第39話 思い出してはいけない名前
ベルナードで目を覚ました凪は、自ら消したはずの昔の名前を思い出してしまった。
しかし、その名前はただの過去の呼び名ではなかった。
北方に存在する未知の施設を開く《鍵》。
調査を進めるには、その名前を使えば早い。
だが凪本人は、その名前を思い出したくなかったと言う。
知ってしまった名前を、本人の望みに反して利用してよいのか。
五番の記録窓から。
凪の荒い呼吸が聞こえていた。
『俺の名前が』
『北の施設の鍵だった』
レインはすぐには返事をしなかった。
ネレイス島地下。
第十四海洋記録試験室。
レオの個人航海日誌は閉じたまま。
目の前には。
役割から切り離された旧監督官。
レオ判断記録。
ミラ。
セシリア。
エルナ。
バルド。
若いオルド。
全員が。
ベルナードから届く凪の声を聞いている。
「凪さん」
レインがようやく言った。
「今、昔の名前を俺たちへ伝えたいですか」
『……嫌だ』
「分かりました」
『でも』
「はい」
『北の場所を調べるなら』
「名前が必要?」
『たぶん』
「それでも」
「今、伝えたくない?」
長い沈黙。
『……うん』
「では、伝えないでください」
エルナがレインを見る。
だが口を挟まない。
まず本人との確認が先。
『調べられなくなる』
「可能性はあります」
『俺のせいで』
「あなたのせいとは決めません」
『でも鍵なんだろ』
「鍵として設定したのは、あなたではないかもしれない」
『……』
「名前を使わない方法を探します」
『なかったら』
「そのとき、もう一度あなたへ聞きます」
『俺が』
『ずっと嫌だって言ったら』
「使いません」
五番が記録窓の向こうで息をのむ。
『本当に?』
「はい」
『北で何か起きてても?』
「それでも、まず別の方法を探します」
『人が死ぬかもしれない』
「その危険が具体的に分かった場合は」
「その情報も含めて、凪さんへ改めて判断を求めます」
「でも」
「《人を救うためだから名前を使わせろ》とは言いません」
凪は。
しばらく何も言わなかった。
『……ずるいな』
「何が」
『使わないって言い切って』
『あとで俺に決めさせる』
「あなたの名前だからです」
『面倒だ』
「よく言われます」
ミラが小さく笑った。
◇
「凪さん」
セシリアが記録窓へ声をかける。
「治療状況を確認しても?」
『いい』
「医師は近くに?」
『いる』
五番が答える。
『港の先生』
「意識混濁は」
『さっきより良い』
「記憶が戻ったのは」
「熱が下がった後?」
『うん』
凪本人。
『夢を見た』
「内容は」
『それ』
「昔の名前?」
『呼ばれた』
「誰に」
『分からない』
「声は?」
『男』
「海軍監督官?」
『違う』
旧監督官の表情が変わる。
「どんな声だった」
凪。
『年寄り』
『でも』
『妙に若く聞こえる』
ミラが顔を上げる。
『レオと似てる?』
凪が黙る。
『……分からない』
「無理に比較しなくていい」
レインが止める。
「名前を呼ばれたあと」
「何が起きました」
『雪』
「雪?」
『白い建物』
『鉄の扉』
『十三個の部屋』
全員の表情が変わる。
「北方施設」
エルナが呟く。
『それから』
『扉に』
「何が」
『俺の名前が』
『書いてあった』
「鍵穴ではなく?」
『名前そのものが』
『扉だった』
◇
「名前が扉?」
バルドが眉をひそめる。
「どういう仕組みだ」
エルナがすぐ紙を広げる。
「名前を認証情報ではなく、術式構造そのものへ組み込んだ可能性があります」
「つまり」
「凪さんの旧名を発音するだけで開く?」
「そこまで単純ではないでしょう」
「記憶」
「本人性」
「認証者の同意」
「複数条件が考えられます」
旧監督官が言った。
「海軍の古い技術に」
「似たものがあった」
全員が見る。
「知っているんですか」
「名前を」
「鍵にする技術」
「何のため」
「機密施設」
「本人だけが開けるように」
「便利そうですが」
エルナが言う。
「本人が亡くれたら?」
「記録人格を使う」
「本人が拒否したら?」
旧監督官が止まる。
「……昔は」
「拒否を想定していなかった」
「誰が開ける」
「登録された管理者」
「本人以外でも?」
「非常権限がある」
「では、凪さんの旧名を知らなくても」
「非常権限が残っている可能性」
「ある」
「あなたに?」
「分からない」
「試しますか」
レインが尋ねる。
旧監督官は。
少し考えた。
「試したい」
「理由は」
「凪の名前を使わずに済むなら」
全員が少し驚く。
男は自分でも驚いた顔をする。
「何だ」
「いえ」
レインは言わなかった。
以前の彼なら。
効率を理由に。
凪の名前を使うことを優先したかもしれない。
「では」
「あなたの管理記録内に」
「北方施設に関する非常権限がないか確認しましょう」
◇
エルナ。
旧監督官。
セシリア。
三人で。
ネレイス島の管理装置を調べる。
レインは。
その間に。
凪との聞き取りを続けた。
「凪さん」
『うん』
「昔の名前を思い出したことで」
「今の《凪》という呼び名に変化はありますか」
長い沈黙。
『ない』
「昔の名前へ戻したい?」
『嫌だ』
「理由を話せる?」
『……』
「話したくなければ不要です」
『名前そのものが』
『嫌なんじゃない』
「はい」
『その名前を呼ばれたとき』
『俺は』
『いつも何かに使われた』
「統合者として?」
『うん』
『実験開始』
『検査』
『呼び出し』
『処置』
『全部』
『その名前で呼ばれた』
「凪と呼ばれると?」
『海が静かなとき』
『浜婆が』
『凪だなって言った』
「そこから?」
『最初は』
『天気の話だった』
『でも』
『俺がそれでいいって言った』
「自分で選んだ」
『うん』
「では」
レインは帳面へ記録する。
凪。
旧名を本人自身が想起したことを確認。
ただし旧名は、本人にとって統合実験・呼び出し・処置と強く結びついた呼称であり、現在使用することを拒否。
現在の呼称《凪》を継続して使用することを希望。
『それ』
「読めますか」
『うん』
『そのまま』
◇
「もう一つ」
「旧名そのものを」
「記録しておきたいですか」
凪の呼吸が止まりかける。
『……』
「俺の帳面へ書くという意味です」
『書いたら』
「公開はしません」
『でも残る』
「はい」
『使われるかもしれない』
「完全にゼロとは言えません」
『じゃあ嫌だ』
「分かりました」
『でも』
「はい」
『俺がまた忘れたら』
難しい問い。
『今度は』
『自分で思い出したくなるかもしれない』
「その可能性はあります」
『残さなかったら』
『永遠に消えるかもしれない』
「それもあります」
『……』
「今決めなくてもいい」
『でも』
「名前自体を記録せず」
「《本人が旧名を知っている》という事実だけ残すこともできます」
『それなら』
「いい?」
『うん』
「では」
凪本人は、現在自身の旧名を想起している。
旧名そのものの記録・複製・第三者への開示は、現時点で拒否。
本人が将来、保存方法または開示範囲を変更する場合は、その時点で再確認する。
凪が。
長く息を吐いた。
『それでいい』
◇
その頃。
十二人の統合者記録。
最初の解放作業も。
少しずつ始まっていた。
石を蹴る子。
灯台から出たいと希望した。
ただし。
身体へは戻らない。
「外部保存媒体」
エルナが作ったのは。
小さな白い貝殻。
本人が昔使っていた通信貝を。
少し拡張したもの。
「この中へ移れます」
セシリアが説明する。
「ただし」
「完全に安定する保証はありません」
『壊れたら?』
「灯台側に原記録を残したまま」
「複製ではなく」
「接続先を変える方法にします」
「失敗した場合は」
「戻せる可能性が高い」
『私が二人にならない?』
「分離複製はしません」
『では』
『やる』
「怖い?」
『怖い』
若いオルドが扉の前から言う。
『私もいる』
『怖い人同士?』
『そう』
小さな笑い。
移動。
青い光。
石を蹴る子の声が。
貝殻から聞こえた。
『……外?』
「まだ地下です」
浜婆が言う。
「でも」
「扉の外だよ」
『浜婆』
「いる」
『触れる?』
浜婆が。
貝殻へ手を伸ばす。
「触っていい?」
『うん』
浜婆の指が。
白い貝殻へ触れる。
泣いた。
大声ではない。
ただ。
三十年分。
静かに。
◇
レインはその光景を見て。
帳面へ一行だけ。
本人の許可を取って。
石を蹴る子。
灯台内統合記録から外部媒体への移動に成功。
現在、身体への帰還は保留。
浜婆との接触を希望し、了承の上で実施。
救出。
とは書かなかった。
本人が。
救われたと感じるかは。
まだ分からない。
◇
「見つけました!」
エルナの声。
管理室。
レインたちが戻る。
古い権限一覧。
海洋施設。
王都施設。
北方施設。
線でつながっている。
「北方施設名」
エルナが読む。
北方人生記録研究所。
「人生記録?」
セシリア。
「一人を十三の人生へ分けたという記述と一致します」
「場所は」
「雪冠公国北東部」
「王国外?」
「はい」
「現在も存在する?」
「地図上では」
エルナが現代地図を広げる。
「同じ位置に」
「《白灰療養院》という施設があります」
「療養院?」
「表向きは」
「長期記憶障害者と戦争帰還兵の療養施設」
「今も稼働?」
「公的記録では」
「少なくとも十年前までは」
「現在は分かりません」
「後で調べる必要があります」
◇
「非常権限は」
旧監督官が言う。
「一つある」
「何です」
「海洋統合施設管理記録による」
「北方研究所への緊急監査申請」
「それで扉を開けられる?」
「外門だけ」
「内部は?」
「個別認証」
「凪さんの名前が必要?」
「一部で」
「どの部分」
「第十三人生室」
「第十三?」
レオの日誌。
一人の人間を、十三の人生へ分けた。
「凪は」
旧監督官が続ける。
「北方実験の被験者ではない」
「なら、なぜ鍵」
「施設間共通統合核として」
「登録されていた可能性」
「つまり」
セシリアが言う。
「凪本人の旧名が」
「海・北方両方の統合装置を起動できる共通管理鍵」
「本人の意思に関係なく」
「そうだ」
「誰が登録した」
「海軍監督官?」
旧監督官は。
首を横に振った。
「私の権限ではない」
「では」
「上位管理者」
全員が黙る。
「まだ上がいる?」
バルドが嫌そうに言う。
「初代鐘務局長では?」
エルナ。
「時代が合わない部分があります」
「レオ?」
ミラが首を横に振る。
『違う気がする』
「誰」
『北の声』
「生きているレオと似た声?」
『うん』
また。
同じ存在へ近づく。
◇
「凪さん」
レインは記録窓へ戻る。
「名前を使わず」
「北方施設の外門までは入れる可能性があります」
『中は』
「第十三人生室だけ」
「あなたの旧名が必要な可能性」
『……』
「今は」
「使いません」
『でも外までは行く?』
「まだ決めていません」
『なんで』
「ネレイス島の問題が終わっていません」
『ああ』
「十二人」
「海底鐘」
「ベルナードの制度」
「あなたの治療」
「五番」
「全部途中です」
『北へすぐ行かない?』
「はい」
『鍵があるのに』
「名前は」
「鍵として使うためにあるわけではありません」
凪が。
少し笑った。
『それ』
『昔の俺に言ってほしかった』
「今、聞いています」
『うん』
◇
旧監督官が。
会話を聞いていた。
「なぜ」
レインを見る。
「そこまで」
「本人の拒否を優先する」
「優先?」
「北方施設に」
「今も被害者がいる可能性がある」
「凪の名前を使えば」
「早く入れる」
「そうかもしれません」
「なら」
「一人の不快より」
「多数の安全を」
言いかけ。
男は止まった。
自分で。
「今のは」
「昔の私と同じだな」
「はい」
「……」
「でも」
レインは続ける。
「緊急時には」
「本人の意思と他者の安全が衝突することはあります」
「では」
「凪の名前を使うことも?」
「今は」
「そこまで緊急だと確認できていません」
「北方施設は」
「現時点で《危険の可能性》です」
「《今まさに誰かが死ぬ》とは分かっていない」
「だから先に」
「他の経路を探します」
「もし」
「今まさに十三人が殺されると分かったら」
レインは。
少し考えた。
「その情報を凪さんへ伝えます」
「それでも拒否したら」
「別の方法を最後まで探す」
「間に合わない」
「可能性もあります」
「では」
「どうする」
「その場で」
「何を守るか」
「誰がどの危険を負うか」
「関係者と判断する」
「一つの原則で」
「全部決めません」
旧監督官は顔をしかめる。
「不便だ」
「はい」
「でも」
「昔より」
男は自分で言った。
「少し分かる」
◇
その夜。
ネレイス島。
白鯨号へ戻る者。
村へ残る者。
地下で十二人の移動を続ける者。
それぞれに分かれた。
レインは。
第十四試験室に。
一人で戻った。
いや。
完全に一人ではない。
レオ判断記録がいる。
『眠らないのか』
「少し考えていました」
『凪の名前?』
「はい」
『使いたいか』
「調査だけ考えれば」
「使えれば早い」
『なら』
「でも」
『本人が嫌がっている』
「はい」
『昔の私は』
『使っただろう』
「何を」
『本人が拒否した記録でも』
『真実を確認するためなら』
『開いただろう』
「今は?」
『開かない』
「なぜ」
『真実を知ることが』
『本人の全部を上回ると思わなくなった』
レインは。
閉じたレオの航海日誌を見る。
「これも同じ?」
『そうだ』
「知りたい」
『だろうな』
「北のことが書いてあるかもしれない」
『たぶん』
「でも」
「王都のレオ記録へ確認するまで開かない」
『それでいい』
「あなたは」
「自分もレオなのに」
『だからこそ』
レオ判断記録は笑った。
『私は』
『別の私の秘密を』
『自分の秘密だとは言わない』
◇
そのとき。
航海日誌。
閉じた表紙に。
また文字が浮かんだ。
名前を使うな。
レインが立ち上がる。
「誰が」
次。
凪の旧名を使えば、北方施設は開く。
その次。
同時に、十三の人生が起動する。
「十三の人生?」
レオ判断記録も表紙を見る。
『この記録は』
『私ではない』
さらに。
一度起動すれば、一人が十三人になるのではない。
文字。
十三人が、自分こそ元の一人だと思い始める。
レインの顔が強張る。
北方実験。
一人を十三の人生へ分ける。
単純な人格分裂ではない。
十三人。
それぞれが。
自分こそ本物。
自分こそ元の人間。
そう信じる。
「起動しなければ?」
文字は。
質問に答えるように続く。
現在は眠っている。
「誰が書いている」
レインが問う。
少し間。
北方第十三人生。
「名前は」
ない。
「呼び名は」
長い沈黙。
今は、《冬》。
ミラがいないのに。
レインの背中が冷える。
「冬さん」
「あなたは」
「今、生きていますか」
文字。
私は生きている。
次。
ほかの十二人も。
「同じ身体?」
違う。
「十三人の身体?」
そうだ。
レインは息を止める。
一人を十三の人生へ分けた。
記憶だけではなく。
身体まで。
十三人。
「あなたたちは」
「元は一人?」
文字が。
しばらく出ない。
やがて。
それを決めるために来るな。
レインは静かに答える。
「決めるつもりはありません」
次の文字。
なら。
凪の名前を使うな。
「理由は」
あの名前は。
文字が震える。
私たち十三人を、一人へ戻すための命令でもある。
レインの胸が冷たくなる。
凪の旧名。
北方施設を開く鍵。
それだけではない。
十三の人生を。
一つへ戻す。
統合命令。
本人が。
名前を消した理由。
海の実験から逃げるためだけではなかった。
北でも。
誰かを一つへ戻すために。
使われる名前だった。
「凪さんは」
「それを知っている?」
知らない。
「伝えていい?」
長い沈黙。
今は。
まだ伝えるな。
レインの表情が変わる。
「なぜ」
本人が名前を思い出した直後だから。
先に。
自分の名前をどう扱うか。
自分で決めさせろ。
レインは。
帳面を開く。
だが。
書かなかった。
「この会話を」
「記録していいですか」
文字。
一部だけ。
「どこまで」
北方に《冬》と呼ばれる生者がいること。
十三人全員が現在生存していること。
凪の旧名を使用しないよう求めていること。
「統合命令については?」
今は書くな。
「分かりました」
レインは。
許可された範囲だけを書く。
北方施設関係者を名乗る生者《冬》より接触。
北方に存在する十三名は、現時点ですべて生存していると証言。
《冬》は、凪の旧名を北方施設へのアクセスへ使用しないよう求めている。
詳細理由については、本人希望により現時点で記録しない。
「これで?」
いい。
「また話せますか」
分からない。
「では」
「今は、ありがとうございました」
最後。
一行。
聞き書き人。
「はい」
北へ来るなら。
「はい」
誰が本物か。
少し間。
最初に聞くな。
「分かりました」
文字が消える。
◇
翌朝。
レインは。
全員へ。
公開許可された内容だけ伝えた。
「北方に」
「《冬》と呼ばれる生者がいます」
「十三人全員が生存していると」
「本人は言っています」
エルナがすぐに尋ねる。
「情報源は」
「レオの航海日誌表紙への遠隔記述」
「信頼性は」
「未確認」
「冬という人物の身元」
「不明」
「十三人が生存しているという証拠」
「今は証言のみ」
「凪さんの旧名について」
「使用しないよう求められました」
「理由は」
「現時点では公開許可がありません」
エルナが。
少しだけ止まる。
そして。
「分かりました」
「聞かないんですね」
バルド。
「聞きたいですよ」
「ですが、許可されていない情報を」
「調査効率だけで要求するのは」
「最近の私たちの方針と矛盾します」
「成長したな」
「誰目線ですか」
◇
ミラが。
レインを見る。
『冬って人』
「はい」
『怖がってた?』
「文字だけなので」
「感情は断定できません」
『でも』
「でも?」
『北から』
『今』
『同じ声が聞こえる』
「レオに似た?」
『うん』
「冬さん?」
『違う』
「別の人?」
『十三人の中の』
『もう一人』
全員が静まる。
「何と言っています」
ミラは。
耳を澄ます。
北から。
遠く。
雪の向こう。
生者の声。
『冬を信じるな』
レインの表情が変わる。
「ほかには」
『凪の名前を使え』
完全に。
逆。
「その人は」
「何と呼ばれたいと?」
ミラが。
少し待つ。
『《春》』
冬。
凪の名前を使うな。
春。
凪の名前を使え。
十三の人生。
すでに。
意見が分かれている。
「どちらが正しいか」
バルドが言いかける。
自分で止まった。
「……聞くな、だったな」
「はい」
「では」
「何をする」
レインは答えた。
「両方へ」
「理由を聞きます」
そして。
「凪さんの名前は」
「今は使いません」
北方の事件は。
もう始まっている。
だが。
ネレイス島の十二人。
ベルナードの五番と凪。
白鯨号の六人。
海底鐘。
今ここにも。
まだ聞くべき声が残っている。
レインは帳面へ。
新しい見出しを書いた。
北方第十三人生事件――予備記録。
その下。
《冬》――凪の旧名を使用するな。
《春》――凪の旧名を使用せよ。
そして。
現時点では、どちらも結論として採用しない。
最後。
名前の所有者である凪本人の選択を、先に確認する。
海の向こう。
雪の国から。
二つの声が。
同時に笑った。
一つは。
安堵したように。
もう一つは。
面白がるように。
十三の人生は。
すでに。
レインを見ていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
凪は、自ら消した旧名を思い出しました。
しかし本人は、その名前を現在使用することも、第三者へ伝えることも、記録へ残すことも望んでいません。
そのためレインは、旧名そのものではなく、
「凪本人が旧名を覚えている」
という事実だけを記録しました。
さらに北方から、《冬》と名乗る生者が接触。
北方施設にいる十三人は全員生存していると証言し、凪の旧名を使わないよう求めます。
ところが直後。
別の一人――《春》は、
「冬を信じるな。凪の名前を使え」
と、正反対の主張をしました。
次回、第40話「冬と春、二人の同じ記憶」。
レインは北方へ向かう前に、《冬》と《春》それぞれから遠隔で話を聞きます。
二人は同じ過去を語りながら、まったく逆の結論を持っていました。
そして《一人から十三の人生が生まれた》という北方実験の最初の仕組みが、少しずつ明らかになります。




