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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第二部 第1章 七人の夫が帰る港

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第31話 七人の夫が帰る港

三十年前、海で亡くなった一人の船員。


しかし港町ベルナードへ帰ってきたのは、同じ顔を持つ七人の幽霊だった。


全員が、自分こそ一人の女性の夫だと主張する。


しかも七人目が名乗ったのは――今も生きている男の名前だった。

 海は、遠くから見るより騒がしかった。


 波。


 風。


 帆布が鳴る音。


 荷車の車輪。


 魚を売る商人の声。


 船員たちの怒鳴り声。


 鐘。


 かもめ。


 港町ベルナードへ入った瞬間、レインは思わず耳を押さえた。


「死者の声が多い」


『海で死んだ人、たくさんいる』


 ミラが馬車の屋根から港を見渡す。


『でも、みんな残ってるわけじゃない』


「聞こえるのは?」


『海へ帰れなかった人』


「海へ?」


『そう言ってる』


 ベルナードは、アルヴェイン王国西岸最大の港町だった。


 大型商船。


 漁船。


 軍船。


 外国船。


 港には大小何十もの桟橋が突き出し、倉庫と宿屋が密集している。


 王都から五日。


 バルドの強い希望により、海路ではなく陸路を使った。


「船なら三日だったんですが」


 エルナが地図を畳む。


「二日の差など問題ではない」


「船が嫌なだけでしょう」


「陸路のほうが安全だ」


『幽霊船が怖い?』


「幽霊より沈没が嫌だ」


「幽霊も怖いのでは」


「セシリアまで言うな」


 セシリアは王都での調査任務を一時継続扱いにしたまま、同行している。


 第十三禁書庫については書架、槌記、余白、大導師グラディウスらが暫定管理を続けている。


 ソラは王都へ残った。


 白名も禁書庫。


 旅を続けているのは以前と同じ四人とミラだった。


「依頼人の家は?」


 バルドが尋ねる。


 レインは依頼頁を見る。


港町ベルナード北区。


船具商《青錨亭》裏手。


依頼人――エマ・ノルド。


 その下には、追加された文字。


三十年前に死亡した夫、カイル・ノルドが帰宅。


ただし現在、同じ姿を持つ死者が七名存在。


「まず依頼人へ聞きます」


『七人を先に見ないの?』


「依頼内容と、本人が何を困っているのかを確認してからです」


『夫が七人いること』


「それだけとは限らない」


     ◇


 青錨亭は宿屋ではなかった。


 名前に亭と付いているが、小さな船具商である。


 縄。


 帆布。


 木製滑車。


 油。


 釘。


 船員用の厚手の外套。


 店の奥には、六十代ほどの女性が座っていた。


 白髪交じりの髪を後ろへまとめ、左目には薄い傷。


「エマ・ノルドさん?」


「はい」


 女性はレインを見る。


「あなたが死者の話を聞く方?」


「レイン・アスターです」


 以前なら、聞き書き人という役割も伝えただろう。


 今は、自分の名前と、必要な説明だけにしている。


「死者の声を聞くことができます。ただし、死者が真実を話すとは限りません」


「分かっています」


「すでに嘘を?」


 エマは苦笑した。


「七人とも、自分が私の夫だと言っています」


「そのうち何人かは嘘?」


「私は」


 エマは窓の外を見る。


「全員、本当にカイルに見えるんです」


「外見だけ?」


「声も」


「話し方も?」


「ええ」


「記憶は?」


「少しずつ違う」


 レインは帳面を開いた。


「三十年前、夫はどう亡くなりましたか」


「船が沈みました」


「船名は」


「《白鯨号》」


「何人乗っていた?」


「二十四人」


「生存者は?」


「三人」


「夫の遺体は?」


「見つかっていません」


「死亡認定は?」


「遭難から半年後」


 エルナが質問する。


「事故記録は残っていますか」


「港務所にあります」


「沈没場所は?」


「ベルナードから西へ二日ほどの沖」


「原因は?」


「嵐とされています」


 エマは少し間を置く。


「でも、生存者の一人は、船内で爆発があったと言いました」


「事故原因に異説がある」


「その人は数年後に証言を撤回しました」


「なぜ?」


「酔っていて覚えていなかった、と」


 エルナが記録する。


「七人が現れたのはいつですか」


「八日前」


「同時に?」


「最初は一人でした」


 エマの声が少し震える。


「朝、店を開けたら」


「店の前に、カイルが立っていた」


「三十年前と同じ姿で」


「何と言いました」


「ただいま」


 エマは、その一言だけで目を伏せた。


「私は」


 しばらく声が出なかった。


「本物だと思いました」


「当然だと思います」


「抱きつこうとした」


「触れられましたか」


「いいえ」


「幽霊だった」


「ええ」


「その時点では、一人?」


「はい」


「何を話した」


「沈没した日のこと」


「私と結婚した日のこと」


「娘が生まれた日のこと」


「全部、カイルしか知らないと思っていたこと」


「娘さんは?」


「もう別の町に住んでいます」


「七人のことは」


「まだ知らせていません」


「なぜ」


「どれが父親か分からない状態で呼びたくない」


 エマは手を握る。


「いいえ」


「それだけじゃない」


「娘に、もう一度父親を失わせたくない」


 レインはその言葉を記録しなかった。


 まだ、エマが記録を望んでいるか確認していないからだ。


「二人目は?」


「翌朝」


「同じ店の前?」


「はい」


「一人目は?」


「残っていました」


「二人で会った?」


「会いました」


「反応は」


「互いを偽物と言った」


「三人目以降も毎朝?」


「一人ずつ増えた」


「七人目が昨日?」


「はい」


「今も全員いる?」


 エマは店の裏を指した。


「倉庫にいます」


「倉庫?」


「近所へ出ると騒ぎになるので」


「本人たちは納得した?」


「全員、自分から入った」


『七人が同じ部屋にいるの?』


 ミラが少し楽しそうに言う。


「面白がるな」


『だって、同じ顔が七人』


「それぞれ別の存在かもしれません」


『だから見る』


     ◇


 倉庫の扉を開ける。


 七人の男が、一斉にレインたちを見た。


「……これは」


 バルドが珍しく言葉を失った。


『本当に同じ』


 ミラが七人の間を飛ぶ。


 三十代前半ほど。


 日に焼けた肌。


 短い茶髪。


 鼻の横に小さな傷。


 船員らしい厚い手。


 全員、同じ顔。


 同じ服。


 同じ身長。


 だが表情は違う。


 一人は苛立っている。


 一人は怯えている。


 一人は眠そう。


 一人はエマから目をそらさない。


 一人は床を見ている。


 一人は腕を組んでいる。


 最後の一人だけ、ほかの六人と距離を取って壁際へ立っている。


「死霊反応は?」


 レインがセシリアへ尋ねる。


「七名すべてにあります」


「同じ死者?」


「反応の波形が非常に近いです」


「完全一致?」


「いいえ」


 セシリアは銀杖の魔石を見る。


「七人それぞれに、微妙な差があります」


「複製ではない可能性」


「少なくとも単純な複製ではありません」


 エルナが七人へ紙札を置いた。


「名前で区別すると混乱します。調査中は位置番号を使用してよろしいですか」


 一人目が怒る。


「俺にはカイル・ノルドという名前がある」


 二人目も。


「俺もだ」


 三人目。


「俺がカイルだ」


 七人目だけが黙っている。


「番号をあなた方の名前として扱うわけではありません」


 エルナが説明する。


「誰がどの発言をしたか、記録上区別するための位置識別です」


「一番から七番まで?」


「ご希望の識別方法があれば」


 一人目は考えた。


「俺は一番でいい」


「俺は二番」


 意外にも、順番に受け入れていく。


 七人目。


「俺は七番でいい」


 初めて声を聞いた。


 ほかの六人と同じ声。


 だが、微妙に低い。


「では、一人ずつ話を聞きます」


 レインが言う。


「別室で」


 一番が反発する。


「なぜ分ける」


「互いの証言を聞いて、後から合わせないためです」


「俺たちは全員同じ記憶を持ってる」


 三番が言う。


「本当に?」


 七人が黙る。


「違う部分があると、エマさんから聞きました」


 一番がほかの六人を睨む。


「偽物の記憶が混ざってるんだ」


「誰に?」


「俺以外に」


「それを確認します」


     ◇


 最初の聞き取り。


 一番。


「名前は」


「カイル・ノルド」


「年齢」


「三十二」


「死亡した認識は?」


「ある」


「いつ死んだ?」


「三十年前」


「現在までの時間経過をどう感じますか」


「昨日沈んだように感じる」


「沈没直前、何をしていた」


「甲板で帆を畳んでいた」


「爆発は?」


「知らない」


「エマさんへ最後に言った言葉は」


「帰ったら、娘を港祭りへ連れていく」


 エマが隣室でその証言を聞いている。


 レインは彼女を見ない。


「妻の好きな食べ物は」


「塩漬け鯖を焼いて、酸っぱい実を絞ったやつ」


「嫌いなものは」


「甘い酒」


「夫婦喧嘩で一番長く口をきかなかった期間」


「四日」


 エマの顔がわずかに動く。


「原因は?」


「俺が給金を賭け事で半分使った」


 かなり具体的だ。


「その後どうした」


「謝った」


「どんな言葉で」


「二度としない」


 倉庫の外から、エマが小さく言った。


「違う」


 一番が振り向く。


「何が」


 レインはエマへ確認する。


「発言しても?」


「はい」


「実際は?」


「謝らなかった」


 一番の顔が固まる。


「カイルは、賭け事なんかしていないと言い張った」


「では、四日後は?」


「私が諦めて話しかけた」


「一番。今の証言をどう思いますか」


「……覚えていない」


「先ほどは、謝ったと」


「そう思っていた」


 最初の違い。


     ◇


 二番。


 沈没直前。


「機関室近くにいた」


「帆船では?」


「補助魔導炉があった」


 エルナが顔を上げる。


「事故記録には記載がありません」


「秘密だった」


「何のための魔導炉」


「軍からの試験品」


「爆発は?」


「見た」


「原因は?」


「炉の過負荷」


「誰が操作していた」


「船長」


「なぜ、公式記録にない」


「言えば、海軍に消されると言われた」


「誰に」


 二番は口を開く。


 だが声が出ない。


 喉元に黒い線が浮かぶ。


「記憶封印」


 セシリアが銀杖を向ける。


「発言制限が残っています」


「解除できる?」


「強制すれば記憶そのものを傷つける可能性があります」


「解除を望みますか」


 レインが二番へ尋ねる。


「言いたい」


「危険があります」


「それでも」


「今は止めます」


「なぜ!」


「ほかの証拠を調べてからです」


「俺は言える!」


「言えることと、無傷で言えることは別です」


 二番は苛立ちながらも黙った。


     ◇


 三番。


「沈没直前、どこに」


「船室」


「一人?」


「違う」


「誰と」


「女性」


 エマの顔が強張る。


「名前は」


「リナ」


「船員?」


「乗客」


「白鯨号に一般乗客はいない記録です」


 エルナが言う。


「密航者だった」


「関係は?」


 三番はエマを見る。


「愛していた」


 倉庫の空気が変わった。


「エマさん以外の女性を?」


「そうだ」


「エマさんへ話したことは?」


「ない」


 エマは黙っている。


「リナはどうなった」


「一緒に沈んだ」


「今、彼女の幽霊は?」


「見ていない」


「なぜ自分をエマさんの夫だと言う」


 三番が眉を寄せる。


「夫だったからだ」


「リナを愛していても?」


「両方は矛盾しない」


 エマが初めて強い声を出した。


「カイルは、そんな人じゃない」


 三番は妻を見る。


「俺だ」


「違う」


「お前が知らなかっただけだ」


 レインが割って入る。


「どちらも現時点では断定しません」


 エマは唇を噛む。


「続けて」


     ◇


 四番。


 沈没直前。


「厨房」


「仕事は船員では?」


「腹が減ったから」


「何を食べた」


「豆の煮込み」


「好きだった?」


「嫌いだった」


「なぜ食べた」


「ほかになかった」


「エマさんの好きな食べ物」


「魚のスープ」


 エマが首を横に振る。


「違う」


「夫婦喧嘩の最長期間」


「二週間」


「原因」


「俺が娘を叱った」


「違う」


 四番は、ほかより共有記憶が少ない。


 それでも自分をカイルだと信じている。


「あなたが、カイルだと思う最大の理由は?」


「この顔」


「ほかには」


「エマを見ると、帰ってきたと思う」


「具体的な思い出ではなく?」


「胸がそう言う」


 感情だけが強い。


     ◇


 五番。


「沈没直前」


「海の中にいた」


「すでに船外?」


「落ちた」


「なぜ」


「誰かに突き落とされた」


「誰」


「自分」


 全員が黙った。


「どういう意味です」


「俺と同じ顔の男が、甲板にいた」


「三十年前にも?」


「いた」


「七人?」


「一人だけ」


「そいつが自分を突き落とした?」


「そうだ」


「名前は」


「カイル・ノルド」


 五番は自分の胸を指す。


「俺もカイル・ノルド」


「二人のカイルが、同時に白鯨号へいた?」


「そう」


 エルナが大量のメモを取り始める。


「船員名簿は?」


「カイルは一人だけです」


「では、もう一人は未登録」


「あるいは記憶上の存在」


     ◇


 六番。


「沈没直前は」


「覚えていない」


「最も古い記憶は?」


「エマとの結婚」


「それ以前は?」


「ない」


「子ども時代」


「ない」


「両親」


「知らない」


「船員になった経緯」


「分からない」


「死んだ記憶」


「ない」


「では、なぜ死者としてここに?」


「知らない」


「自分をカイルだと思う理由」


 六番は、しばらく黙った。


「エマを見たとき、愛していると思った」


「過去を覚えていなくても?」


「そうだ」


「その感情が、誰かから与えられた可能性は考えましたか」


 六番は傷ついた顔をする。


「それを言われると、俺には何も残らない」


「可能性を聞いただけです」


「俺の愛情まで偽物にするのか」


「しません」


「では本物?」


「それも、今は決めません」


 六番は拳を握る。


「残酷だな」


「そうかもしれません」


「でも、誰かに作られた感情だと決めて消すこともできない」


 六番は黙った。


     ◇


 最後。


 七番。


 壁際。


 最も大きな違いを持つ死者。


「名前は」


 七番は答えた。


「オルド・フェイン」


 ほかの六人が一斉に騒ぐ。


「違う!」


「お前もカイルだろ!」


「顔を見ろ!」


 レインは倉庫の扉を閉める。


「オルド・フェインは、今も生きている人間の名前だと依頼文にありました」


「そうだ」


「本人を知っていますか」


「知っている」


「どこにいる」


「この港」


「職業は」


「港務長」


 エルナが驚く。


「現在のベルナード港務長と同じ名前です」


「年齢は?」


「六十四」


「あなたの姿は三十二歳ほどです」


「この身体はカイルだ」


「身体はカイル。名前はオルド?」


「そうだ」


「記憶は?」


「両方ある」


 七番は自分の頭へ触れた。


「カイルの記憶」


「オルドの記憶」


「混ざっている?」


「分けられる」


「では、カイルとして最初の記憶は」


「十七歳、初めて沖へ出た」


「オルドとしては」


「六歳。父親に港へ連れてこられた」


「二人は知り合い?」


「親友だった」


「今の港務長オルドと、カイルが?」


「そうだ」


「事故当時、オルドは白鯨号に?」


「乗っていた」


 エルナが名簿を見る。


「生存者三人のうち、一人がオルド・フェイン」


 沈黙。


「爆発証言を後に撤回した生存者も?」


「オルドです」


 エルナが別の資料を確認する。


「一致します」


「七番」


 レインは彼を見る。


「あなたは、カイルの死者ですか」


「分からない」


「オルドの死者?」


「オルドは生きている」


「生きている人間にも、幽霊が生じる可能性は?」


 セシリアが答える。


「通常はありません」


「通常は」


「ヴァイス邸の記憶歩行体のような例外はあります。しかし死霊反応を持つ分身となると、異常です」


『七番からは』


 ミラが言った。


『死んだ人と、生きてる人の声が両方する』


「同時に?」


『重なってる』


「七番。あなたは、なぜエマさんの前へ来た」


「カイルの妻だから」


「オルドとしては?」


 七番の顔が苦しげに歪む。


「謝りたかった」


 エマが立ち上がる。


「何を」


「俺は」


 七番の喉元へ、二番と同じ黒い線が浮かんだ。


 さらに強い。


 首を締めるように広がる。


 セシリアが即座に月光障壁を展開する。


「話さないでください!」


「言わなければ」


「死者でも傷つきます!」


「もう死んでる!」


「存在そのものが崩れます!」


 七番は膝をつく。


 黒い線が口元まで伸びる。


「オルドが」


「俺を」


 途切れる。


 その瞬間。


 港の鐘が鳴った。


 ゴーン。


 倉庫の七人全員が、同時に顔を上げる。


「来た」


 一番が言う。


「誰が」


「俺たちが」


 二番。


「帰ってくる」


 三番。


「また一人」


 エマの顔から血の気が引く。


「昨日で七人だった」


「今日は」


 倉庫の外。


 店の前から声がした。


「エマ」


 全員が凍りつく。


 七人と同じ声。


「ただいま」


 ミラが壁を抜けて外へ出る。


 数秒後。


『レイン』


「八人目?」


『違う』


「何が」


 ミラの声が震えた。


『生きてる』


 レインたちは店の外へ走った。


     ◇


 そこに立っていたのは、六十代の男だった。


 白髪。


 日焼けした肌。


 杖。


 左足を少し引きずっている。


 だが目。


 鼻。


 口元。


 三十年という時間を重ねれば、倉庫の七人と同じ顔になる。


 エマが男を見た。


「……カイル?」


 男は悲しそうに笑った。


「久しぶりだな」


「嘘」


 エマは後ずさる。


「カイルは死んだ」


「そう聞かされた」


「あなたは誰」


「カイル・ノルド」


 倉庫の七人が扉から出てくる。


 八人。


 七人の死者。


 一人の生者。


 同じ顔。


 生きている老いた男が、若い自分たちを見て息をのむ。


「やっぱり」


「知っていたんですか」


 レインが尋ねる。


「こうなる可能性は」


「三十年前から」


「説明してください」


 男――カイルを名乗る生者は、港の海を見た。


「白鯨号は」


 長い沈黙。


「一隻じゃなかった」


 エルナが眉を寄せる。


「同名船が複数?」


「船の話じゃない」


 老人は自分の胸へ手を置く。


「俺たち船員が」


「一人じゃなかった」


「どういう意味です」


「出航前」


「俺たちは、記憶を分けた」


 七人の幽霊が同時にざわめく。


「誰が」


「海軍」


「何のために」


「沈んでも」


 老人は笑った。


 笑顔なのに、目は泣いている。


「秘密を一人に全部持たせないためだ」


 エルナが息をのむ。


「記憶分割実験」


「白鯨号には何を積んでいたんです」


「鐘」


 レインの聞き書き帳が震えた。


「どんな鐘」


「海の底に沈めるための鐘」


 カイルはレインを見る。


「死んだ船乗りを」


「港へ帰さないための鐘だ」


 ミラの表情が変わる。


『黒い鐘?』


「黒かった」


「十三本の線は?」


 老人の目が大きくなる。


「なぜ知っている」


 記憶鐘。


 鐘務局。


 初代局長の計画。


 王都で終わったと思っていたものが、海にも伸びていた。


「三十年前、誰が鐘を作った」


「分からない」


「教会?」


「海軍は、《漂流死者対策装置》と呼んでいた」


「目的は」


「海で死んだ者が港へ戻ると、家族を海へ呼ぶと信じられていた」


「迷信では?」


「実際に起きていた」


 カイルは港の防波堤を指す。


「昔は毎年、海へ歩いて消える遺族がいた」


「死者が呼んでいた?」


「そう言われていた」


「だから死者を海底へ固定した」


「そうだ」


 ミラが海を見る。


『だから、海で死んだ人が』


「何です」


『帰れなかったって言ってた』


 老人カイルは、七人の若い幽霊を見る。


「俺たちは鐘を運んだ」


「その途中で、事故が起きた」


「魔導炉が爆発?」


「違う」


 二番が叫ぶ。


「炉だ!」


 老人は二番を見る。


「お前は、炉の記憶だけを持ってる」


「俺は見た!」


「見た記憶を、お前へ入れた」


 二番が固まる。


 三番が前へ出る。


「リナは」


 老人の顔が変わる。


「誰だ」


「知らないのか?」


「知らない」


 三番が後ずさる。


「俺は、愛していた」


「それも」


 老人は七人を見回す。


「誰かの記憶が混じったんだ」


「誰の」


「乗組員二十四人」


 レインは理解した。


「あなた一人を七つに分けたのではない」


「二十四人分の秘密や記憶を、小分けにして複数の船員へ持たせた?」


「そうだ」


「事故で死んだ後、その分割記憶がカイル・ノルドという形へ集まった?」


「たぶん」


「なぜ、全員同じ顔に」


「分割実験の基準人格が俺だった」


「なぜ」


 老人カイルは答えない。


 七番が苦しそうに口を開く。


「オルドが」


「やめろ!」


 老人が叫んだ。


 七番の黒い拘束線が一気に締まる。


「やっぱり、あなたが関係している」


 レインが老人を見る。


「今のオルド・フェインに会わせてください」


「できない」


「なぜ」


「港務長だからではありませんね」


「……」


「七番はオルドの記憶を持っている」


「事故の生存者」


「爆発証言を撤回」


「記憶分割実験」


「七人の幽霊」


「そして、生きていたカイル」


「全部にオルドが関係している」


 老人は杖を強く握った。


「オルドは」


「三十年前」


「俺を死んだことにした」


 エマの息が止まる。


「何?」


「白鯨号から生き残ったのは、公式には三人」


「本当は四人だった」


「俺も助かった」


「なら」


 エマが震える。


「三十年間」


「生きていた?」


「……ああ」


「どうして」


 カイルは妻を見られない。


「帰れなかった」


「なぜ!」


「戻れば、鐘のことが知られる」


「海軍に?」


「違う」


「オルドに言われた」


「お前が帰れば、エマと娘が危険になると」


 ヴァイス邸。


 初代局長。


 また同じ構造。


 大切だから。


 守るため。


 相手が何を望むかを確認せず、選択肢を奪う。


 エマは震える声で言った。


「あなたは」


「私を守るために」


「三十年、死んだことにした?」


「そうだ」


「娘にも?」


「そうだ」


「私たちに、選ばせなかった?」


 カイルは答えない。


 エマは泣かなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ一歩、カイルから離れた。


「今、あなたが本物かどうかなんて」


「どうでもいい」


 七人の幽霊が同時にエマを見る。


「三十年間」


「私たちが何を失ったか」


「あなたは知らない」


 カイルは顔を伏せた。


「分かってる」


「分かってない」


 エマは即座に否定する。


「分かっているなら」


「私が許すと思っているかどうかも、勝手に決めないで」


 カイルは黙った。


 レインも何も言わない。


 今は、夫婦の会話だった。


     ◇


 やがてエマがレインを見る。


「調べてください」


「何を」


「誰が本物の夫かではなく」


 七人の死者。


 一人の生者。


 同じ顔を持つ八人。


「この人たちが」


「どうして私の家へ帰ってきたのか」


「分かりました」


「それと」


「はい」


 エマは生きているカイルを見た。


「三十年前」


「誰が、何を隠したのか」


「記録しますか」


「してください」


 レインは帳面を開く。


港町ベルナード・白鯨号事件。


三十年前に死亡認定されたカイル・ノルド本人を名乗る生者が出現。


公式生存者三名に加え、実際には四人目の生存者としてカイルが存在した可能性。


カイルは、同船が記憶分割実験および海底記憶鐘輸送に関係していたと証言。


七名の死者は、同一人物の単純な複製ではなく、複数の乗組員から分割・移植された記憶、感情、役割を、カイルの姿を基準として形成している可能性がある。


 そして。


依頼人エマ・ノルドは、《誰が本物の夫か》の判定より先に、七名の死者が帰還した原因と、三十年前に隠された事実の調査を希望。


 書き終わった瞬間。


 港の沖。


 海面が黒く染まった。


 ミラが振り向く。


『鐘が鳴る』


「どこです」


『海の下』


 ゴォン――。


 低い鐘音が、海底から港町全体へ響いた。


 七人の幽霊が同時に苦しみ始める。


 一番が頭を押さえる。


「帆を畳め!」


 二番。


「炉を止めろ!」


 三番。


「リナ!」


 四番。


「腹が減った」


 五番。


「俺を突き落とすな!」


 六番。


「エマを愛してる!」


 七番。


「オルド、やめろ!」


 七つの異なる記憶。


 同時に。


 老人カイルも膝をつく。


「始まった」


「何が」


「鐘が」


 カイルが海を見る。


「残った記憶を回収しようとしてる」


「七人を海へ戻す?」


「違う」


「では」


 カイルの顔が恐怖に歪む。


「俺に戻す」


 七人の身体から、細い光が老人カイルへ伸び始める。


 意思。


 記憶。


 感情。


 複数の船員から切り分けられたもの。


「統合するつもりだ」


「誰が」


「オルド」


「なぜ今」


「七人が揃ったから」


 レインが七人を見る。


 いや。


 七人だけではない。


 生きたカイル。


 全部で八つ。


 海底の鐘は、三十年前に分けた記憶を、一つへ戻そうとしている。


 七番が叫ぶ。


「違う!」


「八人じゃない!」


「何です」


「まだいる!」


 海面。


 黒い水の上に、一人の人影が立っている。


 若い女性。


 濡れた長い髪。


 三番が息をのむ。


「リナ」


 老人カイルは、知らないと首を横に振る。


 女性の幽霊は港へ歩いてくる。


 水面を踏みながら。


 彼女の顔は、カイルではない。


 だが胸元には、同じ記憶分割の印。


 九人目。


 リナは港へ上がると、三番を見た。


 そして言った。


『あなたは私を愛していない』


 三番の顔が崩れる。


「何を」


『その愛情は』


 リナは老人カイルを指す。


『オルドが、あなたへ入れた』


「なぜ」


『カイルに、罪を着せるため』


 エマが老人カイルを見る。


 カイルは青ざめている。


「何の罪」


 リナの幽霊は、三十年前の海を見るように目を細めた。


『白鯨号を沈めた罪』


 海底の鐘が、二度目に鳴った。


 ゴォン――。


 今度は港の水面へ、一隻の船影が浮かび上がる。


 沈んだはずの白鯨号。


 帆は破れ。


 船腹には巨大な穴。


 甲板には、死者たちが並んでいる。


 二十四人。


 いや。


 二十五人。


 船員名簿に存在しない女性、リナを含めて二十五。


 全員が、同じ方向を見ている。


 港務所。


 現在の港務長オルド・フェインがいる建物。


『返して』


 死者たちが言う。


『私たちの記憶を返して』


 次に。


『誰が白鯨号を沈めたか、思い出させて』


 レインの聞き書き帳に、海水のような青い文字が浮かび上がる。


記憶を分ければ、罪も分けられる。


 その下。


罪を分ければ、誰も自分が犯人だと分からなくなる。


 レインは港務所を見る。


 三十年前。


 記憶分割実験。


 沈んだ白鯨号。


 四人目の生存者として隠されたカイル。


 証言を撤回したオルド。


 七人のカイル。


 存在しない乗客リナ。


 そして海底の鐘。


 今回の怪異は、夫が七人に増えた話ではない。


 三十年前、一つの罪を複数の人間へ分け、誰の責任か分からなくした事件だった。


 ミラが海を見つめる。


『レイン』


「何です」


『船の中で』


「誰か聞こえる?」


『一人だけ、みんなと違うことを言ってる』


「何と」


 沈没船の船長室。


 扉の奥。


 死者の声。


『私は、船を沈めていない』


 短い沈黙。


『でも』


『沈むと知っていて、出航させた』


 レインは聞き書き帳を閉じた。


「港務長オルド・フェインへ会います」


 エマが尋ねる。


「今すぐ?」


「はい」


「何を聞くの」


 レインは海底の鐘。


 八人のカイル。


 リナ。


 沈没船。


 そして港務所を見る。


「誰が犯人かではありません」


「三十年前」


「誰が何を知り」


「誰が何を選び」


「誰が何を隠したのか」


 バルドが大剣を背負い直す。


「今回は、生きてる人間のほうが面倒そうだな」


『幽霊も九人いる』


「増えるな」


『明日の朝、また増えるかも』


「言うな」


 海の向こう。


 三度目の鐘が鳴る前に。


 レインたちは港務所へ向かった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


七人のカイルは、単純に一人の船員が七つへ分裂した幽霊ではありませんでした。


三十年前、白鯨号では秘密を一人へ集中させないため、複数の乗組員の記憶や感情を分割する実験が行われていました。


そして死亡したと思われていたカイル本人も、実は生存していました。


さらに現れた九人目、密航者リナ。


彼女は、「カイルが白鯨号を沈めた」という記憶そのものが、誰かによって作られた可能性を示します。


次回、第32話「罪を七つに分けた男」。


レインたちは、生存者であり現在の港務長でもあるオルド・フェインへ聞き取りを行います。


三十年前の沈没事故で、記憶と一緒に分割された《責任》を、一人ずつ元の出来事へ照合していきます。

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