第34話 沈まない幽霊船
海底に存在した《第一海葬記録庫》。
七人のカイルは、記憶を統合するためではなく、行動・事実・感情・日常・恐怖・愛着・責任の七要素を管理する《海鐘守》として、永遠に鐘へ固定される予定だった。
レインたちは七本の鎖を切りながら、この海底制度が誰のために作られたのかを調べる。
バルドの大剣が、一番目の鎖へ食い込んだ。
白い閃光。
海底全体が、一瞬だけ昼のように明るくなる。
「硬い!」
バルドが歯を食いしばる。
鎖は鉄ではない。
記憶。
役割。
命令。
七人のカイルそれぞれと海底鐘を結ぶ、記録そのものだ。
一番のカイルが胸を押さえる。
「痛い!」
「身体ではありません!」
セシリアが月光境界を張る。
「役割記録が引き裂かれています!」
「斬ったら消えるのか!」
バルドが叫ぶ。
「分かりません!」
「先に言え!」
「だから鎖だけと言ったんです!」
「鎖が本人に刺さってるんだ!」
一番の胸元。
青い鎖が内部へ食い込んでいる。
先端には文字。
行動を記録せよ。
感情を含めるな。
判断を含めるな。
行動のみを残せ。
「一番」
レインが叫ぶ。
「今、鎖を切ることを望みますか」
「切れ!」
「痛みが強くなる可能性があります」
「このまま戻されるほうが嫌だ!」
「記録します!」
一番。
《行動》の海鐘守役割への固定を拒否。
役割鎖の切断に伴う痛みおよび記憶不安定化の可能性を理解した上で、切断を希望。
「バルド!」
「分かった!」
大剣へ力が入る。
鎖が。
砕けた。
青い破片が海へ散る。
一番の身体が大きく揺れる。
「一番!」
老人カイルが手を伸ばす。
「触るな!」
一番が叫んだ。
老人の手が止まる。
「自分で立つ」
一番は膝をつき。
しばらくして。
再び立ち上がった。
胸元から《行動》の文字が消えている。
「何か失いましたか」
レインが尋ねる。
「……帆の畳み方」
「全部?」
「いや」
一番は両手を見る。
「覚えてる」
「でも」
「やらなきゃって感じがなくなった」
「どういう意味です」
「今まで、何か起きると」
「まず行動しなきゃと思ってた」
「考える前に」
「今は」
一番は白鯨号の甲板を見る。
「怖いって思える」
今まで《行動》だけを持たされていた存在。
恐怖や迷いを感じても。
それを役割として無視させられていた。
「鎖は、記憶を保持するだけではない」
エルナが言う。
「人格を役割へ偏らせる命令でもある」
『七人とも』
ミラが鐘を見上げる。
『一つのことしか言えなくなるようにされてた』
王都の十二鐘守と同じ。
人間から必要な部分だけを抜き。
役割として保存する。
違うのは。
ベルナードでは、その制度が海難死者へ適用されたことだった。
◇
二本目。
二番の鎖。
事実を記録せよ。
推測を含めるな。
感情を含めるな。
判断を含めるな。
「切る?」
レインが尋ねる。
二番は即答した。
「切れ」
「理由は」
「俺は」
「ずっと」
「事実だけ言えばいいと思ってた」
「魔導炉が爆発した」
「船が沈んだ」
「それだけ言えば」
「誰かが正しく判断してくれるって」
「今は?」
「誰が、何のために隠したのかも知りたい」
「それは推測を含みます」
「だから」
「俺も考えたい」
記録。
切断。
バルドの大剣。
第二の鎖が砕ける。
二番が目を閉じる。
「何か変わった?」
老人カイルが尋ねる。
二番は少し考える。
「腹が立つ」
「誰に」
「オルド」
老人オルドが顔を上げる。
「今までは」
「事実だけを言えって頭の中で鳴ってた」
「でも」
「お前が船長の判断記憶を取ったこと」
「リナの記憶を切ったこと」
「俺は怒っていいんだな」
老人オルドは答えた。
「怒っていい」
「許さないかもしれない」
「それも」
「お前が決めろ」
二番は何も返さなかった。
◇
三本目。
三番。
リナへの愛情を持つ存在。
感情を保持せよ。
事実によって修正するな。
理由を求めるな。
感情を継続せよ。
「ひどい」
エルナが呟く。
「感情を保存するために、変化することまで禁止している」
三番は鎖を見る。
「俺が」
「リナを愛してるのも?」
「元々はオルドの感情かもしれません」
レインが答える。
「ですが、現在のあなたがどう感じるかまで鎖が強制している可能性があります」
「切ったら」
「愛情が消える?」
「分かりません」
三番はリナを見る。
「もし消えたら」
リナは答える。
『それで私に責任はない』
「分かってる」
『あなたが残したいなら、切るかどうかもあなたが決める』
「俺は」
三番が胸元へ触れる。
「この気持ちが本当に俺のものか知りたい」
「だから切る」
バルドが大剣を構える。
レインが記録する。
三番。
現在保持するリナへの愛情が、元の移植感情・三十年間の自己経験・海鐘守役割命令のどこまでに由来するか確認したいと希望。
感情を永続させる命令鎖の切断に同意。
「行くぞ」
鎖が砕ける。
三番の身体から。
青い光が大量に抜けた。
「三番!」
リナが思わず前へ出る。
三番はその場へ座り込んだ。
長い沈黙。
「リナ」
『なに』
三番が彼女を見る。
「まだ」
「好きだ」
リナは答えない。
「でも」
三番は少し笑う。
「前みたいに」
「好きだから、お前は俺のものだって感じがしない」
『そんなこと思ってたの』
「少し」
『嫌』
「今は分かる」
「愛していても」
「何をしてほしいかは、あなたが決める」
リナはわずかに目を細めた。
『少しはましになった』
「少し?」
『少し』
ミラが笑った。
『私の名づけより評価が低い』
「何の話だ」
◇
四番。
日常を保持せよ。
事件を記録するな。
苦痛を記録するな。
平穏のみを残せ。
「だから四番は」
エルナが言う。
「白鯨号の事故記憶が薄い」
「家庭の記憶も一部違うのは」
「複数人の日常記憶をまとめた可能性があります」
四番が言う。
「切ったら」
「飯の記憶が消える?」
「それが一番心配ですか」
「大事だろ」
「大事です」
「俺は」
四番は少し迷う。
「事件ばかり思い出したくない」
「でも」
「事件を知らないまま」
「平和な昔だけ持ってるのも嫌だ」
「切る」
四本目。
切断。
四番は目を閉じた。
しばらくして。
「豆の煮込み」
「嫌いだった」
「それは変わらない?」
「変わらん」
バルドが笑う。
「そこは残るのか」
「大事な記憶だからな」
◇
五番。
恐怖を保持せよ。
危険を忘れるな。
同じ場所へ戻るな。
海を恐れよ。
五番の身体が震える。
「これ」
「切ったら」
「海が怖くなくなる?」
「可能性はあります」
「俺は」
五番は暗い海底を見る。
「怖いままでいたい」
全員が少し驚く。
「なぜ」
「怖かったことまで」
「消したくない」
「突き落とされた」
「溺れた」
「死んだ」
「それを」
「なかったことにしたくない」
「では、鎖は残す?」
「違う」
五番は首を横に振る。
「怖さを持つかどうかは」
「鐘に決められたくない」
「切る」
レインは記録する。
五番。
海および沈没への恐怖そのものを失いたいとは望んでいない。
ただし、恐怖を永続・固定し、行動を制限する役割命令は拒否。
恐怖を保持するか、変化させるかを今後自身で判断するため、鎖切断を希望。
鎖が砕ける。
五番は。
すぐに海を見る。
「怖い」
ミラが尋ねる。
『変わらない?』
「怖い」
少し間を置き。
「でも」
「ここにいてもいい」
恐怖が消えたのではない。
恐怖に命令されなくなった。
◇
六番。
愛着を保持せよ。
基準人格の帰る場所を記録せよ。
家族への帰還欲求を維持せよ。
エマへの愛着。
六番が彼女の家へ帰りたかった理由。
「俺は」
六番の声が震える。
「エマを見たとき」
「帰ってきたと思った」
「それも命令?」
「一部は」
エルナが言う。
「《帰る場所》としてエマさんが登録されていた可能性があります」
「では」
「俺がエマを愛してると思ったのも」
「鐘が?」
レインが答える。
「可能性はあります」
六番の顔が崩れそうになる。
「でも」
レインは続けた。
「三十年間その感情と一緒に存在したのは、あなたです」
「命令起源だから偽物とも」
「長期間保持したから本物とも」
「今は断定しません」
「切ったら、確かめられる?」
「命令成分は弱くなる可能性があります」
「切る」
六番はすぐ決めた。
「怖くない?」
「怖い」
「もしエマを何とも思わなくなったら」
「俺には何が残る」
「それでも」
「今までエマへ向かっていた理由が」
「自分のものか確かめたい」
鎖が砕ける。
六番は長く目を閉じる。
やがて。
「会いたい」
「誰に」
「エマ」
「なぜ」
「話したい」
「夫として?」
六番は考える。
「分からない」
「でも」
「帰る場所だからじゃなくて」
「俺が」
「知りたい」
「三十年」
「俺が覚えていた人が」
「今どんな人か」
それは。
以前とは違う感情だった。
愛着の命令ではなく。
現在の関心。
◇
最後。
七番。
責任を保持せよ。
罪を忘れるな。
苦痛を保持せよ。
記憶を元の本人へ返すまで、解放を認めない。
「オルド」
七番が老人を見る。
「これは」
「あなたが追加した?」
「……そうだ」
「全部?」
「海軍の原型命令に」
「俺が追加した」
「何のため」
「自分が忘れないため」
「でも忘れた」
「七番へ移したから」
「俺は」
七番の顔に怒りが浮かぶ。
「お前の罰の箱か」
「……」
「俺は」
「三十年間」
「お前がしたことを」
「繰り返し見た」
「リナを切った」
「船長の記憶を取った」
「再接続した」
「船が沈んだ」
「カイルを死んだことにした」
「ずっと」
「俺がやったみたいに」
「感じてた」
老人オルドは何も言えない。
「ごめん」
七番が笑う。
「謝れば終わると思うな」
「思ってない」
「俺はお前を許さない」
「分かった」
「でも」
「俺がこの記憶を持ち続けるかも」
「俺が決める」
「返せとは言わない?」
「言わない」
「本当に?」
「今の俺に」
「言う資格はない」
「資格の問題ではありません」
レインが言った。
「元の記憶がオルドの行為を含むなら、彼も関係者です」
「ですが七番の現在の意思を無視して回収する権利はない」
「俺は」
七番は胸へ手を置く。
「切る」
「責任を忘れたい?」
「違う」
「この記憶を」
「持つか返すか」
「苦しみ続けるか」
「俺が決めたい」
「鐘に命令されたくない」
最後の鎖。
バルドが大剣を持つ。
「行くぞ」
「待て」
七番が言う。
バルドの顔が険しくなる。
「何だ」
「切る前に」
七番は老人オルドを見る。
「聞く」
「何を」
「俺が持ってる記憶を」
「お前は見るか」
老人オルドの顔から血の気が引く。
「全部?」
「全部じゃない」
「俺が選ぶ」
「一つだけ」
「何の記憶」
「リナを分割した直後」
「お前が」
「一人になったところ」
老人は震える。
「見たくない」
「分かった」
七番はすぐ答えた。
「では見せない」
「……」
「どうした」
「いや」
老人は顔を覆う。
「今まで」
「俺は」
「自分が見たくないものを」
「人に持たせた」
「七番に」
「カイルに」
「リナに」
「船長に」
「だから」
長い沈黙。
「見たい」
七番が確認する。
「本当に?」
「怖い」
「でも」
「今は見たい」
「途中で止めたいと言ったら?」
「止めてくれ」
「分かった」
七番が老人の額へ触れる。
短い記憶。
◇
白鯨号。
リナの記憶を分割した直後。
若いオルド。
一人。
甲板の隅。
手が震えている。
『何をした』
自分へ何度も言っている。
『何をした』
リナがいなくなる。
船長は出航中止を忘れている。
カイルたちは、何が起きたか知らない。
オルドは吐いた。
そして。
『戻せない』
泣いた。
『今戻したら』
『俺がやったって分かる』
『全部終わる』
そこへ。
海軍監督官の声。
『なら、最後までやれ』
若いオルドが顔を上げる。
『事故にすればいい』
『炉の暴走』
『嵐』
『海難事故』
『記憶を分けたままなら、誰も全体を知らない』
『生き残れば』
『報告書は我々が書く』
オルドは。
すぐには答えなかった。
だが。
最終的に。
うなずいた。
記憶が止まる。
◇
「止める?」
七番が尋ねる。
老人オルドは泣いていた。
「もういい」
七番はすぐに手を離した。
「続きは見せない」
「ありがとう」
「礼はいらない」
「でも」
老人は七番を見る。
「今のは」
「俺が見た記憶?」
「あなたがした行為の記録を」
「俺が三十年間持ってた」
「そうか」
「信じる?」
「外部記録と照合する」
七番は少し驚いた。
「今の俺を、全部信じない?」
「お前に教わったからな」
「一つの証言だけで決めるなって」
レインは何も言わなかった。
それは。
オルド自身が選んだ答えだった。
「切ってくれ」
七番が言う。
バルドが最後の鎖へ大剣を振り下ろす。
青い光。
海底鐘全体が震える。
七本の鎖。
すべて切断。
七人のカイルが。
自由になる。
◇
だが。
巨大鐘は止まらなかった。
『海鐘守不在』
『代替管理者を選定』
青い目が開く。
「まだ選ぶ気か」
セシリアが銀杖を構える。
『七分類は維持されなければならない』
「なぜ」
レインが尋ねる。
『海で死ぬ者は多い』
『一人ずつ聞けば、間に合わない』
「誰が作った制度です」
『第一海葬管理官』
「名前は」
『不要』
「また役職」
『海難死者に個人管理は不可能』
「人数が多いから?」
『嵐一度で数百人』
『戦争で数千』
『港に帰れば生者を呼ぶ』
『死者を海へ固定しなければならない』
「全員が生者を呼ぶのですか」
『危険個体の識別に時間がかかる』
「だから全員固定」
『合理的』
「誰のための合理性です」
『港の安全』
「死者本人ではない」
『生者を守るため』
「死者へ選択を聞かず?」
『時間がない』
初代局長。
青年期記録。
同じ言葉。
時間がない。
人が足りない。
全員を救えない。
だから分類。
だから自動化。
だから声を減らす。
「最初は必要だったのかもしれません」
エルナが海底鐘を見る。
「一度の嵐で何百人もの死者が港へ戻れば、混乱は起きたでしょう」
「でも」
セシリアが続ける。
「危険な死者と、家族へ別れを告げたい死者と、ただ迷った死者を同じ処理へ入れた」
「七分類は」
レインが言う。
「人手不足を補うための補助機能だった?」
『正しい』
「最初から人間を七人へ分ける制度ではなかった?」
一瞬。
巨大鐘が黙った。
『……正しい』
エルナの目が鋭くなる。
「では、後から変えられた」
『長期運用により最適化』
「誰が」
『歴代管理者』
「何を最適化した」
『判断速度』
「人間を役割へ固定することで?」
『判断の揺れを排除』
ミラが怒った。
『揺れていいでしょう』
『迷うと死者が増える』
『迷ってる死者もいる!』
『処理を止める理由にはならない』
『処理って言わないで!』
巨大鐘の音がミラへ向く。
『第十三鐘守』
『海鐘守への転用可能』
「ミラは拒否しています」
レインが即座に言う。
『意思要素のみでも、判断補助として有効』
『海底へ残れ』
『嫌』
『死者を救える』
『嫌』
『多くを救える』
『嫌』
『お前一人の自由より、多数の死者を――』
『嫌って言ってる!』
ミラの声が。
海底を震わせた。
『何回言ったら聞くの!』
巨大鐘が止まる。
『非合理』
『あなたの合理性に、私を入れないで』
レインは記録した。
海底記憶鐘は、ミラを《第十三鐘守の意思要素》として海鐘守機能へ転用する案を提示。
ミラ本人は明確に拒否。
青い目。
『拒否によって多数の死者が未処理となる』
「では」
レインは周囲を見る。
何百隻もの幽霊船。
何万人もの海難死者。
すべてを。
一人ずつ。
今日中に聞くことはできない。
これは事実だ。
「海鐘守という役割自体を、なくせばいいとは言いません」
バルドが意外そうに見る。
「残すのか」
「人を閉じ込める形では残しません」
「では?」
「役割を、人格から分ける」
王都で。
十二人の鐘守りへ行ったこと。
技術記録。
手順。
判断補助。
それらは残せる。
人間を役割として保存する必要はない。
「行動」
「事実」
「感情」
「日常」
「恐怖」
「愛着」
「責任」
「七つの視点は、死者の聞き取りに役立つ」
「でも一人の死者を七つへ分ける必要はない」
エルナが理解する。
「質問項目にする」
「はい」
レインは帳面へ書く。
海難死者聞き取り・暫定七項目。
一、何が起きたか。
二、確認できる事実は何か。
三、現在どう感じているか。
四、生前の日常について何を残したいか。
五、何を恐れているか。
六、誰または何への関係・愛着があるか。
七、自身の行為や他者の行為について、どの責任を認識しているか。
「これを」
エルナが言う。
「一人の聞き手ではなく、複数人で分担する?」
「はい」
「記録係」
「死者の声を聞く者」
「生者側の家族」
「港務所」
「神官」
「必要に応じて別の者」
「でも、それでも数が多い」
セシリアが言う。
「一万単位です」
「全員を同じ優先度で聞く必要もない」
「どう分ける」
「本人へ聞く」
『一番最初に?』
ミラ。
「はい」
「今すぐ助けを必要としているか」
「旅立ちたいか」
「残りたいか」
「分からないか」
「誰かへ危害を加える恐れがあるか」
「緊急度を確認する」
「そこで初めて分類する」
「本人を役割へ分けるのではなく」
エルナが言う。
「聞き取りの順番を整理するための分類」
「はい」
巨大鐘が反論する。
『本人が虚偽を述べる可能性』
「あります」
『危険を隠す』
「あります」
『自覚がない』
「あります」
『なら本人確認だけでは不十分』
「本人だけでは決めません」
「死者の証言」
「生者の証言」
「現場記録」
「魔術反応」
「必要なら観察期間」
「複数で判断します」
『時間がかかる』
「はい」
『全員を救えない』
「はい」
『記録不能者が出る』
「はい」
『失敗を認めるのか』
「最初から、全員を完全に救えるとは言いません」
巨大鐘の青い目が揺れる。
『不完全』
「はい」
『非合理』
「あなたにとっては」
『処理量が不足』
「人を増やします」
『訓練が必要』
「育てます」
『費用』
「港と王国と教会で負担を協議する」
バルドが呆れた顔をする。
「急に行政の話になったな」
「制度を変えるなら必要です」
「幽霊退治より面倒だ」
「だから最初から、退治ではありません」
◇
海底鐘が。
長く沈黙した。
周囲の幽霊船も動かない。
やがて。
『質問』
「どうぞ」
『海鐘守を人間へ固定しない場合』
『最終責任者は誰』
レインは答えなかった。
セシリアも。
エルナも。
オルドも。
「一人は必要だろ」
バルドが言う。
「緊急時に」
「全員で会議してたら沈むぞ」
「はい」
これは正しい。
船が沈んでいる。
死者が暴れている。
生者へ危害が迫っている。
その瞬間。
誰かが決める必要はある。
「緊急措置を決める者は必要です」
レインが言う。
「でも」
「その人の判断を永遠の正解にしない」
『説明せよ』
「緊急時は、現場責任者が一時措置を取る」
「危険な死者を一時隔離する」
「港を閉鎖する」
「生者を避難させる」
「必要なら送魂を遅らせる」
「その後」
「記録を残し」
「本人へ聞き」
「複数人で検証する」
「誤っていたら訂正する」
『責任者が誤れば』
「責任を問う」
『次の責任者も誤れば』
「また問う」
『終わらない』
「終わらなくても続ける」
海底鐘の青い目が。
初めて。
理解できないというより。
考えているように見えた。
◇
「あなた自身は」
レインが尋ねた。
「何ですか」
『第一海葬記録庫』
「役割ではなく」
『海難死者管理機構』
「それも役割」
『……』
「誰かの人格が入っていますか」
『否定』
「独立した意思は?」
『判断機能あり』
「今、海鐘守を必要だと思っていますか」
『必要』
「人間を閉じ込める形で?」
長い沈黙。
『従来方式が最も効率的』
「質問に答えてください」
『……』
「人間を閉じ込める形で続けたい?」
『効率は低下する』
「それでも?」
青い目が。
七人のカイルを見る。
一番。
自由になった行動。
二番。
怒る事実。
三番。
変化できる愛情。
四番。
事件も知りたい日常。
五番。
残したい恐怖。
六番。
帰還命令ではない関心。
七番。
自分で持ち方を決めたい責任。
『……回答不能』
「なぜ」
『従来方式以外の長期運用記録がない』
「分からない?」
『そうだ』
初めて。
海底鐘が。
分からないと答えた。
ミラが少し笑う。
『それでいい』
『なぜ』
『分からないのに、分かってるふりしないから』
巨大鐘は何も返さなかった。
◇
そのとき。
白鯨号の船腹が。
大きく軋んだ。
「何だ!」
バルドが振り返る。
船の穴。
沈没時に開いた巨大な破損。
そこから。
黒い水が流れ込んでくる。
『七本の鎖切断により、白鯨号の固定を喪失』
海底鐘が告げる。
「先に言え!」
『質問されていない』
「そこは言え!」
白鯨号が崩れ始める。
船員の死者たちが叫ぶ。
『船が沈む!』
「もう沈んでるだろ!」
バルド。
「今回は記録として崩壊します!」
エルナが叫ぶ。
「船が消えれば」
「生者は?」
セシリアが聞く。
『海底記録領域へ残留』
「つまり帰れない?」
『可能性が高い』
「どうする!」
老人カイルが操舵輪を握る。
「白鯨号を動かす!」
「どこへ」
「海底鐘の内側!」
「なぜ!」
「記録庫なら」
「修復用の船体記録がある!」
船長の幽霊が叫ぶ。
『ある!』
「本当に?」
『白鯨号の事故記録を保持している』
「元の船へ戻せる?」
『沈没前へ戻すと事故記録が失われる』
「では、沈没後の状態で安定させる」
エルナが言う。
「壊れた船のまま?」
「はい!」
「壊れている事実も残す!」
レインは即座に記録する。
白鯨号は、沈没前の無傷状態へ復元しない。
三十年前の沈没事故による破損を保持したまま、現在の移動・乗船に必要な最低限の構造のみ安定化を希望。
「誰が希望してる!」
バルドが叫ぶ。
「確認します!」
レインは船長へ。
「どうします」
『壊れたままでいい』
一番。
「いい」
二番。
「事故を消すな」
三番。
「戻せるなら」
四番。
「厨房は直してほしい」
「それは後で」
五番。
「穴は怖い」
「塞ぐ?」
「最低限」
六番。
「帰れるなら」
七番。
「事故の跡は残す」
「老人カイル」
「同意する」
「オルド」
「俺も」
「リナ」
『完全な船に戻すのは嫌』
「なぜ」
『事故がなかったことみたいだから』
「では、最低限修復」
全員の希望を記録する。
海底鐘が答える。
『記録修復権限を一時開放』
「あなたが?」
『現在、代替海鐘守選定を保留中』
「協力する?」
『試験運用』
「言い方は気になりますが、お願いします」
巨大鐘から。
青い文字が白鯨号へ流れる。
船体の穴。
完全には塞がらない。
壊れた縁を残しながら。
透明な青い膜が張られる。
折れた帆柱も。
新しい木へ戻らず。
補強された状態で固定。
焼け焦げ。
ひび。
破損。
すべて残る。
それでも。
船は沈まない。
「沈まない幽霊船」
エルナが呟く。
『白鯨号は元から幽霊船だよ』
ミラ。
「今度は、壊れたまま航行可能になりました」
船長が操舵輪へ立つ。
『三十年前』
『俺は、この船を沈めた船長として残った』
「沈めたのは一人ではありません」
『分かっている』
「今は?」
『壊れた船を』
『港へ返す』
老人カイルが甲板へ立つ。
「俺も手伝う」
一番。
「帆は俺が見る」
二番。
「構造確認」
三番。
「リナは」
『私はここ』
四番。
「厨房は」
「ない」
「最悪だ」
五番。
「海は怖い」
「でも帰る」
六番。
「エマに話す」
七番。
「オルド」
「何だ」
「逃げるな」
「逃げない」
誰も。
一つのカイルへ戻っていない。
誰も。
完全な白鯨号へ戻していない。
それでも。
一隻の船として。
別々の者たちが協力して進む。
◇
海底鐘が最後に尋ねた。
『聞き書き人』
「はい」
『海鐘守制度を廃止するか』
「今すぐは決めません」
『なぜ』
「危険な海難死者への対応機能は必要かもしれない」
「でも人格を閉じ込める制度は停止します」
『代替制度完成まで』
「自動強制回収を止められますか」
『港への危険増加』
「緊急隔離機能だけ残す」
「本人の記憶を永久固定しない」
「一定時間ごとに再確認する」
『確認者不在』
「ベルナードへ暫定組織を作ります」
「港務所」
「教会」
「海難死者の声を聞ける者」
「記録院」
「必要なら俺たちも協力する」
『聞き書き人が不在の場合』
「一人へ依存しない仕組みにします」
海底鐘は。
長く考えた。
『暫定停止可能』
「条件は?」
『三十日以内に代替手続を提示』
「短い」
エルナが言う。
『海難死者は毎日増える』
「では三十日」
セシリアが答える。
「王都へも協力を求めます」
「大導師は嫌がるぞ」
バルド。
「嫌がっても仕事です」
『もう一条件』
「何です」
『七人の旧海鐘守候補を』
七人が身構える。
『自由状態で観察したい』
「何のため」
『役割固定なしで七分類機能が維持可能か検証』
「本人たちが同意すれば」
一番。
「監視されるのか」
「記録されるだけ?」
エルナが確認する。
『行動データを収集』
「公開範囲は?」
『海底記録庫内』
「本人へ閲覧権限は?」
『付与可能』
「削除要求は?」
『歴史記録との競合』
「では削除ではなく非公開化と異議記録」
『検討可能』
「みんな」
レインが七人へ尋ねる。
「協力しますか」
一番。
「港へ帰れるなら」
二番。
「自分の記録を見られるなら」
三番。
「リナへの感情を勝手に評価しないなら」
リナ。
『私の名前を観察項目に勝手に使わないで』
海底鐘。
『了承』
四番。
「食事記録も?」
『必要性低』
「そこを観察しろ」
五番。
「怖くなったら止められる?」
『本人による停止申請を認める』
「なら」
六番。
「エマとの会話内容は非公開」
『了承』
七番。
「責任記憶をオルドへ自動送信しない」
『了承』
「では」
「全員、暫定協力」
レインが記録した。
◇
巨大鐘から。
七人の胸元へ残っていた青い印が。
変化する。
鎖ではない。
小さな円。
開閉できる記録窓。
本人が閉じれば。
海底鐘からの観察は止まる。
「試しに閉じる」
五番が言う。
胸元の円へ触れる。
消えた。
海底鐘。
『五番記録接続停止』
「本当に止まった?」
『そうだ』
「戻す」
円が復活。
『接続再開』
「自分で選べる」
五番が少し笑った。
「これなら」
「怖くても試せる」
海鐘守。
役割として閉じ込められる存在ではなく。
本人が参加・停止できる協力者。
まだ暫定。
危険もある。
だが。
少なくとも。
永遠の鎖ではない。
◇
白鯨号が。
海面へ向かって上昇する。
周囲の幽霊船も。
それぞれの場所へ戻り始める。
海底鐘による一括回収は停止した。
完全ではない。
危険な死者もいる。
帰港する者もいる。
旅立つ者も。
迷う者も。
これから。
一人ずつ聞かなければならない。
「三十日」
エルナが言う。
「海難死者管理制度を作るには短すぎます」
「暫定運用を作るだけです」
「その後?」
「延長が必要なら」
「海底鐘へ説明する」
「機械相手に納期交渉か」
バルドが嫌そうな顔をする。
『バルド得意?』
「不得意だ」
「では、エルナが」
「私に押し付けないでください」
◇
海面が近づく。
月光。
夜の港。
白鯨号が。
三十年ぶりに。
ベルナード沖へ姿を現した。
港の人々が叫ぶ。
「白鯨号だ!」
「沈んだ船が!」
「帰ってきた!」
だが。
船は岸壁へ向かわない。
少し沖で止まった。
「なぜ」
老人カイルが船長を見る。
船長の幽霊が答える。
『港へ入る前に』
『聞かなければならない』
「誰へ」
船長は甲板。
死者二十四人。
リナを含め二十五人を見る。
『この船を』
『港へ戻していいか』
三十年前。
白鯨号が沈んだことで家族を失った者。
海軍に記録を隠された者。
港にとって。
この船は。
英雄でも。
慰霊でもない。
長く隠された事故の証拠。
「船そのものにも」
エルナが言う。
「戻ることで影響を受ける人がいる」
「では」
レインは岸壁を見る。
エマ。
遺族たち。
港務所の職員。
大勢が。
白鯨号を見ている。
「船を戻すかも」
「勝手に決めない」
白鯨号は。
沈まないまま。
沖へ停泊した。
◇
そのとき。
港の鐘塔から。
一人の少女が走ってきた。
三十代ほどの女性と、その隣に十歳くらいの少女。
「お母さん!」
エマの娘ではない。
女性が白鯨号を見て。
泣いている。
「父さん」
「誰です」
港務職員が尋ねる。
「白鯨号の機関士」
「父が乗っていました」
二番が甲板で振り向く。
胸元の記録窓が。
勝手に強く光った。
「何だ」
海底鐘からではない。
女性から。
記憶の糸。
二番へ伸びている。
「父さん?」
女性が叫ぶ。
二番の顔が歪む。
「俺は」
「カイル」
だが。
口から。
別の名前がこぼれた。
「……トーマ」
エルナが白鯨号乗組員名簿を開く。
「機関士」
トーマ・レイス。
二番の身体が大きく揺れる。
「俺は」
「カイルじゃ」
「ない?」
女性が泣きながら岸壁へ近づく。
「父さん!」
二番は後ずさる。
「待って」
「俺は」
「あなたの父親か分からない」
「でも」
「その名前を知ってる」
老人カイルが二番を見る。
今まで。
七人全員がカイルだと思われていた。
だが。
七つの役割鎖を切ったことで。
基準人格の下に埋もれていた。
元の記憶所有者たちが。
少しずつ現れ始めている。
一番も胸を押さえる。
「俺も」
「別の名前が」
三番。
「私にも」
四番。
「俺は誰だ」
七人の姿は。
まだカイル。
だが中には。
二十四人の乗組員。
リナ。
オルド。
複数の記憶。
役割鎖を切れば。
必ず一人の本当の人格が出てくるわけではない。
さらに。
複数の過去が。
表面へ浮かんでくる。
レインの聞き書き帳が震える。
七人のカイル。
訂正候補。
七人の中には、白鯨号乗組員複数名の人格断片が独立して残存している可能性。
ミラが二番へ近づく。
『二番』
「何だ」
『今、何て呼ばれたい?』
二番は。
岸壁の女性。
老人カイル。
自分の手。
海。
全部を見る。
「分からない」
『では、二番のまま?』
「今は」
「そうしてくれ」
女性が岸壁から叫ぶ。
「分かった!」
二番が顔を上げる。
「父さんって」
「今は呼ばない!」
「でも」
「話してほしい!」
二番の目から涙が落ちる。
幽霊なのに。
涙は海へ消えた。
「話す」
「ただ」
「俺が誰か」
「一緒に調べてくれ」
女性はうなずいた。
「うん」
◇
白鯨号。
沈まない幽霊船。
船は戻った。
だが。
乗っている者たちは。
まだ誰なのか分からない。
七人のカイル。
七人の海鐘守候補。
複数の乗組員。
複数の記憶。
複数の感情。
一つの姿。
第二部の最初の事件は。
さらに深くなっていく。
レインは新しい頁へ書いた。
白鯨号帰港保留。
七名の分割死者について、基準人格カイル・ノルドのみを本人とする前提を撤回。
各存在内部に残る複数の乗組員記憶・人格断片を、本人たちの現在の意思と照合する。
最後に。
本物を探すことと、現在存在する者を消すことを混同しない。
帳面を閉じる。
ベルナードの港では。
夜が明け始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
七人のカイルを縛っていた《行動・事実・感情・日常・恐怖・愛着・責任》の七本の鎖は、すべて切断されました。
海鐘守制度そのものは、もともと大量の海難死者を整理するための補助制度であり、後世の効率化によって人格を役割へ固定する仕組みに変質していたことも判明します。
さらに、七人の中にはカイルだけではなく、白鯨号の複数の乗組員の人格断片が残っている可能性が浮上しました。
次回、第35話「二番と呼ばれる父」。
《事実》を担っていた二番の中から現れた、機関士トーマ・レイスの記憶。
しかし二番は、トーマである可能性を持ちながらも、三十年間として存在してきました。
娘は父親を取り戻せるのか。
そして、二番自身は誰として生きたいのか。
一人ずつの《現在の名前》を探す聞き取りが始まります。




