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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第一部 第九章 王都亡霊夜行

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第27話 王都の名前が開く

初代鐘務局長は、第十三鐘守を一つへ戻すことに失敗した。


次に彼が選んだのは、王都に暮らすすべての人間を巨大な記憶鐘へ変えること。


レインたちは七つ目の鐘を止めるため、聖導大神殿の中央塔へ向かう。

 地下から地上へ続く階段は、下りたときより長くなっていた。


 一段上るたび、誰かの名前が聞こえる。


『リオネル・ハース』


『マリア・エルト』


『ベルン・ロウ』


『エッダ・ソーン』


 男。


 女。


 子ども。


 老人。


 知らない人々の名が、壁の内側から読み上げられている。


「王都の住民名簿です」


 セシリアが足を速めた。


「出生記録、婚姻記録、洗礼記録。教会へ登録された正式名が、白い帳簿へ送られ始めています」


「まだ鐘は鳴っていないんだろう」


 バルドはソラの腕を支えながら階段を上る。


 百年以上眠っていた身体は、歩くことに慣れていない。


 それでもソラは自分の足で進むことをやめなかった。


「予備接続です」


 エルナが答える。


「鐘が鳴る前に、対象者の名前を一つの名簿へ集めている」


「鳴ったら?」


「正式名を鍵に、本人の記憶へ接続する」


「王都全員が、ミラと同じように分けられる?」


「同じとは限りません」


 レインは壁を流れる名前へ触れずに見た。


「初代局長の目的は、全員を記録領域へ保存することです。身体を残したまま、名前と記憶だけをつなぐ可能性もある」


「ヴァイス邸の三人のように?」


 ソラが尋ねる。


 声を出すたび、自分の喉が震えることを確かめている。


「意識が身体から離れれば、似た状態になるかもしれません」


『でも、王都全員』


 ミラが階段の上を見上げた。


『助ける時間がない』


「だから鐘を止める」


 階段の先に、石の扉が見えた。


 書架が開いた出口。


 扉の表面には、外から複数の封印が施されている。


「内側から開けられますか」


 セシリアが銀杖を近づける。


「開けられないよう、追加の封印がされています」


「正門で追い返した神官騎士たちか」


「禁書庫の入口が開いたことを検知したのでしょう」


 バルドがソラから手を離し、大剣を構える。


「今度こそ壊していいな」


「封印だけです」


「扉ごと斬ったほうが早い」


「この上は礼拝庭園です。地面ごと崩れます」


「面倒な建物だ」


 セシリアが封印文字を読む。


「大神殿の審問部が使う閉鎖術式です。内側に異端者や怪異を閉じ込めるためのもの」


「解除権限は?」


「審問官以上です」


「あなたには?」


「ありません」


「では壊すしかない」


 バルドが嬉しそうに言う。


「待ってください」


 エルナが扉の右端を指した。


 封印は三層ある。


 教会の閉鎖術。


 鐘務局の旧い文字。


 そして最も外側に、新しく書かれた一行。


セシリア・ローデンの入殿を禁ず。


「あなた個人を対象にした封印です」


「活動停止命令だけでなく、大神殿への侵入禁止まで」


「それを利用できます」


 レインが言った。


「どういうことです」


「封印は、セシリア・ローデンが通ることを禁じている」


「はい」


「今のあなたは、どう名乗りますか」


 セシリアは眉を寄せた。


「言葉遊びで封印を破るつもりですか」


「名前には役割が含まれると、初代局長は言いました」


「私は、セシリア・ローデンです」


「それ以外の呼び名は?」


「ありません」


『教会を疑う神官』


 ミラが言う。


 招待状に書かれていた呼び名。


「それは名前ではありません」


「今の立場を表しています」


 レインは扉へ向かって言った。


「この場にいる者へ確認します。あなたは今、教会の命令へ従う調査官として入殿しますか」


 セシリアは封印を見つめた。


「いいえ」


「では、何として入りますか」


「聖導教会に属する神官として」


「活動停止命令は、調査官としての権限を止めています」


「神官としても、上位命令へ従う義務があります」


「その命令が、王都の住民を守ることより優先されると思いますか」


 セシリアは銀杖を握りしめた。


「思いません」


「では、自分の言葉で」


 長い階段。


 名前を読み上げる壁。


 封印の向こうでは、中央塔の鐘が震え続けている。


 セシリアは扉へ手を置いた。


「私はセシリア・ローデン」


 封印文字が強く光る。


「聖導教会王都本部所属、怪異調査官」


 拒絶するように黒い鎖が現れる。


「現在、教会命令により活動停止中」


 鎖が彼女の腕へ巻きつこうとする。


「それでも」


 セシリアは銀杖を地面へ突き立てた。


「王都にいる生者の名前と意思を守るため、一人の神官として、この扉を開く」


 月光が扉へ走った。


 封印の一行が揺れる。


セシリア・ローデンの入殿を禁ず。


 その下へ、新しい文字が現れる。


ただし本人が、役職命令より信仰上の責務を優先すると選んだ場合を除く。


「誰が書いた」


 バルドが驚く。


「扉が、現在の宣言を規則として認識した?」


 エルナが文字を確認する。


「レインさんの聞き書き帳と接続しています」


 帳面の十四本目の線が白く光っていた。


 レインは何も書いていない。


 だがセシリア本人の宣言を、扉が記録として受け入れた。


「十四番目の力が広がっている」


 セシリアが警戒する。


「便利だと考えないでください」


「分かっています」


「本人の宣言が、古い封印を上書きした」


「だからこそ、今後は使う条件を決める必要があります」


「今は?」


「本人が自分について宣言した場合だけにします」


 レインは聞き書き帳へ記す。


暫定制限。


聞き書き帳は、本人が自身について明確に宣言した選択のみ、既存記録の訂正候補として扱う。


他者の権利や意思へ影響する変更は、一人の宣言だけでは確定しない。


 扉の封印が一層だけ外れた。


 残る二層。


「次は俺か」


 バルドが前へ出る。


「何を宣言するつもりです」


「扉を斬る」


「宣言ではなく予告です」


「本人の明確な意思だ」


 バルドが大剣を振り上げた。


 セシリアは止めようとしたが、レインが手を上げる。


「鐘務局の旧封印だけを狙ってください」


「最初からそうする」


「石は傷つけないように」


「難しい注文を追加するな!」


 大剣が振り下ろされる。


 刃は扉に触れる直前、黒い鐘の文字だけを切り裂いた。


 物理的な石には傷がない。


 だが旧封印は真っ二つに割れた。


「斬れるのか」


 バルド自身が驚いている。


『バルド、すごい』


「当然だ」


「今、驚いていましたよね」


「黙れ」


 残る一層は、審問部の閉鎖術。


 セシリアが銀杖をかざす。


「月光解錠」


 白い光が封印の継ぎ目へ入り込む。


 エルナが術式の並びを読み、解除順を指示する。


「左上、次に右下。中央の文字は最後です」


「了解」


「中央を先に触ると警報が」


 セシリアの光が中央へ触れた。


 大神殿中に鐘とは違う警報音が響いた。


「最後と言ったでしょう!」


「光が広がりました!」


「神官まで雑になってきたな」


「あなたの影響です!」


 それでも封印は外れた。


 扉が開く。


 冷たい夜気。


 月光。


 地上へ戻った。


     ◇


 礼拝庭園は、神官騎士に包囲されていた。


 二十人以上。


 銀の槍。


 白銀の鎧。


 その中央に、正門でセシリアを止めた騎士長が立っている。


「セシリア・ローデン」


「はい」


「禁じられた地下施設へ侵入した疑いにより、拘束します」


「今は拘束される時間がありません」


「抵抗するなら、同行者も異端協力者として扱う」


 バルドが大剣を前へ出す。


「話が早い」


「戦わないでください」


 セシリアが止めた。


「ではどうする」


「説明します」


 騎士長へ向き直る。


「中央塔の第七鐘が、王都の生者名簿へ接続されています。夜明けに鐘が鳴れば、住民の名前と記憶が本人の同意なく記憶領域へ取り込まれます」


「そのような鐘は存在しない」


「地下の第十三禁書庫も存在しないと言われました」


「教会の公式記録にない」


「記録にないことと、存在しないことは同じではありません」


「異端者の詭弁だ」


「では、なぜ中央塔の鐘が誰も触れていないのに動いている」


 全員が塔を見上げる。


 月明かりの中。


 巨大な鐘が左右へゆっくり揺れている。


 鐘を引く綱には、誰もいない。


 それでも動いている。


「風です」


 騎士長が言った。


「この風向きで、塔内の鐘だけが揺れる?」


 エルナが問い返す。


「鐘の外縁に、銀色の名前が浮かんでいます」


「見えるのか」


「資料用の遠見筒があります」


 エルナは小型の筒を騎士長へ渡した。


 鐘の表面。


 何万人もの名前が細い文字となって流れている。


 騎士長の顔色が変わる。


「これは……大神殿の洗礼名簿」


「正確には、そこから抽出された正式名です」


「誰が」


「鐘務局初代局長の記録です」


 騎士長はセシリアを見る。


「証拠は」


「今、鐘に書かれています」


 そのとき、庭園の外から悲鳴が聞こえた。


「何だ!」


 一人の神官騎士が門へ走る。


 王都の通り。


 夜間だというのに、人々が家から出てきている。


 眠ったまま歩く者。


 自分の胸元を押さえる者。


 名前を何度も繰り返す者。


「ルシア・マルネ」


 若い女性が、無表情に自分の正式名を口にしている。


「ルシア・マルネ」


 隣で夫らしき男が肩を揺する。


「ルー、どうした!」


 女性は反応しない。


「ルー! 俺だ!」


「ルシア・マルネ」


 愛称では振り向かない。


 正式名だけを繰り返す。


 別の家では、老人が叫んでいる。


「その名前で呼ぶな!」


「私はもう、あの家の名を使っていない!」


 婚姻前の名前。


 捨てた姓。


 幼い頃に与えられ、本人が使わなくなった名。


 教会記録に残る正式名が、現在の人々へ押しつけられている。


『名前が開き始めてる』


 ミラが通りを見た。


『まだ鐘は鳴ってないのに』


「予備接続だけで、登録名が現在の呼び名を上書きし始めています」


 レインは騎士長へ告げる。


「止めなければ、次は記憶です」


 騎士長は短く迷い、槍を下ろした。


「中央塔への道を開ける」


「信じるのですか」


「信じてはいない」


 騎士長は部下へ命じる。


「だが、目の前で起きている異常を無視する理由もない」


「それで十分です」


「ただし塔内で不審な行動があれば拘束する」


「鐘を斬るのは不審な行動か」


 バルドが尋ねる。


「斬るのか」


「必要なら」


「鐘は大神殿の聖具だ」


「王都全員を巻き込む聖具なら、俺にはただの敵だ」


「まず止める方法を調べます」


 セシリアが二人の間へ入った。


     ◇


 中央塔へ向かう途中、異常は広がっていた。


 大神殿の神官たちが、自分の洗礼名を唱えている。


 廊下を掃除していた老人が、突然若い頃の声で母親を呼ぶ。


 書記官が、自分の名前を書いた紙を何枚も壁へ貼りつける。


「消える」


「書いておかないと、私が消える」


 名前を失う恐怖が、初代局長から感染している。


「鐘は名前を開くだけではありません」


 エルナが言った。


「名前へ埋め込まれた初代局長の感情まで流しています」


「忘れられる恐怖」


「はい」


 初代局長は、母親の名を失った。


 その恐怖を王都全員へ共有させ、保存されることを望ませようとしている。


 強制的に恐怖を与え。


 保存を救いだと思わせる。


「ヴァイス邸と同じ」


 ソラが壁へ手をつきながら歩く。


「望む返事をさせるため、先に嫌なものを入れる」


「そうです」


「怖がらせれば、従わせやすい」


「歩けますか」


「歩く」


 ソラは足を止めない。


「身体は、思ったより重い」


『私のときは重くない』


 ミラが隣を浮かぶ。


「ミラには身体がない」


『だから比べられないね』


 ソラは少し笑った。


「でも、痛いことも、重いことも、私が感じている」


『嫌?』


「嫌なこともある」


 ソラは自分の足を見る。


「それでも、この身体を誰かへ渡したくない」


 本人の選択。


 身体側の独立は、さらに強くなっている。


     ◇


 中央塔の入口には、大神官が待っていた。


 白と金の豪華な法衣。


 七十歳ほどの男性。


 胸には聖導教会最高位を示す十三枚の月章。


 セシリアは足を止めた。


「大導師グラディウス」


「セシリア・ローデン」


 老人の声は静かだった。


「活動停止命令に違反し、存在しない禁書庫へ侵入したそうだな」


「存在しない場所へは侵入できません」


「減らず口を覚えた」


「記録上の矛盾を質問することを、そう呼ぶなら」


 グラディウスはレインたちを見る。


「死者の声を聞く男」


「聞き書き人レイン・アスターです」


「教会は、聞き書き人という役職を認めていない」


「初代鐘務局長は、十四番目と呼んでいました」


 大導師の顔がわずかに動く。


「その呼称を、どこで」


「第十三禁書庫」


「禁書庫は存在しない」


「今の反応で、知っていると分かりました」


 グラディウスは長い沈黙の後、中央塔の扉を背にした。


「塔へは入れられない」


「鐘が起動しています」


「知っている」


 セシリアの顔が強張った。


「知っていて、止めないのですか」


「止められない」


「試しましたか」


「中央塔は、聖導教会創設以前の術式で作られている」


「初代鐘務局長の計画も?」


「教会創設と同時期だ」


「なぜ隠した」


「公開すれば、記憶鐘を利用しようとする王族や貴族が現れる」


「隠すことと、存在しないと教えることは違います」


「教会を守るためだ」


「また、その言葉ですか」


 セシリアは銀杖を強く握った。


「教会を守るため」


「王国を守るため」


「人々を救うため」


「その言葉で、何人の拒絶を消したのです」


「理想だけで組織は守れない」


「なら、なぜ塔の前にいる」


「鐘が鳴った後に備えるためだ」


「鳴らすつもりですか」


「一部の上級神官は、記憶保存計画を支持している」


 騎士長が驚いてグラディウスを見る。


「大導師」


「王都では、毎年何万人もの記録が失われる」


 グラディウスは塔を見上げた。


「火災、疫病、戦争」


「戸籍のない貧民」


「名前も残らず死ぬ者」


「記憶鐘が完全に機能すれば、誰も忘れられない」


「本人が望まなくても?」


 レインが尋ねる。


「死後に判断させればよい」


「今、生者の名前を開いています」


「予備登録にすぎない」


「すでに人々は現在の呼び名を失い始めている」


「一時的な混乱だ」


 初代局長と同じ言葉。


 レインはグラディウスを見る。


「あなた自身の言葉ですか」


「何だと」


「初代局長は、拒否を一時的な混乱と呼びます」


「なぜ同じ表現を?」


 大導師の首元。


 法衣の下から、銀色の糸が一瞬だけ見えた。


 正式名へつながる糸。


「あなたも、名前を通して影響を受けている」


「私は正気だ」


「正気かどうかを、本人だけで証明できません」


「無礼な!」


 大導師が杖を振り上げる。


 金色の光がレインへ向かう。


 セシリアが月光障壁で防ぐ。


「大導師! ご自身の正式名を言わないでください!」


「私はグラディウス・ヴァン・セレオン!」


 宣言した瞬間。


 首元の銀色の糸が太くなる。


 大導師の瞳が銀色へ染まった。


「登録名を確認」


 声が変わる。


 初代局長。


「聖導教会最高権限者を接続」


「大導師!」


 セシリアが叫ぶ。


 グラディウスの口から、本人とは別の言葉が流れ出す。


「中央塔を開門する」


「第七鐘を起動する」


「王都の全名を保存する」


 彼の右手が塔の扉へ触れる。


 十三枚の月章が同時に光る。


 最高位神官の権限。


 扉の封印が外れ始める。


「止めろ!」


 バルドが動く。


 騎士長と神官騎士たちが、反射的にその前へ立った。


「大導師を斬らせるわけにはいかない!」


「本人じゃないものに動かされている!」


「それでも大導師だ!」


「では、殺さず止めろ!」


 バルドは大剣の腹で騎士たちの槍を弾く。


 セシリアが大導師へ月光の輪を投げる。


「名前との接続を封じます!」


 銀色の糸へ輪が巻きつく。


 だが正式名が大神殿の何百もの記録へ保存されているため、一本切っても別の糸が生まれる。


「接続先が多すぎます!」


「名前を変えれば?」


 エルナが叫ぶ。


「今ここで?」


「本人に新しい呼び名を選ばせる!」


「大導師の意識が出ていません!」


「なら、役職を外す!」


 レインはグラディウスへ向かって呼びかける。


「聖導教会最高権限者へ!」


「聞こえるなら答えてください!」


 大導師の銀色の目がレインを見る。


「十四番目の命令は受けない」


「命令ではありません」


「あなた自身へ聞いています」


「王都全員の名前を開くことを望みますか」


「保存は救済だ」


「初代局長の言葉ではなく!」


「あなたが、今何を望む!」


 大導師の顔が歪む。


 銀と茶色の瞳が交互に現れる。


「私は」


「教会を」


「守る」


「鐘を鳴らすことが、教会を守る?」


「分からない」


 本人の声。


 初めて、迷いが出た。


「では、分からないまま開門することを望みますか」


「……望まない」


 レインは即座に聞き書き帳へ記す。


聖導教会大導師グラディウス。


正式名を通じ、初代鐘務局長の命令へ接続された状態。


本人は、判断できない状態で中央塔を開門することを望まないと表明。


 文字が光る。


 大導師の手が扉から離れた。


 銀色の糸が一瞬だけ緩む。


 セシリアが月光を集中させる。


「月光隔名!」


 糸を切るのではない。


 正式名と現在の意識の間に、薄い境界を挟む。


 初代局長の声が遠のく。


「不完全な隔離」


「夜明けまでしか保ちません!」


 グラディウスが膝をついた。


「私は……何を」


「鐘を止めます」


 セシリアが彼を支える。


「大導師。塔へ入る権限を」


「中央塔は、十三の月章と、大導師の正式名で開く」


「正式名は使えません」


「ならば、役職権限だけを渡す」


 グラディウスは胸元から十三枚の月章を外した。


「セシリア・ローデン」


「はい」


「あなたを一時的に中央塔監察神官へ任命する」


「人事記録にない役職です」


「今作った」


「勝手です」


「今は必要だ」


 セシリアは月章を受け取らない。


「役職ではなく、権限だけを貸してください」


「違いは」


「役職を受ければ、別の命令まで従属する可能性があります」


「慎重になったな」


「あなた方を見て学びました」


 グラディウスは十三枚のうち、一枚だけを差し出す。


「中央塔開門権限」


「受領します」


 セシリアが月章へ触れる。


 自分の正式名は口にしない。


「一人の神官として、王都住民の意思を守るために使用する」


 月章が白く光った。


 塔の扉が開く。


     ◇


 中央塔の内部には、階段がなかった。


 壁沿いに十三本の鎖が垂れている。


 見上げれば、はるか上に巨大な鐘。


 塔の中央を、無数の名前が銀色の光となって上昇している。


「どうやって上る」


 バルドが鎖をつかむ。


「この鎖が昇降具?」


 触れた瞬間、鎖が彼の腕へ巻きつく。


バルド・グレイン。


 銀色の文字が浮かぶ。


「離せ!」


 大剣で切ろうとするが、鎖は名前へ絡みついている。


「自分の名前を言わないでください!」


 レインが叫ぶ。


「すでに書かれた!」


「現在の呼び名を、別の言葉で確認してください!」


「何と言えばいい!」


『幽霊を怖がる剣士』


 ミラが言う。


「今それを使うのか!」


 鎖が一瞬緩む。


 招待状に書かれた呼び名。


 正式名ではない識別。


「有効です!」


 エルナが叫ぶ。


「この塔は正式名へ接続する。役割や自称で識別すれば、鎖の支配を弱められます!」


「全員、塔内では正式名を使わない」


 レインが決める。


「互いをどう呼びます」


「本人が選びます」


 ミラはすぐ答える。


『私はミラ』


「ミラは正式名ではなく、自分で選んだ名前だから使用できる可能性が高い」


『ソラも』


 ソラが言う。


「はい。ソラも自分で選んだ呼び名です」


 エルナは考える。


「私は《調べる人》で」


「そのままですね」


「今の役割です」


 セシリア。


「《月の神官》」


 バルド。


「《剣士》でいい」


『怖がるは?』


「不要だ」


 レインは自分について迷った。


 レイン・アスターは正式名。


 聞き書き人は初代局長が用意した役割でもある。


「《問い手》」


 ミラが言った。


「俺が?」


『答えを決める人じゃなくて、問いを残す人でしょう』


「では、問い手で」


 呼び名を決めると、十三本の鎖のうち一本が白く変わった。


 鎖ではなく、上へ続く細い階段へ姿を変える。


「塔が、正式名以外の識別を認識した」


「全員の名前を開く塔にとって、自分で選んだ呼び名は予想外なのかもしれません」


 エルナ――調べる人が階段を観察する。


「ただし途中で正式名を呼ばれたら、接続される可能性があります」


 塔の壁から声が聞こえる。


『セシリア・ローデン』


 月の神官の身体が一瞬揺れる。


「答えない」


『バルド・グレイン』


 剣士の鎖が鳴る。


「聞こえん」


『エルナ・フィード』


 調べる人は口を閉じる。


『レイン・アスター』


 問い手の胸元が冷たくなる。


 父ダリオの声。


「レイン」


 生まれたときから呼ばれた名。


 自分で拒絶したわけではない。


 大切な名前でもある。


 だが今、この場では答えられない。


『レイン』


 今度はミラの声。


 隣にいる本物のミラは、口を閉じている。


 塔が彼女の声を使っている。


『レイン、返事をして』


 問い手は前を向いた。


「今、その呼び名では答えない」


『自分の名前を否定するのか』


「否定しない」


『なら、答えろ』


「使う場所と相手を、俺が決める」


 銀色の文字が揺らぐ。


 階段は消えない。


 全員が上へ進む。


     ◇


 塔の中層へ到達したとき、王都の景色が見えた。


 壁が透明になっている。


 町中で、人々の名前が身体から抜け始めていた。


 銀色の文字。


 家々の屋根から浮かび、中央塔へ集まる。


 名前を失った者は、すぐに倒れるわけではない。


 ただ、自分を示す言葉を一つずつ失う。


「お母さん」


 子どもが女性へ呼びかける。


 女性は振り向かない。


 母という役割を忘れている。


「店主!」


 店員が叫ぶ。


 男は店の前で立ち尽くす。


 職業と自分のつながりを失う。


「名前だけではない」


 調べる人が言った。


「正式名へ結びつけられていた役割記録も抜かれています」


「婚姻、家族、職業、所属」


 月の神官が大神殿の登録項目を思い出す。


「教会は名前だけでなく、人間関係まで記録しています」


『全部、塔へ持っていく』


 ミラが銀色の流れを見る。


「鐘が鳴れば、記憶そのものが続く」


 問い手は歩みを速める。


「夜明けまで、どのくらい」


「東の空が明るくなっています」


 ソラが透明な壁の向こうを見る。


 初めて見る空。


 夜と朝の間。


 濃紺から薄紫へ変わっていく。


『きれい?』


 ミラが尋ねる。


「怖い」


 ソラは正直に答えた。


「広すぎる」


『見たかったのに?』


「見たかった」


「怖いけど、見たい」


『両方だね』


「はい」


 ソラは空から目をそらさなかった。


     ◇


 塔の最上部。


 巨大な鐘は、間近で見ると建物ほど大きかった。


 白銀の表面に、王都住民の名前が流れている。


 鐘の下には十三の台座。


 一つ目から十二個目までは、歴代鐘守りの役割を示す紋章。


 十三番目は空白。


 その外側に、十四番目の記録台。


 黒い帳面を置くための台座。


「初代局長は、俺の帳面をここへ置かせるつもりだった」


 問い手が近づくと、台座が光る。


第十四記録者を確認。


「置かないでください」


 月の神官が警告する。


「分かっています」


 鐘の中央。


 銀色の目が開いた。


『ようこそ』


 初代鐘務局長の声。


『王都の名は、すでに開かれた』


「まだ鐘は鳴っていない」


『名は集まった』


『関係も集まった』


『残るのは記憶だけ』


 鐘の内部に、何万人もの人影が見える。


 まだ完全には取り込まれていない。


 名前と役割の形だけ。


 空白の人間。


『十四番目が最終記録を承認すれば、保存は完成する』


「承認しない」


『承認しなくても、夜明けに自動実行する』


「止める方法は」


『第十三鐘守を置け』


 十三番目の空白台座が光る。


『意思、名前、記憶、身体』


『どれか一つを中心へ』


『あるいは四つすべてを統合して』


「どちらも拒否した」


『なら、王都の全名を代わりに用いる』


「第十三鐘守が、死者の記録を区別する役割だった」


 調べる人が鐘の構造を読む。


「一人の管理者がいないため、王都全員を分散管理装置として使う?」


『正しい』


「何万人もの人間の意識を、鐘の処理機能にするつもりですか」


『誰も死なない』


「誰も自分として生きられない」


『保存される』


「所有されるだけです」


 月の神官が十三の台座を調べる。


「起動術式を止めるには、管理対象の名前をすべて切断する必要があります」


「何万人分だ」


 剣士が鐘を見上げる。


「一つずつは無理だな」


「鐘そのものを壊せば?」


「内部に接続された名前と役割がどうなるか分かりません」


「全員の名前が壊れる可能性があります」


 問い手は十四番目の台座を見る。


 承認すれば完成する。


 拒否しても自動実行。


 二つの選択肢。


 また、初代局長が用意した二択。


「名前を切るのではなく、名前の所有者を戻す」


 ミラが言った。


「どうやって」


『一人ずつに、今の呼び方を選んでもらう』


「王都全員へ聞く時間はない」


『でも、名前を取られても、選べる人はいる』


 正式名を繰り返していた女性。


 夫は彼女をルーと呼んだ。


 本人が返事をしなくても、現在の関係から生まれた呼び名がある。


 母。


 店主。


 友人。


 本人が選んだ愛称。


 他者と暮らす中で、現在使われている名。


「塔は教会記録にある正式名しか集めていない」


 調べる人が気づく。


「記録されていない呼び名は、塔の外に残っています」


「それを使って、本人を呼び戻す」


 月の神官が言う。


「ただし、他者が勝手につけた呼び名もあります」


「本人が嫌っている場合も」


「だから一つへ決めない」


 問い手は鐘の下へ立った。


「王都全員へ問いかける方法はありますか」


 月の神官が中央の鐘綱を見る。


「本来、鐘の音で教義を王都全域へ伝える術があります」


「鐘を鳴らすのか」


 剣士が驚く。


「第七鐘とは別の音を鳴らします」


「できる?」


「鐘の内部へ入らなければ、音の意味を変えられません」


 巨大な鐘の内部。


 名前が渦を巻いている。


 入れば、正式名へ接続される危険がある。


「私が行く」


 ソラが言った。


『だめ』


 ミラが即座に止める。


「なぜ」


『身体があるから、一番取られやすい』


「でも、私は第十三鐘守の身体」


 ソラは十三番目の台座を見る。


「鐘の中へ入るために作られた」


『だから入れって言われてる!』


「入って、中心にはならない」


『同じだよ!』


「違う」


 ソラはミラを見た。


「私は空を見た」


「怖かった」


「それでも、自分で見た」


「今度は、自分で鐘へ入る」


『戻れなくなるかもしれない』


「戻る方法を探して」


『簡単に言わないで』


「ミラも言うでしょう」


 以前、壁の向こうへ入ったミラへ、レインたちが言われた言葉。


 ミラは怒りながら黙った。


「ソラ」


 問い手は尋ねる。


「目的は」


「王都の名前を本人へ返す」


「第十三鐘守としての役割を果たすため?」


「違う」


「では?」


「私が、そうしたい」


「危険性は理解していますか」


「理解していない部分がある」


「それでも?」


「決める」


 問い手は記録する。


ソラ。


王都住民の名前を本人へ返すため、第七鐘内部へ入ることを自ら選択。


第十三鐘守の役割命令としてではなく、現在の本人の意思による。


接続後も、鐘の中心記録となることには同意しない。


 初代局長の声が響く。


『言葉で条件を付けても、鐘へ入れば身体は中心になる』


「だから、俺たちが外から切り離す」


「方法はあるのですか」


 月の神官が尋ねる。


「まだありません」


「またそれか」


 剣士が大剣を構える。


「だが、探す時間もない」


 東の空から、最初の朝日が見え始めた。


 第七鐘が大きく傾く。


 鳴る。


 ソラが十三番目の台座へ足を置く。


 白い光が身体を包む。


『ソラ!』


 ミラが手を伸ばす。


 ソラはその手を握った。


 今度は、はっきりと触れた。


「一緒に来る?」


『私は身体がない』


「意思はある」


『でも』


「怖い?」


『怖い』


「私も」


 二人は同じ顔で、異なる存在として向き合った。


『一緒に行く』


 ミラが台座へ立つ。


 意思と身体。


 統合ではない。


 手をつないだまま、別々の存在として鐘の中へ入る。


「白名と槌記がいません」


 調べる人が言う。


「四要素を揃えなければ、統合は起きにくい」


「二人なら、分離を保てる可能性があります」


 月の神官が月光の糸を二人へ結ぶ。


「外へ戻る道です」


 剣士は大剣を鐘の縁へ当てる。


「閉じたら、ここを斬る」


「中の名前を傷つけないでください」


「分かっている!」


 問い手は聞き書き帳を開いた。


「俺は外から、王都へ問いを送る」


「何と聞くのです」


「あなたは、今何と呼ばれたいか」


「一人ずつ答えられません」


「答えられない者は、答えられないままにする」


「正式名へ戻すのではなく?」


「本人が選べない状態なら、塔も決めてはいけない」


 第七鐘が鳴る直前。


 ミラとソラは銀色の光へ飛び込んだ。


 鐘の内部から、何万人もの名前が叫ぶ。


『私は誰』


『何と呼ばれていた』


『忘れたくない』


『忘れたい』


『その名で呼ぶな』


『名前を返して』


 矛盾する声。


 問い手は十四番目の台座へ、聞き書き帳を置かなかった。


 両手で持ったまま、自分の意思で頁を開く。


王都にいるすべての人へ。


 最初の朝日が鐘へ触れる。


 巨大な鐘が振り下ろされる。


 ゴォン――。


 七つ目の鐘が、王都全域へ響いた。


 だが送られたのは、初代局長の命令だけではない。


 レインの問い。


 ミラの声。


 ソラの身体を通じて伝わる、生きている者の鼓動。


 それらが同時に鐘の音へ乗る。


あなたは、今、何と呼ばれたいですか。


 王都中で、人々が顔を上げた。


 正式名を唱えていた女性の耳へ、夫の声が届く。


「ルー」


 彼女の唇が震える。


「……ルー」


 子どもが母親へ叫ぶ。


「お母さん!」


 女性は、正式名ではなく、その呼び方へ振り向いた。


 老人は、自分を縛っていた家名ではなく、昔の友人が呼んだ愛称を口にする。


 名乗れない者。


 迷う者。


 返事をしない者。


 さまざまだった。


 しかし、正式名だけが唯一の答えではなくなった。


 鐘の内部で、銀色の名前がばらばらに動き始める。


『分類不能』


 初代局長が叫ぶ。


『正式名を使用せよ!』


『記録された名だけが本人を示す!』


『現在の呼称は不安定!』


 問い手は帳面へ記す。


正式名は、その人を示す記録の一つである。


ただし現在の本人が用いる名、愛称、役割、自称、または名乗らない選択より、常に優先されるものではない。


 初代局長の銀色の目に亀裂が走る。


 だが第七鐘は止まらない。


 鐘の内部で、ミラが叫んだ。


『ソラが引かれてる!』


 十三番目の台座から、太い鎖がソラの身体へ伸びている。


『第十三鐘守の身体を確認』


『中心記録へ固定』


「拒否記録を使え!」


 問い手が叫ぶ。


『書いた言葉が、鐘の中で消される!』


 初代局長が笑う。


『身体は役割へ戻る』


 ソラの身体へ、歴代鐘守りの声が流れ込み始める。


 第一。


 第二。


 十二人。


 そして白名と槌記の記録まで、禁書庫から引き寄せられようとしている。


『私の中に入ってくる』


 ソラの声が震える。


『嫌』


『でも、止められない』


 ミラがソラの身体へしがみつく。


『ソラの名前を言って!』


「ソラ!」


 問い手。


「ソラ!」


 月の神官。


「ソラ!」


 剣士。


「ソラ!」


 調べる人。


 全員が、彼女自身が選んだ呼び名を呼ぶ。


 鐘が別の名前を重ねる。


『第十三鐘守』


『ミレイア・セレスト』


『鐘守りの身体』


 ソラは苦しみながら、口を開いた。


「私は」


 鼓動が大きくなる。


「私は、ソラ」


『正式名ではない』


 初代局長。


「私が選んだ」


『記録量が不足』


「今の私には、十分」


『役割を果たせ』


「今、果たしている」


 ソラは両手で、身体へ食い込んだ鎖をつかむ。


「誰かへ命令されたからではない」


「私が、王都の人を返したいと思ったから」


 鎖を引く。


 身体の手から血が流れる。


 生きた血。


 鐘の中で、赤い色だけが記録へ変わらず残る。


「痛い」


『ソラ!』


「痛いのも、私」


 ソラは鎖を離さない。


「記録ではなく、今ここにある」


 鎖へ亀裂が入る。


 問い手は記録する。


ソラは、第十三鐘守の役割命令ではなく、現在の自身の意思により王都住民の名を返している。


痛み、恐怖、拒否を含む身体感覚は、役割記録へ置換しない。


 聞き書き帳の文字が鐘の内部へ届く。


 鎖が砕けた。


 だが同時に、巨大な鐘の表面にも亀裂が走った。


「鐘が壊れる!」


 月の神官が叫ぶ。


「名前は、どこへ行く」


 調べる人が周囲の術式を読む。


「返還途中です! 今壊れれば、塔と人間の間に残される!」


「では、壊すなと言うのか」


 剣士が大剣を構えたまま尋ねる。


「持たせてください!」


「どうやって!」


「鐘の構造を支える十三の台座に、別々の記録を置く必要があります!」


「第十三鐘守の代わりに?」


「一人ではなく、複数で支える!」


 禁書庫で定めた暫定管理。


 記録を守る者。


 疑う者。


 本人へ聞く者。


 外へ伝える者。


 一つの中心へ集めない。


「この場に四人いる」


 問い手が言った。


「俺が本人へ問いを送る」


「私が鐘の記録を疑い、接続を検査する」


 調べる人。


「私が王都へ音を伝え、教会名簿の権限を遮断する」


 月の神官。


「俺は?」


 剣士が尋ねる。


「壊れそうな部分を支えてください」


「剣で?」


「剣で」


「ようやく向いている仕事だ」


 バルドは大剣を鐘の亀裂へ差し込んだ。


 刃で切るのではない。


 巨大な鐘の割れ目を、剣の腹で押し戻す。


「重い!」


『怖がる剣士、頑張って!』


 鐘の中からミラの声。


「帰ったら説教する!」


 四人が別々の台座へ立つ。


 問い手。


 調べる人。


 月の神官。


 剣士。


 一人の第十四でも、一人の第十三でもない。


 異なる役割を持つ者が、互いの判断を止められる形。


 鐘の亀裂が広がる速度が遅くなった。


「ソラとミラを引き戻します!」


 月の神官が月光の糸を引く。


 鐘の内部から、二つの姿が近づいてくる。


 その背後。


 銀色の目が巨大な口のように開いた。


『逃がさない』


 初代鐘務局長の姿が、王都全員の名前をまとって現れる。


 人間ではない。


 何万人もの正式名で作られた巨人。


『名前がなければ、人は消える』


「名前を返すことと、記録を消すことは違う!」


 問い手が叫ぶ。


『本人へ返せば、忘れる』


「忘れる可能性はある!」


『失う!』


「失わないための方法を、本人と一緒に考える!」


『完全ではない!』


「完全でなくていい!」


『私の母は消えた!』


 初めて。


 初代局長の声が、計画者ではなく、あの少年の声へ戻った。


『名前も、顔も、何も残らなかった!』


「だから苦しかったんですね」


『二度と起こさせない!』


「あなたの母親が望んだことを知っていますか」


『忘れないでと言った!』


「それ以外は?」


 巨人が止まる。


「どう生きてほしかった?」


「誰といてほしかった?」


「何を選んでほしかった?」


「名前だけを残せば、母親を残したことになるんですか」


『黙れ』


「あなたは、名前を失った悲しみだけを保存した」


『黙れ!』


「母親が生きたほかの部分を、計画に不要として見なくなった!」


 銀色の巨人が大きく揺れる。


 王都の名前が、身体から一つずつ抜け落ちる。


 持ち主へ戻っていく。


 初代局長の姿が小さくなる。


 それでも彼は鐘へしがみつく。


『保存しなければ』


『消える』


『忘れられる』


 問い手は答えた。


「忘れられることと、存在しなかったことは同じではない」


『記録がなければ証明できない』


「証明できない人生もある」


『それを認めるのか』


「悔しいと思う」


「だから記録する」


「でも、記録されるために生きるよう強制はしない」


 初代局長の銀色の身体に亀裂が走る。


 その中心。


 名前のない一人の女性の影が浮かんだ。


 顔は分からない。


 名前も分からない。


 だが少年の頭を撫でる手。


 温かい布。


 咳の間に歌った短い子守歌。


 初代局長が不要として切り捨てた、母親の名以外の記憶。


『母さん』


 男の声が震える。


 名前は戻らない。


 それでも、何も残っていなかったわけではない。


 その瞬間。


 第七鐘の音が変わった。


 命令の音ではない。


 何万人もの異なる呼び名。


 正式名。


 愛称。


 家族の呼び方。


 職業名。


 自分で選んだ名。


 答えない沈黙。


 すべてが混ざらず、別々の音として王都へ返っていく。


 ミラとソラが鐘の外へ飛び出した。


 月の神官が二人を受け止める。


 剣士が大剣を引き抜く。


 巨大な亀裂は残ったが、鐘は崩れない。


 調べる人が術式を確認する。


「接続が切れました!」


「王都の名前は?」


「本人側へ返還中!」


「初代局長は」


 鐘の内部。


 銀色の巨人は消えている。


 代わりに、小さな黒い本が一冊、鐘の底へ落ちていた。


 表紙には題名がない。


 ただ、一行だけ。


名前を知らなかった母の記録。


 初代局長の声は聞こえない。


 消えたのか。


 本へ入ったのか。


 自分から記録になったのか。


 まだ判断できない。


 問い手は黒い本へ近づこうとした。


『待って』


 ミラが止める。


「声がする?」


『うん』


「何と」


『開けないで』


 それは初代局長ではない。


 女性の声。


 名前を知られなかった母親の声だった。


『まだ、あの子に話したくない』


 本人の拒否。


 レインは本へ触れず、その場で立ち止まった。


「分かりました」


 黒い本を開かず、封印布で包む。


本人が閲覧を拒否。


現時点では開かない。


 記録すると、本の表紙から緊張が少しだけ消えた。


     ◇


 朝日が王都を照らした。


 中央塔の鐘は、もう揺れていない。


 人々の名前は戻り始めている。


 すぐにすべてが元どおりになるわけではない。


 正式名を思い出せない者。


 家族の呼び方だけを覚えている者。


 逆に正式名は戻ったが、愛称を忘れた者。


 複数の名前の間で混乱する者。


 教会と王立記録院による大規模な確認作業が必要になる。


「名前を一つへ統一してはいけません」


 レインは大導師グラディウスへ言った。


「戸籍上の正式名は必要だ」


「行政記録としては」


「だが現在使っている名、本人が拒否する旧名、愛称も記録欄を分ける」


 エルナが提案する。


「公開範囲も本人が選べるようにする必要があります」


「死者については?」


 グラディウスが尋ねる。


「生前の記録だけを本人の全てとしない」


 セシリアが答える。


「死後に本人が選んだ名も、可能な限り残します」


「大規模な教義改定になる」


「必要です」


「教会内部の反発は強い」


「それでも、最初から真実と決めないことです」


 グラディウスは疲れた顔で中央塔を見る。


「私も、初代局長の言葉を自分の考えだと思っていた」


「すべてが影響だったとは限りません」


 レインが言う。


「あなた自身も、記憶保存計画へ魅力を感じていた」


「責任を消してはくれないか」


「消しません」


「そう言うと思った」


 大導師は苦く笑った。


     ◇


 ソラは中央塔の最上部から、朝の空を見ていた。


 風が長い銀髪を揺らす。


 身体が冷える。


 目に朝日がまぶしい。


 一つずつ、初めての感覚だった。


『どう?』


 ミラが隣へ浮かぶ。


「広い」


『怖い?』


「少し」


『きれい?』


「少し」


『少しばかり』


「全部、初めてだから」


 ソラは自分の手を見る。


 鐘の鎖で傷ついた掌。


 セシリアが治療したが、赤い跡が残っている。


「これも、消さなくていい」


『痛かった記憶』


「私が自分で入った証拠」


『記録する?』


 ソラはレインを見る。


「お願いします」


 レインは聞き書き帳へ記す。


ソラ。


王都の名を返すため、自ら第七鐘内部へ入った。


身体を第十三鐘守の中心記録とする処理を拒否し、ミラおよび同行者の協力によって帰還。


本人は、手に残る傷を消さず、自身が選んだ行動の痕跡として保持することを希望。


 ソラは文字を読んだ。


「私の記録」


「はい」


「でも、私の全部ではない」


「はい」


 ソラは満足そうにうなずいた。


     ◇


 第七鐘は止まった。


 王都全体を記憶鐘へ変える計画も、ひとまず阻止された。


 しかし、初代局長が完全に消えたとは確認できない。


 白い帳簿の中には、まだ彼が埋め込んだ従属命令が残っている。


 禁書庫には、四十九人の収容司書。


 自分の人生を失った十二人の鐘守り。


 レオ・アスターの黒い本。


 そして、第十三鐘守の記憶である槌記が残っている。


 すべてを一度に終わらせることはできない。


 だが、夜明けとともに一つのことが変わった。


 聖導教会は、第十三禁書庫の存在を公式に認めざるを得なくなった。


 王都中の人間が、七つ目の鐘を聞いたからだ。


 何万人もの証言を、存在しなかったことにはできない。


「次は禁書庫へ戻ります」


 エルナが言った。


「槌記と白名の状態を確認しなければ」


「収容司書の聞き取りも」


 セシリアが続ける。


「レオの本も開くのか」


 バルドが尋ねる。


「一頁ずつです」


「全部読むには何年かかる」


「必要なら、何年でも」


『でも、その前に』


 ミラが大神殿の南側を見る。


「何か聞こえるのか」


『白い扉』


 王都の空。


 朝日の中に、細い白い線が浮かんでいる。


 禁書庫の扉ではない。


 死者が旅立つときに現れる白い扉。


 しかし今回は、空いっぱいに広がっている。


 王都で名前を奪われかけた人々の上。


 生者にも見えるほど強い光。


 扉の向こうから、数えきれない死者の声がする。


『名前を返して』


『私たちも記録から外された』


『王都の下にいる』


『開けて』


 大導師グラディウスが顔色を変えた。


「王都地下共同墓所」


「何人が埋葬されていますか」


「正確な数は分からない」


「名簿は?」


「大火と疫病の際、番号だけで葬った者がいる」


 初代局長の母親と同じ。


 名前を記録されなかった死者。


 第七鐘が王都全体の名前を開いたことで、名前を持たない死者たちまで目覚めてしまった。


 中央塔の足元。


 王都の地下深くから、巨大な音が響く。


 鐘ではない。


 何万人もの死者が、地面の下から扉を叩く音。


 どん。


 どん。


 どん。


 白い扉に、黒い文字が浮かぶ。


名簿にない死者は、誰が記録する。


 聞き書き帳が震えた。


 命令ではない。


 問いだった。


 レインは王都の地下を見つめる。


「俺たちが聞きます」


 しかし、ミラが首を横に振った。


『違う』


「何が」


『一人ずつじゃない』


 彼女の耳には、地面の下にいる死者の声が届いている。


『みんな、同じ言葉を言ってる』


「何と」


 王都全体が、小さく揺れた。


 名もない死者たちの声が、朝の街へ響く。


『私たちの名前を、作って』


 レインは答えなかった。


 失われた名前を探すことと。


 本人へ新しい名前を与えること。


 そして、大勢を一つの呼び名へまとめること。


 似ているようで、まったく違う。


 初代局長は、名を失った死者を救うために、全員を記録へ閉じ込めようとした。


 同じ過ちを繰り返してはならない。


 王都の地下には、記録されなかった死者が眠っている。


 次に聞かなければならないのは、名前を持たない者たちの声だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第七鐘は一度鳴りましたが、レインたちは正式名だけを本人の唯一の名前とせず、現在使われている呼び名や、名乗らない選択も含めて王都の人々へ返しました。


ソラとミラは統合せず、別々の存在のまま協力して鐘の内部から帰還します。


しかし第七鐘の影響で、王都の地下共同墓所に埋葬された、名簿に存在しない死者たちが目覚めました。


次回、第28話「名前のない死者たち」。


レインたちは、失われた名前を取り戻すのではなく、「新しい名前を作ってほしい」と求める無数の死者へ、誰が名づける権利を持つのかを問い直します。

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