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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第二部 第1章 七人の夫が帰る港

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第36話 名前を消した子ども

白鯨号には、公式名簿に存在しない二十六人目がいた。


事故当時九歳。


七つに分けられた記憶が独立したとき、それらを一つへ戻す《統合者》として利用される予定だった子ども。


しかしその子は、自分が再び利用されないため、自らの名前を周囲の記憶から消して逃げた。


行き先は、海図から消された島――ネレイス島。


レインたちはまず、七人のカイルそれぞれへ「その子に会いに行きたいか」を確認する。

 ベルナードの朝は早い。


 日が海面から顔を出す前から、港には人の声があふれていた。


 漁師が網を運ぶ。


 荷役人が木箱を積み上げる。


 市場では魚を並べるための氷が砕かれる。


 昨日まで港全体を覆っていた青い記憶の水は、ほとんど消えていた。


 海底鐘による強制回収は一時停止している。


 三十日。


 その間に、新しい海難死者管理の暫定制度を作らなければならない。


 だがレインたちには、もう一つ調べることがあった。


「二十六人目」


 エルナが机に古い海図と資料を広げている。


「事故当時九歳」


「役割は《基準人格補助》」


「名前なし」


「本当に名前がなかったのか」


 バルドが尋ねる。


「違います」


 エルナは首を横に振る。


「リナの証言では、《周囲から名前の記憶を抜いた》」


「ということは、元々は名前があった」


「可能性が高いです」


『本人は覚えてるのかな』


 ミラが海図の上へ浮かぶ。


「自分の記憶からも消した可能性はあります」


「そんなことできるのか?」


「白鯨号の記憶分割装置なら」


 セシリアが答える。


「少なくとも、他者が本人の名を思い出せなくすることは可能でしょう」


「自分自身へ使えば?」


「危険です」


「名前だけで済まない可能性もあります」


 レインは二十六人目の記録を見た。


七つの記憶が人格として独立した場合、統合者を使用する。


 人間ではない。


 道具の説明。


 九歳の子どもに対する記録としては、あまりにも短い。


「まず七人へ確認します」


「全員連れていかないのですか」


 セシリアが尋ねる。


「五番は会いたくないと言いました」


「六番は保留」


「それを無視して、統合者がいるかもしれない島へ連れていくのは危険です」


「では、一人ずつ」


「はい」


     ◇


 一番。


「会いに行きたい」


「理由は?」


 レインが尋ねる。


「俺たちを一つへ戻すために使われる予定だった子どもだろ」


「はい」


「今も生きてるなら」


「謝りたい」


「何を」


 一番は黙った。


「俺が何かしたかは、分からない」


「でも」


「俺たちが存在しているだけで」


「その子が追われる理由になったなら」


「それを知りたい」


「謝罪する責任があると?」


「分からない」


「では」


「会って」


「向こうが俺を見たくないなら」


「帰る」


「統合を望まれたら?」


 一番は即答した。


「断る」


「その子本人が、統合したいと言っても?」


 一番の顔が曇る。


「……理由を聞く」


「でも」


「俺は消えたくない」


「その答えを、自分の意思として記録しますか」


「頼む」


一番。


二十六人目の子どもとの面会を希望。


自身の存在が相手の逃亡や被害へ関係していた可能性を確認したい。


相手が面会を拒否した場合は接触を継続しない。


再統合については現時点で拒否。


     ◇


 二番。


「行きたい」


「理由は?」


「トーマの記憶に」


 二番は胸元へ触れる。


「子どもの手がある」


「どんな記憶」


「機関室」


「俺――」


 一度止まる。


「トーマだった誰かが」


「子どもに工具の使い方を教えてる」


「統合者に?」


「分からない」


「顔は」


「見えない」


「名前は?」


 二番は目を閉じる。


「呼ぼうとすると」


 苦しそうに眉を寄せる。


「頭の中に穴が開く」


「無理に思い出さないでください」


「でも」


「名前じゃない呼び方がある」


「何と?」


「チビ」


 バルドが眉をひそめる。


「雑だな」


「トーマがそう呼んでいた」


「本人は嫌がってた」


「なぜ」


「《僕は小さくない》って」


 二番が少し笑う。


「九歳なら小さいでしょう」


 エルナ。


「そう言ったら」


「工具を投げられた」


 記憶。


 小さな場面。


 統合者ではなく。


 機関室で大人に反発する子ども。


「会いたい?」


「うん」


「トーマとして?」


「二番として」


「理由は」


「その記憶が」


「役割の外の記憶だから」


 レインはうなずいた。


     ◇


 三番。


「怖い」


「何が」


「その子を見ると」


「俺の中にあるものが」


「勝手に一つへ集まりそうな気がする」


「装置の影響が残っていると?」


「分からない」


「でも」


 三番は自分の頭を押さえる。


「《統合者》って言葉を聞くだけで」


「中の記憶が動く」


 リナも近くにいた。


『私も感じる』


「あなたも?」


『あの子が近くにいた頃』


『分割した記憶が、自然にそっちへ寄っていった』


「本人が操作しなくても?」


『たぶん』


「では、会わない?」


 三番は考えた。


「島までは行く」


「でも」


「本人に近づくかは」


「島で決めたい」


「距離を取った状態で?」


「そう」


「現在の希望として記録します」


     ◇


 四番。


「俺は行く」


「理由は」


「料理」


「……料理?」


「その子」


「いつも腹を空かせてた記憶がある」


「誰の記憶です」


「分からん」


「でも」


「白鯨号の厨房で」


「パンを盗んだ」


「その子が?」


「たぶん」


「炊事係のベンが怒った」


「それから?」


「残ったスープを食わせた」


「どんなスープ」


「魚と芋」


「うまかった?」


「塩が多い」


 エルナが書きながら言う。


「あなたは本当に食事記憶が多いですね」


「大事なんだ」


「会って、何をしたい?」


「何が好きだったか聞く」


「名前より先に?」


「腹が減ってるかもしれない」


「幽霊かもしれません」


「生きてる可能性もある」


 四番は真剣だった。


「飯は必要だ」


「では、食料を用意します」


「俺は食えないけど」


「作り方は言える」


     ◇


 五番。


「行かない」


「理由は?」


「統合されるのが怖い」


「島まで同行することも?」


「嫌だ」


 即答。


「海が怖いから?」


「それもある」


「でも」


「もっと怖いのは」


「その子が」


「俺を見て」


「《戻せる》って言うこと」


「戻したいと頼まれたら?」


「断れるか分からない」


「なぜ」


「子どもだったんだろ」


「俺たちのせいで逃げたなら」


「断ったら」


「また苦しませる気がする」


「つまり罪悪感で同意してしまう可能性がある」


「うん」


 五番は自分で理解している。


 拒否したい。


 でも相手が被害者だと知れば。


 自分を差し出すことを償いと思ってしまうかもしれない。


「では残る選択を支持します」


「支持?」


「あなたが決めたこととして」


「俺は行かない」


「はい」


「でも」


「島で分かったことは教えて」


「もちろん」


「全部?」


「あなたが知りたい範囲を確認して伝えます」


「全部知りたい」


「では、戻ったら報告します」


     ◇


 六番。


「まだ分からない」


「理由を整理しますか」


「うん」


「行きたい理由は?」


「自分がどうしてエマを帰る場所だと思ってたか」


「その子が知ってるかもしれない」


「行きたくない理由は?」


「もし」


「俺の中のエマへの気持ちが」


「統合実験のために作られたものだって分かったら」


「怖い」


「分からないままの方がいい?」


「それも嫌」


 六番は長く悩んだ。


「島までは」


「行く」


「本人に会うかは後で決める」


「三番と同じ?」


「理由は違う」


「はい」


「同じ行動でも理由は別」


 六番は少し笑った。


「それ、最近みんな言う」


     ◇


 七番。


「行く」


「理由は」


「二十六人目が」


「オルドの責任記憶について」


「知っている可能性がある」


 老人オルドが近くにいた。


「俺も行く」


 七番がすぐに言う。


「頼んでない」


「でも」


「俺に関係する」


「関係はある」


「同行するかは」


 七番がレインを見る。


「別に決めて」


「はい」


「七番自身は?」


「俺の中にある責任が」


「本当にオルドだけのものか」


「知りたい」


「船長の罪悪感も混ざってる」


「海軍監督官のものもあるかもしれない」


「全部を」


「オルドへ返せって言われるのが嫌だ」


「二十六人目本人がそう望んでも?」


「話は聞く」


「でも」


「最後に決めるのは俺」


     ◇


 七人の意思確認。


 結果。


 一番、二番、四番、七番は面会を希望。


 三番と六番は島へ同行するが、本人との接触は現地で再判断。


 五番はベルナードへ残る。


「一人残るのか」


 バルドが尋ねる。


「俺だけ?」


 五番が少し不安そうに周囲を見る。


「白鯨号も行くの?」


「まだ決まっていません」


 船長の幽霊。


 白鯨号の他の死者。


 船そのものの意思確認も必要だ。


「俺は」


 一番が言う。


「白鯨号で行きたい」


「理由は」


「二十六人目が最後に乗った船だから」


 二番。


「俺も」


 四番。


「厨房がある」


「壊れています」


「直す」


 三番は不安そうに船を見る。


「船そのものが」


「統合装置とつながってたら?」


「調べます」


 エルナが船体図を広げる。


「ネレイス島へ向かう前に、白鯨号の航行記録を確認したいです」


     ◇


 白鯨号の船長室。


 三十年前の海図が壁へ残っている。


 航路。


 ベルナード。


 西沖。


 沈没地点。


 だがネレイス島は記載されていない。


「別の地図がある」


 リナが言った。


「どこ」


『船長室じゃない』


「では」


『子どもの寝場所』


「専用船室?」


『違う』


 リナは船尾へ向かう。


 物置。


 古い帆。


 工具箱。


 そのさらに奥。


 大人なら膝をつかなければ入れない、小さな空間。


「こんな所に子どもを?」


 セシリアの声が低くなる。


『実験中以外は、ここ』


「閉じ込めていた?」


『鍵は外から』


 扉の跡。


 小さな寝台。


 毛布。


 木箱。


 壁には。


 子どもの落書きが残っていた。


 船。


 魚。


 太陽。


 島。


 そして。


 七人の人影。


「七人?」


 ミラが壁へ近づく。


『手をつないでる』


「実験対象として見ていた?」


 エルナが絵を観察する。


「違うかもしれません」


「何が」


「七人とも顔が違う」


 現在の七人のカイルは同じ顔。


 だが子どもの絵では。


 背の高い男。


 髭の男。


 帽子の男。


 女性らしき姿。


 老人。


 少年。


 細い人影。


「七分類の中に見えていた人格?」


「その可能性があります」


 二番が壁へ触れようとして。


 手を止める。


「これ」


「トーマかもしれない」


「どれ」


「大きい工具を持ってる」


 絵の左端。


 大きな男が。


 子どもへ何かを渡している。


「機関士トーマ?」


「分からない」


「でも」


 二番は小さく笑った。


「チビって呼んで怒られた感じがする」


     ◇


 木箱を開ける。


 中にあったのは。


 石。


 貝殻。


 壊れた小さな船の模型。


 干からびた木の実。


 そして。


 折り畳まれた布。


 エルナが慎重に広げる。


「地図です」


 子どもの手書き。


 ベルナード。


 白鯨号。


 海底鐘。


 そして南西。


 一つの島。


ここなら鐘が聞こえない。


「ネレイス島」


 島名は書かれていない。


 代わりに。


 子どもの絵で。


 大きな耳を塞ぐ人。


 鐘から伸びる線が。


 島の手前で途切れている。


「海底鐘の影響外」


 セシリアが言う。


「だから逃亡先に選んだ」


 地図の裏。


 一行。


名前を呼ばれたら戻される。


 さらに。


名前をなくせば、見つからない。


 ミラが黙った。


 自分の旧名。


 ミレイア・セレスト。


 名前で呼ばれ。


 役割へ戻されそうになった過去。


『分かる』


 レインがミラを見る。


『名前を消したくなるの』


「でも、あなたはミラを選んだ」


『逃げたあとで』


 名前を失うこと。


 名前を選ぶこと。


 どちらも。


 状況によって意味が違う。


「この子は」


 レインが地図を見る。


「名前そのものが嫌だったのではないかもしれません」


「自分を探す鍵として使われることが嫌だった」


「では、ネレイス島で」


 バルドが言う。


「名前を聞くな」


「はい」


「会った瞬間に名前は何だって聞くのは無しだな」


「当然です」


『バルドなら聞きそう』


「聞かん」


     ◇


 地図には航路も書かれていた。


 ベルナードから南西。


 二日。


 ただし。


 途中に奇妙な記号がある。


「これは何です」


 エルナが老人カイルへ尋ねる。


「船乗りの記号ではない」


 船長も首を横に振る。


『知らない』


 リナが見る。


『記憶消しの印』


「海上に?」


『ネレイス島へ近づくと』


『島の場所を忘れる』


「だから海図から消えた?」


『たぶん』


「どうやって到着する」


『一度覚えた航路を使うと』


『途中で目的地を忘れる』


「では」


「子どもはどうした」


 リナは地図の端を指す。


 小さな絵。


 星。


「夜?」


『星を使った』


「名前や地図ではなく」


 エルナが理解する。


「星の位置と船の進路を身体で覚えた」


「場所の名前を記憶しなくても行ける」


「航海士は?」


 船長が言う。


『一人だけ知っていた』


「誰」


『白鯨号の航海士、セド』


 乗組員名簿。


航海士 セド・マーレン。


「七人の中に記憶が?」


 一番から七番まで。


 誰もすぐには答えない。


 六番が目を閉じる。


「星」


「見える?」


「少し」


「エマの記憶じゃない」


「別の夜」


「船の上」


「星を数えてる」


「セド?」


「分からない」


「では、航路は」


「たぶん」


 六番が南西を見る。


「分かる」


「でも」


「島って言葉を考えると」


「消える」


「どういうこと」


「行き先を」


「島だと思わなければいい」


 全員が首を傾げる。


「では何だと思う」


「星の下」


 六番は答えた。


「三つ並んだ青い星の下へ行く」


 目的地の名前を持たない航海。


 島を目指すのではない。


 星の位置を追う。


「六番が必要になる」


 バルドが言う。


 六番の顔が強張る。


「必要?」


 その一言。


 役割。


 利用。


 また自分が航海装置として扱われる恐怖。


「すみません」


 バルドがすぐ言い直した。


「航路を知っている可能性がある」


「案内してもらえるか」


 六番は少し驚いた。


「断っても?」


「別の方法を探す」


「……」


 六番は長く考えた。


「やる」


「理由は」


「俺も行くって決めた」


「そのために」


「自分が知ってる航路を使う」


「案内役として?」


「今は」


「うん」


「途中で嫌になったら?」


「誰か代われる?」


 船長。


『航路を記録できれば』


 エルナ。


「ただし、記録した瞬間に島の場所が消える可能性があります」


「では」


 六番は言った。


「途中で」


「一つずつ教える」


「全部を誰かに預けない」


「いい方法です」


 レインは記録する。


六番。


ネレイス島への航路に関係する航海士セド・マーレンの記憶断片を保持している可能性。


本人は、自身が同行すると決めた旅のために、現在分かる範囲で案内役を引き受ける。


航路全体を一人へ移植・複製せず、必要な区間ごとに共有する方法を希望。


途中で中止する権利を保持。


 六番がうなずいた。


     ◇


 次は。


 誰をベルナードへ残すか。


 五番は決まっている。


 しかし七人が六人になれば。


 白鯨号の実体化は維持できるのか。


「試します」


 一番から六番まで白鯨号へ乗る。


 五番だけ岸壁。


 七番も船。


 六名ではなく。


 五番を除く六人。


 船体。


 少し薄くなる。


 だが消えない。


「七人全部でなくても」


 エルナが船体へ触れる。


「一度役割鎖を切ったため、船との接続が変化しています」


「乗船者の意思で維持されている?」


 セシリア。


「その可能性があります」


「では五番は残れる」


 五番が大きく息を吐く。


「よかった」


 老人カイルが尋ねる。


「俺も残ったほうがいいか」


「行きたい?」


 エマが近くで聞いていた。


「行きたい」


「二十六人目に」


「聞きたいことがある」


「何を」


「なぜ俺を基準人格に選んだのか」


「その子が選んだの?」


「分からない」


「なら」


 エマは言う。


「聞いてきたら」


「帰ってきたら」


 カイルは答えようとして。


 また止まる。


「帰りたい」


「うん」


「約束はしない」


「それでいい」


     ◇


 オルド。


 老人側。


「行く」


 若いオルドの死者も。


『私も』


「二人とも?」


 レインが確認する。


 老人オルド。


「二十六人目の記憶を」


「俺からリナが消した」


「だから」


「当時の俺が何をしたか」


「まだ全部分からない」


 若いオルド。


『私は事故までしか知らない』


『でも』


『あの子を船へ乗せた経緯に』


『自分が関係している気がする』


「怖くない?」


『怖い』


「統合される可能性は?」


『それでも』


 若いオルドは老人を見る。


『あいつだけに調べさせたくない』


「信用していない?」


『していない』


 老人。


「当然だ」


「それでも一緒に行く」


「監視されるためにも」


 関係は悪い。


 だが。


 協力はできる。


     ◇


 リナ。


『行く』


「迷いませんね」


『私が逃がした』


「二十六人目を?」


『そう』


「島まで?」


『途中まで』


「なぜ最後まで行かなかった」


『私は白鯨号へ戻った』


「なぜ」


『記憶を戻すため』


「誰の」


『みんなの』


「結果は?」


『間に合わなかった』


 リナは海を見る。


『あの子に』


『言った』


「何を」


『私が迎えに行くまで』


『名前を思い出さないでって』


 レインの顔が変わる。


「本人が、自分だけで名前を消したのではない?」


『私が手伝った』


「では」


「あなたは名前を知っていた?」


『知っていた』


「今は?」


『思い出せない』


「自分で消した?」


『あの子に頼まれて』


「どこへ消した」


『分からない』


 記憶を消した側まで。


 場所を忘れるよう術式をかけた。


「名前はどこかに保存されていますか」


『保存しなかった』


「完全に?」


『たぶん』


 本人の名前。


 失われたのではない。


 守るために。


 消した。


「本人が今、名前を取り戻したい可能性は」


『ある』


「でも元の名前が残っていないかもしれない」


『そう』


「では」


 ミラが言う。


『新しく選べばいい』


 リナがミラを見る。


『簡単に言うね』


『私もそうした』


「元の名前を取り戻したいと言ったら?」


『一緒に探す』


「見つからなかったら?」


『見つからなかったって言う』


 リナは少し笑った。


『あなた、レインに似てきた』


『嫌?』


『少し面倒』


     ◇


 出航準備。


 白鯨号は三十年前の破損を残している。


 必要最低限だけ修復済み。


 食料。


 水。


 医薬品。


 航海道具。


 エルナの記録紙。


 セシリアの結界具。


 バルドの大剣。


 そして。


 四番の強い希望で。


 大量の食材。


「こんなに必要ですか」


 エルナが木箱を見る。


「島に何人いるか分からない」


「統合者一人だけでは?」


「三十年だぞ」


「人が増えてるかもしれない」


「それに」


「九歳だった子どもなら」


「今は三十九」


「腹は減る」


「それはそうですが」


「保存食をもっと」


「船が重くなります」


「幽霊船だぞ」


「実体化中は重量があります」


「では豆を減らす」


「豆の煮込み嫌いなのでは」


「俺が嫌いなだけだ」


 四番は料理人らしき記憶が出てから。


 以前より食事にうるさくなっていた。


     ◇


 出航前。


 五番は白鯨号の前へ立っている。


「本当に残る?」


 一番が尋ねた。


「残る」


「怖い?」


「うん」


「俺たちが行くことも?」


「少し」


「では」


「行くなって言う?」


 五番は首を横に振った。


「それぞれ決めたから」


「俺は」


「残るって決めた」


「戻ってきたら」


「全部話して」


「分かった」


「あと」


 五番は六番を見る。


「航路を忘れたら」


「無理するな」


「島へ行けなくても?」


「行けなかったって戻ればいい」


 六番が笑った。


「それだと旅が失敗になる」


「失敗でも」


「戻ってこれるなら」


「そのほうがいい」


 五番。


 恐怖担当だった存在。


 以前なら。


 危険な場所へ行くな。


 戻れ。


 その命令だけを繰り返していたかもしれない。


 今は。


 恐怖を持ちながら。


 相手の選択を止めない。


「記録していい?」


 レインが尋ねる。


「何を」


「今の言葉」


「別に」


 少し照れたように顔をそらす。


五番。


自身はネレイス島への同行を拒否し、ベルナードへ残る。


一方、同行を選んだ他の六名へ、自身の恐怖を理由として旅を中止させることは望まない。


航路継続が困難になった場合は、《到達できなかったこと》を失敗として無理に補おうとせず、帰還する選択を希望。


     ◇


 マリエも来ていた。


 二番へ。


「行ってらっしゃい」


 二番は少し驚く。


「それ」


「父さんに言うみたいだ」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「でも」


「二番さんに言った」


「そうか」


「帰ってきたら」


「トーマの話の続きを」


「する」


「約束?」


 二番は考える。


「戻りたい」


 マリエは笑った。


「それで十分」


 ノアも。


「二番さん!」


「何だ」


「お土産!」


「幽霊島で何を買う」


「貝殻」


「分かった」


「もし拾えたら」


「うん」


 小さな約束。


 絶対ではない。


 条件付き。


 それでも。


 二番の顔は嬉しそうだった。


     ◇


 エマと老人カイル。


 二人は。


 しばらく黙っていた。


「行くのね」


「うん」


「三十年前も」


「そう言って船に乗った」


「……」


「今度は違う」


「何が」


「私は」


「帰ると約束してほしいとは言わない」


「俺も」


「絶対帰るとは言わない」


「でも」


 カイルは妻を見る。


「帰ってきたら」


「三十年間の話をする」


「全部?」


「言いたくないこともある」


「では」


「言えることから」


「うん」


 エマが一歩近づく。


 カイルへ触れようとして。


 手を止めた。


「手」


「触っていい?」


 カイルは。


 少し驚いてから。


「いい」


 二人の手が重なる。


 生者同士。


 三十年前には当たり前だった接触。


 今は。


 許可を確認してから。


 短く。


 それだけ。


     ◇


 白鯨号が港を離れる。


 今回は沈まない。


 少なくとも。


 今は。


 一番が帆を確認。


 二番が機関部跡を確認。


 三番はリナと距離を取りながら甲板。


 四番は壊れた厨房。


 六番は星を待つ。


 七番は老人オルドと別々の場所。


 老人カイル。


 若いオルド。


 リナ。


 レイン。


 ミラ。


 セシリア。


 バルド。


 エルナ。


 そして船長。


 五番だけが。


 港から見送っている。


 白鯨号の姿が小さくなる。


 バルドが海を見て。


 少し青ざめた。


「今さらですが」


 セシリアが言う。


「大丈夫ですか」


「何が」


「船」


「大丈夫だ」


『顔が白い』


「海風だ」


「まだ港内です」


「黙れ」


     ◇


 昼。


 進路は南西。


 まだ六番は航路を示していない。


「星が必要」


「昼は?」


「普通に南西」


「夜から変わる」


 エルナが通常海図へ進路を記す。


「ネレイス島という名前は書かないほうが?」


「はい」


 レインが答える。


「目的地名を書いた記録自体が影響を受ける可能性があります」


「では」


 エルナは海図へ。


第一目標地点。


 とだけ記した。


「名称を避ければ大丈夫?」


「分かりません」


「それも記録します」


 だが。


 午後になると。


 異常が始まった。


「レイン」


 バルドが尋ねる。


「俺たち」


「どこへ向かってるんだ」


 一瞬。


 全員が止まる。


「南西です」


 エルナ。


「何のために」


「二十六人目を」


 言葉が。


 途中で消える。


「二十六人目?」


 セシリアが眉を寄せる。


「誰です?」


 レインの胸が冷たくなる。


 始まった。


 目的地だけではない。


 対象者そのものについて。


 記憶が薄れている。


『レイン』


 ミラが自分の頭を押さえる。


『私も』


「何を忘れています」


『誰かに会いに行く』


「誰」


『分からない』


 リナだけが。


 まだ覚えていた。


『統合者』


「名前は?」


『ない』


「どこへ?」


『……』


 リナの顔が青ざめる。


『分からない』


 六番が空を見る。


「まだ」


「星が出てない」


「でも」


「進路は分かる」


「では、そのまま」


「何のために行くか分からなくても?」


 六番が尋ねる。


 レインは答えられない。


 目的を忘れた状態で進むことを。


 過去の自分の命令だけで正当化していいのか。


 聞き書き帳を開く。


 出航前の記録。


発見した場合でも、七名の再統合へ使用しない。


「誰を発見した場合?」


 バルドが読む。


「書いてない」


 前の行。


白鯨号・未登録二十六人目。


 その文字が。


 消え始めていた。


「記録まで!」


 エルナが帳面へ顔を近づける。


「島の影響範囲へ入った」


「どうする」


 セシリアが尋ねる。


「このままでは、目的を完全に忘れます」


「戻りますか」


 レインは六番を見る。


「あなたは、今も進みたい?」


 六番は困った顔をする。


「分からない」


「なぜこの航路を案内してるか」


「忘れた」


「でも」


「怖くはない」


「進みたい気もする」


「それは過去の選択に引かれているだけかもしれません」


「うん」


 レインは全員へ。


「現在の意思を確認します」


 一番。


「目的は分からない」


「でも」


「自分で行くと決めた記録は読める」


「その自分を信じる?」


「少し」


「全部では?」


「今の俺が」


「嫌だと思ったら戻る」


「今は」


「進んでいい」


 二番。


「俺も」


 三番。


「怖い」


「でも島へ近づく前に接触を再判断するって書いてある」


「まだ接触してない」


「進む」


 四番。


「食料を積んだ理由が分からん」


「誰か腹減ってるんだろ」


「進む」


 六番。


「案内する」


 七番。


「進む」


 老人カイル。


 オルドたち。


 リナ。


 全員へ確認する。


 誰も。


 理由を完全には覚えていない。


 それでも。


 現在の自分が。


 過去の自分の記録を読み。


 今も進むと選ぶ。


 レインは新しい一頁へ書いた。


現在、目的地および対象者に関する記憶が消失し始めている。


出航前の自身の記録のみを命令として扱わない。


現時点で同行者ごとに航行継続意思を再確認。


全員、現在は継続を選択。


以後、一定時間ごとに再確認する。


「どれくらい?」


 セシリア。


「一刻ごと」


「忘れたこと自体を忘れたら?」


 エルナが尋ねる。


 重要だった。


 記憶が消えている。


 という認識まで消える可能性。


「合図を作ります」


 レインは自分の手首へ。


 赤い糸を巻いた。


「この糸を見たら」


「《今の航海を続けたいか確認する》」


「理由を忘れていても?」


「はい」


「赤い糸自体の意味を忘れたら?」


 ミラが言う。


『文字も書く』


 糸へ。


いま選び直す。


 セシリア。


 バルド。


 エルナ。


 全員。


 手首へ赤い糸。


 七人の幽霊には。


 胸元の記録窓へ赤い線。


 老人カイル。


 オルド。


 リナ。


 若いオルド。


 そして。


 白鯨号の操舵輪にも。


 赤い布。


「船にも?」


 バルド。


「船長が忘れた場合に」


『助かる』


 船長が答えた。


     ◇


 夕暮れ。


 三つの青い星が。


 南西の空に現れた。


 六番が操舵輪の横へ立つ。


「右へ」


 船長が舵を切る。


「どれくらい」


「星二つ分」


「距離の表現として分かりにくい」


「航海士の感覚だ」


 しばらく。


「今度は左」


 エルナが記録しようとする。


 書いた直後。


 文字が消える。


「やはり航路は残せません」


「なら六番だけ?」


「今は」


 六番は空を見ている。


「でも」


「全部覚えてるわけじゃない」


「星を見ると分かる」


「身体記憶?」


「たぶん」


「無理になったら」


 五番の言葉。


 行けなかったって戻ればいい。


 六番は思い出した。


「戻る」


「覚えてる?」


 レインが尋ねる。


「五番が」


「言った」


 目的地の記憶は消えても。


 今交わした新しい記憶は。


 まだ残っている。


     ◇


 夜。


 海霧が出た。


 白い。


 厚い。


 星が見えなくなる。


「六番?」


「分からない」


「進む?」


「止めて」


 船長が帆を落とす。


 白鯨号が止まる。


 全員が赤い糸を見る。


いま選び直す。


「航海継続を確認します」


 レインが言った。


「今は」


 六番が答える。


「星が見えない」


「進みたくない」


「では停止」


 過去の航路を推測しない。


 星が戻るまで。


 待つ。


 バルドが周囲を見る。


「何も見えない」


『何かいる』


 ミラが海を見る。


「死者?」


『違う』


「生者?」


『分からない』


 霧の向こう。


 小さな灯り。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 船?


「別の船ですか」


 エルナ。


 灯りは近づく。


 だが。


 船の形が見えない。


 声だけ。


「止まれ」


 若い男性の声。


「これ以上、進むな」


 レインが船首へ出る。


「どなたですか」


「答える必要はない」


「この先に何がありますか」


「答えない」


「私たちは――」


 何のために来た。


 言葉が出ない。


 忘れている。


 赤い糸を見る。


 今、選び直す。


「この先へ進むことを」


「現在、私たちは選んでいます」


 霧の声が答える。


「何のためか忘れていても?」


「はい」


「危険だ」


「それも分かっています」


「分かっていない」


 灯りが近づく。


 小舟。


 そこに。


 一人の男が立っていた。


 三十代後半ほど。


 黒い髪。


 簡素な漁師服。


 首元には。


 名前札がない。


 港の人間なら普通は持っている、船員登録札も。


 何もない。


 リナが震える。


『……』


「知っていますか」


『分からない』


 男は白鯨号を見る。


 七人。


 いや。


 五番を除く六人のカイル型死者。


 その顔を見た瞬間。


 男の表情が凍った。


「どうして」


「ここに」


 一番が尋ねる。


「俺たちを知ってる?」


「帰れ」


「誰です」


「帰れ!」


 男が叫ぶ。


 その瞬間。


 六人の胸元。


 内部に混ざっていた記憶が。


 一斉に動いた。


 一番。


「うっ!」


 二番。


「何だ!」


 三番が膝をつく。


 四番。


「頭が!」


 六番。


「集まる!」


 七番。


「止めろ!」


 六つの身体から。


 色の違う記憶の光が。


 男へ向かって伸びる。


「統合が始まった!」


 セシリアが月光境界を展開する。


 男自身が操作している様子はない。


「俺は何もしてない!」


 男が叫ぶ。


「近づいただけ?」


『自動で』


 ミラ。


『この人が、統合の中心になる!』


 男は自分の胸を押さえる。


「嫌だ」


「嫌だ!」


「戻れ!」


「俺に持ってくるな!」


 レインは即座に聞き書き帳を開く。


「あなたへ確認します!」


「六人の記憶を受け入れることを望みますか!」


「望まない!」


「もう一度!」


「望まない!」


「現在の呼び名は!」


 男が止まる。


「……ない」


「名前ではなくてもいい!」


「どう呼ばれていますか!」


「島では」


 一瞬。


 迷う。


「《凪》」


「その呼び名を今も使いたい?」


「使う!」


 レインは書く。


現在の呼称《凪》。


六名の分割死者から流入する記憶の受け入れを明確に拒否。


統合処理は本人の現在意思に反する。


 文字が光る。


 記憶の流れが。


 一瞬だけ止まった。


 六番が叫ぶ。


「離れて!」


 凪が小舟の櫂を掴む。


 白鯨号から距離を取ろうとする。


 だが。


 霧の中。


 島の方角から。


 巨大な音が響いた。


 鐘ではない。


 人間の心臓の鼓動。


 どくん。


 六人の記憶が、再び凪へ引かれる。


「島そのものが統合装置?」


 エルナが叫ぶ。


 凪が青ざめる。


「違う」


「島じゃない」


「では!」


「俺だ!」


 凪は自分の胸を叩く。


「まだ」


「残ってるんだ!」


「何が」


「統合器」


「三十年前に壊したのに!」


 首元。


 服の下。


 青い紋章が現れる。


 七つの円。


 中央に。


 空白。


 六人の記憶が。


 そこを埋めようとしている。


「あなたが」


 レインが尋ねる。


「二十六人目?」


 凪の顔が歪む。


「その番号で」


「呼ぶな」


「すみません」


「昔の役割番号だ」


「俺は」


 男は。


 震えながら答えた。


「今は凪だ」


 名前を消した子ども。


 三十年後。


 自ら別の呼び名を選び。


 生きていた。


 だが。


 役割からは。


 完全には逃げ切れていなかった。


「凪さん」


 レインは言う。


「あなた自身の意思で」


「俺たちと話すことを望みますか」


「今は!」


 凪は六人を見る。


「近づくな!」


「では離れます!」


 船長が舵を切る。


 白鯨号が後退する。


 記憶の糸が細くなる。


 凪が叫んだ。


「島へ来るな!」


「理由を聞いても?」


「来れば」


「全員」


「戻される!」


「誰に」


 凪の表情から血の気が消える。


「俺じゃない」


「では」


「島に」


「まだいる」


「何が」


 凪は霧の奥を見る。


「俺を」


「統合者にした人間が」


 白い霧。


 遠く。


 島影が浮かぶ。


 その頂上。


 一つの灯台。


 灯台の窓に。


 人影が立っている。


 三十年前の姿のまま。


 白い海軍服。


 顔には。


 七本の青い線。


 オルドが息をのむ。


「海軍監督官」


 七番の身体が震える。


「俺の記憶にいる」


 リナの声が低くなる。


『あいつ』


 白鯨号沈没。


 記憶分割。


 子どもの統合実験。


 事故後の隠蔽。


 そのすべてに関わった。


 もう一人の責任者。


 灯台から。


 男の声が海へ響く。


『統合個体を確認』


 凪が耳を塞ぐ。


「呼ぶな」


『逃亡個体を確認』


「俺は個体じゃない!」


『七記録体を確認』


 六人のカイルたちが身構える。


『不足一体』


「五番」


 レインが言う。


「ベルナードに残っています」


 灯台の男。


『回収する』


「させません」


『統合を完了する』


「本人全員が拒否しています」


『本人?』


 海軍監督官が笑う。


『記憶片に本人など存在しない』


 凪が拳を握る。


『統合器にも』


 その言葉に。


 レインは聞き書き帳を閉じた。


 相手は。


 初代鐘務局長とは違う。


 保存のためでも。


 平等のためでもない。


 最初から。


 人を部品として扱っている。


「凪さん」


「何だ」


「島へ入らず、ここで話すことはできますか」


 凪は灯台を見た。


「長くは無理だ」


「では一つだけ」


「何だ」


「五番を守るため」


「ベルナードへ警告を送る方法は?」


 凪の顔色が変わった。


「五番が」


「島にいない?」


「本人が残ると選びました」


「まずい」


「なぜ」


「七つのうち」


「一つでも遠くにあれば」


「監督官は」


「統合を始めるために」


「そっちへ行く」


 全員がベルナードの方向を見る。


 遠い。


 今から戻っても。


 一日以上。


「五番!」


 六番が叫ぶ。


 凪は自分の小舟へ飛び乗る。


「島へ来るな!」


「あなたは?」


「抜け道で戻る!」


「どこへ」


「ベルナード!」


「間に合う?」


「俺なら」


「海底鐘の流れを使える!」


 凪の胸。


 統合器の紋章。


 使いたくない能力。


 それでも。


 今は。


 本人が使うと選ぼうとしている。


「無理をすると?」


 レインが尋ねる。


「統合器がまた強くなる」


「危険です」


「分かってる!」


「それでも?」


「五番を」


「俺の役割のせいで」


「連れていかせたくない!」


「役割のせいだけではありません」


「今は説教してる時間じゃない!」


「はい」


 レインは記録する。


凪。


旧《基準人格補助》としての統合機能を現在も一部保持。


同機能の使用は本人に危険を伴う。


ベルナードに残る五番が強制回収される可能性を知り、本人の現在意思により、海底記録流を利用した帰還を選択。


「帰ったら」


 凪が言う。


「島には来るな」


「その判断は」


「俺たちが選びます」


「……そう言うと思った」


 凪は櫂を海へ入れる。


 小舟の下。


 青い光。


 海底記憶の流れが。


 一瞬だけ道になる。


「凪!」


 リナが叫ぶ。


 凪が振り返る。


『ごめん』


「何が」


『三十年前』


『迎えに行けなかった』


 凪は。


 しばらくリナを見る。


「今は」


「それを聞く時間がない」


『うん』


「でも」


 ほんの少し。


 凪の顔がやわらぐ。


「覚えておく」


 名前ではなく。


 言葉を。


 凪の小舟が。


 青い流れへ落ちる。


 そして。


 消えた。


     ◇


 霧の向こう。


 ネレイス島。


 灯台。


 海軍監督官。


 こちらを見ている。


『聞き書き人』


「何です」


『お前は、統合を拒む』


「はい」


『ならば』


 灯台の灯りが。


 赤く変わる。


『分割された罪も』


『永遠に分割されたままにするのか』


「必要なら」


『誰も責任を負わない』


「違います」


『七番は責任を返さない』


『オルドは記憶を失っている』


『船長も海軍も責任を分ける』


『最後には』


『全員が少しずつ悪かったと言って』


『誰も罪人ではなくなる』


 バルドが黙る。


 エルナも。


 難しい問いだった。


 責任を分けることが。


 責任逃れへ使われる危険。


 実際にある。


「だから」


 レインは答える。


「行為を一つずつ記録します」


『それで罰せるか』


「罰については、別の場で決めます」


『逃げるぞ』


「逃げたことも記録する」


『不完全』


「はい」


『私なら』


 海軍監督官の声が強くなる。


『一人へ罪を戻せる』


「誰へ」


『原因となった者へ』


「誰が原因です」


『統合すれば分かる』


「統合した結果」


「一番大きい記憶を持つ者が犯人になるだけでは?」


 灯台が。


 一瞬。


 沈黙する。


「それを確かめるために」


「島へ行きます」


 監督官が笑った。


『来い』


 先ほどの凪とは逆。


 拒絶。


 招待。


 同じ島から。


 二つの意思。


 どちらか一方を。


 島全体の意思とはしない。


 レインは赤い糸を見る。


いま選び直す。


「全員へ確認します」


 白鯨号の甲板。


 目的地の記憶は薄い。


 だが。


 今。


 目の前に島がある。


「ネレイス島へ入るか」


 一番。


「行く」


 二番。


「行く」


 三番。


 震えながら。


「統合されそうになったら」


「すぐ戻る」


「でも今は行く」


 四番。


「行く」


 六番。


「行く」


 七番。


「行く」


 老人カイル。


「行く」


 老人オルド。


「行く」


 若いオルド。


『行く』


 リナ。


『行く』


 セシリア。


「同行します」


 エルナ。


「調べます」


 バルド。


「船から降りられるなら何でもいい」


『本音』


 ミラ。


『私も行く』


「では」


 レインは帳面へ記す。


ネレイス島への上陸。


凪本人からは《来るな》との警告。

海軍監督官を名乗る存在からは《来い》との誘導。


いずれも島全体の意思とは扱わない。


危険性を確認した上で、同行者は現時点で上陸を選択。


強制統合兆候が発生した場合は、目的達成前でも撤退を再検討する。


 白鯨号が。


 霧を抜ける。


 島が。


 姿を現した。


 砂浜。


 森。


 崖。


 灯台。


 そして。


 海岸に。


 数十人の人々が立っていた。


 子ども。


 大人。


 老人。


 全員。


 首元に名前札がない。


 そのうち一人が叫ぶ。


「凪を連れてきたのか!」


「いいえ!」


 レインが答える。


「凪さんはベルナードへ向かいました!」


 島民たちがざわめく。


「では」


 一人の老女が前へ出る。


「あなたたちは誰だ」


 レインは答えようとして。


 止まった。


 ここは。


 名前を消して逃げた者がいる島。


 名前を聞かれること自体が。


 危険かもしれない。


「どう名乗ればいいですか」


 逆に尋ねる。


 老女が。


 少し驚き。


 やがて言った。


「自分で呼ばれたい言葉を使え」


 レインは答えた。


「問い手」


 ミラ。


『ミラ』


 セシリア。


「月の神官」


 エルナ。


「調べる人」


 バルド。


「剣士」


 七人――今は五番を除く六人も。


 一番。


 二番。


 三番。


 四番。


 六番。


 七番。


 老人カイルは少し迷い。


「カイル」


 老人オルド。


「オルド」


 若いオルド。


『若いほう』


「それでいいのか」


『今は』


 リナ。


『リナ』


 老女は全員を見渡す。


「分かった」


「島では」


「本人が望まない名前を聞くな」


「昔の名前を見つけても」


「勝手に呼ぶな」


「役割名で縛るな」


 レインはうなずいた。


「守ります」


「それと」


 老女は灯台を見る。


「灯台へ行くな」


「理由は?」


「名前を捨てた者を」


「昔の役割へ戻す場所だからだ」


 灯台の最上部。


 海軍監督官が。


 まだこちらを見ている。


 老女は言った。


「三十年前」


「凪は一人でこの島へ来たんじゃない」


「ほかにも?」


「十二人」


「誰です」


「名前は聞くなと言った」


「では」


「どんな人たちですか」


 老女の顔が暗くなる。


「白鯨号より前に」


「同じ実験で使われた子どもたちだ」


 エルナの筆が止まった。


「統合者が」


「複数?」


「凪は十三人目」


 レインの胸が冷たくなる。


 十三。


 また。


 その数字。


 老女が続ける。


「最初の十二人は」


「名前を消せなかった」


「だから」


「今も灯台の中にいる」


 灯台から。


 子どもの声が聞こえた。


『凪を返して』


 一人。


 二人。


 三人。


 十二人。


 全員が。


 同じ言葉を繰り返す。


『十三人目を返して』


 ミラが顔を上げた。


『あれ』


「何です」


『子どもの声じゃない』


「では」


『子どもだった記録を』


『誰かが使ってる』


 ネレイス島。


 名前を消した者たちが逃げ込んだ島。


 その中心には。


 十二人の《統合者》と。


 彼らを今も管理し続ける海軍監督官がいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


七人のうち、五番は自分の意思でベルナードへ残りました。


残る六人も、全員が同じ理由でネレイス島へ向かったわけではありません。


そして航海中、彼らは成長した《二十六人目》本人と遭遇します。


彼は現在、《凪》という呼び名を自ら選んで生きていました。


しかし統合者として埋め込まれた機能は完全には消えておらず、六人へ近づくだけで強制統合が始まってしまいます。


さらにネレイス島には、凪より前に統合実験へ使われた十二人の子どもが存在していたことが判明しました。


次回、第37話「十二人の名前を捨てた子どもたち」。


レインたちは灯台へ急ぐ前に、ネレイス島で暮らす《名前を捨てた人々》へ聞き取りを行います。


そして、十二人の子どもたちは本当に灯台へ閉じ込められているのか。


それとも、灯台が彼らの記録を使っているだけなのか。


《十三人目》だった凪がベルナードへ向かう一方、島側でも新たな選択が始まります。

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