第28話 名前のない死者たち
王都の地下共同墓所から目覚めた、名簿に存在しない死者たち。
彼らは声を揃えて、レインへ「私たちの名前を作って」と求めた。
しかし誰かが与えた名前は、失われた本人の名とは違う。
レインたちは、名づける前に、死者たちがなぜ同じ言葉しか話せないのかを調べる。
『私たちの名前を、作って』
数えきれない死者の声が、王都を揺らした。
男も。
女も。
老人も。
子どもも。
声の高さは違う。
それでも発音、間の取り方、言葉の強さは、すべて同じだった。
『私たちの名前を、作って』
中央塔の窓が震える。
大神殿の庭にいた神官たちが、耳を塞いで膝をついた。
王都の住人にも声は届いているらしい。
通りへ出ていた人々が、足元を見つめている。
自分たちが立っている地面の下。
何万人もの遺骨が納められた共同墓所。
「名前を作るとは、どういう意味だ」
大導師グラディウスが、かすれた声で言った。
「洗礼名を与えろということか」
「分かりません」
レインは答えた。
「全員が、本当に同じことを望んでいるとも限らない」
『聞こえている言葉が、本人たちの意思ではない可能性がある?』
ミラが地下へ耳を澄ませる。
「ヴァルグ古戦場の証言と同じです」
エルナが言った。
「異なる死者の声が、一つの記録に統合されているのかもしれません」
セシリアは銀杖を地面へ近づけた。
魔石の表面に、無数の白い点が現れる。
「死霊反応は確認できます。しかし数が多すぎて、個別には識別できません」
「何人だ」
バルドが尋ねる。
「少なくとも一万以上」
「地下墓所の記録では?」
「公式には六千八百二十一名です」
大導師が答える。
「数字が合いません」
「公式記録より多く埋葬されている」
王都では過去、何度も大火、疫病、飢饉、戦乱が起きた。
身元の分からない死者。
戸籍を持たない貧民。
旅人。
孤児。
牢獄で亡くなった囚人。
敵国出身者。
埋葬されたこと自体が記録されていない者もいるのだろう。
『私たちの名前を、作って』
再び同じ声。
ソラが両手で耳を塞いだ。
「頭の中まで響く」
『ソラにも聞こえる?』
「声というより、身体が覚えさせられている」
ソラは胸元を押さえる。
「名前がない者は、名前を与えられなければならない」
「誰かに教えられたように、そう思ってしまう」
「死者自身の願いではなく、墓所の規則かもしれません」
レインは聞き書き帳を開いた。
王都地下共同墓所。
公式埋葬者数六千八百二十一名。
実際の死霊反応は一万以上。
全死者が同一の文言を発している。
個別の意思ではなく、共同墓所に設定された葬送規則または記録の影響を受けている可能性。
文字を書いた瞬間、地面の下から別の音がした。
どん。
どん。
どん。
何万人もの手が、同時に石の蓋を叩いている。
「地下墓所へ行きます」
レインが言った。
「中央塔の事後処理が終わっていません」
セシリアが止める。
「名前が完全に戻っていない住民もいます」
「だから、地上側と地下側に分かれます」
「分かれるのは危険です」
「全員で地下へ行けば、王都の混乱を抑える者がいなくなる」
セシリアは短く考えた。
「私と大導師が地上へ残ります」
「教会内の反対派は?」
「大導師が説明してください」
グラディウスが苦い顔をする。
「私が鐘の起動を黙認していたこともか」
「隠せば、また同じことになります」
「容赦がないな」
「責任を消してほしいと言われても、消さないと答えました」
「覚えている」
グラディウスは騎士長へ向き直った。
「住民の名前と呼称の確認所を設けろ。正式名が思い出せない者へ、無理に教会記録を押しつけるな」
「しかし、本人確認が」
「現在使っている呼び名、家族の証言、本人が覚えている生活情報を分けて記録する」
エルナが補足する。
「確定できない場合は《確認中》としてください。別人の正式名を誤って固定するより安全です」
騎士長はうなずき、部下たちへ指示を出した。
「セシリア」
レインが言う。
「地下の声を地上へ伝える方法が必要になるかもしれません」
「中央塔の鐘を再び使うのですか」
「すぐには使いません。ただ準備だけを」
「分かりました」
『私は行く』
ミラがレインの隣へ移動する。
「最初からそのつもりだろう」
『うん』
ソラも一歩前へ出た。
「私も」
「身体は休ませる必要があります」
「地下共同墓所は、第十三鐘守の身体だった私と関係があるかもしれない」
「役割の命令を感じますか」
「少し」
「それでも行く?」
「命令なのか、自分が知りたいのか、確かめたい」
バルドがソラへ外套を渡す。
「地下は寒いぞ」
「身体があると、不便」
『でも、外套を着られる』
ミラが少し羨ましそうに見る。
「着たい?」
『着られない』
「いつか幽霊用の外套を探しましょう」
「どこで売っているんだ」
バルドが言った。
「ルーヴェルの市場なら、あるかもしれません」
レインは本気で答えた。
◇
王都地下共同墓所への入口は、大神殿の南礼拝堂にあった。
床へ置かれた巨大な石板。
表面には、古い教会文字が刻まれている。
名を持つ者は、名を残して眠れ。
名を持たぬ者は、教会より名を与えられ眠れ。
「名前がなければ、教会が与える」
エルナが文字を写す。
「先ほどの声と一致します」
「いつ作られた規則です」
グラディウスが古い台帳を確認する。
「共同墓所が拡張された、王国暦三百八十八年」
「初代鐘務局長の時代より後?」
「およそ七十年後です」
「鐘務局の思想が、教会制度として残った」
本人の名前が分からなければ、教会が新しい名前を作る。
一見すれば、慈悲深い制度にも見える。
名前を与え、葬儀を行い、記録に残す。
だが本人がその名前を望んだかは確認できない。
「当時の命名方法は?」
エルナが尋ねる。
「聖人名と埋葬日を組み合わせていた」
「同じ日に大勢を埋葬した場合は?」
「番号を加えた」
グラディウスが台帳を開く。
聖ミハルの一。
聖ミハルの二。
聖ミハルの三。
名前というより、整理番号だった。
「本人たちは、その名前で呼ばれたことがない」
レインが言う。
「それでも教会上は、名前を与えたことになる」
「そして名を持つ死者として、送魂した」
『でも、下にいる』
ミラが石板を見つめる。
『送られてない』
教会は名前を与えれば、死者は救われると考えた。
だが死者は地下へ残っている。
何百年もの間。
「開けます」
バルドが石板の取っ手へ手をかける。
「重い」
ソラも隣へ立った。
「手伝う」
「無理をするな」
「自分の身体を使いたい」
二人で石板を持ち上げる。
暗い階段。
湿った空気。
古い土と石、蝋、乾いた骨の匂いが上がってきた。
『私たちの名前を、作って』
今度は、すぐ近くから聞こえた。
◇
階段を下りる。
先頭はバルド。
その後ろにソラ。
レイン、ミラ、エルナ。
セシリアは地上との連絡役として入口まで同行し、月光の糸をレインの手首へ結んだ。
「糸が切れたら、すぐに救援を送ります」
「地下全体が崩れた場合は?」
「そのような可能性を口にしないでください」
「確認しただけです」
「バルドの影響を受けています」
「俺は崩れるとは言っていない」
階段を百段ほど下りると、広い石室へ出た。
壁一面に、小さな骨壺が並んでいる。
それぞれに番号だけが刻まれていた。
第一層。
大火の犠牲者。
第二層。
疫病死者。
第三層。
戦災死者。
第四層。
身元不明者。
さらに下にも階段が続いている。
「公式図面では、第四層までです」
エルナが地図を確認する。
「下に、少なくとも三層あります」
「非公式埋葬区画」
レインが言う。
『声は、もっと下』
ミラが階段を指す。
骨壺の間には幽霊がいない。
残留思念もほとんどない。
上層に埋葬された者は、すでに旅立ったのかもしれない。
あるいは、下層へ集められている。
第四層の階段を下りた瞬間、壁の造りが変わった。
白い石から、黒い石へ。
教会の月輪ではなく、黒い鐘の紋章。
「鐘務局の施設です」
エルナが壁を調べる。
「共同墓所より古い」
「後から墓所が上に作られた?」
「おそらく」
階段の壁へ、無数の名前が刻まれている。
しかしすべて途中で削られていた。
アル――
ミ――
テオ――
不詳。
不詳。
不詳。
「名前を与えたのではない」
レインは削られた跡へ触れずに観察する。
「残っていた名前まで消した?」
ミラが壁へ耳を当てる。
『違う声がする』
「何と」
『名前を捨てれば、同じ鐘に入れる』
鐘務局は、身元不明者へ名前を与えたのではない。
逆だった。
わずかに残っていた名や呼び方を削り、全員を《無名者》として同じ領域へまとめた。
「なぜ、そんなことを」
ソラが尋ねる。
「名前がなければ、個別に区別する必要がないからです」
エルナが答えた。
「一人ずつ記録せず、一つの集団として扱える」
「大勢を一度に送魂するため」
ヴァルグ古戦場で、矛盾する死者を一つの判決へまとめようとした仕組み。
同じ思想だ。
「全員の名前を作ってほしい、という願いも」
レインは暗い階段の先を見る。
「本当は《一つの集団名を与えろ》という命令かもしれない」
◇
第五層。
床には無数の骨が、区別なく積み上げられていた。
骨壺もない。
埋葬区画もない。
男か女か。
大人か子どもか。
誰の骨か分けられていない。
中央には巨大な黒い石碑。
文字は一つだけ。
無名。
石碑の前に、何千もの幽霊が立っていた。
顔がない。
服装も曖昧。
輪郭だけが異なる。
それでも全員の口が、同じ形で動く。
『私たちの名前を、作って』
レインの耳へ、一万を超える声が流れ込む。
身体の温度が急激に下がる。
「レイン!」
エルナが肩へ外套をかける。
生者の声が遠い。
死者たちの合唱だけが大きくなる。
『名前を作って』
『一つの名前を』
『私たちは同じ』
『同じ死者』
『同じ声』
『同じ名』
黒い石碑の表面に、空欄が現れる。
我らの名は、____。
聞き書き帳が勝手に開く。
筆が空欄を埋めるよう、レインの手を引いた。
「書くな!」
バルドが帳面を押さえる。
「一つの名前を与えれば、全員がその名へ統合されます!」
エルナが叫ぶ。
「個別の記憶が完全に失われる可能性があります!」
『名前がなければ、私たちはいない』
死者たちが言う。
『名前を』
『名前を』
『名前を』
「あなたたち全員が、本当に同じ名前を望んでいますか!」
レインが呼びかける。
『望む』
「誰が答えた!」
『私たち』
「一人ずつ答えてください!」
『私たちは一つ』
「いつから一つになった!」
答えが止まる。
ほんの一瞬。
全員の声がずれた。
『埋められたとき』
『鐘が鳴ったとき』
『名前を取られたとき』
三つの異なる返答。
石碑が激しく揺れた。
『同じ答えを言え』
別の声が地下へ響く。
死者の声ではない。
石碑に刻まれた葬送命令。
『名のない者は、一つの名を求めよ』
『一つの名を得た後、一つの鐘へ入れ』
『個々の過去を捨てよ』
ミラが黒い石碑へ飛びついた。
『みんなの声を押さえてるのは、これ!』
「壊せるか」
バルドが大剣へ手をかける。
「待ってください」
「またか」
「石碑を壊せば、統合されている声が一度に解放されます」
「何が起こる」
「一万人以上の記憶が、区別されないまま流れ出す」
「では、どうする」
「一人ずつ違う声があると、石碑へ認識させる」
レインは死者たちを見る。
名前は聞かない。
名前を失っているからだ。
代わりに、名前以外の質問。
「ここにいる方へ聞きます」
「死ぬ前、最後に見た色は?」
石碑が命じる。
『同じ答えを言え』
死者たちの口が動く。
『黒』
だが声の奥。
小さな囁きが混ざる。
『赤』
『青』
『朝の白』
『火の色』
『母の服は緑』
ミラがそれを拾う。
『違う色を言ってる人がいる!』
「次です!」
レインは続けた。
「最後に触れたものは?」
『土』
統合された声。
その下から。
『子どもの手』
『濡れた木』
『硬いパン』
『猫の毛』
『鎖』
『誰かの背中』
死者の輪郭へ、わずかに顔が戻り始める。
「好きだった匂いは?」
『ない』
石碑の命令。
『焼いた麦』
『川』
『石鹸』
『雨』
『馬小屋』
『薬草』
『赤ん坊の髪』
何千もの異なる答え。
一つの名はなくても。
人生が一つだったわけではない。
「あなたたちは、《無名》という一人ではありません!」
レインが叫んだ。
「名前が分からなくても、それぞれ別の場所で生き、別のものを見て、別の選択をした!」
黒い石碑に亀裂が走る。
空欄。
我らの名は、____。
レインは筆を取った。
だが名前は書かない。
空欄の上へ、新しい文章を記す。
ここに埋葬された死者の本名は、現時点で不明。
石碑が抵抗する。
『名前を作れ』
「作りません」
『名前がなければ記録できない』
「名前が不明であることを記録する」
『存在を証明できない』
「異なる記憶と証言がある」
『一つへまとめろ』
「まとめない!」
さらに書く。
本名が不明であることは、全員が同一人物であることを意味しない。
個別の呼称を望む者には、本人の現在の選択を確認する。
呼称を選べない者、選ばない者については、仮の名前を強制せず、《氏名未詳》として個別記録を作成する。
石碑の《無名》という文字へ、縦の亀裂が走った。
死者たちの顔が、一人ずつ異なる形へ戻り始める。
完全ではない。
目がない者。
口だけの者。
子どもの背丈だが年齢が分からない者。
服の一部しか残っていない者。
それでも、一つの群れではなくなっていく。
◇
一人の女性が前へ出た。
顔はまだ曖昧。
右手に、青い陶器の破片を持っている。
「名前を覚えていますか」
レインが尋ねた。
『覚えていない』
「教会に、新しい名前を作ってほしいですか」
女性は長く考えた。
『前は、ほしかった』
「今は?」
『分からない』
「では、今決めなくていい」
『でも、呼ばれたい』
「どんな呼び方を望みますか」
女性は青い陶器を見る。
『これは、私が作った』
「陶器職人?」
『たぶん』
「では《陶器職人》と呼びますか」
『仕事だけが私ではない』
レインはうなずいた。
「そのとおりです」
『青いものが好きだった』
「《青》は?」
『ほかにも青が好きな人はいる』
「では、あなたが自分で選ぶまで、《青い陶器を持つ方》と呼びます」
『長い』
「仮の識別です」
女性は少し笑った。
『では今は、それでいい』
エルナが個別記録用の紙を作る。
氏名未詳・個体記録一。
現在の識別――青い陶器を持つ方。
本人は陶器を作った記憶と、青色を好んだ感覚を保持。
新しい固有名の決定は保留。
「個体記録一では、また番号に戻るのでは?」
ソラが尋ねる。
「番号は整理のために使います」
エルナが答えた。
「番号を本人の名前として扱わないことを明記します」
記録番号は管理上の識別であり、本人の名前ではない。
女性は紙を見て、うなずいた。
『番号で呼ばないなら、それでいい』
次に、小さな男の子が現れた。
顔は見えない。
両手で何かを抱く仕草をしている。
「何を持っていますか」
『犬』
「今も見えますか」
『いない』
「名前は?」
『犬の?』
「あなたか、犬の。覚えている方を」
『どちらも分からない』
「呼ばれたい名前を考えますか」
『犬を探したい』
「では、今の希望を記録します」
氏名未詳。
小型犬を抱いていた記憶あり。
本人は自身の命名より、犬の行方確認を希望。
男の子の輪郭へ、小さな耳と鼻が戻る。
足元に、犬の幽霊らしき影が一瞬だけ現れた。
少年が振り向く。
『いた』
犬が尻尾を振る。
名前は分からない。
それでも互いを認識している。
『名前がなくても、分かる』
少年は犬を抱きしめた。
その言葉が、周囲の死者へ広がった。
『名前がなくても』
『分かることがある』
『でも、呼ばれたい』
『私は名前がほしい』
『私は昔の名前を探したい』
『新しい名前は嫌だ』
『番号は嫌だ』
『何でもいいから呼んで』
『今は決められない』
初めて。
一万人を超える死者たちが、異なる言葉を話した。
地下共同墓所は、混乱した。
声が重なる。
誰の言葉か分からない。
だが先ほどまでの、整いすぎた一つの声よりも正しかった。
「全員を今すぐ聞くことはできません」
レインが告げた。
死者たちが不安そうに揺れる。
「だから、聞き取りの場所を作ります」
『また教会が決める?』
青い陶器を持つ女性が尋ねる。
「教会だけでは決めません」
「生者の記録を調べる者」
エルナ。
「死者の声を聞く者」
レインとミラ。
「身体的な遺骨や埋葬場所を確認する者」
ソラと王都の医師たち。
「地下を守る者」
バルド。
「俺は墓守ではないぞ」
「崩落や不審者から守る仕事です」
「それなら分かる」
「教会は、地上の戸籍、洗礼記録、葬送記録を公開する」
セシリアの声が月光の糸を通じて届く。
「王立記録院は、大火や疫病当時の住民記録を照合します」
エルナが続けた。
「家族の記憶、職人組合の名簿、宿泊記録、犯罪記録も含めます。ただし一致候補を本人の名と即断しません」
「似た記憶を持つ別人かもしれない」
レインが言う。
「一人ずつ、照合します」
死者の一人が尋ねた。
『何年かかる』
「分かりません」
『全部、終わる?』
「約束できません」
『途中で忘れる』
「その可能性はあります」
『また、私たちは残される』
「だから、俺一人の帳面へ集めません」
レインは聞き書き帳を閉じた。
「王都の人たちにも、証言を持ってもらいます」
ルーヴェルの市場で使われていた方法。
一人の記録者へ、すべてを集中させない。
誰かが忘れても、別の誰かが覚えている。
「あなたたちの記憶を、同意を得たうえで、複数の聞き手へ分けて残す」
「一つの教会」
「一つの帳面」
「一人の聞き書き人」
「そのどれかが失われても、全員が再び無名へ戻されないようにします」
石碑の亀裂がさらに広がる。
だが完全には壊れない。
その中心から、低い声がした。
『認めない』
「誰です」
『名前を作れ』
先ほどまでの葬送命令ではない。
個人の声。
黒い石碑の中に、誰かがいる。
『全員へ、一つの名を与えろ』
「あなた自身が、そう望んでいる?」
『私が決める』
「誰のために」
『この者たちは、自分で選べない』
初代局長と同じ言葉。
黒い石碑の表面から、一人の神官が現れた。
古い白い法衣。
胸には鐘務局の紋章。
だが銀色の目ではない。
両目を黒い布で覆っている。
「共同墓所の管理者?」
エルナが服装を確認する。
「王国暦三百八十八年当時の、無名葬送院長です」
『私は、名のない者へ名を与えた』
「あなたの名前は?」
『聖名授与官』
「役職ではなく」
『役職だけでよい』
「本人の名前は?」
神官の身体が揺れる。
『捨てた』
「なぜ」
『名のない死者と同じになるため』
「自分で選んだ?」
『そうだ』
「では、死者たちにも同じ選択を求めた?」
『名を捨てれば、苦しみは同じになる』
「同じ苦しみになれば、同じ人間になるわけではありません」
『違いがあるから争う』
『家名』
『身分』
『国籍』
『罪人と聖人』
『すべての名を捨てれば、死者は平等になる』
初代局長とは異なる理由。
忘れられないためではない。
違いを消し、全員を平等にするため。
「平等に扱うため、個人を消した?」
『一人ずつ扱えば、身分の高い者が優先される』
『金のある家族が名を残す』
『貧しい死者は忘れられる』
『ならば、全員を無名にすればよい』
「それで救われましたか」
レインは周囲の死者を見る。
青い陶器を持つ女性。
犬を抱く少年。
鎖の跡を持つ囚人。
赤ん坊を抱いた母親。
敵国の軍服を着た男。
全員、違う。
「彼らは何百年も、同じ言葉だけを繰り返していた」
『争いはなかった』
「選択もなかった」
『平等だった』
「全員が同じように声を奪われただけです」
聖名授与官は黒い石碑へ手を置く。
『名を作れ』
『彼らは、名を求めている』
「求める者もいます」
『ならば与えろ』
「求めない者もいます」
『混乱しているだけだ』
「また、その言葉ですか」
レインの声が低くなる。
「本人があなたと違う答えを出すたび、混乱していることにする」
『大勢を扱うには、一つの規則が必要だ』
「一つの手続は必要です」
『同じではないか』
「手続を同じにすることと、答えまで同じにすることは違う」
レインは聞き書き帳を開く。
王都地下共同墓所・氏名未詳者聞き取り手続。
一、全死者へ新しい名前を一律に付与しない。
二、過去の本名を探す者、新しい呼称を選ぶ者、呼称を保留する者、名前を望まない者を分けて扱う。
三、記録番号、埋葬番号、分類名を本人の固有名としない。
四、候補となる過去の名前が見つかっても、本人の記憶および関連記録を照合するまで確定しない。
五、新しい名前は、教会や聞き書き人が一方的に与えず、本人が選択する。
六、選択できない者については、《氏名未詳》のまま存在と記憶を記録する。
七、集団の歴史を示す呼称と、個人の名前を混同しない。
「集団の歴史を示す呼称?」
エルナが尋ねた。
「この場所全体を、今後何と呼ぶかは必要です」
「《無名墓所》では、同じ扱いを残します」
「では、死者たちへ聞きます」
レインは周囲へ呼びかけた。
「ここへ埋葬された人々の歴史を示す場所の呼び名を、考えたいですか」
声が分かれる。
『考えたい』
『いらない』
『地上の人に知ってほしい』
『また一つにされるのは嫌』
「場所の名前であって、個人全員を同じ名にするものではありません」
青い陶器を持つ女性が言う。
『名前を待っている場所』
犬を抱く少年。
『探す場所』
囚人の幽霊。
『消された場所』
母親。
『覚え直す場所』
すべて違う。
今すぐ一つへ決める必要はない。
「候補として、全部記録します」
レインが言った。
「場所の呼び名も、今日決めません」
『決めないことばかり』
聖名授与官が嘲る。
「あなたは決めるのが早すぎた」
黒い石碑へ亀裂が走る。
『大勢を待たせる』
「待ちたくない者には、先に聞きます」
『不公平だ』
「同じ順番だけが公平ではない」
今すぐ旅立ちたい者。
家族を探したい者。
時間をかけて名前を選びたい者。
何も決めたくない者。
必要な時間は違う。
「全員を同時に同じ場所へ送るための公平は、やめます」
石碑の《無名》という文字が、ついに砕けた。
黒い破片が床へ落ちる。
内部から、何万枚もの小さな木札があふれ出した。
埋葬時に遺体へ付けられていた札。
大半は番号だけ。
だが一部には、消えかけた文字がある。
東門近くのパン職人らしき女性。
左手に青い染料。
小型犬とともに発見された少年。
北方訛りの旅人。
右肩に三日月形の痣を持つ男性。
「個別の記録が残っていた」
エルナが札を拾わず、位置を記録する。
「完全な名前ではありません。しかし、本人を区別する情報です」
「聖名授与官が、削除し切れなかった?」
『不要な記録だ』
神官が叫ぶ。
『名前ではない!』
「名前でなくても、人を探す手掛かりになります」
青い陶器を持つ女性の足元。
一枚の札が光った。
左手に青い染料。陶工区付近で発見。
『私?』
「可能性があります」
レインは断定しない。
「左手を見せてください」
女性の半透明の左手に、青い染みが浮かび上がった。
エルナが当時の職人名簿を思い出す。
「王都南部の陶工区。大火で工房が三十二軒焼失しています」
『名前がある?』
「名簿が残っていれば、候補は見つかります」
『今すぐ知りたい』
「地上へ戻り、調べます」
『もし、違ったら?』
「違ったと記録します」
『見つからなかったら?』
「見つからなかったことを記録します」
女性は青い破片を握りしめた。
『それでも、探して』
「はい」
初めて、一人の死者から具体的な依頼を受けた。
◇
聖名授与官の姿が崩れ始める。
彼を支えていた《無名》の石碑が割れたためだ。
『私は間違っていない』
「名のない死者を、身分で差別しなかったことは必要だったと思います」
レインは答えた。
神官の顔がわずかに動く。
「しかし、差別をなくすために、本人の違いまで消した」
『違いを残せば、また順位が生まれる』
「順位を作らない仕組みを考えます」
『失敗する』
「失敗するかもしれません」
『なら、私の方法が正しい』
「あなたの方法が失敗したことは、目の前に残っています」
何百年も地下で同じ言葉を繰り返していた死者たち。
それが結果だった。
「今、自分の名前を思い出したいですか」
レインが尋ねる。
『捨てた』
「思い出せる可能性があります」
『不要だ』
「今も、自分でそう選ぶ?」
聖名授与官は答えようとする。
しかし役職の声しか出てこない。
『名を与えよ』
『平等に送れ』
『同じ名へ』
「役割ではなく、あなた自身へ聞いています」
長い沈黙。
神官の目を覆っていた黒い布が、少しずつほどける。
その下にあった目は、銀でも黒でもない。
普通の茶色。
『私は』
神官は自分の手を見た。
『自分の名前を、思い出せない』
「捨てたから?」
『捨てれば、死者と同じになれると思った』
「同じになれましたか」
『ならなかった』
彼は何千もの死者を見渡す。
『私は、名を奪う側だった』
レインはその言葉を記録する。
聖名授与官を名乗る死者。
生前、自身の名を捨て、身元不明死者へ一律の聖名または集団名を与える制度を運用。
現在、自身は死者と同じ立場にはならず、名を奪う側だったと証言。
「今は、どう呼ばれたいですか」
『分からない』
「では、分からないまま記録します」
『私にも、新しい名を与えないのか』
「望むなら、一緒に考えます」
『罰として、無名のままにしない?』
「罰を決めるのは俺一人ではありません」
被害を受けた死者たちが声を上げる。
『許さない』
『話を聞きたい』
『名前を返してから考える』
『同じ苦しみを味わえ』
『何も思わない』
意見は分かれた。
「あなたの責任については、別に聞き取ります」
『私は旅立てない?』
「旅立ちを望むのですか」
聖名授与官は、白い扉を見上げた。
地下の天井を越え、空に開いている扉。
『分からない』
「では、まだ決めません」
神官は初めて、自分が作った制度とは異なる答えを受け入れた。
『分からないままで、残る』
「はい」
◇
地下墓所の異常は、完全には終わらなかった。
一万を超える死者の個別聞き取り。
遺骨と埋葬札の整理。
過去の名簿との照合。
新しい呼び名を望む者への支援。
何年かかるか分からない。
だが黒い石碑の命令は止まった。
死者たちは、もう同じ言葉を繰り返していない。
泣く者。
怒る者。
互いに話し始める者。
自分の記憶を探して歩く者。
白い扉へ向かう者もいた。
一人の老人が、レインへ言った。
『名前は思い出せない』
「新しい名前を考えますか」
『いらない』
「では、どのように記録しますか」
『私は、ここで目を覚ました老人』
「それでいい?」
『今は、それでいい』
「旅立ちますか」
『妻が先に行った気がする』
「妻の名前は?」
『分からない』
「顔は?」
『分からない』
「それでも、妻だと分かる?」
『声を覚えている』
老人の前に白い扉が現れる。
向こう側から、女性の笑い声。
名前は呼ばれない。
老人はその声へ歩いていく。
『名前がなくても、見つかることがある』
犬を抱いた少年と同じ言葉。
老人は扉の前で振り返った。
『でも、地上には書いておいて』
「何を」
『名前が分からない老人が、妻の声を聞いて旅立った』
「分かりました」
レインは記録する。
氏名未詳の老年男性。
妻と思われる者の名と顔は記憶していないが、声を識別。
本人の希望により、新しい名前は付与しない。
妻の声を聞き、自ら白い扉へ進んだ。
老人は満足そうにうなずき、扉の向こうへ消えた。
名前は最後まで分からなかった。
それでも彼が存在しなかったことにはならない。
◇
地上へ戻った頃には、昼近くになっていた。
大神殿の南礼拝堂には、臨時の机が並べられている。
王立記録院の職員。
教会の書記官。
医師。
墓所管理人。
職人組合の代表。
そして、七つ目の鐘で名前を奪われかけた王都の住人たち。
「何を始めるんです」
レインがセシリアへ尋ねる。
「共同墓所の聞き取り準備です」
「教会が、もう認めた?」
「大導師が公式命令を出しました」
「反対は」
「多数あります」
「それでも?」
「地下から声が聞こえた者が多すぎます」
存在しないことにはできない。
七つ目の鐘が残した、唯一の利点かもしれない。
エルナは最初の調査票を作っていた。
地下共同墓所・氏名未詳者照合票。
一、本人が覚えている身体的特徴。
二、職業または作業の記憶。
三、家族、知人、動物に関する記憶。
四、場所、匂い、音、食べ物に関する記憶。
五、過去の名前を探すことを望むか。
六、新しい呼称を選ぶことを望むか。
七、現時点で呼ばれたくない名称があるか。
八、記録の公開範囲。
「死者へ公開範囲を聞くんですか」
書記官が戸惑う。
「生者へ公開範囲を聞くなら、死者にも必要です」
「犯罪歴があった場合は?」
「歴史調査や法的検討が必要な場合と、一般公開することは別です」
「家族が知りたいと言ったら?」
「本人の意思と衝突する可能性を記録します」
「答えを決めないのですか」
「すぐには」
書記官は困った顔をした。
「手間がかかりますね」
「はい」
エルナは当然のように答えた。
「人間一人を記録するのですから」
◇
青い陶器を持つ女性の手掛かりは、午後に見つかった。
王国暦三百八十八年の大火。
南陶工区の被災者名簿。
三十二軒の工房。
青い釉薬を使っていた工房は三軒。
そのうち、左利きの女性陶工が二人。
サーラ・ネム。三十四歳。遺体未確認。
ティア・ロッカ。推定二十歳。戸籍なし。通称のみ。
「候補が二人」
エルナが言った。
「青い陶器の方へ、どちらかを見せますか」
「名前だけを先に伝えないでください」
レインが答える。
「記憶が名前へ引かれる可能性があります」
「工房、家族、作品の特徴から確認します」
サーラは鳥の文様を好んだ。
ティアは取っ手のない青い杯を作っていた。
女性が持っていた破片には、取っ手がない。
だが、それだけでティアとは決められない。
同じ工房で作った可能性。
別の陶工が模倣した可能性。
本人が購入しただけの可能性もある。
「確定しませんね」
エルナが言った。
「はい」
「候補が見つかったのに?」
「候補として記録します」
地下へ戻り、本人へ聞く必要がある。
時間がかかる。
だが女性は、探してほしいと言った。
その選択を急いだ結論で消してはならない。
◇
夕方。
レインは大神殿の階段へ座っていた。
死者の声を一度に聞きすぎたため、まだ身体が冷たい。
ミラが隣へ浮かんでいる。
『名前を作らなかったね』
「作ってほしいと言った者には、これから一緒に考えます」
『全員の名前を作ったほうが、早かった』
「早かったな」
『初代局長なら、そうした』
「聖名授与官も」
『レインは、しない』
「できないとも言える」
『どうして』
「名前を与えれば、相手を助けた気になれる」
『違うの?』
「助かる者もいる」
「でも、名前を与えた後で、その人の声を聞かなくなるかもしれない」
名前が決まった。
記録が完成した。
問題は解決した。
そう思ってしまう。
「名前は、聞き取りの終わりではない」
『始まり?』
「場合による」
『また、決めない』
「全部に同じ答えはありません」
ミラは少し考えた。
『私がミラって決めたときは?』
「始まりだったと思う」
『何の』
「お前が、過去の役割とは別に選び始めた」
ミラは自分の名前を小さく口にした。
『ミラ』
「はい」
『今は、この名前が好き』
「記録しますか」
『もう書いてあるでしょう』
「好きだという部分は書いていません」
『では、書いて』
レインは聞き書き帳を開く。
ミラ。
本人は現在、自ら選んだ《ミラ》という名前を好ましく思っていると表明。
『ずっと好きとは限らない』
「加えますか」
『うん』
将来、別の呼称を選ぶ可能性までは否定しない。
ミラは満足そうにうなずいた。
『それでいい』
聞き書き帳の頁が静かに閉じる。
その直後。
大神殿の奥から、一人の書記官が走ってきた。
「レイン・アスター殿!」
塔内ではないため、レインは自分の名へ振り向いた。
「地下墓所の木札を整理していたところ、妙な札が見つかりました」
「どんなものです」
「埋葬者の特徴ではありません」
書記官は古い木札を差し出した。
黒ずんだ表面。
鐘務局の文字。
名を持たない死者、第一号。
女性。推定三十歳。
息子一名が遺体の引き取りを拒否。
息子は後に、鐘務局へ収容。
レインの胸が冷たくなる。
「年代は」
「鐘務局創設の前年です」
初代鐘務局長が、名前を失った母親を亡くした時期。
「息子の名前は?」
「記録欄が黒く塗りつぶされています」
木札の裏面。
子どもの文字と思われる、拙い筆跡が残っていた。
母さんの名前を、作らないで。
本当の名前を知らないまま、別の名前で呼びたくない。
中央塔で回収した黒い本。
名前を知らなかった母の記録。
その本の中の女性は、初代局長へまだ話したくないと拒否している。
だが地下墓所の記録では、息子が遺体の引き取りを拒否したことになっていた。
「初代局長は、母親を見捨てた?」
エルナが木札を読む。
「あるいは、拒否したよう記録された」
「本人が覚えている過去と、埋葬記録が違う」
初代局長は、母親の名前を知らず、記録から失われたと思っていた。
しかし母親の遺体は、地下共同墓所の最初の一人として記録されている。
名を持たない死者、第一号。
レインは黒い本を包んだ封印布を見る。
中の女性は、まだ息子へ話したくないと言った。
その拒否は守る。
だが息子側の記憶と、墓所側の記録が食い違っていることは調べなければならない。
『母親は、下にいる?』
ミラが尋ねる。
「黒い本にも声がいる」
『二人いる?』
「同じ人の記録が分かれた可能性もある」
『どちらかが偽物?』
「まだ分からない」
地下共同墓所のさらに下。
公式図面にはない第六層と第七層。
ミラが聞いた声は、そこからも続いていた。
名前を作ってほしいと願った死者たち。
名前を作らないでほしいと書き残した、最初の無名死者の息子。
そして初代鐘務局長の記憶とは異なる埋葬記録。
レインは新しい頁へ調査項目を書く。
王都地下共同墓所・追加調査。
一、名を持たない死者第一号の埋葬経緯。
二、遺体引き取り拒否記録の真正性。
三、中央塔で回収した黒い本との関係。
四、地下第六層および第七層の確認。
五、初代鐘務局長本人の記憶と、共同墓所記録の不一致。
最後に。
黒い本は、内部の女性が閲覧を拒否しているため、現時点では開かない。
調べる。
だが開かない。
矛盾しているようで、両立はできる。
本人の拒否を守りながら、外側に残された記録を確認する。
ミラが大神殿の床へ耳を澄ませた。
『第六層で、誰かが泣いてる』
「大勢?」
『一人』
「何と言っている」
ミラの表情が変わった。
『名前はいらないって』
「ほかには」
『息子に、謝らないでほしいって』
黒い本の中にいる女性と、同じ声かもしれない。
『私は、自分で残った』
地下深くから、女性の声が届く。
『あの子に捨てられたのではない』
木札の記録。
息子一名が遺体の引き取りを拒否。
母親の証言。
私が自分で残った。
同じ出来事を、まったく異なる意味で記している。
初代局長が、死者の選択を信じなくなった最初の理由。
その根本にある記録が、間違っていた可能性がある。
王都の地下から、女性はもう一度言った。
『私の名前を探さないで』
『私が、なぜ残ったかを聞いて』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
名前のない死者たちは、全員が同じ名前を望んでいたのではありませんでした。
共同墓所の《無名》という規則によって、一つの集団名を求めるよう声を統合されていたのです。
レインたちは、過去の本名を探す者、新しい呼称を選ぶ者、名前を保留する者、名前を望まない者を分けて記録する聞き取りを始めました。
次回、第29話「最初の無名死者」。
地下共同墓所へ最初に埋葬された女性は、初代鐘務局長の母親である可能性が浮上します。
しかし彼女は、自分の名前を探すのではなく、「なぜ自分が地下へ残ることを選んだのか」を聞いてほしいと求めます。




