第33話 死者を覚えているのは誰の記憶か
ベルナード海底記憶鐘の最終命令。
《死者に属するものを、すべて海へ返せ》
鐘は、亡くなった者の記憶だけでなく、その人を覚えている生者の思い出まで回収し始めた。
夫を覚える妻。
父を覚える娘。
仲間を覚える船員。
一つの出来事を共有した記憶は、いったい誰のものなのか。
海水が港へ流れ込んだ。
だが、足は濡れなかった。
「……水ではない?」
セシリアが銀杖の先を床へ下ろす。
青黒い水は地下室の床を覆っている。
しかし銀杖を沈めても、水滴は付着しない。
バルドが靴で踏む。
「冷たくもない」
『幽霊の海』
ミラがしゃがみ込んだ。
半透明の指を青い水へ入れる。
その瞬間。
『あ』
「どうした」
『知らない人の記憶が入ってきた』
「すぐ手を離せ」
ミラが指を抜く。
『漁船』
『赤い帽子のおじさん』
『網が切れて』
『海に落ちた』
「誰の記憶だ」
『分からない』
港務所地下へ流れ込んでいるのは、海水ではない。
海底記憶鐘に蓄積された、海難死者の記憶。
「記憶が液体のように見えている?」
エルナが床へ紙片を近づける。
紙は濡れない。
だが文字が浮かんだ。
冬。
西風。
網。
左手を離す。
冷たい。
息ができない。
「死の瞬間」
エルナは紙をすぐ引き上げる。
「記憶媒体化した魔力です」
「触れ続けると?」
「他人の記憶が自分のものとして定着する可能性があります」
七人のカイルが生まれた仕組みに近い。
「全員、触れないでください」
セシリアが月光境界を床へ広げる。
しかし水は止まらない。
壁を通り抜け。
階段を上り。
港町へ広がっている。
地上から叫び声が聞こえた。
「父さんの顔が思い出せない!」
「妻の声が!」
「誰だ、これは!」
「私の記憶じゃない!」
レインたちは急いで地上へ戻った。
◇
港は、青い記憶の海に沈み始めていた。
物理的な水ではない。
人々は歩ける。
建物も壊れない。
だが膝ほどまで青い靄が満ちている。
触れた者の頭へ、死者の記憶が流れ込む。
そして同時に。
生者からも何かが抜けていた。
一人の老漁師が岸壁で泣いている。
「息子がいた」
「確かに、いたんだ」
「何歳でしたか」
レインが尋ねる。
「二十……」
老人の顔が止まる。
「何歳だった」
「分からない」
「名前は?」
「……」
老人は頭を抱える。
「思い出せない!」
胸元から青い光が一本抜け、海へ向かう。
ミラがそれを追った。
『息子との記憶!』
「どんな」
『二人で魚を焼いてる』
『息子が焦がして』
『お父さんが笑ってる』
青い光は海へ吸い込まれていく。
「止められますか!」
セシリアが月光の糸で光を絡め取る。
光は途中で止まった。
だが引き戻せない。
「抵抗があります!」
「鐘が所有権を主張している?」
エルナが言う。
「《死者に属するもの》として」
「息子が死者だから、息子と関係する記憶も回収対象」
老人が叫ぶ。
「これは俺の思い出だ!」
海から声が返る。
『私の記憶だ』
若い男性の声。
老人の息子。
『父さんと魚を焼いた』
「お前か!」
『俺の記憶を返して』
「何を言ってる!」
『俺が覚えていたことだ』
「俺も覚えている!」
『なら、どっちのものだ』
老人は答えられない。
海底鐘が低く鳴る。
ゴォン――。
一つの出来事に、一つの所有者を指定せよ。
レインの聞き書き帳にも、同じ文章が浮かんだ。
「また一つへ決めさせる」
エルナが苦々しく言う。
「息子か父親か」
レインは老人を見る。
「魚を焼いたとき、あなたは何を見ていましたか」
「何をって」
「息子さんの顔?」
「ああ」
「息子さん」
海へ呼びかける。
「あなたは?」
『魚』
「同じ出来事でも、見ていたものが違う」
老人。
「焦げた魚を見て笑う息子を覚えている」
息子。
『父さんが笑ったから、魚を落とした』
「音は?」
老人。
「息子が《食えるって》と言った」
息子。
『父さんは《炭でも食う気か》と言った』
「感情は?」
「楽しかった」
『悔しかった』
「同じではない」
レインは帳面へ書く。
同一の出来事を経験した二者が、それぞれ異なる視点、感覚、感情を保持している。
よって、《父子で魚を焼いた出来事》は共有されているが、父親の記憶と息子の記憶は同一ではない。
海へ向かっていた青い光が、二つに分かれた。
一方は老人の胸へ。
一方は海の中へ。
老人が息をのむ。
「思い出した」
『俺も』
「誰か一人のものではない」
レインが言う。
「同じ出来事から、それぞれの記憶が生まれた」
海底鐘が反論する。
『同じ出来事を二重に保存すれば、矛盾が生じる』
「生じていい」
『父は笑った。息子は悔しかった』
「両方あった」
『一つへ整理できない』
「整理しなくていい」
青い水面に、小さな亀裂のような白線が走った。
◇
「同じ方法で、港全体を?」
バルドが周囲を見る。
何百。
何千。
死者を覚えている者がいる。
「一組ずつでは間に合いません」
エルナが答える。
「第五鐘から、次の鐘までの間隔も短くなっています」
「あと何回ある」
老人カイルが言った。
「七回」
「七つの分類鐘?」
「海底の主鐘は、七段階で回収する」
「五回目まで鳴った」
「六回目は」
カイルの顔が曇る。
「生者と死者の記憶を区別しなくなる」
「七回目は?」
「全部を一つへする」
港全体が。
一つの記憶になる。
誰が死者で。
誰が生者で。
誰が誰を覚えていたか。
区別できなくなる。
「第六鐘までに、所有規則を変える必要があります」
エルナが言う。
「主鐘のある海底へ行く時間は?」
「船で半日はかかる」
「間に合わない」
『白鯨号』
ミラが沖を指した。
幽霊船となった白鯨号は、まだ海面に浮かんでいる。
『あの船なら』
「幽霊船へ乗る気か?」
バルドが露骨に嫌そうな顔をする。
『船は嫌?』
「沈んでいる船はもっと嫌だ」
「幽霊船なので、すでに沈没済みです」
エルナが淡々と答える。
「安心材料になってないぞ」
「ですが海底鐘との接続を持っている可能性があります」
セシリアも白鯨号を見る。
「主鐘へ最短で到達できる経路かもしれません」
「今すぐ乗っても」
レインは港の人々を見る。
「その前に、回収を遅らせる必要があります」
海底鐘そのものを書き換えられなくても。
港側から流れている記憶を、一時的に固定する。
「ベルナードには、事故死者の慰霊鐘はありますか」
「ある」
老人カイルが港の北を見る。
「港鐘塔」
「普通の鐘?」
「昔は、帰港を知らせる鐘だった」
「今は?」
「海難死者の慰霊にも使っている」
「海底鐘と接続は?」
「分からない」
ミラが耳を澄ます。
『つながってる』
「どちら向きに?」
『海から港』
「逆には?」
『たぶんできる』
レインは歩き出す。
「港鐘塔へ行きます」
◇
その途中。
エマが立ち止まった。
「待って」
彼女の胸から、青い光が何本も抜け始めている。
老人カイルが駆け寄る。
「エマ!」
「触らないで」
エマは反射的に一歩退く。
カイルの手が止まる。
「……すまない」
青い光の一つ。
三十年前の結婚式。
一つ。
娘が生まれた日。
一つ。
初めて喧嘩した夜。
一つ。
カイルの死亡通知を受け取った日。
一つ。
葬式。
一つ。
娘が結婚した日。
そのとき、空いていた父親の席。
すべて。
カイルに関係する記憶。
海底鐘は死者に属するものとして回収しようとしている。
「この人は生きています!」
エマが老人カイルを指す。
「なのに、どうして!」
「鐘の記録では、カイルは三十年前に死亡しています」
エルナが答える。
「正式記録が訂正されていない」
「だからカイルに関する記憶は全部、死者側と判断されている」
「死亡記録を訂正すれば?」
「今すぐ港務記録を書き換えれば、一部は止まる可能性があります」
老人カイルが言う。
「俺は生きている」
「はい」
「三十年前から」
「はい」
「なら、書いてくれ」
レインは首を横に振った。
「聞き書き帳だけではなく、港務記録も訂正します」
「時間が」
「俺の帳面だけを現実の基準にしたくありません」
港務長オルドが前へ出る。
「俺が署名する」
「現在も港務長権限は?」
「辞任届はまだ出していない」
「では、あなた一人の署名ではなく」
エルナが言う。
「生存者記録、医師確認、本人証言、港務所記録をまとめます」
「今ここで?」
「暫定訂正です」
近くにいた港務職員へ紙を持ってこさせる。
老人カイルの現在の身体。
脈。
呼吸。
体温。
古傷。
事故前記録との照合。
エマの証言。
生存者オルドの証言。
港務長権限。
最低限をそろえる。
カイル・ノルド。
三十年前の白鯨号沈没事故により死亡認定。
本日、生存本人を名乗る男性を確認。
身体的特徴、関係者証言、事故生存者オルド・フェインの証言から、カイル本人である可能性が高い。
正式な身元確認終了まで、死亡記録を《再調査中》へ変更する。
「生存へ即訂正しない?」
カイルが尋ねる。
「ほかの確認も必要です」
「でも死亡確定のままにはしない」
「はい」
オルドが署名する。
エマは証言者として署名した。
青い光の一部が止まる。
だがすべてではない。
「なぜ」
エマが尋ねる。
「三十年間、あなたは死者だった」
レインが言う。
「記録上だけではなく」
「あなたの人生の中で」
エマにとって。
娘にとって。
カイルは死者だった。
葬儀をし。
喪失を受け入れ。
死んだ夫として思い出してきた。
今、生きていると分かっても。
その三十年の記憶まで消えるわけではない。
「では、この記憶は」
「カイルが生きていたから偽物、とはなりません」
エマの青い光。
死亡通知を受けた日の記憶。
「このとき、あなたは本当に夫を失ったと思った」
「はい」
「それはあなたの経験です」
「海底鐘へ渡す必要はありません」
レインは記録する。
後に事実関係が訂正された場合でも、当時本人が経験した喪失、悲嘆、選択の記憶は、訂正によって無効にはならない。
青い光がエマへ戻る。
彼女の膝が崩れた。
カイルは手を伸ばしかけ。
止めた。
「支えてもいいか」
エマは少し迷った。
「今は」
「お願い」
カイルが肩を支える。
エマは泣かなかった。
ただ、小さく息を吐いた。
◇
港鐘塔。
高さ四十メートルほどの石塔。
内部には大きな青銅鐘が一つ。
表面には、歴代の海難事故名が刻まれている。
北沖大嵐。
灰鯖船団遭難。
白鯨号沈没。
白鯨号の欄。
死者二十一名。
公式生存者三名。
実際はカイルを含め四名。
さらにリナが名簿外。
事故記録そのものが間違っている。
「この鐘も、誤った記録を海へ送っていた」
エルナが言う。
「慰霊鐘を鳴らすたびに」
海底鐘は。
港で記録された死者情報を受け取る。
港鐘塔は、海底鐘の入力装置でもあった。
「逆向きに使います」
セシリアが鐘の術式を見る。
「可能です。ただし」
「何です」
「誰が鐘を鳴らすかで、送信される記録が変わります」
「神官?」
「本来は港務長」
全員がオルドを見る。
彼は苦笑した。
「俺か」
「三十年間、誤った記録を送ってきた港務長として」
「嫌な言い方をするな」
「事実です」
「鳴らしますか」
レインが確認する。
「何を送る」
「答えではなく、暫定規則」
「俺が?」
「一人ではありません」
レイン。
エルナ。
セシリア。
オルド。
そして港にいる者たち。
「まず、どんな記憶が回収されているか確認します」
◇
港鐘塔の周囲へ、数十人の住民が集められた。
海難死者を家族に持つ者。
事故を生き延びた者。
死者の友人。
元同僚。
七人のカイル。
老人カイル。
リナ。
若いオルド。
エマ。
一人ずつ。
「死者との思い出を一つだけ考えてください」
レインが告げる。
「口にしたくない内容は言わなくて構いません」
「海へ返したい記憶がある人も?」
一人の女性が尋ねた。
「ありますか」
「夫が溺れたとき」
「私は一緒の船にいた」
「助けられなかった」
「毎晩、夢を見る」
「忘れたい」
「海底鐘へ渡したい?」
女性は迷う。
「分からない」
「では、今は渡しません」
「でも苦しい」
「記憶を保持するか、消すかの二択にしない方法を探せます」
「人に話す」
「記録する」
「公開しない形で預ける」
「一部だけ距離を置く術式があるか調べる」
「今すぐ決めなくていい」
女性はうなずいた。
「では、待ちたい」
「記録します」
別の男性。
「弟との記憶は全部残したい」
「弟本人が、死後に消してほしいと言ったら?」
男は答えに詰まる。
「俺の記憶なのに?」
「弟についての情報を含みます」
「では、俺のものじゃない?」
「あなたのものでもある」
「でも相手のプライバシーや意思も関係する」
「両方をどう扱うか、内容ごとに考える必要があります」
「面倒だな」
「はい」
港務所の職員がため息をつく。
「王都でも同じことを言われた気がします」
エルナが答える。
「人間一人の記録ですから」
◇
レインは聞き取りを通して、三種類へ仮に分けた。
一つ。
自分だけが経験した記憶。
死者を失った後の悲しみ。
死者のいない場所で選んだこと。
自分の身体感覚。
二つ。
同じ出来事について、それぞれが持つ記憶。
一緒に食事した。
喧嘩した。
旅をした。
同じ出来事でも、視点も感情も異なる。
三つ。
相手から預かった情報。
秘密。
遺言。
誰にも話さないでと言われたこと。
これは自分の記憶ではあるが、相手の意思も強く関係する。
「さらに」
エルナが加える。
「他者から移植された記憶があります」
七人のカイル。
元の所有者と現在の保持者。
どちらの意思も無視できない。
「四種類」
「仮分類です」
「本当に四つ?」
ミラが尋ねる。
「増えるでしょう」
『では、決めない?』
「分類は決めます」
「ただし後から増やせるようにする」
『なるほど』
初代局長の仕組みとの違い。
分類を作ること自体が悪いのではない。
分類へ人を押し込め。
例外を異常として消すことが問題だった。
◇
第六鐘が鳴り始める。
ゴォォォ――。
「来ます!」
セシリアが叫ぶ。
港にいる生者と死者。
全員の輪郭が一瞬重なる。
老人カイルの顔へ、若いカイルが重なる。
エマの身体へ、三十年前の若い自分が重なる。
バルドにも。
死んだ部下たちの姿が重なった。
「俺までか!」
「死者を覚えているからです!」
エルナの横にも、過去に読んだ古い記録の著者らしき影が現れる。
「直接会ったことのない死者まで?」
「記録を通じて覚えている場合も対象になっている!」
海底鐘の範囲が広がっている。
『死者と生者を区別しない』
『記憶された者と、記憶する者を一つへ』
「今です!」
オルドが鐘綱を握る。
「一人では鳴らさない!」
レインも綱を持つ。
エルナ。
セシリア。
バルド。
「俺もか?」
「影響を受けています」
「仕方ない」
エマも手を伸ばした。
「私も」
老人カイル。
「俺も」
七人のカイルたちは、物理的な綱をつかめない。
ミラが言う。
『私たちは、鐘の中へ声を入れる』
リナ。
若いオルド。
港の死者たち。
それぞれが鐘を囲む。
「送る内容を確認します」
レインが読む。
暫定記録。
死者についての記憶は、一律に死者の所有物とは扱わない。
同一の出来事について、生者と死者がそれぞれ異なる記憶を持つことを認める。
生者が死者を失った後に経験した悲嘆、生活、選択は、生者本人の記憶として扱う。
死者から預かった秘密、遺言等は、記憶保持者だけでなく、情報を託した本人の意思も確認対象とする。
他者から移植された記憶については、元の所有者と推定される者、現在の保持者、移動先の意思確認まで強制移動しない。
所有者を一人に決められない記憶は、《共有・関係記憶》として保留する。
「最後」
レインは全員を見る。
分からない記憶については、海底鐘が自動的に所有者を決定しない。
「異論は?」
誰も、全項目に完全賛成したわけではない。
しかし今。
強制回収を止めるための暫定規則として。
一人ずつ確認していく。
エマ。
「賛成」
カイル。
「賛成」
リナ。
『共有って言葉は嫌いだけど、今は賛成』
三番。
「俺も」
若いオルド。
『強制で戻されないなら』
老人オルド。
「賛成する」
バルド。
「細かい修正は後だ」
セシリア。
「暫定として承認します」
エルナ。
「例外記録欄を必須にする条件で」
「追加します」
ミラ。
『私も』
「では」
全員で綱を引いた。
ゴォォォォン――!
ベルナード港鐘が鳴る。
第六鐘の音と衝突する。
黒い音。
青銅の音。
二つの鐘音が港の空で重なった。
海底鐘。
『一つへ決めろ』
港鐘。
決められないものは、保留する。
『死者に属する記憶を返せ』
生者が持つ記憶を、死者の名だけで奪わない。
『同一出来事は一つへ』
同じ出来事から複数の記憶が生じる。
『矛盾』
矛盾を保持する。
港の青い記憶水が揺れる。
一気に引いていく。
すべてではない。
だが、人々の胸から抜けていた青い糸が止まった。
「戻ってくる!」
老漁師が叫ぶ。
「息子の顔が!」
別の女性。
「夫の声!」
完全ではない。
既に海底まで回収された記憶もある。
それでも強制的な流出は止まった。
第六鐘は。
最後まで鳴り切らず。
途中で沈黙した。
◇
「七回目は?」
バルドが尋ねる。
老人カイルが海を見る。
「止まってない」
「第六鐘を中断しただけ?」
「主鐘の最終命令が残っている」
「第七鐘が鳴れば」
「港鐘の暫定規則ごと、海へ取り込まれる」
「時間は」
「分からない」
エルナが術式の反応を見る。
「次に鐘が十分な記憶を集めた時点で起動するようです」
「今、集められなくした」
「だから少し時間は延びた」
「どれくらい」
「一日かもしれない」
「数時間かもしれません」
最終的には。
海底の主鐘そのものへ行かなければならない。
◇
「白鯨号を使う」
老人カイルが言った。
港の沖。
幽霊船は、まだ浮かんでいる。
「乗れるのか」
バルドが聞く。
「俺たち生者が?」
「普通なら無理だ」
「なら」
「七人がいる」
老人カイルは若い分割体たちを見る。
「白鯨号は、七つの分割記憶を乗組員として認識するはずだ」
「七人の許可が必要?」
「たぶん」
一番。
「行く」
二番。
「俺も」
三番はリナを見る。
「行く」
四番。
「海は嫌だ」
「船員だったのでは?」
「覚えてる日常が船より飯ばかりなんだ」
五番。
「海へ戻るのは怖い」
「行かなくてもいい」
レインが言う。
「でも、俺の恐怖が」
五番は自分の胸を押さえる。
「事故の場所に何か残してる気がする」
六番。
「エマは?」
「私は行きません」
エマが即答した。
六番の顔が少し寂しくなる。
「では俺も」
「私のために決めないで」
エマが言った。
「あなたが行きたいかどうかで決めて」
六番は黙る。
「俺は」
「海底鐘を止めたい」
「理由は?」
「エマとの記憶を取られたくない」
「なら、それでいいんじゃない」
「行く」
七番。
「俺も行く」
「オルドの責任記憶が海底鐘にある」
「確かめたい」
七人全員。
別々の理由で。
乗船を選んだ。
「リナさんは」
『行く』
「老人カイル」
「行く」
エマがカイルを見る。
「戻ってくると約束する?」
カイルは答えようとして。
止まった。
「約束できない」
エマは少しだけ驚いた。
「三十年前なら、絶対帰ると言った」
「そうだな」
「今は?」
「帰りたい」
「でも、何が起きるか分からない」
エマはうなずいた。
「その答えのほうがいい」
「帰ってきたら」
カイルが尋ねる。
「話してくれるか」
「帰ってきたときに決める」
カイルは苦笑した。
「変わらないな」
「三十年、生きたから」
「俺もだ」
「あなたの三十年は、これから聞く」
夫婦へ戻るかではない。
まず、三十年間別々に生きた二人として。
◇
「老人オルドは」
レインが尋ねる。
「俺も行く」
若いオルドが言う。
『私は反対だ』
「なぜ」
『逃げる可能性がある』
「逃げない」
『三十年間逃げた』
「だから今度は」
『簡単に信用できない』
「では、どうする」
若いオルドは考える。
『一緒に行く』
「監視?」
『それもある』
「ほかには」
『自分が死んだ場所を見たい』
「怖くない?」
『怖い』
老人と若い死者。
同じ過去。
同じ恐怖。
それでも現在の理由は異なる。
「両方、同行として記録します」
◇
問題は。
生者が幽霊船へどう乗るかだった。
白鯨号は沖にいる。
普通の船を出せば近づける。
だが触れられるとは限らない。
「小舟で行く」
バルドが顔をしかめる。
「船に?」
『うん』
「ほかの方法は」
「泳ぎますか」
エルナが尋ねる。
「船でいい」
『怖い?』
「揺れるのが嫌なんだ」
「大剣を持って小舟へ乗る方が危険では?」
「置いていかん」
「沈んだら原因はその剣ですね」
「縁起でもないことを言うな」
港の漁師から小型船を借りる。
レイン。
セシリア。
エルナ。
バルド。
老人カイル。
老人オルド。
幽霊のミラと七人のカイル。
リナ。
若いオルド。
人数が多い。
「二隻に分かれます」
「分かれるのか」
「沈むよりは」
バルドが一隻目を指す。
「俺は大きいほう」
『怖いんだ』
「重量の問題だ」
◇
日が沈み始めた頃。
二隻の小舟は、幽霊船白鯨号へ近づいた。
海は異様なほど静かだった。
風がない。
波もない。
白鯨号だけが、ゆっくり上下している。
船腹の穴。
折れた帆柱。
焼け焦げた甲板。
三十年前の沈没直前の姿。
小舟が横へつく。
バルドが船腹へ手を伸ばす。
すり抜けた。
「触れん」
一番のカイルが白鯨号へ上がる。
幽霊なので簡単に甲板へ立てる。
「待ってろ」
一番が甲板の縄をつかむ。
こちらへ投げる。
縄は途中から実体化した。
バルドが掴む。
「触れる」
「七人が乗組員として認識されることで、船の一部を生者側へ固定している」
エルナが興奮する。
「面白い」
「研究対象として見ないでください」
「分かっています」
一番から順に。
七人全員が甲板へ立つ。
船の輪郭が少しずつ濃くなる。
七番が最後に乗った瞬間。
白鯨号が完全に実体化した。
濡れた木。
焦げた帆。
潮の匂い。
「乗れます」
レインが縄梯子へ手をかける。
バルドは動かない。
『どうしたの』
ミラ。
「確認している」
『何を』
「船が沈まないか」
「すでに一度沈んでいます」
エルナ。
「だから言うな!」
レインが先に登る。
セシリア。
エルナ。
老人カイル。
オルド。
最後にバルド。
甲板へ足を置いた瞬間。
船が大きく揺れた。
「降りる」
「もう出ます」
白鯨号の錨が。
誰も触れていないのに。
海から上がり始めた。
◇
船長室。
死者が一人座っている。
白鯨号の船長。
五十代。
濃い髭。
制服の胸元が焼けている。
『来たか』
「先ほど」
レインが言う。
「あなたは、船を沈めていないが、沈むと知って出航させたと証言しました」
『そうだ』
「オルドは、あなたの判断記憶を奪ったと言っています」
『それも事実だ』
「では、出航させた責任は?」
『私にもある』
オルドが顔を上げる。
「記憶を抜いた後だぞ」
『抜かれる前から、海軍命令に逆らい切れなかった』
「でも最終的には止めようと」
『遅かった』
「それでも」
『若いの』
船長はオルドを見る。
『私の責任まで取るな』
「……」
『お前がしたことは、お前のものだ』
『私が命令へ従い続けたことは、私のものだ』
『海軍が危険を隠したことは、海軍のものだ』
『リナが止めようとしたことは、リナのものだ』
『全部まとめて《事故だった》にしたから』
船長は海を見た。
『三十年、誰も自分のしたことを言えなくなった』
レインはその言葉を記録した。
◇
「船長」
エルナが尋ねる。
「海底鐘まで案内できますか」
『船は勝手に行く』
「誰が動かしている」
『海底鐘』
「私たちは招かれている?」
船長は少し笑う。
『回収されてるんだ』
「誰を」
『七人』
『カイル』
『オルド』
『リナ』
『そして』
船長はレインを見る。
『聞き書き人』
「俺も?」
『お前の帳面には、海で死んだ者の記憶が入った』
「記録しただけです」
『鐘には区別がない』
『死者について書かれたものは、死者のもの』
聞き書き帳まで。
回収対象。
初代局長の帳面とは違う。
レイン自身が書いた記録も、海底鐘は死者の所有物と判断している。
「帳面を置いていく?」
セシリアが尋ねる。
「できません」
「なぜ」
「この中には、今回と無関係な死者の記録もあります」
「奪われれば」
「海底鐘へ全部取り込まれる可能性がある」
ミラが帳面を見る。
『では、レインも守る』
「俺ではなく帳面を?」
『両方』
バルドが大剣を甲板へ立てる。
「今度は斬っていい鐘なんだろうな」
「まだ決めていません」
「海底まで行って、また《待ってください》と言う気か」
「構造を見てからです」
「絶対言うな」
『たぶん言う』
「ミラ」
◇
白鯨号が動き始めた。
帆は張られていない。
風もない。
それでも船は沖へ進む。
港が遠くなる。
エマが岸壁に立っている。
老人カイルは甲板から彼女を見る。
手を振ろうとして。
止めた。
代わりに、頭を下げた。
エマも小さく手を上げた。
約束ではない。
別れでもない。
今、互いが見えていることだけを確認する合図。
夕日が海へ沈む。
その瞬間。
白鯨号の船首が下がった。
「おい」
バルドが手すりをつかむ。
「おい、待て」
船首がさらに沈む。
海面が甲板へ近づく。
「潜ります!」
エルナが妙に楽しそうに言う。
「聞いてないぞ!」
「白鯨号は海底鐘へ回収される途中です!」
「普通の船で来ればよかった!」
「普通の船では海底へ行けません!」
「だから船は嫌なんだ!」
海が甲板を覆う。
だが息はできた。
水が身体を濡らさない。
記憶の海。
沈没した船と、生きている者の境界を曖昧にする海。
周囲に。
無数の幽霊船が現れる。
何十。
何百。
ベルナードの歴史で沈んだ船。
そのすべてが海底へ向かっている。
『こんなに』
ミラが呟く。
船ごと保存された記憶。
死者。
航海。
事故。
別れ。
海底の暗闇の先。
巨大な光が見える。
鐘。
王都の第七鐘よりも巨大。
海底都市一つを覆うほどの黒い鐘。
表面には、無数の船名。
死者の名前。
そして。
生者が死者を覚えている記憶。
すべてが文字となって刻まれている。
エルナの顔から、興奮が消えた。
「こんなものを」
「海軍が作った?」
オルドが首を横に振る。
「違う」
「俺たちが運んだ鐘は」
「あれの一部だった」
「一部?」
「海底へ沈めるはずだったのは」
老人オルドの声が震える。
「最後の欠片だ」
黒い巨大鐘。
その表面。
十三本の線。
しかし。
その下に。
さらに古い紋章がある。
十三冊の本。
黒い鐘。
第十三禁書庫と同じ。
「鐘務局の施設」
セシリアが言った。
「王都より前から?」
エルナが文字を読む。
海底鐘の最上部。
古代文字。
第一海葬記録庫。
そして、その下。
陸で記録できぬ死者は、海へ保管する。
ミラが顔をしかめる。
『嫌な言葉』
「はい」
レインも同じだった。
さらに。
鐘の最下部。
一つだけ新しい文章が追加されている。
白鯨号事故より。
さらに最近。
管理者不在につき、次期海鐘守を選定する。
「海鐘守?」
オルドが首を横に振る。
「知らない」
巨大鐘が低く鳴る。
ゴ……。
第七鐘ではない。
選定音。
白鯨号に乗る全員へ。
銀色の文字が浮かぶ。
候補者を確認。
一番。
二番。
三番。
七人のカイル。
リナ。
若いオルド。
老人オルド。
老人カイル。
そして。
ミラ。
『私も?』
最後。
レイン。
聞き書き人を確認。
巨大鐘の中央に。
銀色の目が開いた。
初代局長の目とは違う。
青。
深い海の色。
声が響く。
『死者の記憶を誰が所有するか』
レインは答えない。
『生者か』
『死者か』
「その二つだけではありません」
『では、選べ』
「選びません」
青い目が細くなる。
『ならば』
海底鐘の表面へ。
新しい文章が浮かび上がった。
次の海鐘守に、決定させる。
七人のカイルが。
同時に鐘へ引かれ始めた。
「また七人を一つにするつもりか!」
バルドが大剣を抜く。
ミラが叫ぶ。
『違う!』
「何が」
ミラには、鐘の中の声が聞こえている。
『七人から一人を選ぶんじゃない』
「では?」
海底鐘の内部。
七つの座席。
七つの鎖。
七人それぞれに、一つずつ用意されている。
『七人のまま』
ミラが息をのむ。
『海底に閉じ込めるつもり』
七つの記憶分類。
行動。
事実。
感情。
日常。
恐怖。
愛着。
責任。
海底鐘は。
七人のカイルを統合しようとしているのではない。
最終的には。
七人を永遠の管理装置として利用するつもりだった。
老人カイルが叫ぶ。
「だから帰ってきたのか!」
「何が」
「七人は」
「逃げたんだ!」
エマの家へ帰ったのではない。
もちろん、それぞれにエマへ向かう理由はあった。
だが最初のきっかけは。
海底鐘からの逃亡。
「毎朝一人ずつ現れたのは」
エルナが理解する。
「封印が一つずつ壊れていたから」
七人の幽霊が、同時に自分の胸を見る。
そこに。
青い鐘の印。
一番が言う。
「俺は」
「帰ってきたんじゃない」
二番。
「逃げた」
三番。
「でも」
六番がエマのいる港を振り返る。
「帰りたかったのも、本当だ」
同じ行動に。
複数の理由。
一つへ決める必要はない。
巨大な海底鐘が鳴り始める。
第七鐘。
最後の回収。
ゴォォォ――。
「レイン!」
セシリアが叫ぶ。
七人のカイルを引く鎖が強くなる。
「今度こそ!」
バルドが大剣を構える。
「斬っていいか!」
レインは巨大鐘。
七本の鎖。
七人の意思。
周囲に眠る何万もの海難死者を見る。
「鎖だけ!」
「待ってました!」
大剣が振り下ろされる。
一本目の鎖へ。
刃が触れた瞬間。
海底全体が白く光った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
同じ出来事を経験していても、生者と死者が持つ記憶は同一ではありません。
父親が覚えている息子の笑顔と、息子が覚えている父親の笑い。
一つの出来事から、それぞれ別の記憶が生まれます。
レインたちは、《死者を覚えている生者の記憶》を一律に死者へ返す規則を一時停止することに成功しました。
しかし白鯨号で海底へ向かった先にあったのは、巨大な《第一海葬記録庫》。
そして七人のカイルは、単に分裂して帰ってきたのではありませんでした。
彼らは《七人の海鐘守》として永遠に海底鐘へ閉じ込められる運命から逃げていたのです。
次回、第34話「沈まない幽霊船」。
レインたちは白鯨号と七人のカイルを海底鐘から解放するため、七本の鎖を切りながら《海鐘守》という制度の起源へ迫ります。




