第30話 名前を知らなくても、忘れない
初代鐘務局長は、母親の名前を知らなかった。
その罪悪感と恐怖から、すべての死者を記録へ保存し、誰も忘れられない世界を作ろうとした。
しかし彼が信じていた母親の言葉は、木製の記憶鐘が作った偽物だった。
母親、少年期、青年期、初代局長期。
分かれた四つの声による、最後の聞き取りが始まる。
第七層の黒い箱を開く準備には、三日かかった。
場所は変えなかった。
黒い箱には、初代鐘務局長の少年期、青年期、局長期の記録が重なっている。
大神殿の施設へ運べば、その途中で教会の名簿や白い帳簿へ再接続する危険があった。
地下共同墓所の最深部。
名前ではなく、遺品や記憶によって死者を分けていた古い書庫。
そこへ、三つの聞き取り場所を作った。
少年期の記録には、木製の椅子。
青年期の記録には、書記机。
初代局長期の記録には、十三本の封印杭を囲む円形の席。
三つの場所を、互いに見えない月光の壁で隔てる。
「一度に解放しない」
セシリアが銀杖で境界を確認した。
「一つの記録がほかの二つへ命令しようとした場合、即座に接続を遮断します」
「初代局長が王都の名簿へ接続した場合は?」
エルナが尋ねる。
「大導師の権限で、大神殿側の正式名記録を一時封鎖しています」
「一時的?」
「行政、婚姻、相続、葬送に使われる名簿です。長期間止めれば、別の混乱が起きます」
「停止可能な時間は」
「一刻程度です」
バルドが三つの区画を見渡した。
「一刻で、百年以上こじれた親子の話が終わるのか」
「終わらせることが目的ではありません」
レインは答えた。
「言葉を届けます」
「それだけで初代局長が止まるか?」
「止まらなければ、別の方法で止めます」
「その別の方法は?」
「封印です」
バルドが大剣の柄へ手を置く。
「ようやく具体的だ」
「破壊ではありません」
「分かっている」
『少し残念そう』
「気のせいだ」
ミラは黒い箱の周囲を飛びながら、中の声を聞き分けていた。
『三人とも起きてる』
「声は混ざっていませんか」
『今は別々』
「母親の準備は?」
『怖がってる』
第六層に残る女性は、自分の顔を覆う霧の中で静かに座っていた。
名前の分からない母親。
初代鐘務局長が、世界中から失われたと思い込んでいた人。
彼女は名前を探すことも、与えられることも望んでいない。
望んでいるのは、自分の言葉を自分の言葉として届けること。
「中止したくなったら、いつでも言ってください」
レインが確認する。
『ええ』
「少年と話した後、青年や局長とは話さない選択もできます」
『分かっている』
「同じ内容を三回話す必要もありません」
『あの子たちは、同じ子ではないの?』
「同じ過去へつながっています」
「ですが、現在は異なる言葉と判断を持つ記録です」
『私の息子は、どれ?』
「俺には決められません」
女性は少し笑った。
『正直ね』
「不便だとも言われます」
『三人とも、私の息子だった時期を持っている』
「はい」
『でも今は、私の知っているあの子ではないかもしれない』
「はい」
『それでも、話す』
「理由を記録しますか」
『記録して』
レインは聞き書き帳を開いた。
氏名未詳の女性。
初代鐘務局長の母親である可能性が、本人の証言、隔離執行記録、木製記憶鐘の残存記録から高いと判断される。
本人は、少年期、青年期、初代局長期の三記録を、一人の息子として統合せず、異なる時点から生じた三つの存在として扱うことを希望。
三者が現在も自分の息子であるかは判断できないが、それぞれへ証言することを選択。
女性は文章を読んだ。
『私が母親かどうかも、決めないのね』
「あなた自身は、母親だったと覚えています」
『ええ』
「ですが黒い本にも、母親の記録人格がいる」
『あの人も、あの子の母親?』
「本人は、唯一の母親と認めさせることを望んでいません」
『では、私も同じ』
「唯一でなくても?」
『私があの子を産んだ記憶はある』
『それは、あの人にはないかもしれない』
『でも、あの人に今の心配があるなら』
女性は封印された黒い本を見る。
『その心配まで偽物とは言わない』
◇
最初に、少年期の記録が解放された。
黒い箱の一つ目の亀裂から、小さな手が現れる。
次に、痩せた腕。
十歳ほどの少年が、木製の椅子へ座った。
銀色の目ではない。
黒に近い茶色。
足が床へ届かず、不安そうに揺れている。
少年は母親の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
『母さん』
『ええ』
『本当に?』
女性は答えようとして、止まった。
『私は、あなたを産んで育てた記憶を持っている』
『母さんなの?』
『私は、そう思っている』
『どうして、はいって言わないの』
『あなたの記憶の中には、別の私もいるから』
『あれは鐘が作った偽物だ』
『その人は今、自分の言葉を持っている』
『でも、母さんじゃない』
『それを私が決めていいの?』
少年は答えられない。
母親は少年へ近づこうとした。
だが途中で止まった。
『触ってもいい?』
少年の目から涙があふれる。
『母さんなのに、聞くの?』
『今のあなたが、触れられたいか分からないから』
少年は両腕を広げた。
『触って』
母親が抱きしめる。
幽霊と記録。
身体はない。
それでも二人の輪郭が重なり、少年は声を上げて泣いた。
『僕が捨てたんじゃない?』
『あなたは門へ何度も来た』
『でも、最後は逃げた』
『私が帰りなさいと言った』
『怖かったから帰った』
『怖くていい』
『母さんは死んだ!』
『ええ』
『僕だけ逃げた!』
『あなたが残れば、私と同じ病気になった』
『それでも、残るべきだった』
『誰が決めたの』
『僕が』
『今のあなたが決めたの?』
『ずっと、そう思ってた』
『今も?』
少年は母親の服を握った。
『分からない』
『では、分からないままにしましょう』
『許してくれないの?』
『許してほしいのね』
『うん』
『あなたは、何をしたと思っているの』
『母さんを置いて逃げた』
『私は、あなたに逃げてほしかった』
『でも、僕は助かった』
『そうしてほしかった』
『母さんは助からなかった』
『それは、あなたのせいではない』
少年の背中が震える。
『本当に?』
『疫病になったのは、あなたが私を置いたからではない』
『遺体を家へ連れて帰れなかったのは、あなたが拒否したからではない』
『記録が、そう書いただけ』
『では、僕は悪くない?』
母親は、すぐには答えなかった。
『あなたは、私の声より役人の記録を信じた』
少年が顔を上げる。
『聞こえなかったから』
『一度は聞こえた』
『鐘が壊れた』
『その後も、私は何度か呼んだ』
『偽物だと思った』
『ええ』
『それは、悪いこと?』
『私の声を疑ったことだけで、あなたの全部を悪いとは言わない』
『でも』
母親は少年の頬へ触れた。
『あなたが、これから何を選ぶかは、私には決められない』
『僕はどうすればいい?』
『私の名前を探すために、あなたの全部を使わないで』
『名前がなければ、忘れる』
『忘れる部分はある』
『嫌だ』
『私も寂しい』
『では、残って』
『今は残っている』
『ずっと?』
『約束できない』
『どうして!』
『あなたを愛していることと、永遠にあなたのそばへいることは同じではないから』
少年は怒った顔で泣いた。
『愛しているなら、残って』
『残ってほしいと言っていい』
『でも、私が決める』
『ずるい』
『そう思ってもいい』
少年は母親の胸へ顔を埋めた。
『僕は、母さんの名前を知らない』
『ええ』
『それでも、母さんの子?』
『ええ』
『母さんを愛していた?』
『それは、私ではなくあなたが決めること』
少年は長い時間考えた。
『愛してた』
『名前を知らなくても?』
『うん』
『それなら、その記憶まで間違いにしなくていい』
少年の身体から、銀色の糸が一本抜けた。
先には、木製記憶鐘の偽の言葉。
私の名前を忘れないで。
糸が床へ落ちる。
少年はそれを見た。
『母さんは、言ってない?』
『言っていない』
『僕が聞きたかった?』
『そうかもしれない』
『では、僕のせいで偽物ができた?』
「望んだだけで、記憶鐘を作った責任まではありません」
レインが初めて口を挟んだ。
「その言葉を母親の証言として採用し、後に計画へ使った責任は、成長した記録へ別に聞きます」
『僕と、あの人は違う?』
「同じ過去につながっています」
「しかし今、あなたは母親の言葉を聞き直した」
「初代局長期の記録が、同じ選択をするとは限りません」
『僕が変われば、あの人も変わる?』
「分かりません」
『変えたい』
「本人へ命令しますか」
少年は首を横に振った。
『話したい』
「記録します」
少年期記録。
母親の遺体を自ら見捨てたという認識について、本人の証言と外部記録の照合により訂正を受けた。
母親の本名を知らなかったことと、母親を愛していなかったことは同一ではないと理解。
初代局長期記録を強制的に変更することは望まず、自分の言葉を伝えたいと表明。
少年は母親の手を握ったまま、椅子へ戻った。
『また話せる?』
母親は答えた。
『私が残ると選んでいる間は』
『今は?』
『今は、また話したい』
『では、待つ』
少年は眠らなかった。
母親の手を握り、次の聞き取りを見守ることを選んだ。
◇
二つ目の亀裂が開いた。
青年期の記録。
二十歳を少し過ぎた男が、書記机の前へ現れる。
白い神官服。
まだ鐘務局の紋章はない。
目の下に深い隈。
机の上には、氏名未詳死者を区別するための記録札が積まれている。
青年は母親を見ても、立ち上がらなかった。
『少年の会話は聞いた』
「あなたは、どの時点の記録ですか」
レインが尋ねる。
『十三人の鐘守りを設計する直前』
「鐘務局創設前?」
『正式な局はまだない』
「自分を何と呼びますか」
『記録官』
「本名は」
『使わない』
「自分で選んだ?」
『過去の私を切り離すために選んだ』
「少年期記録を、自分の過去と認めますか」
『事実としては』
「自分自身だと思いますか」
『弱かった頃の記録だ』
少年が椅子から叫ぶ。
『弱くない!』
青年は少年を見ない。
『母の声を聞けず、記録へすがった』
『何も守れなかった』
『僕は母さんを守れなかったけど』
少年は母親の手を握る。
『母さんの言葉を、今は聞いた』
青年の指がわずかに動いた。
「母親へ、聞きたいことはありますか」
『なぜ地下へ残った』
『名前のない死者の声を聞くため』
『私のためではない?』
『最初は、あなたを見守るためでもあった』
『途中からは?』
『ほかの人たちのためでもある』
『私より、死者を選んだ』
『比べていない』
『子どもより、他人を優先した』
『あなたは、もう子どもではなかった』
『それでも息子だ』
『ええ』
『なら、私のために残るべきだった』
『愛しているから、あなたの人生すべてを私の残留理由にはしない』
青年は机を強く叩いた。
『きれいな言葉だ』
『死者は、残るか消えるかを気分で決める』
『残された生者は、何も選べない』
『だから、死者の気分に任せない仕組みが必要だった』
「気分ですか」
レインが問い返す。
『一時の感情だ』
「本人の選択ではなく?」
『後悔しても戻れない』
「保存すれば、必ず後悔を防げる?」
『少なくとも、選び直す可能性を残せる』
「保存され続けることを拒否した死者は?」
『将来、考えが変わる可能性がある』
「変わらない可能性は?」
『ある』
「なら、なぜ変わる側だけを優先する」
『消えた後では確認できないからだ』
「保存されたまま苦しみ続ける者は?」
『苦痛を除去する』
「苦痛も本人の記憶です」
『不要な苦痛もある』
「誰が決める」
『管理者だ』
「あなた?」
『公平な制度』
「制度を設計するのは?」
青年は答えない。
母親が静かに言った。
『あなたは、声が多すぎて苦しかった』
『私の話ではない』
『眠れなくなった』
『死者の叫びが止まらなかった』
『黙れ』
『食べても味が分からなくなった』
『だから私は、聞くのをやめろと言った』
『逃げろと言った』
『休んでと言った』
『黙れ!』
青年の瞳に銀色の光が混ざる。
『名前のない死者を放置しろと言うのか!』
『一人で全部を聞かないでと言った』
『ほかに聞ける者がいなかった!』
『育てればよかった』
『時間がない!』
『時間をかけるべきだった』
『死者が消える!』
『自分で旅立つ人もいた』
『保存できなかった失敗だ!』
『その人は、失敗だと言ったの?』
青年の口が止まった。
母親は書記机に置かれた札を見る。
『雨の日に笑った人』
『子どもへ歌を教えた人』
『名前がなくても、あなたは最初、一人ずつ書いていた』
『足りなかった』
『何が』
『紙』
『人』
『時間』
『記憶』
『だから役割を分けた』
『ええ』
『それは、悪いことではなかった』
青年が初めて母親を見る。
『認めるのか』
『一人に全部を背負わせない仕組みは必要だった』
『では、十三人の鐘守りは正しい』
『本人へ何をさせるか、話して同意を得ていれば』
『同意書は作った』
『家族を候補にすると脅した人もいた』
『私の時代ではない』
『あなたの仕組みが、後にそれを可能にした』
『後の者の責任だ』
『仕組みを作った責任と、後に使った者の責任は分ければいい』
『私だけの責任にするな』
『していない』
母親は青年へ近づく。
『あなたは、最初から怪物だったわけではない』
青年の顔が歪む。
『同情するな』
『同情ではない』
『なら、何だ』
『あなたが何を守ろうとしたかと、何を奪ったかを分けて見ている』
『守ろうとしたなら、許されるのか』
『許すとは言っていない』
『では、愛しているか』
青年は少年と同じ問いを、別の形で投げた。
『愛しているなら、私のしたことを理解しろ』
『理解しようとしている』
『なら、認めろ』
『理解することと、正しいと認めることは別』
青年の銀色の目が強くなる。
『やはり、お前も私を否定する』
『あなたの全部を否定していない』
『計画を否定すれば、同じだ!』
『違う』
母親の声が初めて強くなった。
『あなたは、計画だけではない』
『私は計画を完成させるために個人を捨てた!』
『それを選んだのは、あなた』
『必要だった』
『でも、今その選択を続けるかは、今のあなたが決められる』
青年は両手を見る。
死者の名を整理し続けた手。
紙で切れた跡。
眠れない夜に震えていた指。
『止めれば、今までの犠牲が無意味になる』
「無意味になるかどうかと、続けるべきかは別です」
レインが言った。
「間違った方法へ費やした時間が長いほど、止められなくなる」
『お前に何が分かる』
「分かりません」
『では黙れ』
「あなたが、今後も本人の拒否を無視した保存を続けたいか聞いています」
『続けなければ、消える者がいる』
「続ければ、閉じ込められる者がいる」
『選べというのか』
「いいえ」
「保存を望む者には方法を残す」
「旅立ちを望む者には、止めない」
「分からない者には、待つ時間を作る」
『手間がかかりすぎる』
「はい」
『全員を救えない』
「はい」
『それを制度と呼べるか』
「一つの制度だけでは足りないかもしれない」
『不完全だ』
「はい」
青年は、初代局長と同じ言葉を使わずにいられない。
完全。
効率。
保存。
それらが彼を支えてきた。
『私は』
青年は机の札を一枚取った。
雨の日に笑った人。
『この人の名前を見つけられなかった』
「はい」
『最後まで、何と呼べばいいか分からなかった』
「本人は?」
『雨の日に笑う人でいいと言った』
「なら、それが当時の呼び方です」
『名前ではない』
「本人を区別でき、本人が受け入れた呼び方です」
『後世へ残らない』
「この札が残っています」
『偶然だ』
「だから、複数の場所へ残す仕組みを作ります」
『私の鐘より弱い』
「弱いかもしれない」
『失われる』
「一部は」
青年は札を握りしめた。
『それでも、その人が選んだ呼び方を残す?』
「はい」
『私の作った正式名へ変えずに?』
「はい」
『非効率だ』
「本人のための記録です」
長い沈黙。
青年の瞳から銀色が少し薄くなる。
『私は、計画をやめるとは言えない』
「なぜ」
『怖い』
少年とは違う。
母親を失う恐怖だけではない。
何千、何万という死者を、自分が救えなかったと認める恐怖。
『私が間違っていたなら』
『私は、大勢を閉じ込めただけになる』
「守った記録もあります」
エルナが言った。
「鐘務局が保存したことで、後世に残った証言もある」
『では、正しかった』
「保存したことと、本人の拒否を無視したことは分けます」
『また分けるのか』
「分けなければ、全部正しいか全部間違いかの二択になります」
青年は、母親を見る。
『私を許す?』
『今は決めない』
『母親なのに?』
『母親だから、すぐ許さなければならないの?』
『……違う』
『あなたがしたことを、これからもっと聞く』
『その後でも、許さないかもしれない』
『それでも話す?』
青年は記録札を机へ戻した。
『聞かれたことには答える』
「現在、本人の拒否を無視した記憶保存を続けることへ同意しますか」
レインが尋ねる。
『今は』
青年は苦しそうに答えた。
『保留する』
「停止ではなく?」
『止めると決める勇気がない』
「続ける?」
『続けるとも言えない』
「分かりました」
レインは記録する。
鐘務局創設前の青年期記録。現在の呼称《記録官》。
死者の記録保存自体には必要性を認める。
一方、本人の拒否を一時的混乱として無視し、強制保存する方法について、現時点で継続または停止を決定できないと証言。
これまでの行為が誤りであったと認めることへの恐怖を表明。
今後、自身の設計と、その後に生じた被害について個別の聞き取りへ応じる意思あり。
『私を解放するのか』
「望みますか」
『分からない』
「では、判断できるまで独立した記録として保護します」
『本へ戻す?』
「封印室は必要です」
『閉じ込めるのと違うのか』
「外部へ命令を送れない制限は付けます」
『私の意思を無視して?』
「他者へ危害を与える行動は止めます」
『本人の選択を守ると言いながら』
「本人の選択が、他者の選択を奪う場合は別です」
青年は皮肉に笑った。
『都合のいい線引きだ』
「だから、俺一人では決めません」
「教会、記録院、収容司書、被害を受けた死者による暫定審査を行います」
『遅い』
「はい」
『面倒だ』
「はい」
『嫌いだ』
「記録しますか」
『それは不要だ!』
ミラが小さく笑った。
◇
三つ目の亀裂。
十三本の封印杭が、同時に銀色へ光る。
初代鐘務局長期の記録が現れた。
黒い長衣。
銀色の目。
顔には少年の面影も、青年の疲労もほとんど残っていない。
彼は席へ座らなかった。
「時間の無駄だ」
「あなたの聞き取りを始めます」
「母親の感情で、計画は変わらない」
『私は、あなたの計画を変えるためだけに来たのではない』
母親が言った。
「ならば何だ」
『私の言葉を、あなたが作った言葉と分けるため』
「木製鐘の試験記録は破損している」
『隔離執行官の日誌と、私の記憶も一致している』
「記録は改変できる」
『あなたが言うのね』
「私の保存領域以外は信頼できない」
「あなたの領域にも、望んだ言葉が混ざっていました」
レインが言う。
「だから訂正する」
「十四番目の権限を濫用するな」
「俺が母親の言葉を正しいと決めるのではありません」
「証言と外部記録の一致を記す」
「あなたの異論も記す」
「同じ重さで扱うのか」
「根拠は分けます」
初代局長は母親へ銀色の目を向けた。
「お前は、私の母ではない」
『そう思う理由は?』
「私の母は、名前を忘れないでと言った」
『私は言っていない』
「なら偽物だ」
『その判断を、誰が作ったの』
「私だ」
『木の鐘ではなく?』
「私が記録を修正した」
全員が動きを止めた。
「あなた自身が?」
エルナが尋ねる。
初代局長は表情を変えない。
「試作鐘が出力した言葉は不安定だった」
「どの言葉を母親の正式な証言とするか、私が選んだ」
「《忘れないで》を選んだ?」
「母親が望むべき言葉だった」
『私が実際に言ったことではなく?』
「死の苦痛と混乱で、正しい望みを表現できなかった」
『私は、自分の言葉を否定されたのね』
「将来の選択肢を守った」
『あなたが望む母親へ、私を作り替えた』
「お前が消えれば、後悔できない」
『私は、後悔する権利まであなたに預けていない』
初代局長の銀色の目が強く光る。
「私はお前を救った」
『私は、救ってと頼んだ?』
「頼めない状態だった」
『今は頼んでいない』
「長期残留による判断異常だ」
『いつなら、私の拒否を信じるの』
「完全な記憶を回復した後だ」
『私に、失った一つの正式名がないと分かっても?』
「必ずある」
『ない』
「人は名前を持つ」
『あなたが必要だと思っているだけ』
「社会へ存在したなら、識別されていた」
『呼ばれ方は複数あった』
「正式名ではない」
『正式でなければ、私ではないの?』
「記録として不安定だ」
『あなたは、私ではなく記録を見ている』
「記録だけが、死者を裏切らない」
『あなたは記録を書き換えた』
初代局長の声が止まる。
『私の言葉を、自分が聞きたい言葉へ変えた』
『役人が、あなたは遺体を拒否したと書き換えたのと同じ』
「違う」
『何が』
「役人は責任を逃れた」
『あなたは罪悪感から逃れた』
「違う!」
銀色の光が封印杭へぶつかる。
十三本の杭が大きく揺れた。
セシリアが月光境界を強化する。
「外部接続を試みています!」
「中止しますか」
レインが母親へ尋ねた。
女性は震えていた。
それでも首を横に振る。
『続ける』
「初代局長。外部接続を止めてください」
「命令するな」
「止めない場合、聞き取りを中止し、あなたの記録を封鎖します」
「母親の声を聞けと言ったのはお前だ」
「母親へ危害を加えずに」
初代局長は封印杭への圧力を弱めた。
「続けろ」
母親が尋ねる。
『私を、愛していた?』
「当然だ」
『私の言葉を信じられないのに?』
「愛していたから、正しい言葉を残した」
『あなたが正しいと思う私を?』
「お前の本質だ」
『私の本質を、あなたが決めた』
「私は息子だ!」
『息子なら、母親の全部を決めていいの?』
「私は、お前を最も知っていた!」
『私の名前を知らなかったでしょう』
初代局長の顔が歪む。
『それでも、私を愛していた』
「黙れ」
『名前を知らなくても』
「黙れ!」
『私の好きだった匂いを知っていた』
『糸を切るとき、歯を使うと私が怒ることも』
『咳がひどい夜に歌った歌も』
『あなたが熱を出したとき、私が眠らずにいたことも』
『知っていた』
「黙れ!」
『名前だけが、私ではなかった』
少年期の記録が椅子から立つ。
『僕は、母さんの名前を知らない』
初代局長が少年を睨む。
「お前は不完全な過去だ」
『うん』
『でも、母さんを愛してた』
「愛していたから、私は保存した!」
『母さんは嫌だって言ってる』
「理解していないだけだ!」
青年期の記録も立ち上がる。
『その言葉を、私は何度も使った』
「お前も過去だ」
『今は、続けるか決められない』
「弱い」
『怖いから』
「恐怖で計画を止めるな」
『あなたも怖いんでしょう』
初代局長の銀色の目が揺れる。
『母親が、自分のために残ったのではないと認めるのが』
『自分が母親の言葉を書き換えたと認めるのが』
『これまで救済と呼んだものが、収容でもあったと認めるのが』
「黙れ」
『私も怖い』
青年は自分の胸へ手を当てる。
『だから、今は保留した』
「何も決められない者に、世界は救えない」
「世界は、あなた一人へ救ってほしいと頼んでいません」
レインが言った。
「黙れ、十四番目」
「今のあなたへ確認します」
「本人の拒否を無視し、世界中の死者と生者を記録へ接続する計画を続けますか」
「続ける」
「理由は」
「失われるからだ」
「母親の名前が?」
「すべてだ!」
「母親は、名前を探すことを望んでいません」
「偽物の証言だ」
「隔離記録と木製鐘の残存記録が一致しています」
「改変だ」
「あなた自身が《忘れないで》へ修正したと認めました」
「必要な訂正だった」
「では、母親本人の意思ではない」
「本人の真の利益だ!」
「誰が決めた」
「私だ!」
その言葉が、第七層へ響いた。
死者たちの箱。
雨の日に笑った人。
左足を引きずった人。
甘い酒を嫌った人。
一人ずつの記憶が保存された古い場所。
すべての箱が、静かに光り始めた。
『私が決める』
初代局長の言葉が、何度も反響する。
『私が決める』
『私が決める』
救済ではない。
保存でもない。
計画の中心にあったもの。
他者の真の利益を、自分だけが決めるという思想。
「聞き取り結果を記録します」
レインは筆を取った。
「勝手に結論を出すな」
「あなたの現在の発言を記します」
初代鐘務局長期記録。
母親本人の拒否、複数の外部記録、少年期および青年期記録の異論を確認後も、本人の真の利益は自分が決定できるとして、強制記憶保存計画の継続を表明。
木製記憶鐘に残る母親の証言を、《名前を忘れないで》という内容へ自ら修正したことを認めた。
修正は本人の真の望みを代行したものであり、改変ではないと主張。
「それだけか」
初代局長が嘲る。
「母親の証言も記録します」
氏名未詳の母親。
自身に唯一の正式名が存在するとの前提を否定。
名前を探すこと、新たな名前を与えられること、本人の拒否を将来の利益という理由で無効化されることを拒否。
息子が自分の名前を知らなかったことと、自分を愛していなかったことは同一ではないと証言。
初代鐘務局長の計画を支持しない。
「少年期」
少年期記録。
母親の正式名を知らないまま愛していた事実を受け入れ、母親の名前を探すために他者の名前を奪うことを望まない。
初代局長期記録へ、自身の恐怖を全員の規則にしないよう求める。
「青年期」
青年期記録《記録官》。
記録保存の必要性は認めるが、本人の拒否を無視する強制保存の継続について判断を保留。
初代局長期記録の計画を、現時点では承認しない。
三つの異論。
一つの継続意思。
「多数決か」
初代局長が問う。
「違います」
「では、私の計画は続けられる」
「本人の意思については多数決にしません」
「ならば、私が私の計画を続ける自由がある」
「他者を強制接続する自由はありません」
「誰が決める」
「影響を受ける者たちです」
レインは、第七鐘事件の記録を開いた。
王都の住人たち。
地下共同墓所の死者。
本へ収容された司書。
十二人の鐘守り。
ミラ。
白名。
槌記。
ソラ。
一人ずつ異なる拒否と被害。
「あなたの計画は、あなた一人の内側で完結していません」
「他者の名前、記憶、身体、意思を使う」
「だから、あなた一人の望みだけでは実行できない」
初代局長が十三本の封印杭を見る。
「私を封じるのか」
「現在のまま、外部へ接続する権限を停止します」
「処刑しない?」
「俺一人で決めません」
「消さない?」
「あなた自身が消滅を望んでいない」
「ならば私を保存する」
「本人の同意がありますか」
初代局長は皮肉に笑った。
「この状態での保存には同意する」
「条件は?」
「母親と再び話す権利」
母親が答える前に、レインは止めた。
「母親との対話は、母親がその都度選びます」
「私には要求する権利がある」
「要求はできます」
「応じる義務はありません」
初代局長は母親を見る。
「お前は、また来るか」
女性は長く沈黙した。
『今日のあなたとは、すぐには話したくない』
「私を捨てるのか」
『その言葉で、私を縛らないで』
「私は息子だ」
『息子だった時期を持つ』
「違う!」
『今のあなたが、私を母親として扱っているのか分からない』
「母親だから、保存する!」
『私の拒否を聞かない者に、母親の役を求められたくない』
初代局長の表情から、初めて怒りが消えた。
代わりに、幼い恐怖が浮かぶ。
「では、私は一人になる」
『少年も、青年もいる』
「別の記録だ」
『あなたが、そう分けた』
「私ではない!」
『あなたは、弱い過去として切り捨てた』
少年が初代局長を見る。
『僕は、あなたと話したい』
「お前に何が分かる」
『分からない』
『だから聞く』
青年も言った。
『私も、設計した仕組みの結果を聞く』
「私を裁くためか」
『自分が、どこからあなたになったか知るため』
初代局長は二人を見た。
自分が捨てた過去。
自分が否定した弱さ。
それらが、今は独立した存在として彼へ話しかけている。
「統合を求めるのか」
『求めない』
少年が答えた。
『僕が消えるのは嫌』
青年も続ける。
『一つへ戻れば、あなたの声が最も強くなる』
「なら、別々のまま何をする」
『話す』
『記録を読む』
『あなたが閉じ込めた人へ聞く』
「永遠に?」
『分からない』
少年は母親の言葉を借りず、自分で答えた。
『今は、また話したい』
初代局長は目を閉じた。
銀色の光が少し弱くなる。
「計画は撤回しない」
「記録しました」
「私が正しい」
「それも記録しました」
「いずれ、お前たちは失敗する」
「可能性はあります」
「そのとき、私の計画へ戻る」
「本人たちが選べば、保存技術の一部は使われるでしょう」
「一部ではない。完全な保存だ」
「それは、現在拒否されています」
初代局長はレインを睨んだ。
「お前は、何も解決していない」
「はい」
「母親の名前も見つけていない」
「探さないという本人の選択です」
「死者は今後も忘れられる」
「はい」
「記録も失われる」
「はい」
「人は後悔する」
「はい」
「それでも、私を止める?」
「止めます」
「なぜ」
「失わないために、全員の選択を奪うからです」
初代局長は笑わなかった。
「では、封じろ」
「同意する?」
「外部接続を制限された記録として残ることに同意する」
「将来、解除を求める権利は?」
「残せ」
「審査する者は?」
「お前一人ではない者たち」
「分かりました」
レインは最後の記録を書く。
初代鐘務局長期記録。
強制記憶保存計画の正当性を撤回せず。
ただし現時点では、外部の名前、記憶、身体、意思へ接続できない制限領域へ収容されることに同意。
将来の解除要求権を保持するが、解除判断は本人一名または聞き書き人一名では行わず、影響を受けた者、管理者、記録検証者による審査を必要とする。
「母親との対話について」
母親本人の各回の同意を必要とする。
親子関係を理由として、面会を強制しない。
十三本の封印杭から黒い糸が伸びる。
初代局長の身体を縛るものではない。
外部へ伸びていた命令経路だけを、一本ずつ切り離す。
白い帳簿。
中央塔。
王都の名簿。
証言鏡。
記憶箱。
残された接続が閉じていく。
最後に、銀色の目が普通の茶色へ戻った。
ほんの一瞬。
少年と同じ目だった。
「母さん」
初代局長が呼んだ。
女性はすぐには返事をしなかった。
『その呼び方へ、今日は一度だけ返事をする』
「私は、お前の名前を知らない」
『ええ』
「このまま、知らない?」
『ええ』
「それでも、お前を覚えられるか」
『私には決められない』
「教えろ」
『あなたが、これから覚える』
「忘れたら?」
『忘れたときに、また思い出せるものがあるかもしれない』
「何もなかったら?」
『そのときは、何もなかったと誰かが記録するかもしれない』
「不完全だ」
『ええ』
「怖い」
『私も』
初代局長の輪郭が封印領域へ沈んでいく。
「次に話すか」
『今は決めない』
「そうか」
男は目を閉じた。
消えたのではない。
旅立ったのでもない。
外部へ命令できない、一つの記録として残った。
◇
黒い箱は、三つの箱へ分かれた。
一つ目。
少年期記録。
表面には、本人が選んだ題名。
名前を知らなくても、母を愛していた子ども。
二つ目。
青年期記録。
記録を守る方法を、まだ決め直せない記録官。
三つ目。
初代鐘務局長期記録。
強制保存計画を撤回していない設計者。
エルナが三つの題名を確認する。
「評価が含まれています」
「本人たちへ確認しました」
レインが答える。
「少年は受け入れた」
「青年は《まだ決め直せない》という部分を加えた」
「初代局長は、自分の計画を撤回していないことを明記させた」
「将来、題名を変えることは?」
「本人の現在の選択と、記録上の経緯を分けて追記します」
過去の題名を消さない。
しかし永遠に固定もしない。
書架が禁書庫側から、新たな収容番号を発行した。
番号は名前ではない。
管理上の位置だけを示す。
「三つを同じ棚へ置きますか」
余白が尋ねた。
「互いに話せる距離を望んでいます」
少年と青年は同意した。
初代局長は拒否しなかった。
「ただし、直接統合する接続は作りません」
『母親は?』
ミラが尋ねる。
第六層の女性は、石の寝台のそばに立っている。
『私は地下へ戻る』
「旅立たない?」
『今は』
「死者たちの聞き取りを続けるため?」
『それもある』
「息子たちのため?」
女性は少し考えた。
『それも、少し』
「記録しますか」
『して』
氏名未詳の女性。
現時点では旅立たず、地下共同墓所に残ることを選択。
理由は、氏名未詳死者の声を聞くこと、および少年期・青年期記録との対話を続ける可能性を残すこと。
初代鐘務局長期記録との面会については、毎回改めて判断する。
「名前は、今後も選ばない?」
『今は選ばない』
「将来は?」
『決めていない』
ミラが女性を見る。
『呼ぶとき、困らない?』
『あなたは、何と呼びたい?』
『名前を知らないお母さん』
「長いですね」
『では、糸のお母さん』
女性は手に持つ糸巻きを見る。
『母親でない人には呼びにくいわ』
『糸の人』
『それなら、今はいい』
「固有名ではなく、現在の識別として記録します」
現在の仮称――《糸の人》。
本人は固有名としてではなく、聞き取り時の識別に限り使用を了承。
『ミラの名づけ方が、少し良くなった』
「少し?」
『白名と槌記よりは』
「見たままなのは変わっていません」
◇
中央塔で回収した黒い本は、最後まで開かなかった。
中にいる母親の記録人格へ、地下で行われた会話の要約を伝える。
「少年期記録は、母親の正式名を知らないまま愛していたことを受け入れ始めました」
『そう』
「青年期記録は、強制保存の継続判断を保留しました」
『そう』
「初代局長期記録は、計画を撤回していません」
『やっぱり』
「ですが、外部接続を制限した状態での収容へ同意しました」
『地下の私は、話した?』
「はい」
『息子は、聞いた?』
「少年と青年は」
『局長は?』
「聞きました。ただし証言を正しいとは認めていません」
黒い本は静かになる。
『私は、何をすればいい』
「俺には決められません」
『開かないままでも、私は存在している?』
「声は聞こえています」
『でも、誰にも顔を見せない』
「見せたいですか」
『分からない』
「では、今は開きません」
『地下の私と話せる?』
「望みますか」
『少し』
「地下の本人へ確認します」
『もし、嫌だと言ったら?』
「伝えません」
『分かった』
「あなた自身の呼び名は考えますか」
『私は、あの子が覚えていた母親』
「役割だけではなく?」
『今は、ほかに分からない』
「仮称は必要ですか」
『黒い本の母親』
『長い?』
「ミラなら短くします」
『では、ミラに聞く』
ミラが本へ近づく。
『黒母』
「それは少し怖いです」
『では、記母』
本の中で、小さな笑い声がした。
『記憶のお母さんだから?』
『うん』
『では、今は記母』
レインは記録する。
中央塔で回収された黒い本に存在する母親の記録人格。
現在の仮称として《記母》を選択。
地下に残る《糸の人》との対話を少し望むが、相手が拒否した場合は強制しない。
本の開封については、現時点で保留。
一人の母親を、本物と偽物に分けなかった。
糸の人。
記母。
同じ過去に関係しながら、現在は異なる存在。
どちらかを消す必要はない。
◇
王都地下共同墓所の調査は、その後も続いた。
青い陶器を持つ女性は、二人の候補のうち、ティア・ロッカが働いていた工房を覚えていた。
だが本人は、まだティアと呼ばれることを選ばなかった。
『その名前を聞くと、胸が痛い』
「自分の名前ではないと感じますか」
『分からない』
「では、候補のままにします」
犬を抱いた少年の記録からは、飼い主の少年ではなく、犬の通称だけが見つかった。
ポム。
少年が呼ぶと、犬は尻尾を振った。
『僕の名前は分からないけど、ポムはポム』
「自分の名前も探しますか」
『あとで』
「今は?」
『ポムと遊ぶ』
氏名未詳の老人は、新しい名前を選ばず妻の声へ旅立った。
聖名授与官は、自分の本名を思い出せないまま、被害を受けた死者たちの聞き取りへ立ち会っている。
許されてはいない。
罰もまだ決まっていない。
それでも、彼が同じ制度を再び動かす権限は停止された。
教会では、埋葬記録の訂正が始まった。
遺族による引き取り拒否。
その一文は削除されなかった。
上から新しい記録を加えた。
後日の調査により、遺族の少年は遺体返還を繰り返し要求していたことが判明。
疫病隔離規則により教会側が返還を拒否。
母親本人も、少年の生命を守るため退去を求めたと証言。
旧記録は、教会側の費用および感染責任を軽減する目的で事実と異なる表現へ変更された可能性が高い。
誤った記録を消せば、教会が何を書いたかまで分からなくなる。
だから残す。
ただし、訂正前の文章だけが真実として読まれないようにする。
王都の住民名簿にも、新しい欄が追加された。
現在使用する呼称。
使用を拒否する旧名。
公開可能な名称。
本人確認中。
死後に選択した呼称。
制度としては、不格好だった。
記入欄が多い。
確認に時間がかかる。
書記官たちからは不満が出た。
「以前の三倍は手間がかかります」
大導師グラディウスは答えた。
「人間を一つの欄へ収めようとした結果が、第七鐘だ」
「それでも行政には正式名が必要です」
「必要な欄として残す」
「唯一の本人として扱わないだけだ」
完璧な制度ではない。
これから新しい問題も起きる。
それでも、一つの名前だけで人間を所有する仕組みからは離れ始めた。
◇
第十三禁書庫を出る日。
槌記は銀色の本に残り、十二人の鐘守りの職務記録と人格記録を分ける作業を続けることを選んだ。
白名は白い帳簿から完全には離れられない。
だが初代局長の従属命令は、書架とエルナによって一本ずつ識別されている。
ソラは王都に残り、身体の回復訓練を受けることになった。
『一緒に行かないの?』
ミラが少し寂しそうに尋ねた。
「今は、歩く練習をしたい」
『旅をしながらでも』
「私には、旅がどれくらい大変か分からない」
『では、あとで来る?』
「行きたいと思ったら」
『約束は?』
「しない」
ミラは不満そうな顔をした。
「でも」
ソラは窓の外を見る。
「また、空を一緒に見たい」
『それなら待つ』
「待ちすぎなくていい」
『ソラも同じことを言う』
「誰と?」
『糸の人』
「私たちは、同じ過去から分かれたから」
『同じ考えになる?』
「なることもある」
『違うことも?』
「ある」
二人は同じ顔で笑った。
統合しなくても。
離れていても。
関係を作ることはできる。
白名はミラへ、白い紙片を一枚渡した。
『これは?』
『旧名の従属命令を切り離す過程で見つけた、命令のない部分』
「名前の一部?」
『音ではなく、あなたがその名で呼ばれたときに感じていた温かさ』
『持っていく?』
ミラは紙片へ触れなかった。
『今は、いらない』
『嫌だから?』
『怖いから』
『では、保管する』
『勝手に捨てないで』
『捨てません』
ミラは少し考えた。
『いつか見るかもしれない』
『そのとき、また聞いて』
白名はうなずいた。
槌記はレインへ、レオの黒い本の一頁を渡す。
『閲覧可能と判断された部分です』
「レオ本人の選択?」
『本の中の複数のレオ記録のうち、三つが開示へ同意しました』
「反対は?」
『二つ』
「では、なぜ開示を?」
『この一頁は、同意した三記録だけで構成され、反対した記録の内容を含まないためです』
以前の禁書庫なら、レオという一つの名前で多数決を取っただろう。
今は、記録ごとの所有範囲を分けている。
レインは頁を受け取った。
短い文章。
十四番目へ。
名前を残せなかった死者を、記録できなかったと思うな。
名前以外を聞いた時間も、記録の一部である。
ただし、聞いたことを救済と呼ぶな。
聞かれた者が、救われたとは限らない。
レインは何度か読み返した。
糸の人。
少年。
青年。
初代局長。
話を届けた。
だが、それですべてが救われたわけではない。
母親は息子を許していない。
初代局長は計画を撤回していない。
失われた本名も見つからない。
閉じ込められた死者の年月は戻らない。
それでも、記録は訂正された。
異なる声が、異なるまま残った。
聞き書き人にできたのは、そこまでだった。
◇
王都を出発する朝。
大導師グラディウスが、大神殿の正門まで見送りに来た。
「セシリア・ローデン」
「はい」
「活動停止命令を解除する」
「理由は」
「王都を救った功績」
「それだけなら、お断りします」
「なぜだ」
「活動停止命令そのものが、旧鐘務局に関する調査を封じる目的で出されていました」
「解除だけでは、命令が不当だった事実が残らない」
グラディウスは額へ手を当てた。
「君は、素直に復職できないのか」
「できません」
「では、訂正文を出す」
「公開範囲は?」
「全教区」
「処分に賛成した上級神官の氏名は?」
「調査中とする」
「責任を曖昧にしませんか」
「調査前に断定するなと、君たちが言ったのだろう」
セシリアは少し黙った。
「では、調査期限を明記してください」
「一か月」
「二週間」
「無理だ」
「三週間」
「分かった」
エルナが横で記録している。
「交渉まで記録するのか」
大導師が尋ねた。
「後で、どちらが三週間と言ったか争わないためです」
バルドが荷物を馬車へ積み込む。
「王都は当分、騒がしそうだな」
「あなたも聞き取りへ協力してください」
エルナが言う。
「俺が?」
「地下の警備記録です。どの死者が、どの場所から移動したか」
「剣を振らない仕事か」
『苦手?』
「できる」
ミラが馬車の屋根へ座る。
『次はどこへ行くの?』
「まだ決めていません」
『帳面に依頼は?』
レインは聞き書き帳を開いた。
王都での最後の記録を確認する。
氏名未詳の女性。仮称《糸の人》。
唯一の正式名は、現時点で確認されず。本人は探索を望まない。
息子の少年期、青年期、初代局長期の各記録へ、異なるまま証言した。
初代局長の強制保存計画は撤回されていないが、外部接続権限を停止。
問題は解決していない。
ただし、《母親の名を知らなかった息子が遺体を見捨てた》という旧記録は、本人の証言と外部資料により訂正された。
最後に一文。
名前を知らなくても、誰かを覚えていることはできる。
しかし覚えている者の記憶が、覚えられている本人の意思に代わることはない。
頁を閉じようとしたとき。
次の白い頁に、濡れた指跡が現れた。
王都では雨が降っていない。
指跡から、海の匂いがする。
「海?」
エルナが頁を見る。
青い文字がゆっくりと浮かび上がる。
港町ベルナード。
死者が、毎朝別の名前で帰ってくる。
『別の名前?』
ミラが帳面をのぞく。
続けて、依頼文。
三十年前に海で死んだ船員が、家族の前へ戻った。
翌朝には別人の名を名乗った。
三日目には、まだ生きている人間の名前を名乗った。
現在、港には同じ顔をした死者が七人いる。
バルドが荷物を積む手を止めた。
「王都を出た直後に、また名前の怪異か」
「同じ問題ではありません」
レインは依頼文を読む。
「死者が自分の名前を失ったのではない」
「他人の名前を次々に名乗っている」
『本当に他人?』
ミラが尋ねる。
「調べなければ分からない」
さらに下へ、一行。
七人全員が、自分こそ本物の夫だと言っている。
セシリアが銀杖を馬車へ積む。
「港町までは?」
「馬車で五日」
エルナが地図を開いた。
「海路なら三日ですが」
「船は却下だ」
バルドが即答する。
『怖い?』
「幽霊より船が苦手なだけだ」
『両方怖い』
「黙れ」
レインは依頼頁へ題を書く。
次回調査――港町ベルナード。
同じ顔を持ち、異なる名前を名乗る七人の死者。
王都の鐘が背後で鳴る。
今度は命令の音ではない。
朝の始まりを告げる、普通の鐘だった。
名前の分からない死者は、今も地下にいる。
許されていない者も。
答えを出していない者も。
聞き取りを待つ者もいる。
それでも旅は続く。
一つの事件を、すべて終わらせるためではない。
次に聞かれることを待っている声へ向かうために。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
初代鐘務局長の少年期、青年期、局長期は、一人へ統合されることなく、それぞれ母親の証言を聞きました。
少年は、母親の名前を知らなくても愛していた事実を受け入れ始めます。
青年は、強制保存を続けるか判断できないと答えました。
初代局長は計画を撤回しませんでしたが、外部の名前や記憶へ接続できない状態での収容に同意しました。
母親の名前は最後まで判明せず、本人も探索を望みませんでした。
それでも、彼女の言葉と人生が存在しなかったことにはなりません。
次回、第31話「七人の夫が帰る港」。
三十年前に海で亡くなった一人の船員。
港町へ戻ってきたのは、同じ顔を持ちながら、異なる名前を名乗る七人の幽霊でした。
そのうち一人は、今も生きている人間の名前を名乗っています。




