第32話 罪を七つに分けた男
三十年前に沈没した白鯨号。
七人のカイル、三十年間死んだことにされていた本物のカイル、そして名簿に存在しない女性リナ。
彼らの記憶は、白鯨号で行われた《記憶分割実験》によって混ぜられていた。
次にレインたちが向かうのは、事故の生存者であり、現在の港務長オルド・フェイン。
彼は三十年前、何を知り、何を隠したのか。
ベルナード港務所は、海へ張り出すように建っていた。
黒い石壁。
三階建て。
屋上には風向計と信号旗。
正面には、港の管理を示す青い錨の紋章が掲げられている。
だが今、その錨の中央に。
黒い鐘の染みが浮かんでいた。
『昨日はなかった』
ミラが建物の上を見上げる。
「分かるのか」
『海の幽霊が言ってる』
港には、三十年前の白鯨号だけではない。
船から落ちた者。
嵐で消えた者。
異国へたどり着けなかった者。
無数の死者がいる。
彼らの多くは港務所を避けるように漂っていた。
「なぜ入らない」
『鐘が嫌だって』
「港務所にも鐘が?」
エルナが建物を見回す。
「通常の時刻鐘はあります。しかし怪異を嫌うほどのものでは――」
『地下』
ミラが指す。
『もう一つある』
レインは聞き書き帳へ記した。
ベルナード港務所地下に、死者が接近を避ける鐘反応あり。
文字を書いた瞬間。
七人のカイルが遠く、青錨亭の方角で同時に叫んだ。
声はここまで届かないはずだ。
だがレインには聞こえた。
『返すな!』
『戻すな!』
『俺は俺だ!』
海底の鐘が、七人を元へ戻そうとしている。
「時間がありません」
セシリアが港務所へ向かう。
「オルドが鐘を操作しているなら、今すぐ止める必要があります」
「まだ、オルドが操作しているとは決まっていません」
「分かっています」
「でも疑っている?」
「強く」
「俺もだ」
バルドが言う。
『私も』
ミラ。
「全員で決めつけないでください」
エルナだけが冷静だった。
「疑う理由が多いことと、犯人であることは別です」
「はい」
レインは港務所の扉を開いた。
◇
中は混乱していた。
職員たちが書類を抱えて走り回っている。
「西第三桟橋の船員が全員、自分の名前を忘れた!」
「第七倉庫で、三十年前の船荷証が勝手に出てきています!」
「港務長は!」
「地下記録室!」
レインたちは顔を見合わせる。
「先に聞く必要がなくなったな」
バルドが階段へ向かう。
「待ってください」
受付の若い男性を呼び止める。
「港務長オルド・フェインは、いつ地下へ?」
「少し前です」
「誰か一緒ですか」
「誰も」
「地下へ鐘はありますか」
職員の顔が変わった。
「知りません」
反応が不自然だった。
「本当に?」
「港務長から」
男性は口を押さえた。
「何を言われていますか」
「地下の旧保管区画について、聞かれても答えるなと」
「いつから?」
「私が働き始めた七年前には、すでに」
「鍵は?」
「港務長しか持っていません」
そのとき。
地下から。
ゴォン――。
港務所全体が揺れた。
職員たちが悲鳴を上げる。
壁に掛けられた船員名簿。
何十枚もの紙から、文字が抜け始めた。
「名前が!」
セシリアが銀杖を構える。
だが今回は、名前だけではない。
船長。
機関士。
甲板員。
荷役人。
職種。
溺死。
行方不明。
生還。
事故結果。
文字が剥がれ、地下へ吸い込まれていく。
「港の記録を回収している」
エルナが言う。
「白鯨号だけではありません」
「全部?」
「歴代の海難事故記録です」
『下にいるものが、大きくなってる』
ミラが地下を見つめた。
◇
地下への扉には、三つの鍵穴があった。
一つは通常の鍵。
一つは青い錨。
一つは黒い鐘。
「オルドしか鍵を持たない」
バルドが大剣を抜く。
「壊すぞ」
「待って」
「急いでるんだろう」
「壊す前に確認します」
レインが扉へ手を近づける。
直接は触れない。
「中に死者は?」
『たくさん』
「扉のすぐ向こうに?」
『一人』
「誰」
『七番と同じ声』
「オルドの記憶?」
『でも死んでる』
「生きているオルドとは別に?」
『うん』
レインは扉へ呼びかけた。
「中にいる方へ聞きます」
『……』
「自分をオルド・フェインだと認識していますか」
小さな声。
『認識している』
「現在の港務長と同じ人ですか」
『違う』
「死者?」
『そうだ』
「いつ死んだ」
『三十年前』
全員が止まった。
「白鯨号で?」
『そうだ』
「では、今生きている港務長は誰です」
扉の向こうの声が、少し笑った。
『それを、私も知りたい』
◇
バルドが扉を斬った。
正確には、鍵だけを。
「今回はうまくいった」
「自分で言わないでください」
地下記録室。
階段を下りるほど、海の匂いが濃くなる。
壁から水が染み出している。
地下なのに、波の音が聞こえる。
最下部。
巨大な円形室。
中央に黒い鐘。
王都の記憶鐘より小さい。
人の背丈ほど。
ただし鐘の周囲には、七つの小さな鐘が並んでいる。
「七人のカイル」
エルナが言う。
「七分割用の補助鐘」
中央の黒鐘の前。
一人の老人が立っている。
オルド・フェイン。
六十四歳。
港務長。
白髪。
紺色の制服。
右手には港務所の鍵束。
左手には銀色の短剣。
「止まってください」
セシリアが銀杖を向ける。
オルドは振り返った。
「来ると思っていた」
「何をしている」
レインが尋ねる。
「事故を終わらせる」
「七人を統合する?」
「元へ戻す」
「誰へ」
「カイルへ」
「本人の同意は?」
オルドの顔が歪む。
「三十年前から、あいつの記憶だ」
「全部?」
「本来は」
「リナの記憶もある」
「……」
「ほかの乗組員の感情も混ざっている」
「事故で崩れた」
「では、カイルだけへ戻す根拠は?」
「基準人格がカイルだからだ」
「それを決めたのは?」
「海軍」
「カイル本人は同意した?」
「署名した」
「内容は?」
「記憶分散実験への協力」
「事故後の再統合まで?」
「……」
「書いていなかったんですね」
「緊急時の復元は当然だ」
「誰にとって?」
オルドは答えない。
黒鐘が低く唸る。
◇
「先に、あなたへ聞きたいことがあります」
レインは帳面を開く。
「私は犯人ではない」
「まだ犯人を聞いていません」
オルドの目が揺れる。
「白鯨号が沈んだ原因を知っていますか」
「魔導炉事故だ」
「二番の記憶と一致します」
「では終わりだ」
「しかし船長室の死者は、《沈むと知っていて出航させた》と言っています」
「船長は狂っていた」
「三番には、リナとの関係が入っています」
「偽の記憶だ」
「誰が入れた」
「……」
「七番は、あなたの記憶を持っている」
「……」
「現在のあなたと、三十年前に死亡したオルドを名乗る死者も地下にいる」
オルドの顔色が変わる。
「どこだ」
『ここ』
ミラが指す。
黒鐘の裏。
一人の若い男が現れた。
三十代前半。
顔はオルド本人。
七人のカイルとは違う。
若いオルドの幽霊。
現在の老オルドが後ずさる。
「お前は」
『やっと見つけた』
「消えたはずだ」
『あなたが消した』
「違う」
『三十年前、私を船に残した』
「黙れ」
『あなたが生きて帰った』
「黙れ!」
『私は死んだ』
セシリアが銀杖を二人へ向ける。
「同一人物の生者と死者が同時に存在している?」
「ヴァイス邸の記憶分離より深い状態です」
エルナが観察する。
「死者側にも完全な死霊反応がある」
「では生きている方が偽物?」
「それも早いです」
レインは若いオルドへ尋ねた。
「あなたは、どの時点まで覚えていますか」
『白鯨号が沈むまで』
「その後は」
『ない』
「老オルドは?」
老人は黙っている。
「あなたは事故後を覚えていますね」
「当然だ」
「では、死亡したオルドと、生存したオルドへ分かれた?」
「違う」
「何が」
「俺は」
老人は胸元を押さえた。
「俺は、死ぬはずだった」
◇
三十年前。
白鯨号。
オルドは、海軍から記憶分散実験の管理役を命じられていた。
秘密情報。
海底鐘の位置。
起動方法。
軍の関与。
事故が起きた場合に、敵国へ全情報を奪われないよう。
二十四人の乗組員へ、情報を分散する。
一人が捕まっても、全体は分からない。
「その中で、カイルが基準人格になった」
「なぜ」
「記憶適性が最も高かった」
「本人は?」
「海軍の追加給金を受け取った」
「危険性を説明した?」
「全部は」
「なぜ」
「拒否されたら実験できない」
バルドが低い声で言った。
「それを同意とは呼ばん」
「軍では命令だ」
「カイルは軍人ではない」
「民間船員だが、軍契約船だった」
「契約へ記憶改変まで書かれていた?」
「……」
「書かれていなかった」
レインは記録する。
カイル・ノルドは記憶分散実験への協力署名を行ったが、危険性および全処置内容について説明を受けていなかったと、オルド・フェインが証言。
「続けてください」
オルドは黒鐘を見る。
「海底鐘は、死者の帰還を防ぐ装置だった」
「具体的には」
「海難死者の記憶を、海底へ固定する」
「なぜ」
「港へ帰ってくる死者がいた」
「家族を海へ呼ぶ?」
「そうだ」
「全員が?」
「いや」
「では、危険な死者だけを?」
「識別が難しかった」
「だから全員」
「……そうだ」
本人が帰りたいか。
家族へ別れを告げたいか。
旅立ちたいか。
それを聞かず。
海難死者を一括で海底へ固定する。
鐘務局と同じ思想。
「装置を作ったのは誰」
「海軍技術局」
「元になった技術は」
「聖導教会から提供された」
セシリアの顔が険しくなる。
「鐘務局解体後の技術が、軍へ渡っていた」
「教会上層は否定するだろう」
「記録は?」
「船に積んでいた」
「沈んだ?」
「一部は」
「残りは」
オルドが床を見る。
「ここだ」
円形室の壁。
何百もの黒い箱。
海難事故記録。
死者の名前。
海軍の命令。
実験資料。
すべてが港務所地下に隠されている。
「なぜ三十年間、隠した」
「公開すれば港が混乱する」
「それだけ?」
「海軍が潰れる」
「それだけ?」
「俺も終わる」
ようやく本人の理由が出た。
◇
「白鯨号はなぜ沈んだ」
若いオルドの幽霊が言う。
『私が答える』
老人が叫ぶ。
「黙れ!」
『出航前、海底鐘に異常が出ていた』
「何の異常」
『死者の記憶を固定するはずが、生者の記憶まで吸い始めた』
「誰が知っていた」
『船長』
『私』
『海軍監督官』
「カイルは?」
『知らなかった』
「リナは?」
若いオルドが止まる。
『知っていた』
「なぜ密航していた」
『密航ではない』
老人オルドの顔が青ざめる。
「黙れ」
『海軍技術局の記録官』
エルナが素早く書く。
「女性技術者?」
『身分を隠して乗船した』
「名簿から外したのは?」
『海軍』
「リナは何をしようとした」
『実験中止』
老人が銀色の短剣を握る。
「もういい」
「まだです」
レインは若いオルドへ続ける。
「船長は出航中止を決めた?」
『決めようとした』
「では、なぜ出た」
若いオルドは。
老いた自分を見た。
『私が出航させた』
港務長オルドが目を閉じる。
◇
「理由は」
『海軍命令』
「それだけ?」
『計画を失敗させたくなかった』
「それだけ?」
『昇進』
若いオルドの声が震える。
『成功すれば、海軍技術局へ入れると言われていた』
「異常を知りながら」
『出航させた』
「船長は」
『反対した』
「どうした」
『記憶分割装置を使った』
「船長へ?」
『判断記憶の一部を抜いた』
セシリアが息をのむ。
「生者へ強制使用した」
『船長は、自分が出航中止を決めたことを忘れた』
「リナは?」
『見ていた』
「止めた?」
『私を告発すると言った』
「どうした」
若いオルドの輪郭が揺れる。
『彼女の記憶も分けた』
「誰へ」
『カイルたち』
三番が持つ、リナへの愛情。
ほかのカイルにも、断片があるのかもしれない。
「なぜ愛情まで」
『事故だった』
老人オルドが突然言う。
「技術記憶だけを分けるはずだった」
「感情まで流れた」
「では、三番がリナを愛している感情は」
「俺のものだった」
全員が沈黙した。
「あなたが、リナを愛していた?」
オルドは答えた。
「そうだ」
「関係は」
「恋人だった」
「エマさんは?」
「関係ない」
「三番が、自分をカイルでありリナを愛していると信じたのは」
「俺の感情が、カイルの人格へ入ったから」
「では三番の愛情は偽物?」
「俺のものだ」
その瞬間。
倉庫にいる三番の声が、死者聴きを通してレインへ届いた。
『違う』
「三番?」
『最初は誰かのものだったかもしれない』
『でも、三十年間』
『俺の中にあった』
レインはその言葉を、後で本人へ確認する必要がある。
移植された感情。
長期間保持した記憶。
元の所有者がいるからといって、現在の保持者の感情がすべて無効になるとは限らない。
◇
「爆発は誰が起こした」
レインが聞いた。
若いオルド。
老人オルド。
同時に黙る。
「魔導炉ではない?」
『魔導炉も爆発した』
若いオルドが答える。
「原因は」
『海底鐘』
「どうして」
『リナが止めようとした』
「破壊?」
『切断』
「何を」
『生者の記憶を吸う回路』
「その結果、炉へ負荷?」
『違う』
若いオルドは、自分の手を見る。
『私が再接続した』
「あなたが?」
『実験を続けるため』
老人オルドが苦しそうに言う。
「その瞬間」
「鐘が暴走した」
「船内全員の記憶を吸い始めた」
「魔導炉へ逆流」
「爆発」
「沈没」
「では」
エルナが慎重に言う。
「白鯨号を沈めた直接原因は、リナによる停止処理ではなく」
「あなたが再接続したこと?」
オルドはうなずいた。
「俺だ」
バルドの顔が険しくなる。
「なら犯人は決まったな」
「まだです」
「今、自分で認めた」
「行為は確認しました」
「責任を分ける必要があります」
「何を分ける」
「船長は異常を知っていた」
「海軍監督官は出航命令を出した」
「オルドは昇進目的も含め、出航を強行した」
「リナは停止を試みた」
「海軍は危険を十分説明せず民間船員へ実験させた」
「そしてオルドが再接続したことで暴走した」
「全部を《オルドが沈めた》の一文だけにすれば、海軍や制度の責任が消える」
オルドが苦笑する。
「俺を庇うのか」
「庇っていません」
「あなたがした行為も、その結果も記録します」
「ただし、ほかの者がしたことまであなた一人へ乗せません」
「俺は船を沈めた」
「再接続を実行した?」
「そうだ」
「異常を知って出航を進めた?」
「そうだ」
「船長の判断記憶を奪った?」
「そうだ」
「リナの記憶を分割した?」
「そうだ」
「事故後、記録を隠した?」
「そうだ」
「カイルを死んだことにした?」
「……そうだ」
「それらを記録します」
レインは筆を取る。
オルド・フェインは、白鯨号出航前に海底記憶鐘の異常を認識。
船長が出航中止を検討した際、その判断に関わる記憶を本人の同意なく分離。
リナが実験中止および告発を試みた際、彼女の記憶を分割装置へ接続。
その後、生者記憶吸収回路を自身の判断で再接続し、装置暴走および魔導炉爆発につながったと証言。
事故後、白鯨号の記録および四人目の生存者カイル・ノルドの存在を隠蔽したことを認める。
続けて。
一方、海軍側は異常を把握しながら出航命令を維持した可能性があり、実験参加者へ危険性を十分説明していなかった。
白鯨号沈没の責任を、オルド一名へ限定して確定しない。
「責任逃れに使われるぞ」
バルドが言う。
「だから行為を具体的に書きました」
「《全部は俺の責任じゃない》と言える」
「言えます」
「事実として、全部ではありません」
「でも」
レインはオルドを見る。
「自分がしたことが消えるわけでもない」
オルドは笑わなかった。
◇
「三十年前に死んだオルドと、今のあなた」
エルナが聞く。
「どう分かれたんです」
老人は黒鐘を見る。
「暴走時」
「全員の記憶が吸われた」
「俺も」
「船が沈む直前、装置は《死亡予定者》の記録を海底へ固定した」
「死亡予定者?」
「海へ落ちた者」
「生命反応が急低下した者」
「俺も一度心臓が止まった」
「だから死者記録が作られた?」
「そうだ」
「でも蘇生した」
「生存者に引き上げられて」
若いオルドの幽霊。
死者として記録されたオルド。
生還した身体のオルド。
死の瞬間に分岐した。
「では、若いオルドもあなたの一部」
「違う」
老人が即座に言う。
『違わない』
若い幽霊が返す。
「俺は生きた」
『私は死んだ』
「なら別人だ」
『同じ過去を持つ』
「過去が同じでも、今は違う」
王都でミラたちへ出した結論と同じ。
だが今回は、本人同士がそれを理解している。
「若いオルド。現在、老人側へ統合されたいですか」
『嫌だ』
「理由は」
『私が消える』
「老人オルドは」
「戻したい」
「なぜ」
「俺の記憶だから」
『違う!』
若いオルドが怒鳴る。
『三十年間、海の底にいたのは私だ!』
『あんたは港務長になった!』
「俺も苦しんだ!」
『地上で!』
「毎日だ!」
『私は三十年間、鐘の中で同じ沈没を繰り返した!』
オルドの身体が震える。
「知らなかった」
『知ろうとしなかった』
「海底鐘を見られなかった」
『怖かったから』
「そうだ!」
老人が初めて叫ぶ。
「怖かった!」
「海へ近づけば」
「俺が死んだ瞬間を思い出す!」
「リナの顔も!」
「船長も!」
「カイルも!」
「だから地下へ封じた!」
『その間、私たちはずっと中にいた』
老人は答えられない。
「若いオルド」
レインが尋ねる。
「現在、何を望みますか」
『鐘から出たい』
「その後は?」
『分からない』
「老人を許したい?」
『今は嫌だ』
「復讐したい?」
『少し』
バルドが大剣へ手を置く。
『でも』
若いオルドは、老いた自分を見る。
『殺したら、また私があいつの人生を決める』
「では?」
『外へ出てから考える』
レインは記録した。
白鯨号沈没時に死亡記録として分離された若年オルド。
現在の港務長オルドとの再統合を拒否。
海底記憶鐘からの解放を希望。
現在の老人オルドへ怒りと一部復讐感情を認めるが、その処遇を自ら即決することは望まない。
「俺の記憶なのに」
老人が言う。
「今は別の意思があります」
「それを認めれば、俺は永遠に欠けたままだ」
「欠けていると感じますか」
「事故から三十年間」
「何かが足りない」
「それを戻せば、楽になる?」
「たぶん」
「若いオルドが消える可能性があっても?」
老人は答えられない。
沈黙自体が答えに近かった。
◇
「七人のカイルを戻す操作を止めてください」
レインが言う。
「戻さなければ、鐘が壊れる」
「壊れたら?」
「分割記憶が港全体へ流れ出す」
「なら、別々に安定させる」
「できると思うのか」
「王都で四人を分けたまま安定させました」
「同じ技術じゃない」
「だから調べます」
「時間がない!」
黒鐘が三度目の振動を始めている。
七つの小鐘が順番に光る。
一。
二。
三。
七人のカイルの記憶が、強く引かれている。
セシリアが月光境界を展開する。
「一時的に接続を遅らせます!」
「どれくらい」
「長くて半刻!」
「エルナ」
「装置構造を見ます!」
エルナが黒鐘の周囲を走る。
「七つの鐘は、七人を統合するためだけではありません!」
「何です」
「各鐘に項目が書かれています!」
一番。
行動。
二番。
事実。
三番。
感情。
四番。
日常。
五番。
恐怖。
六番。
愛着。
七番。
責任。
「人間を七種類に分けた」
レインが言う。
「七人のカイルは、それぞれ特定の要素を多く持っている」
一番は船上行動。
二番は爆発の事実。
三番はリナへの感情。
四番は食事や家庭の日常。
五番は突き落とされた恐怖。
六番はエマへの愛着。
七番はオルドの記憶と責任。
「だから全員、カイルに見えた」
「基準人格がカイルだから」
「しかし中身は複数人」
エルナが七番目の鐘を読む。
「《責任》の鐘だけ、後から術式が追加されています」
「何のため」
「罪の記憶を移動させる」
老人オルドが目をそらす。
「あなたが作った?」
「事故後に」
「なぜ」
「俺は」
「耐えられなかった」
「自分が船を沈めた記憶に?」
「そうだ」
「だから責任を七番へ移した」
「全部ではない」
「何を移した」
「リナにしたこと」
「船長にしたこと」
「再接続したこと」
「カイルを死んだことにしたこと」
「それを七番が持っている?」
「……そうだ」
七番が謝りたかった理由。
オルドの記憶を持っていた理由。
生きている本人から、責任と罪悪感を切り離された。
「七番をカイルへ戻せば」
レインが言う。
「あなたの罪の記憶まで、カイルへ入る」
老人は黙る。
「カイルに、白鯨号を沈めた記憶を背負わせるつもりだった?」
「戻せば」
「事故前の分割が正しく復元されると思った」
「七番に後から入れた記憶も?」
「……」
「分かっていたんですね」
エマの家へ帰った七人。
その中の一人に、オルドが切り離した責任が入っている。
全員をカイルへ戻せば。
カイル本人が、自分が白鯨号を沈め、リナを傷つけ、三十年間家族を捨てた記憶を持つことになる。
本人がしていないことまで。
「それは復元ではない」
エルナが言った。
「責任転嫁です」
「そんなつもりじゃ」
「結果として、そうなります」
老人オルドの肩が落ちた。
◇
「操作を止めてください」
レインがもう一度言う。
「止めれば、俺の責任も戻る」
「それを嫌がっている?」
「怖い」
「はい」
「全部戻ったら、俺は耐えられないかもしれない」
「戻す必要はありません」
老人が顔を上げる。
「何?」
「責任を感じるために、記憶を全部頭へ戻す必要はない」
「七番の証言を聞けばいい」
「でも、俺が覚えていなければ」
「七番が持っている記憶を、あなたの行為だったと認めることはできます」
「本当に俺がしたと、どうやって」
「外部記録と照合する」
「若いオルドの証言」
「リナ」
「船長」
「海軍資料」
「カイル」
「複数の証言を合わせる」
「俺自身が覚えていなくても?」
「記憶がないことを、無罪の証拠にはしない」
「同時に」
「他人の記憶を、あなたの罪だと即断もしない」
「調べます」
老人オルドは黒鐘を見る。
七番目の小鐘。
責任。
「俺は」
「逃げるために分けた」
「はい」
「三十年」
「自分が何をしたか、全部は覚えていなかった」
「はい」
「それでも責任はある?」
「記憶を自分で切り離した行為そのものにもあります」
老人はゆっくりと銀色の短剣を床へ置いた。
「止めてくれ」
「統合を?」
「全部」
セシリアが聞く。
「あなた自身が、装置停止を望みますか」
「望む」
「七人の記憶を戻さず?」
「戻さない」
「若いオルドも?」
「……戻さない」
『本当に?』
若いオルドが尋ねる。
老人は幽霊を見た。
「お前は」
「俺が捨てた俺だ」
『私はあなたじゃない』
「そうだな」
「今は」
『……』
「三十年、俺が生きた」
「お前は海で死んだ」
「同じだったとしても」
「もう同じじゃない」
若いオルドは何も言わなかった。
拒絶でも、許しでもない。
ただ聞いていた。
「記録します」
現在の港務長オルド・フェインは、七つの分割記憶をカイル・ノルドへ統合する操作の停止を希望。
白鯨号沈没時に死亡記録として分離された若年オルドとの再統合も、現時点では行わないことへ同意。
自身が事故後に《責任》の記憶を七番目の分割体へ移動させたことを認め、記憶が自身へ完全に戻らない状態であっても、外部証言および記録との照合によって自身の行為を確認する調査へ応じると表明。
文字が完成する。
黒鐘の振動が少し弱まった。
◇
「止める方法が分かりました!」
エルナが叫ぶ。
「七つの小鐘を一つずつ無効化するのではありません」
「では」
「中央鐘の命令文を書き換える」
「何と書いてある」
古い海軍文字。
分割物は、基準人格へ帰属する。
「これが全員をカイルへ戻している」
「はい」
「誰が書き換えられる」
「設計権限者」
オルドが言う。
「俺だ」
「自分で?」
「事故後、七番へ責任を移したときに改造した」
「では、今のあなたが訂正できる?」
「たぶん」
「何と変える」
オルドは七つの鐘を見る。
「分からない」
レインが七人の証言を思い出す。
全員がカイルだと思っている。
だが、それぞれに独立した現在の意思がある。
三十年。
海底で。
記憶と感情を抱え続けた。
「《元の所有者へ返す》では駄目です」
エルナが言う。
「誰の記憶か確定していないものが多すぎる」
「《現在の保持者へ固定》も危険です」
セシリア。
「本人が返したいと望む場合もあります」
「では」
ミラが言う。
『一人ずつ聞く』
レインはうなずいた。
「命令文を」
「《分割物は、本人の意思確認まで移動しない》へ」
オルドが鐘へ手を置く。
「俺に、そんな文が書けるか」
「設計者なら」
「俺は命令しか書いたことがない」
「では、今初めて書いてください」
オルドは震える手で、銀色の短剣の先を鐘へ当てる。
古い文字を削らない。
その下へ、新しい一文を刻む。
分割された記憶、感情、責任は、現在の保持者および関係者の意思を確認するまで、自動で移動しない。
エルナが止める。
「《関係者》は広すぎます」
「では」
「移動によって影響を受ける本人」
レインが言う。
「元の所有者と推定される者」
「現在の保持者」
「移動先となる者」
「それぞれへ確認」
オルドは書き直す。
分割された記憶、感情、責任は、現在の保持者、元の所有者と推定される者、および移動先となる者の意思を確認するまで、自動で移動しない。
「完全ではありません」
エルナが言う。
「でも、今の強制統合は止められる」
「暫定規則として」
レインは聞き書き帳にも同じ内容を記録する。
黒鐘が震える。
一番目の小鐘が消灯。
二番目。
三番目。
順番に光が弱まる。
七番目。
責任の鐘だけが強く抵抗した。
『責任は、元へ戻せ』
鐘から声。
「誰の声です」
『責任は、本人が持つべきもの』
「記憶を戻すことと、責任を負うことは同じではない」
『忘れた者は、責任を逃れる』
「だから記録する」
『記録では痛みがない』
老人オルドの顔が歪む。
鐘の言葉は。
彼自身の罪悪感から作られた可能性がある。
『本人が苦しまなければ、償いにならない』
レインは鐘へ尋ねた。
「誰がそう決めた」
『オルド・フェイン』
老人は目を閉じる。
「俺だ」
「事故後?」
「責任を分けた後」
「自分を罰するために?」
「忘れた自分が、いつか戻すように」
「でも三十年間戻さなかった」
「怖かった」
責任の鐘。
罪を他人へ押しつけるためだけではない。
自分がいつか思い出し、苦しむための装置でもあった。
だが結果として。
七番を閉じ込め。
カイルへ罪を戻す危険を作った。
「責任を感じることは必要かもしれません」
レインが言う。
「苦しむことだけが責任ではありません」
『では何だ』
「事実を隠さない」
「被害を受けた人へ説明する」
「可能な償いをする」
「処分を受ける」
「再発を防ぐ」
「それでも許されないことを受け入れる」
オルドが小さく息を吐く。
「苦しんだから終わりではない」
「はい」
「忘れなければ許されるわけでもない」
「はい」
責任の鐘へ、最後の訂正文。
責任は、記憶の苦痛量によってのみ測らない。
鐘の光が落ちた。
七つすべて。
沈黙。
◇
海底の鐘まで止まったわけではない。
だが港へ向かっていた統合の力は消えた。
遠く青錨亭から。
一番。
二番。
三番。
七人のカイルの輪郭が安定した。
三番が、リナを見る。
「俺の愛情は」
リナは答えない。
彼女自身が港務所まで来ていた。
「リナさん」
レインが尋ねる。
「三番が持つ感情は、元々オルドのものだった可能性があります」
『知ってる』
「返してほしい?」
老人オルドが息を止める。
リナは三番を見る。
『返すって、どうやって』
「記憶術式としては可能性があります」
『戻したら、この人は私を愛さなくなる?』
「分かりません」
三番が言う。
「俺は返したくない」
『どうして』
「この気持ちが」
「誰かから入ったものでも」
「今、俺が感じてる」
「あなたを困らせるなら近づかない」
「夫だとも言わない」
「でも」
「俺の中から消したくない」
リナは長く黙った。
『私は、あなたに愛されたいとは思ってない』
「分かってる」
『オルドの代わりにもなってほしくない』
「ならない」
『その感情を持ったまま、私から離れることはできる?』
三番は苦しそうに答える。
「たぶん」
『では、今は返さなくていい』
老人オルドが驚く。
「俺の感情だ」
リナは彼を見る。
『あなたが捨てた』
「捨てたつもりは」
『三十年、別の人の中に置いた』
「……」
『返してほしいなら、まずあの人と話して』
三番と。
オルド。
感情の元の所有者と、現在の保持者。
リナ本人。
三者の話し合いが必要になる。
記憶は荷物ではない。
元の棚へ戻せば終わるものではない。
◇
エマも港務所へ来ていた。
老人カイルと一緒に。
彼女は地下室へ入り、七つの鐘を見る。
「これが」
「夫を七人にしたもの?」
「正確には」
エルナが説明しようとする。
エマが手を上げた。
「今は、細かい仕組みはいい」
「カイル」
老人カイルが顔を上げる。
「はい」
「七人を、自分へ戻したい?」
「俺は」
カイルは七人を見る。
若い自分の顔。
「最初は戻したかった」
「欠けた感じがしてたから」
「今は?」
「怖い」
「何が」
「誰かの記憶まで入ったら」
「俺が俺じゃなくなる」
「では、戻さない?」
「まだ決められない」
エマはうなずいた。
「私も」
「何が」
「あなたを夫として受け入れるか」
カイルの顔が痛みに歪む。
「エマ」
「三十年」
「私は、あなたが死んだと思って生きた」
「それは変わらない」
「あなたが本物のカイルでも」
「はい」
「だから」
エマは七人を見る。
「誰が本物かを決めれば、昔に戻れると思わないで」
八人全員が黙った。
「私は今」
「八人の誰とも、夫婦に戻ると決めていない」
「それぞれと話す」
「その後で決める」
レインは確認する。
「記録しますか」
「お願いします」
エマ・ノルド。
生存したカイル本人を含め、七名の分割死者のうち誰か一名を《本物の夫》と決定することを、現時点では望まない。
生存カイルが三十年間死亡扱いを維持した事実を含め、それぞれと個別に話した後、今後の関係を判断することを希望。
カイルは何も言わなかった。
ただ受け止めた。
◇
「オルドさん」
レインは最後に港務長を見る。
「港務長の権限をどうしますか」
「辞任する」
「自分で?」
「この記録が公になれば、続けられない」
「辞任と処分は別です」
セシリアが言う。
「分かっている」
「海軍への調査も必要です」
「資料は全部出す」
「消した記録は?」
「復元できる範囲で」
「白鯨号事件の遺族へ説明は?」
オルドは苦しそうに息を吐く。
「する」
「一人で?」
「それが責任だろう」
「一人で全部を背負うことが責任とは限りません」
「逃げるなと言ったり、一人で背負うなと言ったり」
「組織の責任まで、あなた一人で代行しないという意味です」
「海軍の調査担当も必要」
「教会も」
「港務所も」
「そして、あなた自身の行為も別に扱う」
「面倒だな」
「はい」
オルドは初めて、小さく笑った。
「三十年前」
「面倒だから、全部分けた」
「秘密も」
「記憶も」
「責任も」
「そうしたら」
七つの鐘を見る。
「もっと面倒になった」
「人間なので」
「それで済ませるのか」
「簡単に整理できないものを、簡単にした結果がこれです」
オルドは何も反論しなかった。
◇
そのとき。
第四の鐘が。
海の底から鳴った。
ゴォン――。
今までより低い。
深い。
町ではなく、海そのものが震えているような音。
『まだ止まってない!』
ミラが叫ぶ。
「七つの鐘は止めた」
「では何が」
海底。
白鯨号の船影が、ゆっくり沖へ動き始める。
沈没船が。
港から離れていく。
「戻ってる?」
バルドが言う。
『違う』
ミラは青ざめていた。
『船が、誰かを迎えに行ってる』
「誰を」
海面に。
何百もの人影が現れる。
ベルナードの海で亡くなった死者たち。
白鯨号だけではない。
漁師。
旅人。
兵士。
子ども。
すべてが沖へ歩き出している。
「海底鐘が、ほかの海難死者まで呼んでいる」
セシリアが言う。
「なぜ今」
エルナが黒鐘の中央部を調べる。
「七分割統合を停止したことで、中央装置が別の管理対象を探しています!」
「第十三鐘守を失った王都の鐘と同じ?」
「似ています!」
「中心がなくなれば、大勢を代わりに使う」
海難死者を全部。
一つの海底鐘へ。
『レイン』
ミラが海を指す。
『生きてる人もいる』
港の通り。
何人もの船員や遺族が、夢遊病のように沖へ歩いている。
「死者に呼ばれている?」
『違う』
『自分の記憶を持っていかれてる』
生者の中にも。
海で亡くなった家族や仲間の記憶がある。
その記憶を。
海底鐘が死者側の一部として回収しようとしている。
「死人の記憶を持つ生者まで対象にしている」
エルナが言う。
「母親を覚える子ども」
「夫を覚える妻」
「仲間を覚える船員」
「死者を記憶している人間全員が、海へ引かれる可能性があります」
エマが青ざめる。
「私も?」
その足元。
薄い海水が広がり始める。
室内なのに。
エマの足首へ、水が絡む。
七人のカイル。
老人カイル。
リナ。
若いオルド。
オルド。
全員から。
無数の記憶の糸が、海へ伸びている。
初代局長は、名前を保存しようとした。
ベルナードの海底鐘は。
死者を覚えている記憶まで。
死者の一部として保存しようとしている。
「この鐘の最終命令は何です」
レインがオルドへ尋ねる。
オルドは震えながら答えた。
「《死者を港へ帰すな》」
「それだけ?」
「いや」
彼は思い出す。
「続きがある」
「何です」
「《死者に属するものを、すべて海へ返せ》」
エマが自分の胸を押さえた。
「夫の記憶も?」
「鐘にとっては」
レインが答える。
「死者に属するものと判断される可能性があります」
ミラが怒った。
『違う』
「はい」
『死んだ人を覚えてる記憶は、生きてる人のものでもある』
「そうです」
誰かを覚えていること。
誰かに覚えられていること。
その記憶は。
死者だけの所有物ではない。
レインは聞き書き帳を開いた。
新規調査対象。
ベルナード海底記憶鐘。
最終命令――《死者に属するものを、すべて海へ返す》。
その下。
問い。
死者を覚えている生者の記憶は、誰のものか。
海から。
何千もの死者が答えた。
『私たちのものだ』
港の生者たちも叫ぶ。
「私のものだ!」
両方。
一つの記憶へ。
異なる所有の主張。
海底鐘は、その矛盾を認めない。
『一つへ決めろ』
低い声が海から響く。
レインは帳面を閉じた。
「決めません」
海底鐘が。
五度目の音を鳴らす。
ゴォン――。
港全体へ海水があふれ始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
オルド・フェインは、白鯨号沈没前に海底記憶鐘の異常を知りながら出航を進め、船長の判断記憶やリナの記憶を本人の同意なく分割していました。
さらに事故後、自身が耐えられなかった《責任》の記憶を七番目のカイルへ移していたことも判明します。
しかし白鯨号沈没は、オルド一人だけの行為ではなく、危険を把握していた海軍、記憶分割実験、出航命令など複数の責任が絡んでいました。
七人の強制統合は停止しましたが、海底記憶鐘そのものはまだ動いています。
次回、第33話「死者を覚えているのは誰の記憶か」。
海底鐘は、死者本人だけでなく、死者を覚えている生者の記憶まで《死者に属するもの》として回収し始めます。
レインたちは、同じ一つの思い出を「死者のもの」「生者のもの」のどちらか一方へ決めることなく、海底鐘の規則そのものへ挑みます。




