。


 焦げた木片の間に、金属らしきものが挟まっている。


 レインは布を巻いた手で、それを取り出した。


 黒く焼けた小さな破片。


 表面には、かすかな模様が刻まれている。


 ミラが破片を見た瞬間、後ずさった。


『鐘』


「鐘の一部か?」


『分からない。でも、あの音と同じ感じがする』


 破片を取り出すと、部屋の空気が急激に冷えた。


 エルザが悲鳴を上げる。


『火が!』


 二〇三号室の壁が、赤い炎に包まれた。


 現実の火ではない。


 オスカーには見えていない。


 だがレインとミラには、過去の火災が再現されているのが見えた。


 炎の中で、エルザが扉を叩いている。


『開けて!』


 過去の声。


 煙。


 崩れる天井。


 誰かが廊下の向こうから叫んでいる。


『この部屋に娘がいる!』


 男の声だった。


 エルザの炎と重なるように、別の光景が現れる。


 二〇四号室。


 ベッドに横たわる老人。


 激しく咳き込みながら、壁の向こうの声を聞いている。


 だが、その部屋には火はない。


 窓の外には雪が降っていた。


 二つの異なる記憶。


 二つの異なる季節。


 それが同じ壁の中で重なっている。


 炎が消えた。


 エルザは床に座り込み、自分の焦げた腕を見つめている。


『思い出した』


「火事で死んだのか」


『ええ』


 声が震えていた。


『扉が開かなかった。煙が入ってきて、窓も壊せなくて……』


「いつの火事だ」


 オスカーが古い記録を調べる。


「宿が最初に焼けたのは、七十三年前です」


「グレゴールが亡くなったのは四十一年前」


 二人は同じ火事で死んだのではない。


 同じ時代ですらない。


 それなのに、壁の中の鐘の破片が二人の記憶をつなぎ、異なる時間を同じ夜として重ねていた。


「エルザ」


『何?』


「グレゴールがこの宿へ来た時、あなたはすでに三十年以上死者だった」


『そんな』


「グレゴールも死者だ。だが、あなたとは違う時代に亡くなった」


 壁の向こうで、老人が声を上げる。


『娘よ』


『はい』


『本当に、死んでいるのか』


 長い沈黙があった。


 エルザは壁へ近づき、焦げた手を当てた。


『ええ』


『わしもか』


『たぶん』


 レインは思わずミラを見る。


 ミラは小さく肩をすくめた。


 グレゴールはしばらく黙っていた。


 やがて、かすかに笑う。


『では、互いにずいぶん長いこと、勘違いしていたものだ』


 エルザも笑った。


 宿泊客が恐れた、壁の中の女の笑い声。


 今度はレインにも、その声がはっきりと笑いに聞こえた。


 恐ろしい笑いではない。


 長年の勘違いを知り、困り果てた末にこぼれた笑いだった。


 だが、問題は終わっていない。


 レインの手にある、焦げた鐘の破片。


 それを包んだ布の上に、黒い文字が浮かんでいた。


 見覚えのある文字。


 聞き書き帳に現れたものと同じ筆跡だった。


二つの死を重ね、時を偽れ。


 レインが読み終えた瞬間、破片の奥から低い鐘の音が響いた。


 ゴン。


 一度だけ。


 ミラが耳を押さえる。


『この音』


 レインには今度、聞こえていた。


 遠くからではない。


 手の中の鐘の破片から鳴っている。


 廊下の魔石灯が一斉に消える。


 暗闇の中、二〇三号室の壁から何者かの声がした。


 エルザでも、グレゴールでもない。


『まだ、思い出すな』


 次の瞬間、壁の中で何かが動いた。


 木材を内側から引っかくような音。


 がり。


 がり。


 がり。


 レインは角灯を掲げる。


 外した壁板の向こう。


 焦げた柱の隙間に、白い指が見えた。


 人間の指ではない。


 関節が多すぎる。


 細長い指が柱をつかみ、ゆっくりとこちら側へ伸びてくる。


 ミラが息をのんだ。


『女の人が、もう一人いる』


「どこだ」


『壁の中』


 レインには指しか見えない。


 だがミラには、その奥にいる何かの姿が見えている。


『顔がない』


 壁の中から、女の笑い声が聞こえた。


 今までのエルザの声とは違う。


 低く、乾き、喉の奥で何人もの声が重なっている。


 その笑い声は、二つの部屋だけでは終わらなかった。


 一階の食堂。


 階段。


 屋根裏。


 宿の壁という壁から、一斉に響き始めた。


 オスカーがその場に座り込む。


「こんな声は、初めてです」


 白い指が、さらに壁から伸びる。


 レインは鐘の破片を強く握った。


 この宿にいたのは、エルザとグレゴールだけではない。


 二人の記憶を重ね、互いを生者だと思い込ませていた何者かがいる。


 そしてそれは、レインたちに正体を知られることを望んでいない。


 聞き書き帳が、鞄の中で勝手に開く。


 新しい頁に、一行だけ文字が現れた。


三人目の死者は、宿泊者名簿に存在しない。


 壁の中の女が、もう一度笑った。


 今度は、レインのすぐ耳元で。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


互いを生者だと思っていたエルザとグレゴール。


しかし二人の記憶を重ねていた、名簿に存在しない三人目の死者が壁の中に潜んでいました。


次回、レインは二度の火災記録と宿の改築履歴を調べ、顔のない女の正体へ迫ります。

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