第29話 最初の無名死者
地下共同墓所へ最初に埋葬された、名前の分からない女性。
記録には、息子が遺体の引き取りを拒否したと残されていた。
しかし彼女自身は告げる。
自分は捨てられたのではなく、自分の意思で地下へ残ったのだと。
『私の名前を探さないで』
地下深くから、女性の声が届いた。
『私が、なぜ残ったかを聞いて』
レインは大神殿の床へ手を触れた。
冷たい石。
その向こうに第五層。
さらに下に、公式図面へ存在しない第六層と第七層がある。
「声は一人ですか」
『今は』
ミラが答えた。
『でも、ときどき別の声が重なる』
「男性?」
『子ども』
木札に残されていた、幼い筆跡。
母さんの名前を、作らないで。
本当の名前を知らないまま、別の名前で呼びたくない。
初代鐘務局長が少年だった頃に書いた可能性がある。
だが、まだ断定はできない。
「地下へ戻るのですか」
エルナが尋ねた。
「戻ります」
「レインさんは休息が必要です」
「少し休みました」
「大神殿の階段へ座っていただけです」
「休息ではある」
「身体の冷えが戻っていません」
セシリアがレインの手首へ触れる。
「通常よりかなり低いです。死者の声を一万人分も聞いた直後ですから」
「だからといって、声が聞こえているうちに放置はできません」
「放置ではありません。準備です」
セシリアは地上の確認所を見た。
名前を奪われかけた住民。
地下墓所の調査を始める書記官。
記録院から運ばれてくる古い台帳。
教会内の混乱は、まだ収まっていない。
「私はこちらへ残ります」
「また分かれるのか」
バルドが言った。
「大導師への監視も必要です」
「監視される側が聞いたら怒るぞ」
「本人の前でも言います」
セシリアはレインの手首へ新しい月光の糸を結んだ。
「地下で異常を感じたら、切ってください」
「切れた場合ではなく?」
「自分から切るのです。助けを必要としていると伝えるために」
「分かりました」
「返事が早いときほど不安です」
『私が見てる』
ミラが言った。
「あなたも無理をしないでください」
『幽霊だから疲れない』
「禁書庫で鏡に引かれたときも、同じようなことを言っていました」
『あれは昔』
「数日前です」
ソラが外套を着直した。
「私も行く」
「身体の回復が先です」
「地下の女性は、第十三鐘守の身体だった私が生まれるより前から残っている」
「何か感じる?」
「命令ではない」
ソラは胸へ手を当てた。
「身体の奥が、知っているような感じがする」
「記憶では?」
「槌記は禁書庫にいる」
「身体へ残った感覚?」
「分からない」
レインはうなずいた。
「では、分からないことを確認しに行きます」
◇
地下共同墓所第五層。
黒い《無名》の石碑は割れたままだった。
周囲では、名前を失った死者たちがそれぞれ異なる声で話している。
青い陶器を持つ女性は、自分の工房らしき記憶をほかの死者へ説明していた。
犬を抱いた少年は、犬の耳を何度も撫でている。
聖名授与官は、割れた石碑の前へ座っていた。
目を覆っていた黒い布は外している。
「第六層への入口を知っていますか」
レインが尋ねた。
『知っている』
「案内をお願いします」
『私を信用するのか』
「していません」
聖名授与官の顔がわずかに歪む。
「だから、案内された道が正しいか確認します」
『お前は、相手を怒らせる話し方をする』
「嘘をついて信用すると言うよりはいい」
神官は立ち上がった。
『ついてこい』
割れた石碑の裏。
積み上げられた遺骨の間に、細い通路がある。
生者一人が横向きになり、ようやく通れるほどの幅。
「こんな場所を通るのか」
バルドが顔をしかめる。
「大剣は置いていけませんか」
「置いていかん」
「通れないのでは?」
「先に剣を送る」
大剣だけを通路へ押し込み、その後から身体を横向きにして進む。
途中で鎧が石へ引っかかった。
『動けない?』
ミラが尋ねる。
「動ける」
『後ろから押す?』
「幽霊に押せるのか」
ソラがバルドの背を押した。
「私なら押せる」
「待て。力を入れるな。鎧が削れる」
「前へ進まない」
「角度の問題だ」
しばらく苦戦した末、バルドは第六層側へ抜けた。
「帰りは別の道を探すぞ」
「まだ入ったばかりです」
◇
第六層は、広い墓所ではなかった。
小さな円形の部屋。
中央に、石の寝台が一つ。
その上へ、白い布をかけられた人骨が横たわっている。
周囲には豪華な副葬品も、聖人像もない。
置かれているのは、欠けた木椀。
小さな糸巻き。
古びた布靴。
そして、子どもの手のひらほどの木製の鐘。
「これが、最初の無名死者」
エルナが入口の文字を読む。
無名死者試験埋葬区画。
第一被験者。
「死者ではなく、被験者と書かれています」
「記憶鐘計画が正式に始まる前の実験?」
「年代は、初代鐘務局創設の前年です」
ソラが石の寝台へ近づく。
「身体が震える」
「命令ですか」
「違う」
ソラは木製の鐘を見る。
「悲しい」
「ソラ自身の感情?」
「分からない。でも、泣きたい」
身体に残された古い反応。
第十三鐘守の身体が作られる際、この場所の情報が組み込まれた可能性もある。
ミラは人骨のそばへ浮かんだ。
『ここにいる』
「女性が?」
『うん』
「姿は見えますか」
『少し』
石の寝台の上。
人骨へ重なるように、一人の女性が現れた。
三十歳ほど。
細い身体。
肩までの黒い髪。
顔だけが、霧に覆われている。
服は何度も繕われていた。
右手に糸巻きを持っている。
『来たのね』
「あなたが、最初の無名死者ですか」
レインが尋ねた。
女性は少し考えた。
『最初に、そう記録された死者』
「同じではない?」
『私より前にも、名前を残されずに死んだ人は大勢いた』
「あなたが最初なのは、鐘務局が記録した中で?」
『そう』
「初代鐘務局長の母親ですか」
女性はすぐに答えなかった。
『あの子は、後にそう呼ばれたのね』
「息子だった?」
『息子よ』
「名前は?」
『聞かないで』
「あなたの名前ではなく、息子の名前です」
『同じこと』
「なぜ」
『あの子は、自分の名前まで計画へ入れた』
「ノクスという呼び名?」
『それより前の名を、私は呼ばないと決めた』
「本人が望んだから?」
『私が、あの子を過去へ引き戻さないため』
ミラが女性の顔をのぞき込む。
『息子を嫌いだった?』
『愛していた』
『では、どうして名前を呼ばないの』
『愛しているから、何でも呼んでいいわけではないでしょう』
ヴァイス邸で聞いた言葉と同じ意味。
女性は名を知られたくないのではない。
呼ぶことで相手を縛ることを避けている。
「あなた自身の名前も、探さないでほしい?」
『ええ』
「理由を聞いても?」
『私に、一つの本当の名前があったとは限らないから』
エルナが筆を止めた。
「複数の名前を使っていた?」
『生まれた村では、母の娘と呼ばれた』
『別の町では、糸を繕う女』
『働いた宿では、短い呼び名をもらった』
『あの子には、母さん』
『教会へ運ばれたときには、身元不明の女』
「出生名は」
『知らない』
「忘れたのではなく?」
『教えられなかった』
女性は顔を覆う霧へ触れた。
『私が生まれた頃、村には名前を記録する紙がなかった』
『母も、自分の名前を文字にできなかった』
「では、初代局長が探していた《母親の本名》は、最初から記録されていなかった?」
『あの子は、一つあるはずだと思った』
「あなたは、ないと思っていた?」
『一つだけが本物だとは思わなかった』
レインは聞き書き帳を開いた。
王都地下共同墓所、第六層。
最初の無名死者として記録された女性。
本人は出生時の正式名を知らず、生前は関係、職業、土地ごとに異なる呼称を用いていたと証言。
失われた唯一の本名が存在する、という前提自体を否定。
文字を書いても、女性の顔は戻らない。
顔を思い出せないのではなく。
顔を記録で固定されることを望んでいないのかもしれない。
「息子は、あなたの名前を知らなかったことを苦しんでいました」
『知っている』
「彼の記憶では、あなたが《私の名前を忘れないで》と言った」
女性の輪郭が強く揺れた。
『言っていない』
「断言できますか」
『その言葉だけは、言っていない』
「では、最後に何を伝えた?」
女性は木製の鐘を見る。
『あの子に、外へ出なさいと言った』
「病気がうつるから?」
『それもある』
木札には、息子が遺体の引き取りを拒否したと書かれていた。
「あなたは疫病で亡くなった?」
『ええ』
「息子は、遺体を引き取れたのですか」
『引き取れなかった』
「拒否したのではなく?」
『門へ入れてもらえなかった』
エルナが木札と埋葬記録を広げる。
「当時の隔離規則では、疫病死者の遺族は遺体へ接触できません」
「それなのに記録は《引き取りを拒否》」
『あの子は、何度も入ろうとした』
女性の声に、初めて強い感情が混じる。
『泣いて、門を叩いて』
『私を家へ連れて帰ると言った』
『役人は、あの子を押さえつけた』
『私は中から、帰れと言った』
「あなたが、遺体を残すよう選んだ?」
『遺体を持ち帰れば、あの子も病気になる』
『家も焼かれる』
『だから、私が残ると言った』
「自分で共同墓所への埋葬を望んだ?」
『共同墓所が何かも知らなかった』
「では、何を選んだんです」
『あの子が生きて、門から離れること』
記録上は、遺体の引き取り拒否。
本人の証言では、母親が息子を遠ざけた。
同じ結果。
遺体は引き取られなかった。
だが責任と意味は、まったく異なる。
「誰が記録を書いた」
エルナが台帳の署名を調べる。
「埋葬担当者欄は、後から削られています」
紙の繊維へ斜めに光を当てる。
消された筆圧。
「《隔離執行官ベルド・ハイム》」
大導師へ確認すれば、当時の人物記録が見つかるかもしれない。
「息子が拒否したと書いたのは、その執行官?」
『分からない』
「息子は、その記録を見た?」
『見た』
「どうなった」
『自分が私を捨てたと思った』
「事実を伝えなかったのですか」
『私は、もう話せなかった』
「幽霊として?」
『最初は、声が届かなかった』
女性は木製の鐘へ手を伸ばす。
『この鐘へ入れられるまでは』
◇
木の鐘。
金属ではない。
鳴らしても大きな音は出ないはずだ。
それでも表面には、記憶鐘と同じ十三本の線が刻まれている。
「最初の試作品」
ソラがつぶやく。
「身体が覚えている」
「この鐘へ、あなたの名前を入れようとした?」
レインが女性へ尋ねた。
『名前がないから、入らなかった』
「だから、新しい名前を作ろうとした?」
『最初は、聖人の名前を与えると言われた』
「何と答えました」
『いらないと』
「なぜ」
『私が一度も呼ばれたことのない名前だったから』
「それでも、記録へ残る利点はあります」
『知っている』
「忘れられないために、受け入れようとは?」
『あの子が、私を別の人の名前で覚えることのほうが嫌だった』
女性の声に、怒りはない。
明確な拒絶だけがある。
『名前を知らなくても、あの子が覚えている私まで消えるわけではない』
「しかし息子は、逆に考えた」
『ええ』
「名前がなければ、存在まで消えると」
『役人の記録を信じた』
「あなたの声より?」
『私の声は聞こえなかったから』
初代局長が記録へ執着した理由。
母親の声を聞けなかった。
見たのは、役所の記録。
息子一名が遺体の引き取りを拒否。
自分が母親を捨てた。
名前すら知らない。
記録にも残せない。
その罪悪感と恐怖が、後の記憶鐘計画へつながった。
「木札の裏の文章は、息子本人が書いた?」
母さんの名前を、作らないで。
『ええ』
「なぜ、その時点では名前を作ることへ反対していた」
『私が頼んだから』
「声が届いた?」
『一度だけ』
女性は木製の鐘を指した。
『この中へ入れられた直後』
当時の光景が、円形の部屋へ浮かび上がる。
◇
幼い少年が、石の寝台の前に立っていた。
十歳ほど。
痩せた身体。
両手を強く握っている。
寝台には、白い布で覆われた母親の遺体。
周囲に三人の神官。
一人が木製の鐘を持っている。
『名前がなければ、魂を呼び出せない』
神官が言った。
『仮の聖名を与える』
少年が首を横に振る。
「違う人の名前だ」
『名は魂を救うための器だ』
「母さんは、そんな名前じゃない」
『なら、母親の本名を言いなさい』
「知らない」
『では、我々が与える』
「やめて」
少年が鐘へしがみつく。
「母さんの名前を、勝手に作らないで」
木の鐘が、小さく鳴った。
こつん。
金属音ではない。
木と木が触れるだけの音。
それでも少年は顔を上げた。
『聞こえる?』
母親の声。
「母さん?」
『聞こえているなら、外へ出て』
「一緒に帰ろう」
『私は帰れない』
「名前を思い出せば、帰れるって」
『思い出す名前はないの』
「嘘だ」
『嘘ではない』
「みんな名前がある!」
『呼ばれ方は、たくさんあった』
「本当の名前は?」
『一つだけが本当ではない』
少年は泣きながら鐘を抱く。
「名前がなければ、母さんは消える」
『消える日が来るかもしれない』
「嫌だ!」
『でも、あなたが私を全部持たなくていい』
「忘れる!」
『忘れてもいい』
少年の動きが止まった。
「母さんを?」
『忘れた部分があっても、あなたが私を捨てたことにはならない』
「嫌だ!」
『生きれば、ほかのことを覚える』
「嫌だ!」
『私の名前を探すために、あなたの全部を使わないで』
木の鐘へ、黒い亀裂が走った。
神官が少年を引き離す。
『接続が不安定だ』
『無名死者の記憶は定着しない』
母親の声が薄くなる。
『行きなさい』
「母さん!」
『生きて』
最後に、もう一言。
『ほかの人の名前を奪わないで』
鐘が割れた。
記憶が途切れる。
◇
現在。
誰もすぐには話さなかった。
初代局長の記憶では、母親が言った。
私の名前を忘れないで。
実際に残っていた木の鐘の記憶では、逆だった。
私の名前を探すために、あなたの全部を使わないで。
ほかの人の名前を奪わないで。
「どうして記憶が逆になった」
バルドが低い声で尋ねた。
「誰かが書き換えた?」
エルナは木の鐘を直接触れずに調べる。
「亀裂の中に、後から銀色の文字が入れられています」
「初代局長本人が?」
「筆跡ではありません。術式です」
ソラが鐘へ近づく。
「鐘が、聞きたかった言葉へ変えた」
「ヴァイス邸の証言鏡と同じ?」
「望んだ返事を作る仕組み」
当時の木製鐘は不安定だった。
名前のない死者を定着させられない。
そこで神官たちは、少年の恐怖を使い、母親の声を補った。
「忘れたくないと強く思ったから、鐘が《忘れないで》という声を作った」
レインが言う。
『本物の声が消えた後に』
ミラが続けた。
「初代局長は、作られた記憶を母親の言葉だと信じた」
女性は石の寝台へ座っている。
『あの子だけを責めないで』
「ですが、後に大勢の名前を奪いました」
『知っている』
「止めようとは?」
『何度も呼んだ』
「届かなかった?」
『届いたこともある』
「では、なぜ」
『あの子は、私の声を疑った』
「偽物だと?」
『自分に都合の悪い言葉を、鐘の誤作動だと思った』
拒否を、混乱と呼ぶ。
異なる選択を、情報不足と呼ぶ。
その始まり。
母親自身の声を、偽物として排除したことだった。
◇
「あなたは、なぜ旅立たずにここへ残ったんです」
レインは最初の依頼へ戻った。
「息子を見守るため?」
『最初は』
「その後は?」
女性は石室のさらに下を見た。
第七層。
床の中央には、丸い石蓋がある。
そこから、多くの小さな声が聞こえている。
『私の後に、名前のない死者が運ばれてきた』
『鐘へ入らなかった者』
『仮の名前を拒んだ者』
『名前を言えなかった者』
『言葉を話せない者』
『子ども』
『外国から来た者』
「第七層に?」
『ええ』
「あなたは、その人たちを守るために残った?」
『守れたとは言えない』
女性は首を横に振る。
『私は、声を聞いていた』
「聞くだけ?」
『あの子は、名前がなければ記録できないと言った』
『だから私は、名前がなくても話を聞けると示したかった』
最初の聞き書き人。
レオよりも前。
帳面も持たず。
制度も持たず。
ただ、地下で死者の声を聞き続けた女性。
「息子へ伝わりましたか」
『最初は』
「初代鐘務局長は、あなたを参考にして鐘守りを作った?」
『私一人では、あまりにも多くの声を聞けなかった』
『倒れた』
『何度も自分が誰か分からなくなった』
『あの子は、母を助ける仕組みを作ると言った』
「それが十三人の鐘守り」
『最初は、声を分けて聞くためだった』
「名前、死因、時間、感情を別々に整理する」
『ええ』
「しかし、いつから変わった」
『記録を残せなかった死者が、旅立ったとき』
「消えた?」
『あの子は、失敗だと思った』
「あなたは?」
『その人が自分で旅立ったなら、失敗ではないと言った』
「初代局長は認めなかった」
『保存できなかったから』
記録されなければ失敗。
名前が残らなければ消滅。
本人が旅立ちを望んでも、保存できなければ救済ではない。
初代局長の思想が固まっていく。
『私は、死者の声を聞いた』
『あの子は、死者を残す方法を考えた』
『似ているようで、違った』
「あなたが残ったことで、息子の執着を強めた可能性は?」
女性は沈黙した。
優しい問いではない。
しかし聞かなければならない。
『あると思う』
「あなたが旅立たずにいたから、息子は保存すれば死者は残れると学んだ」
『ええ』
「後悔していますか」
『している』
「残ったことを?」
『残った理由を、あの子へ伝え切れなかったことを』
「あなたは息子のためだけに残ったのではない」
『ここへ来た死者の声を聞くため』
「しかし息子は、自分のために母親が残ったと思った」
『そう』
「訂正したい?」
『したい』
「初代局長へ直接?」
女性の輪郭が揺れた。
『怖い』
「何が」
『あの子が、もう私の知っている子ではないこと』
「それでも話したい?」
『分からない』
レインは書いた。
最初の無名死者として記録された女性。
死後、当初は息子を見守る目的で残留。
後に地下へ運ばれた氏名未詳死者の声を、名前の有無にかかわらず聞くため残った。
初代鐘務局長は、母親が自分のために保存状態を望んだと解釈。
本人はその解釈を否定する。
現在、息子へ直接証言することを望むか判断できず、恐怖があると表明。
「分からないままでいい」
『急がなくても?』
「初代局長の記録は、現在封印されています」
『消えていない?』
「確認できていません」
『では、また誰かの名前を取るかもしれない』
「可能性はあります」
『それでも、すぐ話さなくていい?』
「話すことを強制すれば、息子と同じ方法になります」
女性は少し笑った。
顔は見えない。
だが声に安堵が混ざった。
『あなたは、あの子より不便ね』
「よく言われます」
◇
エルナは木札と木の鐘、埋葬記録を照合していた。
「もう一つ、不一致があります」
「何です」
「女性の遺骨についてです」
石の寝台の上。
白い布に覆われた人骨。
「骨の年齢は、目視では断定できません。ただ、骨盤の形状から女性である可能性は高い」
「本人の身体では?」
「右腕の骨に、治癒した古い骨折があります」
女性が自分の右腕を見る。
『骨を折ったことはない』
「記憶にないだけでは?」
『糸仕事で、右手はずっと使っていた』
「別人の遺骨?」
ソラが寝台へ近づいた。
「この身体から、女性の声はしない」
「どこから聞こえる」
『部屋全体』
ミラが答える。
『骨の人は、別にいる』
「別の幽霊?」
『眠ってる』
石の寝台に横たわる骨。
最初の無名死者として展示されている。
しかし本当の最初の女性の遺骨ではない可能性がある。
「あなたの遺体はどこへ」
『第七層』
「なぜ」
『最初の実験が失敗した後、ほかの死者と一緒にされた』
「では、この骨は?」
『私の代わりに置かれた』
「記録を完成させるため?」
名前のない最初の死者。
石の寝台。
遺骨。
木の鐘。
後世へ示すための象徴。
本人の遺骨が失われた後、別人の骨を置き、記録上の第一号を維持した。
「また、記録へ人間を合わせた」
エルナの声に怒りが混じる。
「この骨の本人まで、最初の無名死者の一部として扱われた」
ミラが骨へ耳を近づける。
『起こしていい?』
「本人へ聞けますか」
『眠ってるけど、呼べば起きるかも』
「強く呼ばないでください」
『分かった』
ミラは石の寝台へ顔を寄せた。
『あなたは、この女の人?』
返事はない。
『違う人なら、返事をしなくてもいい』
白い布が、わずかに動いた。
人骨の上に、薄い人影が現れる。
年老いた女性。
右腕を胸へ抱いている。
『私は』
かすかな声。
『聖ミハルの二十七』
教会から与えられた番号付きの聖名。
「それは、あなたが望んだ名前ですか」
『分からない』
「最初の無名死者の代わりに置かれることへ同意しましたか」
『知らない』
「あなた自身について、何か覚えていますか」
『階段から落ちた』
右腕の骨折。
『治ったあとも、雨の日は痛かった』
「ほかには?」
『孫がいた』
「名前は?」
『忘れた』
「顔は?」
『丸い』
『よく笑った』
最初の無名死者ではない。
一人の別の女性。
自分の人生を持つ死者。
レインは新しい頁へ記録した。
第六層石寝台上の遺骨。
最初の無名死者本人の遺骨ではない可能性が高い。
遺骨に付随する死者は、教会から《聖ミハルの二十七》と呼ばれていたと証言。
本人がその名を選択したかは不明。
右腕の古い骨折、雨天時の痛み、よく笑う孫の記憶を保持。
老女の姿が少し明確になる。
『私は、誰の代わりだったの』
「それを調べます」
『元の場所へ戻れる?』
「埋葬場所を確認します」
『孫を探せる?』
「記録が残っていれば」
『残っていなかったら?』
「見つからなかったと伝えます」
老女はうなずいた。
『では、起きて待つ』
◇
第七層への石蓋を開く。
今度は、バルドもすぐには剣を使わなかった。
「中に遺骨が重なっている可能性がある」
「学びましたね」
エルナが言う。
「俺だって毎回壊すわけではない」
『だいたい壊す』
「今は黙れ」
石蓋には鍵穴がない。
表面に、子どもの手形が刻まれている。
その横に母親の手形。
「二人で開く仕組み?」
ソラが自分の手を重ねようとする。
「待って」
レインが止めた。
「誰の手でもいいとは限らない」
母親の幽霊が石蓋を見下ろしている。
『私は開けられる』
「開けたいですか」
『下の人たちの声を、あなたに聞いてほしい』
「息子の記録もある?」
『ある』
「それでも?」
女性は長く迷った。
『開ける』
「理由は」
『あの子を呼ぶためではない』
『ここにいる人たちを、第一号の後ろへ隠したままにしないため』
「分かりました」
ミラが尋ねる。
『子どもの手形は?』
『あの子の許可が必要だと、神官が作った』
「初代局長本人がいないと開かない?」
『名前を使えば開く』
「使いません」
従属命令が埋め込まれた名前。
呼べば、初代局長を再び接続する可能性がある。
「ほかの方法は?」
女性は木製の鐘を見る。
『あの子が、子どもの頃に選んだ言葉がある』
「木札の裏?」
『ええ』
レインは木札を取り出した。
母さんの名前を、作らないで。
本当の名前を知らないまま、別の名前で呼びたくない。
「これを、本人の意思として使う?」
『あの頃の、あの子の意思』
「現在の初代局長の意思とは違うかもしれません」
『それでも、あの子の一部』
一部だから無効ではない。
だが全体の代わりにもならない。
「扉を開くためだけに使います」
レインは石蓋へ木札を置いた。
「初代局長の現在の同意とは扱いません」
聞き書き帳へ記す。
第七層開門に際し、初代鐘務局長が少年期に残した文章を使用。
本記録は少年期の意思を示す一資料であり、現在の初代局長全体の意思を代行するものではない。
母親が自分の手形へ触れる。
木札から少年の小さな手が現れ、隣の手形へ重なった。
石蓋がゆっくりと開く。
◇
第七層には、墓がなかった。
巨大な書庫だった。
紙の本ではない。
骨片。
衣服。
靴。
道具。
髪。
歯。
一人ずつの遺品が、透明な箱へ分けられている。
名前はない。
番号もない。
箱の表面には、それぞれ短い文章が刻まれていた。
雨の日に笑った人。
左足を引きずって歩いた人。
甘い酒を嫌った人。
子どもへ歌を教えた人。
最後まで出身国を言わなかった人。
誰にも触れられたくないと望んだ人。
「名前ではなく、記憶で分けている」
エルナが息をのむ。
「誰が作ったんです」
母親が答える。
『私と、あの子』
「初代局長が?」
『まだ局長になる前』
少年は、母親から名前を作るなと言われた。
それでも死者を区別したかった。
だから名前の代わりに、一人ずつ異なる記憶を書いた。
「最初の記録方法は、今のレインと似ています」
エルナが言った。
「名前が不明でも、本人を一つへまとめず、特徴と証言を分けて残す」
『あの子は、最初から間違っていたわけではない』
女性の声。
『でも、箱が増えた』
『声が増えた』
『聞き分けられなくなった』
『一人ずつ残すには、時間も人も足りなかった』
「だから、役割を分けた鐘守りを作った」
『ええ』
「それでも足りず、一つの名簿へまとめるようになった」
『ええ』
「最初の目的を忘れた」
『忘れたのではない』
女性は訂正した。
『早く救うことを、優先した』
「結果として、本人の声を聞かなくなった」
『そう』
書庫の最奥。
一つだけ黒い箱がある。
ほかより小さい。
表面には文字がない。
ただ、子どもの筆跡が一行。
母さんが言ったこと。
中央塔で回収した黒い本が、封印布の中で震えた。
『開けないで』
黒い本の女性の声。
地下の母親も黒い箱を見る。
『あれは、私ではない』
「では、誰です」
『あの子が覚えていた私』
「黒い本の声も、自分をあなたではないと認識している?」
『たぶん』
封印布の中から声がする。
『私は、あの子が記録した母親』
『でも、あの子の望む言葉だけではない』
地下の母親が答える。
『あなたも、今は自分で考えているのね』
『分からない』
『でも、開かれたくない』
『あの子のための記録として読まれれば、また母親の役をさせられる』
二人の母親。
同じ過去につながる。
一方は、地下へ残った死者。
もう一方は、少年の記憶から生まれた記録人格。
どちらか一方だけを本物と決める必要はない。
「黒い本は開きません」
レインが確認した。
「地下のあなたを本物として、黒い本の声を偽物とは記録しません」
『ありがとう』
二人の声が、ほぼ同時に答えた。
◇
黒い箱の下から、弱い声がした。
『母さん』
初代局長の声ではない。
少年の声。
石蓋を開いた手形と同じ頃のもの。
『母さんの名前を、作らないで』
次に、成人した男の声。
『名前がなければ、母さんは消える』
さらに、銀色の目を持つ初代局長。
『すべてを保存せよ』
三つの声が、一つの箱の中で争っている。
「初代局長の記録が、年代ごとに分かれている」
エルナが言った。
「少年期」
「鐘務局創設前」
「初代局長となった後」
「どれが、現在の本人?」
ソラが尋ねる。
「確認できません」
レインは黒い箱へ近づいた。
『開けろ』
成人した声。
『開けないで』
少年の声。
『十四番目が判断せよ』
初代局長。
三つの命令。
母親は箱の前へ立つ。
『あの子へ話すなら、全部へ話さなければならない』
「話したいですか」
『怖い』
「はい」
『でも』
女性は自分の顔を覆う霧へ触れる。
『あの子が、私の名前を探し続ける理由を終わらせたい』
「名前を教える?」
『教える名前はない』
「では、何を」
『名前を知らないまま、私を愛していたことは間違いではなかったと』
少年は、母親の名を知らなかった。
だから母親を愛していなかったわけではない。
遺体を引き取れなかった。
だから捨てたわけではない。
忘れた部分がある。
だから母親が存在しなかったことにはならない。
「今、話すと選びますか」
女性は長い時間、三つの声を聞いていた。
『選ぶ』
「黒い箱を開く?」
『いいえ』
「では、どうやって」
『あの子たちを、一人ずつ外へ呼んで』
「三つの記録を分けたまま?」
『一つに戻したら、また一番強い声だけが残る』
母親は、初代局長を一人へ完成させることを望まない。
少年。
青年。
局長。
それぞれへ別々に話す。
「危険があります」
『分かっている範囲では』
「局長の記録が、再び王都の名簿へ接続する可能性も」
『それでも、私が選ぶ』
レインは聞き書き帳を開いた。
最初の無名死者として記録された女性。
初代鐘務局長に関する三つの時期の記録――少年期、鐘務局創設前、初代局長就任後――へ、別々に証言することを希望。
三記録を一人格へ統合することは望まない。
証言内容は、自身に唯一の本名が存在するという前提を否定し、息子が遺体を見捨てたとの記録を訂正すること。
危険性を完全には把握できていないが、本人は対話を選択。
記録が完成すると、黒い箱へ三本の細い亀裂が走った。
一つ目。
子どもの手。
二つ目。
若い神官の手。
三つ目。
銀色の目。
レインはまだ箱を開けない。
「準備が必要です」
『また待つの?』
少年の声がする。
「はい」
『母さんが消える』
「消えません」
『記録がない』
「ここに証言があります」
『名前がない』
「名前がなくても、別の声として聞こえています」
『信じられない』
「信じられなくても、今すぐ一つの答えへしません」
成人した声が言う。
『時間をかければ、また誰かが忘れる』
「複数の記録者へ残します」
初代局長の声。
『不完全だ』
「不完全なまま、確認します」
箱の中で三つの声が沈黙した。
母親がレインを見る。
『あの子は、あなたを嫌うでしょうね』
「すでに嫌われています」
『それでも聞く?』
「聞きます」
◇
第七層から戻る前。
母親は、老女の遺骨が置かれていた第六層の石寝台へ立った。
『この人を、私の代わりから外して』
「本人の埋葬記録を調べます」
『私の骨も、第一号として展示しないで』
「第七層のどれがあなたの遺骨か分かりますか」
『分からない』
「探すことを望みますか」
女性は少し考えた。
『探さなくていい』
「本当に?」
『私の骨だけを特別にすれば、また第一号になる』
「ほかの遺骨と同じように扱う?」
『同じ手続で』
「あなたの選択を記録したうえで?」
『ええ』
「分かりました」
本人は、自身の遺骨を《最初の無名死者》の象徴として特別展示することを拒否。
第七層に収容された他の氏名未詳死者と同じ手続により、個別情報を確認することを希望。
自身の遺骨を優先的に特定することは望まない。
『ただし』
「何です」
『最初に埋められた人としてではなく』
女性は木製の鐘へ触れた。
『最初に、名前がなくても聞いてほしいと言った人の一人として残して』
「一人?」
『私だけが最初だと決めないで』
彼女より前にも。
記録されなかった声。
呼び名を知られなかった人。
名前を拒んだ人。
大勢がいた。
「分かりました」
レインは訂正する。
当該女性を、《名前がなくても個別の声を聞くことを求めた最初の人物》とは断定しない。
現在確認できる記録の中で、初期にその意思を示した一人として扱う。
女性はうなずいた。
『それでいい』
◇
地上へ戻ると、日は傾き始めていた。
セシリアは聞き取りの途中経過を確認し、すぐに大導師グラディウスへ第六層の埋葬記録を提出させた。
隔離執行官ベルド・ハイム。
その日の日誌も、別の保管庫から発見された。
少年、母親の遺体返還を強く要求。
疫病拡大防止のため拒絶。
少年へ説明するも納得せず。
母親本人が、隔離幕の内側より少年へ退去を求めた。
記録上の処理は、遺族による引き取り拒否とする。
「最後の一行」
エルナが言う。
「事実を、手続に都合のよい言葉へ変えています」
「なぜ、拒否と記録した」
グラディウスが当時の規則集を読む。
「遺族が引き取れなかった場合、教会側に埋葬費用と感染責任が生じる」
「遺族が拒否したことにすれば?」
「教会の責任が減る」
母親の声。
少年の行動。
隔離執行官の日誌。
複数の記録が一致した。
息子は母親を捨てていない。
母親が息子を遠ざけた。
それを教会が、引き取り拒否と書き換えた。
「この訂正を公式記録へ反映します」
セシリアが言った。
グラディウスはうなずいた。
「反対する者はいる」
「責任問題になるから?」
「当時の教会だけではなく、同じ処理を長年続けてきた」
「何件くらいです」
「調べなければ分からない」
「では、調べてください」
グラディウスは疲れた顔で息を吐いた。
「君たちは簡単に言う」
「簡単ではありません」
エルナが答える。
「必要だと言っているだけです」
◇
夜。
第十三禁書庫の入口近くに、暫定の聞き取り室が作られた。
黒い箱を運び出すことはできない。
第七層へ、月光、記録紙、防護術式を準備する必要がある。
少年。
青年。
初代局長。
三つの記録を同時に解放せず、一人ずつ聞く。
母親は、自分の意思で証言する。
中央塔から回収した黒い本は開かない。
黒い本の母親も、別の記録人格として閲覧拒否を維持する。
レインは調査手順を書いた。
一、少年期記録から聞き取りを開始する。
二、母親本人の証言を、回答の強制ではなく提示として伝える。
三、少年が母親の証言を信じない場合、その拒否も記録する。
四、青年期、初代局長期の記録へ順次同じ証言を伝える。
五、三記録を統合しない。
六、初代局長期記録が他者の名前へ接続しようとした場合、対話を中止する。
七、母親はいつでも証言を中止できる。
『レイン』
ミラが頁をのぞき込む。
「何です」
『最後は、どうするの』
「最後?」
『初代局長が、間違いを認めなかったら』
「認めさせることが目的ではありません」
『では、何が目的?』
「母親の証言を、母親自身の言葉として届ける」
『聞かなかったら?』
「聞かなかったと記録する」
『それで終わり?』
「初代局長の命令は別に止めます」
『説得できなくても?』
「説得と、危険な行動を止めることは分ける」
ミラは少し考える。
『あの人を許す必要もない?』
「誰が?」
『母親』
「ありません」
『レインは?』
「俺が許す立場ではない」
『では、罰する?』
「それも俺一人では決めません」
『また、決めない』
「決めるべき場所を分けています」
ミラは、少し笑った。
『では、明日は問いがたくさんあるね』
「今日も多かった」
◇
深夜。
レインが仮眠を取ろうとしたとき、封印布の中の黒い本が震えた。
『聞き書き人』
黒い本の母親の声。
「開きません」
『分かっている』
「何です」
『地下にいる私へ、伝えて』
「何を」
黒い本は長く黙った。
『私は、あの子が覚えていた母親』
『本当の彼女ではないかもしれない』
「はい」
『でも、私もあの子を心配している』
「あなた自身の現在の気持ち?」
『たぶん』
『記録された役割かもしれない』
「分からない?」
『分からない』
「そのまま伝えます」
『もう一つ』
「何です」
『あの子に、私を母親と認めさせなくていい』
「では、どうしてほしい」
『私の言葉を、私の言葉として聞いてほしい』
地下の母親と同じ願い。
自分を唯一の本物へ選んでほしいのではない。
役割として扱わず、一つの声として聞いてほしい。
「記録しますか」
『して』
レインは新しい頁へ書いた。
中央塔で回収した黒い本に存在する、母親の記録人格。
自身が初代鐘務局長の記憶から作られた存在であり、地下第六層に残る母親本人とは異なる可能性を認識。
それでも現在、初代局長を心配していると証言。
自身を唯一の母親と認定させることは望まず、自身の言葉を一つの独立した声として聞くことを希望。
書き終える。
黒い本は静かになった。
その直後。
聞き書き帳の最後に近い頁から、幼い声がした。
『母さん』
レインが頁を開く。
何も書かれていない。
だが紙の内側から、少年が泣いている。
『僕が、捨てたんじゃない?』
「その可能性を示す記録が見つかりました」
『母さんが、帰れと言った?』
「はい」
『本当に?』
「母親本人の証言、隔離執行官の日誌、木の鐘の記憶が一致しています」
『でも』
少年の声が震える。
『僕は、母さんを置いて逃げた』
「怖かった?」
『病気が』
「はい」
『死ぬのが』
「はい」
『逃げたかった』
「それも事実かもしれません」
少年の泣き声が止まる。
『では、やっぱり捨てた』
「怖くて逃げたいと思ったことと、母親を捨てたことは同じですか」
『分からない』
「母親は、あなたに生きてほしいと証言しています」
『母さんは、僕を許す?』
「本人へ聞いてください」
『怖い』
「母親も怖いと言っています」
『母さんも?』
「あなたが、自分の知っている息子ではなくなっていることを」
長い沈黙。
『僕も、母さんが僕の知っている母さんじゃなかったら怖い』
「では、怖いまま話しますか」
少年は答えない。
頁の内側で、小さな木の鐘が鳴る。
こつん。
地下第六層の母親の声が、月光の糸を通して届いた。
『聞こえている』
少年が息をのむ。
『母さん?』
『その呼び方なら、今は返事をする』
『名前は?』
『教えられない』
『どうして!』
『知らないから』
『嘘だ!』
少年の声が怒りへ変わる。
『みんな名前がある!』
『そう思うのね』
『名前がないと、母さんが消える!』
『今、私の声は聞こえている?』
『聞こえる』
『なら、今は消えていない』
『あとで消える!』
『そのときは、消えるかもしれない』
『嫌だ!』
『私も、あなたと話せなくなるのは悲しい』
『では残って!』
母親は、すぐには答えなかった。
『残るかどうかを、あなた一人のためには決めない』
『僕より、下の人たちが大事?』
『比べない』
『僕を愛してない?』
ヴァイス邸。
愛しているという言葉を、相手の選択を縛る鍵へ変えた場面。
その始まりが、ここにもある。
だが母親は、少年を責めなかった。
『愛している』
少年が泣く。
『では、僕のために残って』
『愛していることと、あなたの言うとおりにすることは別』
百年以上前。
母親が伝え切れなかった言葉。
少年は黙った。
レインも何も言わない。
今は、二人の会話だった。
『母さん』
『なに』
『僕は、どうすればいい』
『私は、あなたの代わりに決めない』
『分からない』
『分からないまま、明日また話しましょう』
『明日もいる?』
『今は、そのつもり』
少年の声が少し落ち着く。
『では、明日』
『ええ』
会話が終わる。
聞き書き帳の頁へ、一行だけ文字が現れた。
少年期記録は、母親との対話継続を希望。
初代局長でも。
鐘務局の設計者でも。
王都の名前を奪った者でもない。
まだ、母親の名前を知らずに泣いていた少年。
最初の一人との聞き取りが始まった。
だが頁の奥。
成人した男と、初代局長の二つの声は沈黙したまま、会話を聞いていた。
そして一番深い場所で、銀色の目がゆっくりと開く。
『少年の記録だけを救うつもりか』
「あなたにも順番が来ます」
『私を、あの子と分けるのか』
「今は、違う言葉を話しています」
『私は、あの少年が選んだ未来だ』
「それでも、少年の恐怖を理由に、あなたの行動を正当化はしません」
『母親が私を否定すれば』
銀色の文字が頁へ滲む。
『王都に残るすべての名前を消す』
「脅迫ですか」
『選択肢だ』
レインは筆を取った。
初代鐘務局長期記録。
母親の証言内容によっては、王都に残る名前記録を消去すると発言。
「記録したところで止まらない」
『分かっています』
「では、なぜ」
「明日、あなたの言葉として母親へ伝えるためです」
銀色の目が細くなる。
『伝えれば、母親は私を拒む』
「拒むかどうかは、母親が決めます」
『お前は、最後まで決めないつもりか』
「必要なことは決めます」
『何を』
「誰かの名前を消そうとする行動は止める」
レインは聞き書き帳を閉じた。
「あなたを説得できなくても」
帳面の中で、銀色の目が笑う。
『では、明日が最後の聞き取りだ』
王都の鐘が、遠くで一度だけ鳴った。
第七鐘ではない。
普通の時刻を告げる鐘。
それでも地下の死者。
禁書庫の本。
王都に戻った名前。
すべてが、その音へ耳を澄ませている。
最初の無名死者と。
彼女の名を知らなかった息子。
名前を残すため、世界を記録へ閉じ込めようとした男。
次の聞き取りで、すべてが許されるわけではない。
失われた名前が戻るわけでもない。
犯した行為が消えるわけでもない。
ただ、百年以上届かなかった言葉を、それぞれの声のまま届ける。
それが、聞き書き人にできることだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
最初の無名死者として記録された女性には、唯一の正式名が存在したとは限りませんでした。
また、初代局長は母親の遺体を見捨てたのではなく、疫病隔離によって引き取りを拒まれ、母親自身から生きるために立ち去るよう求められていました。
しかし教会は、自らの責任を避けるため、《遺族による引き取り拒否》と記録していたのです。
次回、第30話「名前を知らなくても、忘れない」。
母親、少年期の記録、青年期の記録、初代鐘務局長。
分かれた声を一つへ統合せず、最後の聞き取りを行います。
母親の言葉は初代局長の計画を止められるのか。
そしてレインは、最初の聞き書き帳へどのような結論を残すのか。




